祁山の野

 蜀軍の武威は大いに振った。行くところ敵なきその形容はまさに、原書三国志の記述に髣髴たるものがうかがわれる。

――蜀ノ建興五年冬、孔明スデニ天水、南安、安定ノ三郡ヲ攻取リ、ソノ威、遠近ヲ靡カセ、大軍スデニ祁山ニ出デ、渭水ノ西ニ陣取リケレバ、諸方ノ早馬洛陽ヘ急ヲ告ゲルコト、霏々雪ノ飛ブガ如シ。

 このとき魏はその国の大化元年にあたっていた。
 国議は、国防総司令の大任を、一族の曹真に命じた。
「臣は不才、かつ老齢で、到底その職を完うし得るものでありません」
 かたく辞退したが、魏帝曹叡はゆるさない。
「あなたは一族の宗兄、かつは先帝から、孤を託すぞと、親しく遺詔をうけておられるお方ではないか。夏侯楙、すでに敗れ、魏の国難迫る今、あなたがそんなことを仰せられては、誰が総大将になって赴くものがいましょうぞ」
 王朗もともに云った。
「将軍は社稷の重臣。ご辞退あるときではありません。もし将軍が征かれるならば、それがしも不才を顧みずお供して、命をすてる覚悟で共に大敵を破りましょう」
 王朗の言にうごかされて、曹真もついに決意した。副将には郭淮が選ばれた。
 曹真には、大都督の節鉞を賜い、王朗は軍師たれと命ぜられた。王朗は、献帝の世より仕えて、年七十六歳であった。
 長安の軍勢二十万騎、実に美々しい出陣だった。先鋒の宣武将軍曹遵は曹真の弟にあたる。その副先鋒の将は盪寇将軍朱讃であった。
 大軍すでに長安にいたり、やがて、渭水の西に布陣した。
 王朗がいった。
「いささか思うところがありますから、大都督には、明朝、大陣を展開して、旌旗のもとに、威儀おごそかに、それがしのなすことを見ていて下さい」
「軍師には、何を計ろうとなされるか」
「白紙じゃ。何の計もない。ただ一舌のもとに、孔明を説破し彼の良心をして、魏に降伏させてみせる」
 年八十にちかい老軍師は、何か深い自信をもって、意気すこぶる高いものがある。
 翌朝。両軍は祁山の前に陣を張った。山野の春は浅く、陽は澄み、彼我の旌旗鎧甲はけむり燦いて、天下の壮観といえる対陣だった。
 ――三通の鼓が鳴った。
 しばし剣箭を休めて、開戦にさきだち、一言なさんとの約声である。
「さすがは魏の勢、雄壮を極めている。さきの夏侯楙の軍立てとは較べものにならない」
 孔明は四輪車の上から、さも感じ入ったように眺めていた。そしてさっと門旗をひらくや、その車は、関興、張苞などに守られて、中軍を出で、敵陣の正面に止まった。
「約によって、漢の諸葛丞相これに臨めり。王朗、疾く出でよ」
 彼方へ向って呼ばわった。
 魏軍の門旗は揺れうごいた。白髯の人、黒甲錦袖をまとい、徐々、馬をすすめて近づいてくる。すなわち七十六歳の軍師王朗である。
孔明。わが一言を聞け」
王朗なるか。めずらしくなお生ける姿を見たり。われに一言あらんとは何か」
「むかし、襄陽の名士、みなご辺の名を口にいう。ご辺はもとより道を知る人、また天命の何たるかも知り、時の人の務めも所存あるはずだ。然るに、隆中に鍬を持ち読み齧れる白面の一書生が、多少、時流に乗ずるや、たちまち、雲を得たるかの如く、かく無名の師をおこすとは何事ぞ」
「たれか無名の師という。われは勅をうけて、世の逆を討つ。漢の大臣、いずくんぞ、無用に民を苦しめんや」
「黄口児の口吻、ただ嗤うておこう。なお聞け孔明、なんじは魏の大帝をさして暗にそのことばをなすのであろうが、天数は変あり、徳ある人に帰す。桓帝霊帝このかた、四海わかれて争い、群雄みな覇王を僭称す。ひとりわが太祖武帝、民をいつくしみ、六合をはらい清め、八荒を蓆のごとく捲いて、ついに大魏国を建つ。四方みなその徳を仰ぎ、今日にいたるは、これ権をもって取るに非ず、徳に帰し、天命の然らしめたところである。――然るに、汝の主、玄徳はどうであったか」

