高楼弾琴

 魏の大陣容はととのった。
 辛毘、あざなは佐治、これは潁州陽翟の生れ、大才の聞え夙にたかく、いまや魏主曹叡の軍師として、つねに帝座まぢかく奉侍している。
 孫礼、字は徳達は、護軍の大将として早くより戦場にある曹真の大軍へ、さらに、五万の精兵を加えて、その力をたすけ、また司馬仲達は、総兵力二十万を、長安の関から外に押し並べて、扇形陣を展開した。壮観、実に眼もくらむばかりである。
 仲達軍の先鋒に大将として薦された者は、河南の張郃、あざなは雋義、これは仲達から特に帝へ直奏して、
「張郃を用いたいと思います」
 と嘱望して、自軍へ乞いうけた良将である。その張郃を、帷幕へ招いて、仲達は、
「いたずらに敵をたたえるわけではないが、この仲達の観るかぎりにおいて、孔明はたしかに蓋世の英雄、当今の第一人者、これを破るは実に容易でない」
 と、今次の大戦を前に、心からそう語って、さてそのあとで云った。
「――もし自分が孔明の立場にあって、魏へ攻め入るとすれば、この地方は山谷険難、それを縫う十余条の道あるのみゆえ、まず子午谷から長安へ入る作戦をとるであろう。――だがじゃ、孔明はおそらく、それを為すまい。なぜならば従来の戦争ぶりを見ると、彼の用兵は実に慎みぶかい。いかなる場合も、絶対に負けない不敗の地をとって戦っておる」
 彼の言は、孔明の心を、掌にのせて解説するようだった。英雄、英雄を知るものかと、張郃は聞き恍れていた。
「――察するに、彼は斜谷(郿県の西南三十里・斜谷関)へ出て、郿城(陝西省・郡県)を抑え、それより兵をわけて、箕谷(府下城県の北二十里)に向うであろう。――で、わが対策としては、檄をとばして、曹真の手勢に一刻も早く郿城のまもりを固めさせ、一面箕谷の路には奇兵を埋伏して、彼がこれへ伸びてくるのを破砕し去ることが肝要だ」
「そして、都督のご行動は」
「秘中の秘だが」と声をひそめ、
秦嶺の西に街亭という一高地がある。かたわらの一城を列柳城という。この一山一城こそまさに漢中の咽喉にあたるもの。――さはいえ孔明曹真がさして炯眼ならざるを察して、おそらくまだそこまで兵をまわしておるまい。……のう張郃。ご辺とわしとは、一方急に進んで、そこを衝くのじゃよ。なんと愉快ではないか」
「ああ。神謀です。たしかにそれは一刃敵の肺腑をえぐるものでしょう」
「街亭をとれば、孔明漢中へ退くしかない。兵糧運送の途はここに絶えるでな」
隴西の諸郡も、を断たれては、崩壊退却のほかありますまい。実に都督の好計、たれかよく思い及びましょう」
「――いやいや、計だけを聞いて、そうにわかによろこぶなかれじゃ。あいては諸葛孔明であるぞ。孟達などの類とは大いに違う。ゆめ、軽々しくすな」
「かしこまりました」
「一里進まば、十里の先に物見を出し、十里進まば、敵の伏兵を勘考し、胆大頭密に、よくよく臍をすえてゆけよ」
「仰せまでもございません」
「さらば、支度をなせ」と、彼を先鋒へ返してから、仲達は祐筆に命じて、檄をしたためさせ、これを曹真の本陣へ告げて、作戦方針を示し、かたがた、
孔明の誘いに吊られて、めったに動き給うな」とかたく戒めた。
 祁山甘粛省・鞏昌附近)一帯の山岳曠野を魏、蜀天下の分け目の境として、まさにその第一期戦はここに展開されようとしている。
 この地形、この広大な天地は、まさに孔明のほうから選んで取った戦場である。この大会戦に先んじて、蜀軍がまず地理的優位を占めていたことはいうまでもない。
 新城陥落の一報は、孔明の心に、一抹の悲調を投げかけた。彼はその報をうけた時、左右の者へいった。
