天颷

天颷

 董太師、郿塢へ還る。――と聞えたので、長安の大道は、拝跪する市民と、それを送る朝野の貴人で埋まっていた。
 呂布は、家にあったが、
「はてな?」
 窓を排して、街の空をながめていた。
「今日は、日も吉いから、貂蝉を送ろうと、李儒は云ったが?」
 車駕の轣音や馬蹄のひびきが街に聞える、巷のうわさは嘘とも思えない。
「おいっ、馬を出せっ、馬を」
 呂布は、厩へ馳け出して呶鳴った。
 飛びのるが早いか、武士も連れず、ただ一人、長安のはずれまで鞭打った。そこらはもう郊外に近かったが、すでに太師の通過と聞えたので、菜園の媼も、畑の百姓も、往来の物売りや旅芸人などまで、すべて路傍に草の如く伏していた。
 呂布は、丘のすそに、駒を停めて、大樹の陰にかくれてたたずんでいた。そのうちに車駕の列が蜿蜒と通って行った。
 ――見れば、金華の車蓋に、簾の揺れ鳴る一車がきしみ通って行く。四方翠紗の籠屏の裡に、透いて見える絵の如き人は貂蝉であった。――貂蝉は、喪心しているもののように、うつろな容貌をしていた。
 ふと、彼女の眸は、丘のすそを見た。そこには、呂布が立っていた。――呂布は、われを忘れて、オオと、馳け寄らんばかりな容子だった。
 貂蝉は、顔を振った。その頬に、涙が光っているように見えた。――前後の兵馬は、畑土を馬蹄にあげて、たちまち、その姿を彼方へ押しつつんでしまった。
「…………」
 呂布は、茫然と見送っていた。――李儒の言は、ついに、偽りだったと知った。いや、李儒に偽りはないが、董卓が、頑として、貂蝉を離さないのだと思った。
「……泣いていた、貂蝉も泣いていた。どんな気もちで郿塢の城へいったろう」
 彼は、気が狂いそうな気がしていた。沿道の百姓や物売りや旅人などが、そのせいか、じろじろと彼を振向いてゆく。呂布の眼はたしかに血走っていた。
「や、将軍。……こんな所で、なにをぼんやりしているんですか」
 白い驢を降りて、彼のうしろからその肩を叩いた人がある。
 呂布は、うつろな眼を、うしろへ向けたが、その人の顔を見て、初めてわれにかえった。
「おう、あなたは王司徒ではないか」
 王允は、微笑して、
「なぜ、そんな意外な顔をなされるのか。ここはそれがしの別業の竹裏館のすぐ前ですのに」
「ああ、そうでしたか」
「董太師が郿塢へお還りと聞いたので、門前に立ってお見送りしたついでに、一巡りしようかと驢を進めて来たところです。――将軍は、何しに?」
王允、何しにとは情けない。其許がおれの苦悶をご存じないはずはないが」
「はて。その意味は」
「忘れはしまい。いつか貴公はこの呂布に、貂蝉を与えると約束したろう」
「もとよりです」
「その貂蝉は老賊に横奪りされたまま、今なお呂布をこの苦悩に突きおとしているではないか」
「……その儀ですか」
 王允は、急に首を垂れて、病人のような嘆息をもらした。
「太師の所行はまるで禽獣のなされ方です。わたくしの顔を見るたびに、近日、呂布の許へ貂蝉は送ると、口ぐせのようにいわるるが、今もって、実行なさらない」
「言語道断だ。今も、貂蝉は、車のうちで泣いて行った」
「ともかく、ここでは路傍ですから……、そうだ、ほど近い私の別業までお越し下さい。篤と、ご相談もありますから」
 王允は、慰めて、白驢に乗って先へ立った。

