舞刀飛首
一
百官の拝礼が終って、
「新帝万歳」の声が、喪の禁苑をゆるがすと共に、御林軍(近衛兵)を指揮する袁紹は、
「次には、陰謀の首魁蹇碩を血まつりにあげん」
と、剣を抜いて宣言した。
そしてみずから宮中を捜しまわって、蹇碩のすがたを見つけ、
「おのれっ」と、何処までもと追いかけた。
蹇碩はふるえ上がって、懸命に逃げまわったが、度を失って御苑の花壇の陰へ這いこんでいたところを、何者かに尻から槍で突き殺されてしまった。
彼を突き殺したのは、同じ仲間の十常侍郭勝だともいわれているし、そこらにまで、乱入していた一兵士だともいわれているが、いずれにせよ、それすら分らない程、もう宮闕の内外は大混乱を呈して、人々の眼も血ばしり、気も逆上っていたにちがいなかった。
袁紹は、さらに気負って、何進の前へ行き、
「将軍、なんで無言のままこの混乱を見ているんですか。時は今ですぞ、宮廷の癌、社稷の鼠賊ども、十常侍の輩を一匹残らず殺してしまわなければいけません。この機を逸したら、再び臍を噛むような日がやってきますぞ」と、進言した。
「ウむ。……むむ」
何進はうなずいていた。
けれど顔色は蒼白で、日頃の元気も見えない。元来、小心な何進、一時は憤怒にかられて、この大事をあえて求めたが、一瞬のまに禁門の内外はこの世ながらの修羅地獄と化し、自分を殺そうと謀った蹇碩も殺されたと聞いたので、一時の怒りもさめて、むしろ自分のつけた火の果てなくひろがりそうな光景に、呆然と戦慄をおぼえているらしい容子であった。
その間に。
一方十常侍の面々は、
「すわ、大変」と、狼狽して、張譲を始め、おのおの生きた心地もなく、内宮へ逃げこんで、窮余の一策とばかり、何進の妹にして皇后の位置にある何后の裙下にひざまずいて、百拝、憐愍を乞うた。
「よい、よい。安心せい」
何后はすぐ、兄の何進を呼びにやった。
そして何進をなだめた。
「私たち兄妹が、微賤の身から今日の富貴となったのも、そのはじめは十常侍たちの内官の推薦があったからではありませんか」
何進は、妹にそういわれると、むかし牛の屠殺をしていた頃の貧しい自分の姿が思い出された。
「なに、俺は、俺を殺そうと謀った蹇碩の奴さえ誅戮すればいいのだ」
内宮を出ると、何進は、右往左往する味方や宮内官たちを、鎮撫する気でいった。
「蹇碩は、すでに誅罰した。彼は我を害さんとしたから斬ったのである。我に害意なき者には、我また害意なし。安心して鎮まれ!」
すると、それを聞いて、
「将軍、何をばかなことをいうんですか」
と、袁紹は血刀を持ったまま彼の前へきて、その軽忽を責めた。
「この大事を挙げながら、そんな手ぬるい宣言を将軍の口から発しては困ります。今にして、宮闕の癌を除き、根を刈り尽しておかなければ、後日かならず後悔なさいますぞ」
「いや、そういうな。宮門の火の手が、洛陽一面の火の手になり、洛陽の火の手が、天下を燎原の火としてしまったら取返しがつかんじゃないか」
何進の優柔不断は、とうとう袁紹の言を容れなかった。
二
一時、禁門の兵乱は、治まったかに見えた。
その後。
何后、何進の一族は、
「邪魔ものは董太后である」
と、悪策をめぐらして、太后を河間(河北省・河間県)という片田舎へ遷してしまった。
故霊帝の母公たる董太后も、今は彼らの勢力に拒む力もなかった。これというのも、前帝の寵妃だった王美人の生んだ協皇子を愛するのあまり、何后、何進らの一族から睨まれた結果と――ぜひなき運命の輦のうちに涙にくれながら都離れた地方へ送られて行った。
けれど、何后も何進も、それでもまだ不安を覚えて、ひそかに後から刺客をやって、董太后を殺してしまった。