孟達の死ははや惜しむに足らない。けれど、司馬懿がかく早く大軍をそろえて来たからには、街亭の一路が案じられる。彼は、直ちに街亭へ眼をつけるであろう。街亭は我が咽喉に等しい。一日の猶予もならん。誰かをして、早速これを守らせねばならぬ……」

 誰をか向けん――と孔明の眼は諸将を見まわして物色しているもののようだった。
 と、その面を仰いで、参軍の馬謖が、傍らから身をすすめ、
「丞相。それがしをお差し向け下さい」と、懇願した。
「……?」
 孔明は馬謖を顧みたが、初めはほとんど意中に置かないような容子であった。しかし馬謖はなお熱心に希望してやまない。――たとえ敵の司馬懿や張郃がいかほど世に並びなき名将であろうと、自分も多年兵法を学び、わけて年も弱冠の域をこえ、なお何らの功を持たないでは世に対しても恥かしいと云い、
「量るに、街亭一つ守り得ないくらいなら、将来、武門に伍して、何の用に足りましょう。どうか自分を派遣して下さい」
 と、多少日頃の親しみにも甘え、ほとんど縋らんばかり熱望をくりかえした。
 馬謖は孔明を父とも慕い師とも敬っていた。孔明もまた慈父のごとく彼の成長を多年ながめてきたものである。
 もともと馬謖は、夷族の役に戦死した馬良の幼弟だった。馬良孔明とは、刎頸の交わりがあったので、その遺族はみな引き取って懇ろに世話していたが、とりわけ馬謖の才器を彼はいたく鍾愛していた。
 故玄徳は、かつて孔明に、
(この子、才器に過ぐ、重機に用うるなかれ)といったが、孔明の愛は、いつかその言葉すら忘れていた程だった。そして長ずるや馬謖の才能はいよいよ若々しき煥発を示し、軍計、兵略、解せざるはなく、孔明門第一の俊才たることは自他ともにゆるす程になってきたので、やがての大成を心ひそかに楽しみと見ているような孔明の気持だったのである。
 ――で今。
 その馬謖からせがまれるような懇望を聞くと、彼は丞相たる心の一面では、まだちと若いとも思い、まだ重任過ぎるとも考えられたのであるが、苦しい戦と強敵にめぐり合わせるのもまた、この将来ある人材の鍛錬であり大成への段階であろうとも思い直し、その機微な心理のあいだに、自己の小愛がふとうごいていたことは、さしもの彼も深く反省してみるいとまもなく、つい、
「行くか」
 と云ってしまったのである。
 馬謖は、華やかな血色を顔にうごかして、言下にすぐ、「行きます」と答え、
「――もし過ちがあったら私はいうに及ばず、一門眷属、軍罰に処さるるも、決しておうらみ仕りません」と、きおいきって誓った。
「陣中に戯言なし――であるぞ」と、孔明は重々しく念を押して、かつかさねた。
「敵の司馬懿といい、副将張郃といい、決して等閑の輩ではない。心して誤るなよ」
 と、くれぐれも戒めた。
 また牙門将軍王平に向い、
「ご辺は平生もよく事を謹んで、いやしくも軽忽の士でないことを自分も知っておる。その故にいま馬謖の副将として特に副えて差向ける。必ず街亭の要地を善守せよ」と、いいつけた。
 さらになお孔明は入念だった。すなわち要道の咽喉たる街亭附近の地図をひろげ、地形陣取りの法をくわしく説き、決して、進んで長安を攻めとると考えるな。この緊要の地を抑えて、ひとりの敵の往来も漏らさぬことが、長安を取る第一義になることである――と、噛んでふくめる如く教えた。
「分りました。尊命にたがわず死守いたします」
 馬謖は、副将王平と共に、二万余の兵力を与えられて、街亭へ急いだ。
 それを見送って、一日おくと孔明はまた、高翔をよんで、一万騎をさずけ、
「街亭の東北、その麓のかたに、列柳城という地がある。ご辺もそこへ進んで、もし街亭の危うきを見ば、すぐ兵をあげて、馬謖をたすけよ」と、命じた。