 そこは長安郊外の、幽邃な別業であった。
 呂布は、王允に誘われて、竹裏館の一室へ通されたが、酒杯を出されても、沈湎として、溶けぬ忿怒にうな垂れていた。
「いかがです、おひとつ」
「いや、今日は」
「そうですか。では、あまりおすすめいたしません。心の楽しまぬ時は、酒を含んでも、いたずらに、口にはにがく、心は燃えるのみですから」
王司徒」
「はい」
「察してくれ……。呂布は生れてからこんな無念な思いは初めてだ」
「ご無念でしょう。けれど、私の苦しみも、将軍に劣りません」
「おぬしにも悩みがあるか」
「あるか――どころではないでしょう。折角、将軍の室へ娶っていただこうと思ったわが養女を、董太師に汚され、あなたに対しては、義を欠いている。――また、世間は将軍をさして、わが女房を奪われたる人よ、と蔭口をきくであろうと、わが身に誹りを受けるより辛く思われます」
「世間がおれを嘲うと!」
「董太師も、世の物笑いとなりましょうが、より以上、天下の人から笑い辱められるのは、約束の義を欠いた私と、将軍でしょう。……でもまだ私は老いぼれのことですから、どうする術もあるまいと、人も思いましょうが、将軍は一世の英雄でありまた、お年も壮んなのに、なんたる意気地のない武士ぞといわれがちにきまっています。……どうぞ、私の罪を、おゆるし下さい」
 王允がいうと、
「いや、貴下の罪ではない!」
 呂布は、憤然、床を鳴らして突っ立ったかと思うと、
王司徒、見ておれよ。おれは誓って、あの老賊をころし、この恥をそそがずにはおかぬから」
 王允は、わざと仰山に、
「将軍、卒爾なことを口走り給うな。もし、そのようなことが外へ洩れたら、お身のみか、三族を亡ぼされますぞ」
「いいや、もうおれの堪忍もやぶれた。大丈夫たる者、豈鬱々として、この生を老賊の膝下に屈んで過そうや」
「おお、将軍。今の僭越な諫言をゆるして下さい。将軍はやはり稀世の英邁でいらっしゃる。常々ひそかに、将軍の風姿を見ておるに、古の韓信などより百倍も勝れた人物だと失礼ながら慕っていました。韓信だに、王に封ぜられたものを、いつまで、区々たる丞相府の一旗下で居たまうわけはない……」
「ウーム、だが……」
 呂布は牙を噛んで呻いた。
「――今となって、悔いているのは、老賊の甘言にのせられて、董卓と義父養子の約束をしてしまったことだ。それさえなければ、今すぐにでも、事を挙げるのだが、かりそめにも、義理の養父と名のついているために、おれはこの憤りを抑えておるのだ」
「ほほう……。将軍はそんな非難を怖れていたんですか。世間は、ちっとも知らないことですのに」
「なぜ」
「でも、でも、将軍の姓は呂、老賊の姓は董でしょう。聞けば、鳳儀亭で老賊は、あなたの戟を奪って投げつけたというじゃありませんか。父子の恩愛がないことは、それでも分ります。ことに、未だに、老賊が自分の姓を、あなたに名乗らせないのは、養父養子という名にあなたの武勇を縛っておくだけの考えしかないからです」
「ああ、そうか。おれはなんたる智恵の浅い男だろう」
「いや、老賊のため、義理に縛られていたからです。今、天下の憎む老賊を斬って、漢室を扶け、万民へ善政を布いたら、将軍の名は青史のうえに不朽の忠臣としてのこりましょう」
「よしっ、おれはやる。必ず、老賊を馘ってみせる」
 呂布は、剣を抜いて、自分の肘を刺し、淋漓たる血を示して、王允へ誓った。

