呉の情熱
一
眼を転じて、南方を見よう。
呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。
ここ数年を見較べるに――
曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。
玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。
広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。
何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。
時。――建安の七年頃だった。――すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。
美しい一艘の官船が檣頭に許都政府の旗をかかげて、揚子江を下ってきた。
中央からの使者であった。
使者の一行は、呉会の賓館にはいって、のち城中に登り、曹操の旨をつたえて、
「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。――もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。
ことばの上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。
呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、
「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」
と、答えて、問題の延引策を取っていた。
その後も、度々、長子を上洛せよと、曹操のほうから催促がくる。朝廷を擁しているだけに、彼の命は、すでに彼の命にとどまらない絶対権をおびていた。
「母君。いかがしたものでしょう」
孫権はついに、老母の呉夫人の耳へも入れた。
呉夫人は、
「あなたにはもう良い臣下がたくさんあるはずです。なぜこんな時こそ、諸方の臣を招いて衆智に訊いてみないのか」と云った。
考えてみると、問題は、子ども一人のことではない。質子を拒めば、当然、曹操とは敵国になる。
そこで、呉会の賓館に、大会議をひらいた。
当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。
張昭、張絋、周瑜、魯粛などの宿将をはじめとして、
彭城の曼才、会稽の徳潤、沛県の敬文、汝南の徳枢、呉郡の休穆、また公紀、烏亭の孔休など。
かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍、鳳雛といった――その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えている。
そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯琊の徐盛とか――実に人材雲のごとしで、呉の旺なことも、故なきではないと思わせられた。
「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚なくご意見を吐露していただきたい」
張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。
二
こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、種々である。
質子、送るべし。
となす者。
質子、送るべからず。
と、主張する者。
ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、
「周瑜に一言させて下さい」と、初めて彼が発言を求めた。
呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策と同い年であったから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であった。
「そうだ、周瑜のことばを聞いてみよう。説きたまえ」
人々は、しばらく彼に耳をかした。
周瑜は、起立していう。
「僭越ですが、私は、楚国の始めを憶いおこします。楚ははじめ、荊山のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々たるものでしたが、賢能の士が集まって、ついに九百余年の基をひらきました。――いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、ここに三代、地は六郡の衆を兼ね、兵は精にし、粮は豊山を鋳て銅となし、海を煮て塩となす。民乱を思わず、武士は勁勇、むかうところ敵なしです」
「…………」
彼の演舌を聞くのは初めての人々もあったらしく、多くは、その爽やかな弁と明白な理論に、意外な面持を見せていた。
「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風に媚びる必要がありましょう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれれば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るときは、相府に身をかがめ、位階は一侯を出ず、車数乗、馬幾匹定め以上の儀装もできません。いわんや、南面して、天下の覇業を行わんなど、思いもよらぬ夢でしょう。――まずここは、あくまで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見ている秋ではないでしょうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらわし、朝廷に忠なる宰相でないようなら、その時こそ、呉は天の時を計って、大いに為すある大理想をもたねばなりますまい」
「……然り矣」
「そうだ。その時だ」
述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、粛としていた。
意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。
この日、簾中に、会議のもようを聴いていた呉夫人も、甥の周瑜の器量をたのもしく思って、後に、近く彼を招き、
「おまえは、孫策と同年で、一月おそく生れたばかりだから、わが子のように思われる。これからも、よく孫権を扶けて賜も」と、ねんごろなことばであった。
かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。
曹操も、以来、使いを下してこなかった。――或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。
宣戦せざる宣戦――無言の国交断絶状態にはいった。
が、長江の水だけは、千里を通じている。
そのうちに。
建安八年の十一月ごろ。
孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖を攻めるためだった。
兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。