 孔明にはなおどこやら安心し切れないものがあったのである。軍の大機を処す際に、ふとかすかにでも「私」の情がそれへ介在したことを、彼自ら今は意識してそこに安んぜぬものを抱いているやに思われる。

 街亭の要地を重視する孔明の用意は、それでもなお足らぬものを覚えたか、彼はさらに魏延を後詰として出発させ、また趙雲、鄧芝の二軍をもそこの掩護として、箕谷方面へ急派した。
 そして彼自身の本軍は、姜維を先鋒として、斜谷から郿城へ向った。まず郿城を取って、一路長安への進攻路を切り拓かんとする態勢なることはいうまでもない。
 一方。馬謖は街亭に着くと、すぐ地勢を視察して廻ったが、大いに笑って、
「どうも丞相はすこし大事をとり過ぎる。山といっても大した山ではないし、やっと人の通れるほどな樵夫道が幾つかあるに過ぎないこの街亭などへ、なんで魏が大軍を傾けて来るものか。由来、丞相の作戦はいつでも念入りの度が過ぎて、かえって味方に疑いを起さしめる」
 そして山上へ陣構えをいいつけたので、副将王平はきびしく戒めた。
「丞相の令し給えるご主旨は、山の細道の総口を塞ぎ、そこを遮断するにありましょう。もし山上に陣取るときは、魏軍に麓を囲まれて、その使命を果しきれますまい」
「それは婦女子の見で、大丈夫の採るところでない。この山低しといえど、三方は絶地の断崖。もし魏の勢来らば、引き寄せて討つには持ってこいの天嶮だ」
「丞相は大いに勝てとは命ぜられませんでした」
「みだりに舌の根をうごかすのはよして貰いたい。孫子もいっておる。――是ヲ死地ニ置イテ而シテ後生ク――と。それがしは幼より兵法を学び、丞相すら事にあたっては計をこの馬謖に相談されておるのだ。だまって我が命令のようにすればよい」
「では、あなたは山上に陣をお構えなさい。てまえは五千騎をわかち、別に麓に陣取って、掎角の勢いに備えますから」
 馬謖は露骨に不愉快な色を示した。大将の威厳を傷つけられた気がしたのだ。その反面の心理には特に選ばれて主将となって来たことや、日頃から孔明の寵をうけているという気分が満々と若い胸にあった。壮気というべきみえ、衒気、自負があった。
 着陣早々、主将副将が、議論に時を移しているまに、早くも近郡の百姓たちが、この地方を逃散しながら、
「魏軍が来る。魏軍が来る」と、告げて行った。
 すわや。――猶予はできない。
 馬謖は、自説を固持して、
「山上へ陣取れ」
 と、指揮を発し、自身また、街亭の絶頂へのぼった。
 王平は手勢五千をひきい、頑として麓に陣した。その二人の布陣をくわしく絵図に写し、早馬をもって、
(直接のご命令を仰ぎたい)と、孔明のところへ訴えた。
 馬謖は、布陣を終って、
「王平の奴、遂におれの指図に従わんな。凱旋の後は、丞相の前へ出で、彼の僭上と軍律にそむくの罪をきっと問わねばならん」と、麓を見て切歯していた。
 翌日、また翌日。
 ひきつづいて味方の高翔や魏延などが、列柳城付近からこの街亭のうしろへも後詰して、陰に陽に、ここを援け、魏軍を牽制しつつあると聞えたので、彼はなお大磐をすえているここちをもって、
「魏勢が押し寄せてきたら、逆落しに一撃を喰らわせん」
 と、百万軍も呑むような概をもって待ちうけていた。
 このとき魏の司馬仲達の考えでは、まだ街亭には、蜀軍は一兵も来ていまいと観ていたのだった。
 ところが先発した司馬昭が、先陣の張郃に会って、すでに街亭には、蜀旗翩翻たるものがあると聞かされ、
「それでは、自分の一存で、うかと手出しはできない」
