冒頭 孫皓(そんこう)とは、三国の一つ呉の末代の君主で、呉の滅亡期に在位した人物です。 生涯 孫権の一族に連なる宗室として呉に生まれ、皇帝孫休の死後に帝位を継いで呉主となりました。在位後は宮廷内の権力運用を強め、諫言...
冒頭 馬謖(ばしょく)とは蜀の諸葛亮に近侍した参軍で、才知を買われて北伐の要地街亭の守将に抜擢されながら、布陣の誤りによって大敗を招き、軍法により処刑された人物です。 生涯 馬良の弟で、兄馬良が戦死したのち、その遺族...
冒頭 諸葛亮(しょかつりょう)とは、蜀漢の丞相として劉備・劉禅を補佐し、内政と軍事の両面で国政を担った軍師です。字は孔明(こうめい)で、臥龍先生とも称され、天文・地理民情に通じ、六韜三略を修めた「神算鬼謀」の人物として語られま...
冒頭 王平(おうへい)とは、蜀漢に仕えた武将で、もとは魏に属しつつ漢水方面で蜀へ帰順し、北伐や南征で実務的な指揮と地理の知識を買われた人物です。巴西の宕渠の出身で、字を子均といいます 。 生涯 巴西宕渠の人として地理...
冒頭 華歆(かきん)とは、曹操・曹丕の政権下で要職を歴任し、漢末から魏初にかけて宮廷の意思決定と権力移行に深く関わる重臣です。後に魏の官制で大尉に列し、王朗・陳群らと並ぶ高位の文官として扱われます。 生涯 曹操の近臣...
冒頭 張郃(ちょうこう)とは、魏に仕えた将軍で、諸葛亮の北伐期を中心に蜀軍と各地で戦った武将です。吉川三国志では「天性火の如し」という気性の激しさを特徴として与えられ、勇猛さと同時に慎重さを欠きやすい危うさも併せ持つ人物として...
冒頭 文鴦(ぶんおう)とは、魏から西晋へ移る動乱期に活躍した武将で、勇猛な突撃で名を知られた人物です。 生涯 父は魏の将・文欽で、司馬氏(司馬師・司馬昭)が実権を強めるなかで起きた寿春方面の反乱に連座して戦場に立った...
冒頭 蒋済(しょうさい)とは、魏の政権で丞相府の主簿を務め、軍議の場でも発言して献策に関わる文官です。吉川英治『三国志』では、司馬懿と並んで会議に列し、対呉外交をめぐる論に加わります。 生涯 作中での蒋済は、関羽の北...
冒頭 陳群(ちんぐん)とは、曹魏の朝廷で重職を担い、漢から魏への禅譲と、その後の政権運営に関与する文臣です。 生涯 作中では、魏の群臣が天の瑞祥を口実に「受禅」を公然と議しはじめた局面で、陳群は尚書令の桓楷、陳矯らと...
冒頭 司馬師(しばし)とは魏の司馬懿(仲達)の長子で、弟の司馬昭とともに父に随って軍事に参与する人物です。郷里の宛城で隠棲する父に仕えつつ、朝廷の動きや戦局を先んじて察し、父の出廬を予見する言動も見せます。 生涯 吉...
冒頭 司馬昭(しばしょう)とは、魏の重臣・司馬懿(仲達)の次男で、兄の司馬師とともに父の麾下で行動し、魏軍の対蜀作戦に従って名を見せる人物です。司馬懿が宛城で閑居していた時期、師・昭の兄弟は父に近侍し、兵書に通じた胆大智密の若...
冒頭 鍾会(しょうかい)とは、三国時代末期の魏に仕え、司馬氏政権下で軍事・政務の両面に関与した官僚・将軍です。 生涯 名門の家柄に生まれ、文章と政務能力で頭角を現し、司馬師・司馬昭の政権を支える中枢に列しました。のち...
李傕(りかく)とは 董卓の旧臣で四大将の一人。董卓滅亡後、西涼方面の敗兵を糾合して長安に復帰し、献帝のもとで車騎将軍・のち大司馬にまでのぼるが、同僚の郭汜と覇権を争い、都下を血で染める混乱の中心人物として描かれる。曹操と対峙した戦...
曹仁(そうじん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の名将の一人。字は子孝(しこう)。曹操の従弟にあたり、勇猛さと統率力で知られる。 生涯 若い頃から曹操に従い、各地の戦いで軍功を重ねた。荊州攻略では劉備軍や...
姦雄(かんゆう)とは 古い言葉で、「智略にすぐれて大事をなすが、正道から外れた人物」を意味する。単なる悪人ではなく、非道を用いてでも大業を成す強力な人物像を指す。 意味 「姦」はずる賢い、道に外れるという意味を持ち、...
曹操孟徳(そうそう もうとく)とは 曹操は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した群雄で、魏の基礎を築いた人物である。字は孟徳(もうとく)。その才能と多面性から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評される。 魏王(ぎおう)とは ...
桃園の巻黄巾賊流行る童歌白芙蓉張飛卒桑の家橋畔風談童学草舎三花一瓶義盟転戦檻車秋風陣十常侍打風乱柳岳南の佳人故園乱兆舞刀飛首蛍の彷徨い呂布赤兎馬春園走獣白面郎「曹操」# 群星の巻偽忠狼心競う南風江東の虎関羽一杯の酒虎牢関洛陽落日賦生死...
一 魏軍の一部は、次の日も出撃を試みた。その日も若干の戦果を挙げた。 以来、機をうかがっては、出撃を敢行するたびに、諸将それぞれ功を獲た。その多くは、葫芦の口へ兵糧を運んでゆく蜀勢を襲撃したもので、糧米、輸車、そのほかの鹵獲...
一 秋七月。魏の曹真は、 「国家多事の秋。久しく病に伏して、ご軫念を煩わし奉りましたが、すでに身も健康に復しましたゆえ、ふたたび軍務を命ぜられたく存じます」 と、朝廷にその姿を見せ、また表を奉って、 ――秋すずしく...
一 魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。 また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。 沿...
一 呉は、たちまち出て、たちまち退いた。呉の総退却は、呉の弱さではなく、呉の国策であったといってよい。 なぜならば、呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意志をもともと持っていないのである。蜀をして魏の頸を咬ませ、魏をして蜀の喉...
一 一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪れば、英雄と称せられる。 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀誉褒貶もまたおかしなものである。 曹操は、自分の根城だった兗州を失地し、その上、いなご...
一 さきに街亭の責めを負うて、孔明は丞相の職を朝廷に返していた。今度、成都からの詔書は、その儀について、ふたたび旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならなかった。 「国事いまだ成らず、また以後、大した功もないのに、何...
一 呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげていた。 浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を扼し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和によって、宛然たる呉国色をここ...
一 永安城の李厳は、増産や運輸の任に当って、もっぱら戦争の後方経営に努め、いわゆる軍需相ともいうべき要職にある蜀の大官だった。 今その李厳から来た書簡を見ると、次のようなことが急告してある。 近ゴロ聞ク東呉、人ヲシテ洛陽ニ...