わずかの間に董太后はふたたび洛陽の帝城に還ってきたが、それは柩の中に冷たい空骸となって戻られたのであった。
京師では大葬が執行われた。
けれど、何進は、
「病中――」と称して、宮中へも世間へも顔を出さなかった。
彼は怒りっぽい。
しかも、小心であった。
彼は自己や一門の栄華のために大悪もあえてする。けれど小心な彼は半面でまた、ひどく世間に気がねし、自らも責めている。
要するに何進は、下賤から人臣の上に立ったが、大なる野望家にもなりきれず、ほんとの悪人にもなりきれず、位階冠帯は重きに過ぎて、右顧左眄、気ばかり病んでいるつまらない人物だった。
貝殻が人の跫音に貝のフタをしているように、門から出ないので、或る日、袁紹は何進の邸を訪ねて、
「どうしました将軍」と、見舞った。
「どうもせんよ」
「お元気がないじゃないですか」
「そんなことはない」
「――ところで、聞きましたか」
「何を? ……じゃね」
「董太后のお生命をちぢめた者は何進なりと、また、例の宦官どもが、しきりと流言を放っているのを」
「……ふウむ」
「だから私がいわない事ではありません。今からでも遅くないでしょう。あくまでも、彼奴らは癌ですよ。根こそぎ切ってしまわなければ、どう懲らしても、日が経てばすぐ芽を生やし、根を張って、増長わがまま、陰謀暗躍、手がつけられない物になるんです」
「……む、む」
「ご決断なさい」
「考えておこう」
煮え切らない顔つきである。
袁紹は舌打ちして帰った。
奴僕の中に、宦官たちのまわし者が住みこんでいる。
「袁紹が来てこうこうだ」とすぐ密報する。
諜報をうけて、
「また、大変だ」と、宦官らはあわてた。――だが、危険になると、消火栓のような便利な手がある。何進の妹の何后へすがって泣訴することであった。
「いいよ」
何后は、彼らからあやされている簾中の人形だったが、兄へは権威を持っていた。
「何進をおよび」
また、始まった。
「兄さん、あなたは、悪い部下にそそのかされて、またこの平和な宮中を乱脈に騒がすようなことを考えなどなさりはしないでしょうね。禁裡の内務を宦官がつかさどるのは、漢の宮中の伝統で、それを憎んだり殺したりするのは、宗廟に対して非礼ではありませんか」
釘を刺すと、何進は、
「おれはなにもそんなことを考えておりはせぬが……」
と、あいまいに答えたのみで退出してしまった。
三
宮門から退出してくると、
「将軍。どうでした」
と、彼の乗物の蔭に待っていた武将が、参内の吉左右を小声でたずねた。
「ア。……袁紹か」
「何太后に召されたと聞いたので、案じていたところです。何か、宦官の問題で、ご内談があったのでしょう」
「……ム。あったにはあったが」
「ご決意を告げましたか」
「いや、こちらから云いださないうちに、太后から、憐愍の取りなしがあったので」
「いけません」
袁紹は、断乎としていった。
「そこが、将軍の弱点です。宦官どもは、一面にあなたを陥し入れるように、陰謀や悪宣伝を放って、露顕しかかると、太后の裳やお袖にすがって、泣き声で訴えます。――お気の弱い太后と、太后のいうことには反かないあなたの急所を、彼らはみこんでやっている仕事ですからな」
「なるほど……」
そういわれると、何進も、気づくところがあった。
「今です。今のうちです。今日をおいて、いつの日かありましょう。よろしく、四方の英雄に檄を飛ばし、もって万代の計を、一挙に定められるべきです」
彼の熱弁には、何進もうごかされるのである。なるほどと思い――それもそうだと思い、いつのまにか、
「よしっ、やろう。実はおれもそれくらいのことは考えていたのだ」と、いってしまった。