 と、急遽引っ返して、父の仲達に、その趣を話した。
「ああ、さすがは孔明。――神眼。迅速。……もう遅かったか」
 仲達は非常におどろいて、しばし茫然としていた。

 司馬懿はその本陣をややうごかして、街亭、箕谷斜谷の三面に遺漏なき触覚をはたらかせた。
「ひそかに来いよ」
 一夜、彼はわずか十騎ほど連れて、前線へ微行した。
 月明を利して、ひそかに敵近き四山を巡り、やがて一高地から蜀の陣容を望んで、
「こは何事だ」と一瞬、唖然とした後、左右をかえりみて、
「有難し有難し。天の助けか、蜀は絶地に陣をとり、自ら敗北を待っている」
 と語り、本陣へ帰るやいな、帷幕の参軍たちを呼び集めて、
「街亭を守る蜀の大将はいったい誰か」と、訊ねた。
 そして、馬謖なりと聞くと、彼はわらって、
「千慮の一失ということはあるが、孔明にも、人の用い方に過ることもあるか。山を守っている、蜀の大将はまさしく愚物だ。一鼓して破ることができよう」
 と、よろこび斜めならずだった。
 彼は、張郃に命じて、
「山の西、十里の麓に、蜀の一陣がある。汝は、それへ攻めかかれ。われは申耽、申儀のふた手を指揮し、山上の命脈を、たち切るであろう」といった。
 仲達が「山上の命脈」と見たものは、実に、軍中になくてはならぬ「水」であった。
 その水を、山上の蜀軍は、山の下から兵に汲ませていたのである。魏の張郃は、仲達の旨をうけて、次の日の早天に、兵をひいて、王平軍の孤立を計った。すなわち山上の軍との聯絡を遮断し、同時に、魏軍が山上兵の水を汲みに通う通路を断つ行動に対して、妨害に出ることができぬように、その途中を切り取ったのであった。
 須臾の後。
 司馬懿はみずから魏の大軍を引率して、街亭山麓を十重二十重にとりまいてしまった。そのあいだ、鬨の声と金鼓の音は雲をうごかし、地をふるわせた。
 山上の馬謖は、
「紅の旗がうごくと見たら、いちどにかかって攀じのぼる魏兵をみなごろしになせ」
 と、麓をのぞんで、有利の地を占め、必勝の概、天を衝くものがあったが、何ぞはからん、魏軍は喊声鼓雷のみあげて、山上へ攻め登っては来なかった。
「怯んだとみえる。この上はわれから攻め下って、微塵になせ」
 何しても馬謖は功に逸りきっていた。小道小道から逆落しに駈け下り、彼自身は、魏の大将の首二つを獲て山上へもどった。多数の味方は序戦に勝ったが、帰路は精を限らし、また山道を登るので、追撃の新手におびただしく討たれた。
 しかも馬謖は、
「きょうの戦は勝っている」
 と、目前の勝負にとらわれていたが、たちまちその夜から水に窮した。
「なに、水の手を断たれた?」
 愕然、気づいたときは、時すでに遅く、以来、奪回をはかる度に、ほとんど算なきまでの損害をくり返した。日を経るに従って、山上の軍馬は渇に苦しみ出した。炊ぐに水もない有様で兵糧すら生か火のほかなく、意地わるく待てど待てど雨もふらない。そのうちに、
「水を汲みにゆく」と称しては、暗夜、山を降りてゆく兵は、みな帰らなかった。討たれたのかと思うと、続々、魏へ投降したものとわかった。
 ついには、大量の兵が一団となって、魏へ降り、山上の困憊は司馬懿の知るところとなった。
「時分はよし。かかれ」
 魏は総攻撃を開始した。
「のがれぬところ」
 と、馬謖もいまは覚悟して、西南の一路からどっと下りた。司馬懿はわざと道をひらいてこの窮鼠軍を通したが、その大兵が山を離れるや初めて袋づつみとして殲滅にかかった。街亭の後詰にあった魏延、高翔は、すわと、五十里先から援けにきたが、その途中には、司馬昭の伏兵があり、また一面には蜀の王平も現われ、ここに蜀魏入り乱れての大混戦が展開されて、文字通り卍巴の戦いとなった。いずれが勝ち、いずれが負けやら戦雲漠々、終日わからない程だった。

