冬将軍

 冬が来た。
 連戦連勝の蜀軍は、巫峡、建平、夷陵にわたる七十余里の戦線を堅持して、章武二年の正月を迎えた。
 賀春の酒を、近臣に賜うの日、帝玄徳も微酔して、
「雪か、わが鬢髪か。思えば朕も老いたが、また帷幕の諸大将も、多くは年老い、冬の陣も耐うるに徹えてきた。しかし関興、張苞の若いふたりが役立ってきたので、朕も大いに気づよく思うぞ」
 などと述懐した。
 するとその日の午過ぎ、
黄忠がわずか十騎ばかり連れて呉へ投降してしまった」という風聞が伝わった。
 帝玄徳は告げる者に笑って、
「いや黄忠は今朝ここにおった。さだめし老気を励まして呉へ討ち入ったものであろう。朕の述懐こそ心なき呟きであった。――あわれや彼も七十の老武者、過ちさせては不愍である。関興、張苞、すぐ行って彼を救え」と、いった。
 玄徳の推察は過っていない。実に黄忠はその通りな気もちで、わずか十騎をつれて、敵中に一働きして見せんと、途中、味方の夷陵の陣地を通った。
 馮習、張南が、見かけて、
「老将軍、どこへ行くのか」と、たずねた。
 黄忠は、慨然と、帝の述懐を物語って、
「帝は賀春の席で帷幕みな多くは老い、物の用に立つものが少ないと宣うた。それがし、年七十にあまれど、なお十斤の肉を啖い、臂に二の弓をひく、故に、これから呉軍に一泡ふかせて、帝の御心を安んじ奉ろうと思うのでござる」と、馬からおりもせず答えた。
「老人。それは無茶だ」
 張南は極力なだめた。それこそ年寄りの冷や水といわないばかりに。
 彼は諫めていう。いまや呉の陣は去年とは内容が一変している。若い孫桓を後方に下げて、前線は、新たに建業から大軍をひきいてきた韓当、周泰など老練を配し、先手には潘璋、うしろ備えには凌統、そして呉随一の戦上手といわれる甘寧が全軍をにらんで遊軍という位置にある。しかもその数、十万という新鋭。そんな所へわずか十騎をつれて何しに参られるか、と教えかつ大いに笑った。
 しかし黄忠は耳にもかけず、其許たちは見物してござれ、と一言云い捨てて行ってしまった。張南、馮習はあきれ顔に見送っていたが、
「さてさて、死神にでもとりつかれたか。というて見殺しにもできず――」と、あわてて一群を追い慕わせた。
 黄忠はやがて呉の潘璋の陣中へかかった。わずか十騎で平然と中軍まで通ってしまったのである。変に思って番兵が味方を呼び立てたときは、彼はすでに主将潘璋と戦っていたのである。
関羽が仇を報ぜんと、単騎ここに来る。かくいうは蜀第一の老骨黄忠なり」
 と、そこの帷幕へ迫って大声に名のりかけたからである。
 戦線に異変なく、中軍の内から起った戦である。潘璋の外陣はみな前をすてて、中心へかたまって来た。
 そこへ張南の一軍が、黄忠を援けにきた。また少しおくれて関興、張苞が、数千騎をつれて吹雪のように翔け暴れてきた。乱軍となって、藩璋は討ちもらしたが、合戦としては十二分の捷を占めて、いちど蜀は野を隔てた。
「ご無事でよかった。さあ老将軍、帰りましょう」
 張苞、関興などが引き揚げをうながすと、
「ばかな」
 と、老人はうごかない。
「あすも戦うのだ。次の日も。――関羽のかたき奴を討ち果さんうちは」
 そして翌日はまた、この七十余齢の武者は、突撃の先に立って、
潘璋、出でよ」と、四角八面にあばれ廻っていた。
 けれど、きょうは呉にも、備えがあった。彼は地の利の悪い危地へ取り籠められた。血路をひらいて遁れようとすると、四方からが飛び黒風が捲いてきた。そして右の山から周泰、左の渓流から韓当、うしろの谷から馬忠潘璋というふうに、呉の軍勢は霧のごとく彼の退路をふさいでしまった。