二人の密談を、乗物のおいてある樹蔭の近くで聞いていた者がある。典軍の校尉曹操であった。
曹操は、独りせせら笑って、
「ばかな煽動をする奴もあればあるものだ。癌は体じゅうにできている物じゃない。一個の元兇を抜けばいいのだ。宦官のうちの首謀者をつまんで牢へぶちこめば、刑吏の手でも事は片づくのに、諸方の英雄へ檄を飛ばしたりなどしたら、漢室の紊乱はたちまち諸州の野望家のうかがい知るところとなり、争覇の分脈は、諸国の群雄と、複雑な糸をひいて、天下はたちまち大乱になろう」
それから、彼はまた、何進の輦について歩きながら、
「……失敗するにきまっている。さあ、その先は、どんなふうに風雲が旋るか」
と、独りごとにいっていた。
けれど、曹操は、もう自分の考えを、何進に直言はしなかった。その点、袁紹の如く真っ正直な熱弁家でもないし、何進のような小胆者とも違う彼であった。
彼は今、天下に多い野望家とつぶやいたが、彼自身もその一人ではなかろうか。白皙秀眉、丹唇をむすんで、唯々として何進の警固についてはいるが、どうもその輦の中にある上官よりも典軍の一将校たる彼のほうが、もっと底の深い、もっと肚も黒い、そしてもっと器も大きな曲者ではなかろうかと見られた。
× × ×
ここに、西涼(甘粛省・蘭州)の地にある董卓は、前に黄巾賊の討伐の際、その司令官ぶりは至って香しくなく、乱後、朝廷から罪を問われるところだったが、内官の十常侍一派をたくみに買収したので、不問に終ったのみか、かえって顕官の地位を占めて、今では西涼の刺史、兵二十万の軍力をさえ擁していた。
その董卓の手へ、
「洛陽からです」
と或る日、一片の檄が、密使の手から届けられた。
四
洛陽にある何進は、先ごろ来、檄を諸州の英雄に飛ばして、
天下の府、枢廟の弊や今きわまる。よろしく公明の旌旗を林集し、正大の雲会を遂げ、もって、昭々日月の下に万代の革政を諸公と共に正さん。
といったような意味を伝え、その反響いかにと待っていたところ、やがて諸国から続々と、
「上洛参会」
とか、或いは、
「提兵援助」
などという答文をたずさえた使者が日夜早馬で先触れして来て、彼の館門を叩いた。
「西涼の董卓も、兵をさげてやって来るようですが」
――御史の鄭泰なる者が、何進の前に来て云った。
「檄文は、董卓へもお出しになったんですか?」
「む。……出した」
「彼は、豺狼のような男だとよく人はいいます。京師へ豺狼を引入れたら人を喰いちらしはしませんかな」
鄭泰が憂えると、
「わしも同感だ」
と、室の一隅で、参謀の幕将たちと、一面の地形図をひらいていた一老将が、歩を何進のほうへ移してきながら云った。
見ると、中郎将盧植である。
彼は黄匪討伐の征野から讒せられて、檻車で都へ送られ、一度は軍の裁廷で罪を宣せられたが、後、彼を陥し入れた左豊の失脚とともに、免されて再び中郎将の原職に復していたのである。
「おそらく董卓は、檄文を見て時こそ来れりとよろこんだに違いない。政廟の革正をよろこぶのでなく、乱をよろこび、自己の野望を乗ずべき時としてです。――わしも董卓の人物はよく知っておるが、あんな漢をもし禁廷に入れたら、どんな禍患を生じるやも計り知れん」
盧植は、わざと、鄭泰のほうへ向って話しかけた。暗に何進を諫めたのである。だが何進は、用いなかった。
「そう諸君のように、疑心をもっては、天下の英雄を操縦はできんよ」
「――ですが」
鄭泰がなお、苦言を呈しかけると何進はすこし不機嫌に、
「まだまだ、君たちは、大事を共に謀るに足りんなあ」と、いった。
鄭泰も、盧植も、
「……そうですか」
と、後のことばを胸にのんで退がってしまった。そしてこの両者をはじめ、心ある朝臣たちも、こんなことを伝え聞いて、そろそろ何進の人間に見限りをつけだして離れてしまった。