 街亭の激戦は、帰するところ、蜀の大敗に終った。
 ふもとに陣した王平、後詰していた魏延、列柳城まで出ていた高翔など、一斉に奮い出て、馬謖の軍を援けたが、いかんせん、馬謖軍そのものの本体が、十数日のあいだ、山上にあって水断ちの苦計にあい、兵馬ともにまったく疲れはてていたので、これは戦力もなく、ただ潰乱混走して、魏軍の包囲下に手頃な餌となってしまった。
 しかし、野にかけ山へわたって、戦火は三日三夜のあいだ赤々と燃えひろがっていた。魏延が馬謖の救出にうごくことも察知していた司馬懿は、司馬昭に命じて、その横を衝き、張郃はおびただしい奇兵を駆って、
「蜀の名だたる大将首を」と、これもその大包囲鉄環のうちにとらえんとしたが、王平軍、高翔軍の側面からの援けもあって、遂に意を達するにいたらなかった。
 しかし魏延の軍も大損害をうけたし、王平軍もまた創痍満身の敗れ方だった。四日目の朝、やっと敗残の兵をまとめて、
「この上は、列柳城へ集まって、善後の処置を図ろう」
 という高翔の意見にまかせて、そこへ急いだ。
 ところが、またまた、その途中で測らざる新手の敵に遭遇してしまった。――曹真の副都督郭淮の軍隊だった。
 郭淮は、大都督曹真とともに祁山の前に陣し、孔明の本軍と対峙していたが、街亭陥つとの報せを聞いて、
司馬懿ひとりの功にさせるは癪だ)
 と、いうような卑劣な気持から、にわかに列柳城を取りにきたものだった。魏延や高翔は、
「この新手と戦うのは自殺するも同じである」
 となして、急に道をかえて、陽平関へ走り、一まずそこを守っていた。郭淮はそれを知って、難なく列柳城へ入れるものと思い、城下まで来ると、城頭から爆煙砲の音をあげ、おびただしい旗がうごくのを見た。
「や、まだ蜀軍がいるのか」
 と、よく見ると、みな魏旗であり、一きわ目立つ紅の大旗には、金繍の文字あざやかに、平西都督驃騎将軍司馬懿と読まれた。
郭淮。何しに見えられたか」
 と、その辺りから声がするのでよく見ると、まぎれもない司馬仲達が、櫓の高欄に倚って、疎髯を風になぶらせながら、呵々と大笑しているではないか。
 郭淮は大いに驚き、心ひそかに、われ到底この人に及ばずと、内に入って対面を遂げ、心服をあらわして敬拝した。
「街亭の破れた上は、孔明も逃げ走るほかないであろう。貴下はすみやかに貴下の軍勢をもって孔明を追い崩し給え」
 仲達の言葉に、郭淮は唯々諾々ふたたび城を出た。つづいて彼は麾下の張郃を招いて云った。
「敵の魏延、王平の徒は、敗軍をひいて、陽平関を守るであろうが、それに釣られて、軽々しく追い攻めをかけると、たちまち孔明が後を取って、大勢の挽回を計るにちがいない。兵法にも――帰ル師ヲ掩ウコト勿レ、窮マル寇ヲ追ウ勿レ――と戒めている。故に、われはかえって今、小路から蜀勢のうしろへ廻ろう。ご辺は山路を経て箕谷へすすめ、そして蜀軍が滔々と崩れ立っても、これを全滅せんなどと急に追うな。武器、兵糧、馬、物具などを収めて、駸々と斜谷を取りひろげ、やがて西城を占領して後、さらに次の作戦に入ろう。――西城は山間の小県ではあるが、あれには蜀の兵糧が蓄えてあるに相違ない。遠征流浪の蜀軍から糧をとりあげてしまえば、彼らの敗退は必然的で、敢えて、わが軍が多くの犠牲をはらう必要もない」
 張郃は、命をうけて、おびただしい魏兵を箕谷へ率いて行った。
 申耽、申儀のふたりを、列柳城にとどめて、司馬懿自身も前進した。
 彼の戦法は、勝てば勝つほど、堅実を加えていた。