 由来、王朗は博学をもって聞え、大儒の風もありといわれ、魏の棟梁たる経世武略の人物として、名はあまねく天下に知れていた。
 いま、戦端に先だって、その王朗は、自負するところの弁をふるって、ここに陣頭の大論戦を孔明に向って挑んだのである。
 冒頭、彼のまず説く所は、魏の正義であった。また、その魏を興した太祖曹操と、蜀の玄徳とを比較して、その順逆を論破し、曹操が天下万邦の上に立ったのは、堯が舜に世をゆずった例と同じもので、天に応じ人に従ったものであるが、玄徳にはその徳もないのにかかわらず、ただ自ら漢朝の末裔だなどという系図だけを根拠として、詭計偽善をもっぱらとして蜀の一隅を奪って今日を成したものに過ぎない。これは現下の中国の人心に徴しても明らかな批判である――というのであった。
 彼はなお舌戦の気するどく、大論陣をすすめて、その玄徳のあとをうけて、これに臨むところの孔明その者に向っては、舌鉾を一転して、
「――ご辺もまた、玄徳の偽善にまどわされ、その過れる覇道にならって、自己の大才を歪め、みずから古の管仲楽毅に比せんなどとするは、沙汰のかぎり、烏滸なる児言、世の笑い草たるに過ぎぬ。真に、故主の遺言にこたえ、蜀の孤を大事と思わば、なぜ伊尹、周公にならい、その分を守り、自らの非を改め、徳を積み功を治世に計らぬか。――ご辺が遺孤を守る忠節は、これを諒とし、これを賞めるに吝かでないが、依然、武力を行使し、侵略を事とし、魏を攻めんなどとする志を持つに至っては、まさに、救うべからざる好乱の賊子、蜀の粟を喰って蜀を亡ぼす者でなくてなんぞ。――それ古人もいっている。天ニ従ウ者ハ昌ニシテ、天ニ逆ラウ者ハ亡ブ――と。今わが大魏は、雄士百万、大将千員、むかうところの者は、たちまち泰山をもって鶏卵を圧すようなものである。量るに、汝らは腐草の蛍火、明滅みな実なし、いかでわが皎々たる天上の月照に及ばんや」と、ほとんど息をつかずに論じたてて、最後に、
「身、封侯の位を得、蜀主の安泰を祈るなれば、はやはや甲を解き、降旗をかかげよ。然るときは、両国とも、民安く、千軍血を見るなく、共に昭々の春日を楽しみ得ん。――また、否とあれば、天誅たちまち蜀を懲し、蜀の一兵たりと、生きて国には帰すまいぞ。その罪みな汝の名に受くるものである。孔明、心をしずめてこれに答えよ」
 と云い結んだところは、実に噂にたがわず、堂々たるものであり、また魏の戦いの名分を明らかにしたものだった。
 敵味方とも鳴りをしずめ、耳をかたむけていたが、特に、蜀の軍勢までが、道理のあることかな――と、声には出さぬが、嗟嘆してやまない容子であった。
 心ある蜀の大将たちは、これは一大事だと思った。敵側の弁論に魅惑されて、蜀の三軍がこう感じ入っているような態では、たとい戦いを開始しても勝てるわけはない。
 ――孔明がどういうか、何と答えるか。
 かたわらに立っていた馬謖のごときも、心配そうな眼をして、車上の孔明の横顔を見ていた。
「…………」
 孔明は、山より静かな姿をしている。終始、黙然と微笑をふくんで。
 馬謖は思い出していた。むかし季布という口舌の雄が、漢の高祖を陣頭で論破し、ついにその兵を破り去った例がある。――王朗の狙っているのはまさにその効果だ。はやく孔明が何とか論駁してくれればよいが――とひそかに焦躁していると、やがて孔明は、おもむろに口を開いて、
「申されたり王朗。足下の弁やまことによし。しかしその論旨は自己撞着と偽瞞に過ぎず、聞くにたえない詭弁である。さらばまず説いて教えん」と、声すずしく云い返した。
「汝はもと漢朝の旧臣、魏に寄して、老朽の脂肉を養うとも、心のそこには、なおいささかの良心でもあろうかと、はじめは敬老の念を以て対したが、はからざりき、心身すでに腐れ果て、今のごとき大逆の言を平気で吐こうとは。――あわれむべし。壮年の英才も、魏に飼われて遂にこの駄馬となり果てたか、ひとり汝にいうは張り合いもない。両国の軍勢も、しばししずかにわが言を聴け」