 呂布の帰りを門まで送って出ながら、王允は、そっとささやいた。
「将軍、きょうのことは、ふたりだけの秘密ですぞ。誰にも洩らして下さるな」
「もとよりのことだ。だが大事は、二人だけではできないが」
「腹心の者には明かしてもいいでしょう。しかし、この後は、いずれまた、ひそかにお目にかかって相談しましょう」
 赤兎馬にまたがって、呂布は帰って行った。王允は、その後ろ姿を見送って、
 ――思うつぼに行った。
 と独りほくそ笑んでいた。
 その夜、王允はただちに、日頃の同志、校尉黄琬、僕射士孫瑞の二人を呼んで、自分の考えをうちあけ、
呂布の手をもって、董卓を討たせる計略だが、それを実現するに、何かよい方法があるまいか」
 と、計った。
「いいことがあります」と、孫瑞がいった。
「天子には、先頃からご不予でしたが、ようやく、この頃ご病気も癒えました。ついては、詔と称し、偽の勅使を郿塢の城へつかわして、こういわせたらよいでしょう」
「え。偽勅の使いを?」
「されば、それも天子の御為ならば、お咎めもありますまい」
「そしてどういうのか」
「天子のおことばとして――朕病弱のため帝位を董太師に譲るべしと、偽りの詔を下して彼を召されるのです。董卓はよろこんで、すぐ参内するでしょう」
「それは、餓虎に生餌を見せるようなものだ。すぐ跳びついてくるだろう」
「禁門に力ある武士を大勢伏せておいて、彼が、参内する車を囲み、有無をいわせず誅戮してしまうのです。――呂布にそれをやらせれば、万に一つものがす気遣いはありません」
「偽勅使には誰をやるか」
李粛が適任でしょう。私とは同国の人間で、気性も分っていますから、大事を打明けても、心配はありません」
「騎都尉の李粛か」
「そうです」
「あの男は、以前、董卓に仕えていた者ではないか」
「いや、近頃勘気をうけて、董卓の扶持を離れ、それがしの家に身を寄せています。なにか、董卓にふくむことがあるらしく、怏々として浮かない日を過しているところですから、よろこんでやりましょうし、董卓も、以前目をかけていた男だけに、勅使として来たといえば、必ず心をゆるして、彼の言を信じましょう」
「それは好都合だ。早速、呂布に通じて、李粛と会わせよう」
 王允は、翌晩、呂布をよんで、云々と、策を語った。――呂布は聞くと、
李粛なら自分もよく知っている。そのむかし赤兎馬をわが陣中へ贈ってきて、自分に、養父の丁建陽を殺させたのも、彼のすすめであった。――もし李粛が、嫌のなんのといったら、一刀のもとに斬りすててしまう」と、いった。
 深夜、王允呂布は、人目をしのんで、孫瑞の邸へゆき、そこに食客となっている李粛に会った。
「やあ、しばらくだなあ」
 呂布はまずいった。李粛は、時ならぬ客に驚いて唖然としていた。
李粛。貴公もまだ忘れはしまいが、ずっと以前、おれが養父丁原と共に、董卓と戦っていた頃、赤兎馬や金銭をおれに送り、丁原に叛かせて、養父を殺させたのは、たしか貴公だったな」
「いや、古いことになりましたね。けれど一体、何事ですか、今夜の突然のお越しは」
「もう一度、その使いを、頼まれて貰いたいのだ。しかし、こんどは、おれから董卓のほうへやる使いだが」
 呂布は、李粛のそばへ、すり寄った。そして、王允に仔細を語らせて、もし李粛が不承知な顔いろを現したら、即座に斬って捨てんとひそかに剣を握りしめていた。