 この頃、孔明の立場と、その胸中の遺憾はどうであったろうか。いや、それより前に、王平の急使が街亭の布陣の模様を、書簡と共に図面として添えてきたので、彼は一見するとともに、
「あっ。馬謖のばか者」
 と、はたとばかり当惑の眉をひそめたのであった。

「あれほど申し含めたのに」
 と、事に悔いぬ孔明も、このときばかりは、
「馬謖匹夫。ついにわが軍を求めて陥穽に陥らしめたか――」
 と、惨涙独語して、その下唇を血のにじむほど噛みしめていた。
 長史楊儀は、まだかつて見たこともない孔明の無念そうな容子に、畏る畏る、
「何をそのように悵嘆なされますか」
 と、慰める気で訊ねた。
「これを見よ」と、王平の書簡と、布陣図を投げてやって、
「若輩馬謖めは、要道の守りをすてて、わざわざ山上の危地に陣取ってしまった。何たる愚だ。魏軍が麓を取巻いて水の手を切り取ったらそれまでではないか。いくら若いにせよ、こうまで浅慮者とは思わなかった」
「いや、それならば直ちに、私が参って、丞相の命令なりと、急いで布陣を変えましょう」
「さ。――それが間にあえばよいが。――敵は司馬仲達、おそらくは」
「でも、昼夜を通して急げば」
 と、楊儀が、軍をととのえているまに、すでに早馬また早馬が殺到し、街亭の敗れ、列柳城の喪失をつづいて告げた。
 孔明は天を仰いで痛哭した。
「――大事去れり矣。ああ、大事去る」
 と、そして、一言、
「わが過ちであった!」と、ひとり叫んだ。
「関興やある。張苞やある」
 あわただしく呼ばれて、二将は孔明のまえに立った。
「何事ですか」
「各〻、三千騎をひきい、武功山の小路に拠れ。魏軍を見ても、これを討つな。ただ鼓を轟かせ喊声を張れ。敵おのずから走るであろうが、なお追うな、また討つな。そしていよいよ敵の影なきを見とどけた後、陽平関へ入れ。陽平関へ」
「承知いたしました」
 孔明はつづいて、
張翼、来れ」
 と、帷幕へよびつけ、汝は一軍を引率して、剣閣陝西甘粛の省界)の道なき山に道を作れと命じ、悲調な語気で、
「――われこれより回らん」と、いった。
 彼はすでに総退却のほかなきを覚ったのである。密々、触れをまわして引揚げの準備をさせ、一面、馬岱姜維のふた手を殿軍に選び、
「そち達は、山間に潜み、敵来らば防ぎ、逃げつづいて来る味方を容れ、その後、頃を測って引揚げよ」
 と、悲痛な面で云い渡した。
 また、馬忠の一軍には、
曹真の陣を横ざまに攻め立てておれ。彼はその気勢に怖れて、よもや圧倒的な行動には出てきまい。……その間に、われは人を派して、天水、南安、安定の三郡の軍官民のすべてをほかへ移し、それを漢中へ入れるであろう」
 退却の手筈はここに調った。
 かくて孔明自身は、五千余騎をつれ、真先に、西城県へ行った。そしてそこに蓄えてある兵糧をどしどし漢中へ移送していると、たちまち、報ずる者あって、
「たいへんです。司馬懿みずから、およそ十五万の大軍をひきい、真直ぐにこれへ襲せてくる様子です」と、声を大にして伝えた。
 孔明は愕然と色をうしなった。――左右をかえりみるに、力とたのむ大将の主なる者はほとんど諸方へ分けてこれという者もいない。残っているのはみな文官ばかりである。
 のみならず、さきに従えてきた五千余の兵力も、その半分は、兵糧移送の輜重につけて、漢中へ先発させ、西城県の小城のうち、見わたせば、寥々たる兵力しか数えられなかった。
「魏の大軍が、雲霞のように見えた。あれよ、麓から三道に潮のごとく見えるものすべて魏の兵、魏の旗だ。……」
 城兵はうろたえるというよりは、むしろ呆れて、人心地もなく、顔の血も去喪してただふるえていた。