「董卓どのの兵馬は、もう澠池(河南省・洛陽西方)まで来ているそうです」
何進は、部下から聞いて、
「なぜすぐにやって来んのか。迎えをやれ」と、しばしば使いを出した。
けれど、董卓は、
「長途を来たので、兵馬にも少し休養させてから」
とか、軍備を整えてとか、何度催促されても、それ以上動いて来なかった。何進の催促を馬耳東風に、豺狼の眼をかがやかしつつ、ひそかに、眈々と洛内の気配をうかがっているのであった。
五
一方。宮城内の十常侍らも、何進が諸国へ檄をとばしたり、檄に応じて董卓などが、澠池附近にまできて駐軍しているなどの大事を、知らないでいる筈はない。
「さてこそ」と、彼らはあわてながらも対策を講ずるに急だった。そこで張譲らはひそかに手配にかかり、刀斧鉄弓をたずさえた禁中の兵を、嘉徳門や長楽宮の内門にまでみっしり伏せておいて、何太后をだまし何進を召すの親書を書かせた。
宮門を出た使者は平和時のように、わざと美車金鞍をかがやかせ、なにも知らぬ顔して、書を何進の館門へとどけた。
「いけません」
何進の側臣たちは、即座に十常侍らの陥穽を看破って諫めた。
「太后の御詔とて、この際、信用はできません。危ない限りです。一歩もご門外に出ることはなさらぬほうが賢明です」
こういわれると、それに対して自分にない器量をも見せたいのが何進の病であった。
「なにをいう。宮中の病廃を正し、政権の正大を期し、やがては天下に臨まんとするこの何進である。十常侍らの輩が我に何かせん。彼らごとき廟鼠輩を怖れて、何進門を閉ざせりと聞えたら天下の英雄どもも、かえって予を見くびるであろう」
変にその日は強がった。
すぐ車騎の用意を命じ、その代り鉄甲の精兵五百に、物々しく護衛させて、参内に出向いた。果たせるかな、青鎖門まで来ると、
「兵馬は禁門に入ることならん。門外にて待ちませい」
と隔てられ、何進は、数名の従者だけつれて入った。それでも彼は傲然、胸をそらし、威風を示して歩いて行ったが、嘉徳門のあたりまでかかると、
「豚殺し待てっ」
と、物陰から呶鳴られて、あっとたじろぐ間に、前後左右、十常侍一味の軍士たちに取巻かれていた。
躍りでた張譲は、
「何進っ、汝は元来、洛陽の裏町に、豚を屠殺して、からくも生きていた貧賤ではなかったか。それを、今日の栄位まで昇ったのは、そもそも誰のおかげと思うか。われわれが陰に陽に、汝の妹を天子に薦め奉り、汝をも推挙したおかげであるぞ。――この恩知らずめ!」と、面罵した。
何進は、真ッ蒼になって、
「しまった!」
と口走ったが、時すでに遅しである。諸所の宮門はみな閉ざされ、逃げまわるにも刀斧鉄槍、身を囲んで、一尺の隙もなかった。
「――わッっ。だっ!」
何進はなにか絶叫した。空へでも飛び上がってしまう気であったか、躍り上がって、体を三度ほどぐるぐるまわした。張譲は、跳びかかって、
「下郎っ。思い知ったか」
と、真二つに斬りさげた。
青鎮門外ではわいわいと騒がしい声が起っていた。なにかしら宮門の中におかしな空気を感じだしたものとみえ、
「何将軍はまだ退出になりませんか」
「将軍に急用ができましたから、早くお車に召されたいと告げて下さい」
などと喚いて動揺しているのであった。
すると、城門の墻壁の上から、武装の宮兵が一名首を出して、
「やかましいッ。鎮まれ。汝らの主人何進は、謀叛のかどによって査問に付せられ、ただ今、かくの如く罪に服して処置は終った。これを車にのせて立帰れっ」
なにか蹴鞠ほどな黒い物がそこからほうられてきたので、外にいた面々は、急いで拾い上げてみると、唇を噛んだ蒼い何進の生首であった。