 理は明晰に、声は朗々、しかも何らの奇矯なく、激するなく、孔明は論じつづけた。
「かえりみるに、むかし桓帝霊帝はご微弱におわせられ、為に、漢統ようやく紊れ、奸臣はびこり、田野年々凶をかさね、ここに諸州騒乱して、ついに乱世の相を現わした。――後、董卓出でて、ひとたび治まるも、朝野の議をみだりに私なし、四寇の乱、ついで起り、あわれ漢帝を民間に流浪させ参らせ、生民を溝壑に追い苦しむ」
 孔明はことばを休めた。
 内に情を抑え、外に平静を保たんとするものの如く、そっと両の袖を払い直し、羽扇を膝に持ち直して、さらに語をついだ。
「――偲ぶも涙、口にするも畏れ多い。その頃の有様といえば、廟堂人あるも人なきに似、朽ち木を組んで宮殿となし、階陛すべて落ち葉を積み、禽獣と変りなき吏に衣冠させて禄を喰らわしめ、議廟もまた、狼心狗走のともがら、道を口に唱え、腹に利を運ぶための場所でしかなかった。――奴顔婢膝の徒、あらそって道にあたり、まつりごと私に摂る。――かくて見よ、世の末を。社稷をもって丘墟となし、万民の生霊を塗炭となして、それを傷む真の人はみな野にかくれ――王朗よ、耳の垢をのぞいて、よく聞かれい」
 孔明は声を張った。
 その声は雲雀のように、高く天にまで澄んで聞えた。
「滔々、濁世のとき、予は若き傷心を抱き、襄陽の郊外に屈居して、時あらん日を天に信じ、黙々、書を読み、田を耕しつつあったことは、さきに汝がいった通りにちがいない。――しかし当時の人、みなひそかに、切歯扼腕、ときの朝臣と為政者の腐敗堕落を怒らざるはなかった。――我もとよりよく汝を知る。汝は世々東海の浜にいて、家祖みな漢朝の鴻恩をこうむり、汝また、はじめ孝廉にあげられて朝に仕え、さらに恩遇をたまわりてようやく人と為る。――しかも朝廟あやうき間、献帝諸方を流浪のうちも、いまだ国を匡し、奸をのぞき、真に宸襟を安めたてまつれりという功も聞かず、ひとえに時流をうかがい権者に媚び、賢しげの理論を立てて歪曲の文を作り、賊子が唱えて大権を偸むの具に供す。それを売って栄爵を購い、それに依って華殿美の生を、今日七十六歳の高齢まで保ち来たれる一怪物。正にそれは汝王朗ではないか。たとえわれ蜀の総帥たらずとも、世の一民として、汝のその肉を啖い、血を犬鶏に与うるも、なおあきたらぬ心地さえする。――しかるに、幸いにも、天、孔明を世に出し給うは、天なお漢朝を捨て給わぬしるしである。われ今勅を畏み、忠勇なるわが蜀兵と、生死をちこうてここ祁山の野に出たり。汝はこれ諂諛の老臣、まこと正邪をあきらかにし、一世を光明にみちびくの大戦は、汝の得意とする世渡り上手の手先や口先で勝てるものではない。家にひそんでをむさぼり老慾に耽りてあるなら助けもおくべきに、何とて、似あわしからぬ鎧甲を粧いて、みだりにこの陣前へはのさばり出たるか。それだけでも、あっぱれ天下の見世物なるに、この野に死屍をさらし、なんの面目あって、黄泉の下、漢皇二十四帝にまみえるつもりであるか。退れっ、老賊」
 凛々たる終りの一喝は、矢のごとく、論敵の肺腑をつらぬいたかのように思われた。
 結論的には、漢朝に代るべく立った蜀朝廷と魏朝廷とのいずれが正しいかになるが、要するに、その正統論だけでは、魏には魏の主張があり、蜀には蜀の論拠があって、これは水掛け論に終るしかない。
 で、孔明はもっぱら理念の争いを避けて衆の情念を衝いたのである。果たして、彼がことばを結ぶと、蜀の三軍は、わあっと、大呼を揚げてその弁論を支持し、また自己の感情を、彼の言説の上に加えた。
 それに反して、魏の陣は、唖のごとく滅入っていた。しかもまた、当の王朗は、孔明の痛烈なことばに、血激し、気塞がり、愧入るが如く、うつ向いていたと思われたが、そのうちに一声、うーむと呻くと、馬の上からまろび落ちて遂に、そのまま、息絶えてしまった。