その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。
三
この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、
「黄祖の首は、もう掌のうちのもの」
と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。
もっとも大きな傷手は、孫権の大将凌操という剛勇な将軍が、深入りして、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下甘寧の矢にあたって戦死したことだった。
ために、士気は沮喪し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があった。
それは将軍凌操の子凌統で、まだ十五歳の年少だったが、父が、乱軍の中に射たおされたと聞くや、ただ一名、敵中へ取って返し、父の屍をたずねて馳せ返ってきた。
孫権は、いち早く、
「この軍は不利」と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、
「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。
翌九年の冬。
孫権の弟、孫翊は、丹陽の太守となって、任地へ赴いた。
なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭打つ癖があった。
「殺ってしまおう」
「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」
丹陽の都督に、嬀覧という者がある。同じ怨みを抱く郡丞の戴員と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに対手の出入りをうかがっていた。
しかし、孫翊は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣を佩いて、眼気に隙も見えないため、むなしく機を過していた。
そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。
すぐ、許しが出たので、嬀覧はひそかに、孫翊の大将辺洪という者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴ということになっている。
孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
「じゃあ、行ってくるぞ」と、妻の室へ声をかけた。
彼の妻は、徐氏という。
呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、卜をよくした。
この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、
「どうしたのでしょう。今日に限って、不吉な卦が出ました。なんとか口実をもうけて、ご出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」
しきりと、ひきとめた。
けれど孫翊は、
「ばかをいえ、男同士の会合に、そうは行かないよ。ははは」
気にもかけず出かけてしまった。
評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、蹌踉と、門外へ出てきた。かねてしめし合わせていた辺洪は、ふいに躍りかかって、孫翊を一太刀に斬り殺してしまった。
すると、その辺洪をそそのかした嬀覧、戴員のふたりが、急に驚いた態をして、
「主を害した逆賊め」と、辺洪を捕え、市へ引きだして、首を斬ろうとした。
辺洪は、仰天して、
「約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」
と、喚いたが、首は喚いている間に、地へ落ちていた。
四
嬀覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。
一方、孫翊の妻の徐氏は、良人の帰りがおそいので、
「もしや、易に現れたように、何か凶事があったのではないか」
と、自分の卜が的中しないことを今はしきりに祷っていた。気のせいか、こよいに限って、燈火の色も凶い。
「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」
ふと、帳を出て、夜の空を仰いでいると、中門のほうから歩廊へかけて、どやどやと一隊の兵が踏みこんできた。
「徐氏か」
先頭のひとりがいう。
見ると、刀を横たえた都督嬀覧だった。
兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、
「夫人。あなたの良人孫翊は、こよい部下の辺洪のため、会館の門外で斬り殺された。――が下手人辺洪は、即座にひッ捕えて、市へひきだし首を打ち落して、讐を取った。――この嬀覧があなたに代って仇を打ってあげたのだ」
恩きせがましく、こういって、
「もう悲しまぬがよい。何事もこれからは、嬀覧がお力になってあげる。この嬀覧にご相談あるがよい」と、腕をとらえて、彼女の室へはいろうとした。
「…………」
徐氏は一時茫然としていたが、軽く、腕を払って、
「いまは、何も、ご相談を願うこともありません」
「では、また参ろう」
「人の眼もあります。月の末の――晦日にでも」
徐氏が涙を含まないのみか、むしろ媚すら見える眸に、嬀覧は独りうなずいて、
「よろしい、では、その時に」と、有頂天になって帰った。
底知れぬ悪党とは、嬀覧のごときをいうのだろう、彼は疾くから徐氏の美貌をうかがって毒牙を磨いていたのである。
徐氏は、悲嘆のうちに、良人の葬儀を終って、後、ひそかに亡夫の郎党で、孫高、傅嬰という二人の武士を呼んだ。
そして、哭いていうには、
「わが夫を殺した者は、辺洪ということになっているが、妾は信じません。真の下手人は、都督嬀覧です。卜のうえでいうのではない、証拠のあることです、そなた達へ向って、口にするも恥かしいが、嬀覧は妾に道ならぬ不義をいどみかけている。妻になれと迫るのです。……で、虫をころして、晦日の夜に来るように約束したから、そのときは、妾の声を合図に、躍りかかって、良人の仇を刺して賜も。どうかこの身に力をかして賜もれ」
忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたたえて、亡君の恨み、誓って晴らさんものと、その夜を待っていた。
嬀覧は、やって来た。――徐氏は化粧して酒盞を清めていた。
すこし酔うと、
「妻になれ、否か応か」
嬀覧は、本性をあらわして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。
徐氏は、ほほ笑んで、
「あなたのでしょう」と、いった。
「もちろん、俺の妻になれというのにきまっている」
「いいえ、良人の孫翊を殺させた張本人は」
「げっ? な、なんだ」
徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂いに絶叫した。
「良人の仇っ。――傅嬰よ! 孫高よ! この賊を、斬り伏せておくれっ」
「――応っ」
と、躍りでた二人の忠僕は、嬀覧のうしろから一太刀ずつあびせかけた。徐氏も奪い取った剣で敵の脾腹を突きとおした。そして初めて、朱の中にうっ伏しながら哭けるだけ哭いていた。