「ああ、寄せも寄せたり。揃えも揃えたり。なんと、おびただしくも物々しい魏の軍立てよ」
 孔明は、櫓に立って、敵ながら見事と、寄手の潮を眺めていた。

 この小城、この寡兵。
 いかに防げばとて、戦えばとて、眼にあまる魏の大軍に対しては、海嘯の前の土塀ほどな支えもおぼつかない。
 孔明は櫓の高楼から身を臨ませて、喪心狼狽、墓場の風のごとく去喪している城兵に向って、こう凛と、命を下した。
「四門を開けよ。開け放て。――門々には、水を打ち、篝を明々と焚き、貴人を迎えるごとく清掃せよ」
 そしてまた、いちだん声たかく、
「みだりに立騒ぐ者は斬らん。整々粛々、旗をそろえよ。部署部署、旗の下をうごくなかれ。静かなること林のごとくあれ。――門ごとの守りの兵は、わけて長閑に団欒して、敵近づくも居眠るがごとくしてあれ」
 命を終ると、彼は、日頃いただいている綸巾を華陽巾にあらため、また衣も新しき鶴氅に着かえて、
「琴を持て」
 と、ふたりの童子を従えて、櫓の一番上へのぼって行った。
 そして高楼の四障も開け払い、香を燻き、琴をすえて端然と坐した。
 はやくも、ひたひたと襲せてきた魏の先陣は、遠くこれを望見して、怪しみ疑い、直ちに、中軍の司馬懿に様子を訴えた。
「なに。琴を弾いている?」
 仲達は信じなかった。
 自身、馬をとばして、先陣へ臨み、近々と城の下まで来て眺めた。
「おお。……諸葛亮」
 仰ぐと、高楼の一層、月あかるき処、香を燻き、琴を調べ、従容として、独り笑めるかのような人影がある。まさに孔明その人にちがいない。
 清麗な琴の音は、風に遊んで欄をめぐり、夜空の月に吹かれては、また満地の兵の耳へ、露のごとくこぼれてきた。
「……?」
 司馬仲達は、なぜともなく、ぶるぶると身を慄わせた。
 ――いざ、通られよ。
 と誰か迎え出ぬばかり目の前の城門は八文字に開放されてあるではないか。
 しかもそこここと水を打って清掃してあるあたり、篝の火も清らかに、門を守る兵までが、膝を組み合ってみな居眠っている様子である。
 彼は、やにわに、
「――退けっ。退けっ」
 と先陣の上に鞭を振った。
 驚いて、次男の司馬昭が云った。
「父上、父上。――敵の詭計に相違ありません。何で退けと仰せられますか」
「否々」
 司馬懿はつよくかぶりを振った。
「四門を開き、あの態たらくは、我を怒らせ、我を誘い入れんの計と思われる。迂濶すな。相手は諸葛亮。――測り難し測り難し、退くに如くはない」
 遂に魏の大軍は夜どおし続々と引き退いてしまった。
 孔明は手を打って笑った。
「さしもの司馬懿も、まんまと自己の智に負けた。もし十五万の彼の兵が城に入ってきたら、一琴の力何かせん。天佑、天佑」
 且つなお部下へいった。
「城兵わずか二千、もし恐れて逃げ走っていたら、今頃はもう生擒られていたであろう。――さるを司馬懿は今頃、ここを退いて道を北山に取っているにちがいないから、かねて伏せておいた我が関興、張苞らの軍に襲われ、痛い目に遭うているにちがいない」
 彼は即時、西城を出て、漢中へ移って行った。西城の官民も、徳を慕って、あらかた漢中へ去った。
 孔明の先見にたがわず、司馬懿軍は北山の峡谷にかかるや蜀の伏勢に襲撃された。ここで一勝を博した関興と張苞は、敢えて追わず、ただ敵が捨て去ったおびただしい兵器糧を収めて漢中へいそいだ。
 また祁山の前面にあった曹真の魏本軍も、孔明ついに奔ると聞くや、にわかに揺るぎだして追撃にかかろうとしたが、馬岱姜維の二軍に待たれて、これも強か不意を討たれた。