 孔明は羽扇をあげて、次に、敵の都督曹真出でよ、と呼び出し、
「まず王朗の屍を後陣へ収めるがよい。人の喪につけ入って、急に勝利を得んとするような我ではない。明日、陣を新たにして決戦せん。――汝よく兵をととのえて出直して来れ」
 と告げて、車をかえした。
 力とたのむ王朗を失って、曹真は、序戦にまず気をくじいてしまった。
 副都督郭淮は、それを励ますべく、必勝の作戦を力説してすすめた。
 曹真も心をとり直し、さらばと、その密なる作戦の備えにかかった。
 孔明はその頃、帷の内へ、趙雲と魏延を呼び入れて、
「ふたりして、兵をそろえ、魏陣へ夜襲をしかけよ」と、命じていた。
 魏延は、孔明の顔を見ながら、
「恐らく不成功に終るでしょう。曹真も兵法にかけては一かどの者ですから、自陣の喪にあるを衝いて、蜀が夜襲に出てくるだろうぐらいな用意はしているにちがいありません」
 孔明はその言に対して訓えた。
「こちらの望みは、彼がこちらの夜襲あることを知るのをむしろ希うものだ。――思うに曹真は、祁山のうしろに兵を伏せ、蜀の夜襲をひき入れて、その虚にわが本陣を急突して、一挙に撃砕せんものと、今や鳴りをひそめているにちがいない。――で、わざとご辺たちを彼の望みどおりに差し向けるのである。途中、変あらばすぐこうこうせよ」と、何かささやいた。
 次いで、関興、張苞のふたりへ、おのおの一軍を与えて、祁山の嶮岨へさし向け、後また、馬岱、王平、張嶷の三名には、べつに一計をさずけて、これは本陣付近に埋伏させておいた。
 かくとは知らぬ魏軍は、大将曹遵、朱讃などの二万余騎を、ひそかに祁山の後方へ迂回させておいて、蜀軍の動静をうかがっていた。
 ――すると、たちまち、
「敵の関興、張苞の二軍が、蜀陣を出て、味方の夜討ちに向った」という情況が伝わったので、曹遵らは、しすましたりと、作戦の思うつぼに入ったことを歓びながら、いよいよその事実を知るや、突如山の蔭を出て、蜀の本陣を急襲した。
 敵の裏を掻いて、その手薄な留守を衝こうとしたものである。ところが、孔明は、すでに、その裏の裏を掻いていたのだった。
 わあっと、潮の如き吠え鳴りを揚げて、魏の勢が、蜀本陣へ突入して見ると、柵の四門に旗風の見えるばかりで、一兵の敵影も見えない。のみならず、たちまち山と積んである諸所の柴がバチバチと焔を発し、火炎天をこがし地を沸らせた。
 朱讃、曹遵の輩は、
「すわ。敵にも何か計があるぞ。退けや、退けや」
 声を嗄らして叱咤したが、どうしたわけか、魏の勢はすこしも退かず、かえって逆に、好んで炎の中心へ押しなだれて来た。
 それもその筈、すでに魏兵のうしろには、いたるところ、蜀軍が馳け迫って、烈しくその隊尾から撃滅の猛威を加えていたのである。
 蜀の馬岱、王平などに加えて、夜襲に向った筈の張嶷、張翼なども急に引っ返してきて、後方を断ち、そしてほとんど、全魏軍を袋の鼠としてしまったのである。
 曹遵、朱讃の勢は、したたかに討たれ、また炎の中に焼け死に踏みつぶされる者も数知れなかった。そしてこの二人の大将すらわずか数百騎をつれたのみで、からくも逃げ帰ったほどだった。
 しかもまた、その途中にも、趙雲の一手が道を遮って、なお完膚なきまで、殲滅を期すものあり、さらに、魏の本陣へ戻って見れば、ここも関興、張苞の奇襲に遭って、総軍潰乱を来しているという有様である。何にしても、この序戦は、惨澹たる魏の敗北に始まって全潰状態に終り、大都督曹真もやむなく遠く退いて、おびただしい負傷者や敗兵を一たん収め、全編隊の再整備をなすのやむなきに立ち到った。

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