 豪気な黄忠も、いまはどうすることもできない。身には幾すじも矢を負い、馬はに当って斃れた。精は尽き、眼はかすみ、
「いまはこれまで」と、自ら首を刎ねて死のうとした。
 呉の大将馬忠は、そのとき馬を飛ばして、砂礫とともに駈けおりて来た。それを知るや黄忠は、
「死出の道づれに、望むところの敵」
 と、断末魔の勇を鼓して、馬忠のまえに幽鬼の如く立ちふさがった。
「そのような白髪首をまだ惜しむか」
 馬忠の突いてくる槍の柄にしがみついて、黄忠は離さなかった。そのうちに四方の呉軍が何事か騒ぎ出したので、馬忠はいよいよ持て余し、かえって老黄忠のために槍を奪われ、その槍でりゅうりゅうと突きまくられた。
 関興、張苞のふたりは、この山間に黄忠が追い込まれているのをようやく知って、それを救うべくこれへ急襲して来たのである。馬忠は身の危険をさとるとにわかに相手を捨てて谷ふところへ逃げ去ってしまった。
「老将軍。もうご安心なさい」
 耳もとでいわれたが、黄忠はそれから後のことは何も覚えなかった。彼が気づいてみたときは、味方の陣中に安臥して、関興や張苞の手で看護されていた。
 いや、誰かうしろで、自分の背を撫でてくれる人があるので、苦痛をこらえて、ふと振り向いて見ると、それは帝玄徳だった。
「老将軍。朕が過ちをゆるしてくれよ」
「あ……」と、愕いて、黄忠は起き上がろうとしたが、おびただしい出血と老衰とに、ただ苦しげな悶えをその表情に見せるだけだった。
「否とよ陛下。……陛下のような高徳の御方のそばに、七十五歳のこの年まで、久しくお仕えすることができたのは、実に人と生れた冥加この上もありません。この命、なんで惜しむに足らん。ただ、龍体を守らせ給え」
 いい終ると、忽然、息が絶えた。
 陣外には、白天地の夜を、吹雪が吹き暴れていた。
「ああまた一虎は逝いた。五虎の大将軍、すでに逝くもの三人」
 成都へ彼の棺槨を送るの日、玄徳は曠野に立って灰色の雪空を長く仰いでいた。
「かくては」と、玄徳は自ら心を励まし、御林の軍をひきいて、凍る帝旗を、さらに、猇亭(湖北省・宜都の西方)まで進めた。
 はからずもこの附近で、呉の韓当軍と会戦した。張苞は韓当の唯一の部下夏恂を打ち破り、関興は周泰の弟周平の首をあげた。帝はこれを眺めて、
「虎の子に犬の子なし」と、手を打って感嘆した。
 一戦一進、蜀陣は屍の山を越え、血の流れを渡って進んだ。帝座のあたりを守る白旄黄鉞、また黄羅の傘蓋まで、ことごとく凍って、水晶の簾が揺ぎ進むようだった。
 呉の水軍を統率していた甘寧建業を立ってくる時から体がほんとでなかったので冬に入ってはいよいよ持病に悩み、味方の頽勢すこぶる憂うべきものがあったが、ぜひなく陸上軍の退却とともに、彼も江岸を馬に乗って落ちて行った。
 すると途中、待ち伏せしていた蜀軍の南蛮部隊が、いちどに起ってこれを猛襲した。彼の軍はその大半以上が船中にあるので従えていた部下はごく少数だった。それに蛮軍の大将沙摩柯の勇猛さはまるで悪鬼か羅刹のようだったので、ほとんど、生き残る者もないほどな大殺戮に会ってしまった。
 甘寧は、病床のうえに、沙摩柯の射た矢に肩を射られ、富池口湖北省・公安の南)までひとり逃げたが、最期をさとったとみえて、馬を大樹の下に捨て、その樹の根元に坐ったままついに落命していた。
 二月に入った。
 猇亭方面ではなお激戦がくり返されていた。蜀軍の兵にはもう必勝の信念がついていたし、呉兵には戦えば必ず負けるものという臆心がこびりついていた。
 ところが、その日の戦に、全軍凱歌して、引き揚げてきたのに、どうしたのか夜に入っても関興だけが一人帰ってこなかった。
「見て参れ。気がかりな」
 と、帝は張苞にもいいつけ、その他の将にも、手分けして探せよと命じ、深夜まで眠りにつかなかった。

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