 その折、魏は大将陳造を失った。

 漢中に入ると、孔明はすぐ伝令を派して、箕谷の山中にある趙雲と鄧芝へ、
「予は、つつがなく漢中へ退いた。殿軍の労を謝す。卿らまたつつがなく此処に来らんことを祈る」と、云い送った。
 ここは国境第一の嶮路である。加うるに友軍はみな漢中へ退いて、いわば掩護のために、山中の孤軍となった二将であったが、趙雲子龍はさすがに千軍万馬の老将、おもむろに退却の準備にかかった。
 まず、鄧芝の軍を先発させ、彼はとどまって谷のうちに潜んだ。魏の副都督郭淮は、
祁山の捨て児が退きだしたぞ。ひとりも漢中へかえすな」と、猛然追撃にかかり、部下の将、蘇顒をして、軽騎三千ばかりひきい、さしもの細道を、飛ぶが如くいそがせた。
趙雲はここにおる。来れるものは何奴か」
 突如として、神異の相をそなえた一老将が、槍を構えて、彼の前にあらわれた。
「や。趙雲がここにもいた」
 と、蘇顒はふるい恐れつつも兵を励まして戦ったが、ついに趙雲に打たれてしまった。
「口ほどもない」
 と、趙雲はしずしず後退をつづけていた。すると、また、郭淮の一手の大将万政が、前にもまさる兵力で追いついてきた。
「足場は絶好だ」
 趙雲は、ひきいている部下に向って、
「汝らは、三十里先の峰で待っておれ。あとから行く」
 と、旗本数名を身辺にのこしたのみで、全部先へやってしまった。
 そして嶮しい細道の坂上に、作りつけの武者人形のように構えていた。
 万政はやって来たが、これを仰ぐと、近づき得なかった。で、郭淮に会って、
趙子龍は、まだ以前の面影を失っていません。恐らくは、大なる損害を求めましょう」
 と訴えたが、郭淮は、
「麒麟も老ゆれば、駑馬というではないか、そのむかしの豪雄とて何ほどのことがあるものか」
 と、強って、それに当らせた。
 道の左右は砥の如き絶壁だし、彼は坂の上に立って、狭い口を塞いでいるので、大兵もついに用をなさない。
 駈け上がる者、当る者、みな趙雲の槍に血を煙らせて仆れた。
 日が暮れた。敵が怯むのを見て、趙雲は、馬を先へすすめて行く。
「それうごいたぞ」
 万政は追いかけた。
 一林の中まで来ると、
「来たか」
 趙雲の影が、ふいに、跳びかかってきた。万政はうろたえたあまり、馬もろとも、谷間へ落ちた。
「そこまで、命をとりにゆくのは面倒だ。陣へもどったら郭淮にいえ。またいつかきっと会うぞと」
 趙雲はついに味方の一兵も損せず、しずかに漢中へひきあげた。
 その後――
 司馬仲達は、蜀軍すべて、旗を捲いて、漢中へ逃げ籠ったのを見とどけてから、やがて西城へ軍を移して、なおその地に残っていた百姓たちを呼びあつめ、
「敵を慕って、漢中へ逃散した百姓どもは魏の仁徳を知らないのだ。おまえたちは先祖からの地をうごいてはならぬ」と、訓誡を与え、その後で孔明の施政ぶりや、また孔明がこの城にいたときの容子をいろいろ訊ねた。
 ひとりの老百姓がいった。
「都督様が大軍をひきいてこの西城をお攻めになろうとした時、孔明の下には、弱そうな蜀兵が、わずか二千ほどしかおりませんでした。どうして急にあのときお引揚げになってしまわれたのでしょう。てまえどもはふしぎに存じておりました」
 初めて、孔明の計と知った司馬懿は、その時には、何の顔いろも見せなかったが、後、独り天を仰いで長嘆し、
「我勝てり。併しついに、我孔明に及ばずであった」
 と、喞った。そしていよいよ各所の要害を厳重に守り固めさせ、やがて長安へ向って凱旋の途についた。

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