 ふたりの密謀を聞くと、李粛は手を打って、
「よく打明けて下すった。自分も久しく董卓を討たんとうかがっていたが、めったに心底を語る者もないのを恨みとしていたところでした。善哉善哉、これぞ天の助けというものだろう」
 と喜んで、即座に、誓いを立てて荷担した。
 そこで三名は、万事を諜しあわせて、その翌々日、李粛は二十騎ほど従えて郿塢の城へおもむき、
「天子、李粛をもって、勅使として降し給う」と、城門へ告げた。
 董卓は、何事かと、直ぐに彼を引いて会った。
 李粛は恭しく、拝をなして、
「天子におかれては、度々のご不予のため、ついに、太師へ御位を譲りたいとご決意なされました。どうか天下の為、すみやかに大統をおうけあって、九五の位にお昇りあるよう。今日の勅使は、その御内詔をお伝えに参ったわけです」
 そういって、じっと董卓の面を見ていると、つつみきれぬ喜びに、彼の老顔がぱっと紅くなった。
「ほ。……それは意外な詔だが、しかし、朝臣の意向は」
「百官を未央殿にあつめ給い、僉議も相すみ、異口同音、万歳をとなえて、一決いたした結果です」
 聞くと、董卓は、いよいよ眼を細めて、
「司徒王允は、何といっておるかの」
王司徒は、よろこびに堪えず、受禅台を築いて、早くも、太師の即位を、お待ちしているふうです」
「そんなに早く事が運んでいるとは驚いた。ははは。……道理で思い当ることがある」
「なんですか。思い当ることとは」
「先頃、夢を見たのじゃ」
「夢を」
「むむ。巨龍雲を起して降り、この身に纏うと見て目がさめた」
「さてこそ、吉瑞です。一刻も早く、車をご用意あって、朝へ上り、詔をおうけなされたがよいと思います」
「この身が帝位についたら、そちを執金吾に取立てて得させよう」
「必ず忠誠を誓います」
 李粛が、再拝しているまに、董卓は、侍臣へ向って、車騎行装の支度を命じた。
 そして彼は、馳けこむように、貂蝉の住む一閣へ行って、
「いつか、そなたに云ったことがあろう。わしが帝位に昇ったら、そなたを貴妃として、この世の栄華を尽させんと。とうとうその日が来た」と、早口に云った。
 貂蝉は、チラと、眼をかがやかしたが――すぐ無邪気な表情をして、
「まあ。ほんとですか」と、狂喜してみせた。
 董卓はまた、後堂から母をよび出して、事の由をはなした。彼の母はすでに年九十の余であった。耳も遠く眼もかすんでいた。
「……なんじゃ。俄に、どこへ行くというのかの」
「参内して、天子の御位をうけるのです」
「誰がの?」
「あなたの子がです」
「おまえがか」
「ご老母。あなたも、いい伜を持ったお蔭で、近いうちに、皇太后と敬われる身になるんですぞ。嬉しいと思いませんか」
「やれやれ。わずらわしいことだのう」
 九十余歳の老媼は、上唇をふるわせて、むしろ悲しむが如く、天井を仰いだ。
「あははは、張合いのないものだな」
 董卓は、嘲りながら、濶歩して一室へかくれ、やがて盛装をこらして車に打乗り、数千の精兵に前後を護られて郿塢山を降って行った。

人間燈

 蜿蜒と行列はつづいた。
 幡旗に埋められて行く車蓋、白馬金鞍の親衛隊、数千兵の戟の光など、威風は道を掃い、その美しさは眼もくらむばかりだった。
 すでに十里ほど進んで来ると、車の中の董卓は、ガタッと大きく揺すぶられたので、
「どうしたのだっ」と、咎めた。
「お車の輪が折れました」と、侍臣が恐懼して云った。
「なに。車の輪が折れた」
 彼は、ちょっと機嫌を曇らし、
「沿道の百姓どもが、道の清掃を怠って、小を残しておいたからだろう。見せしめのため、村長を馘れ」
 彼は、傾いた車を降りて、逍遥玉面というべつな車馬へ乗りかえた。
 そしてまた、六、七里も来たかと思うと、こんどは馬が暴れいなないて、轡を切った。
李粛李粛」と、金簾のうちから呼んで、彼は怪しみながら訊ねた。
「車の輪が折れたり、馬が轡を噛み切ったり、これは一体、どういうわけだろう」
「お気にかけることはありません。太師が、帝位に即き給うので、旧きを捨て新しきに代る吉兆です」
「なるほど。明らかな解釈だ」
 董卓はまた、機嫌を直した。
 途中、一宿して、翌日は長安の都へかかるのだった。ところがその日は、めずらしく霧がふかく、行列が発する頃から狂風が吹きまくって、天地は昏々と暗かった。
李粛。この天相は、なんの瑞祥だろうか」
 事毎に、彼は気に病んだ。
 李粛は笑って、
「これぞ、紅光紫霧の賀瑞ではありませんか」と、太陽を指した。
 簾の陰から、雲を仰ぐと、なるほど、その日の太陽には、虹色の環がかかっていた。
 やがて長安の外城を通り、市街へ進み入ると、民衆は軒を下ろし、道にかがまり、頭をうごかす者もない。
 王城門外には、百官が列をなして出迎えていた。
 王允淳于瓊、黄琬皇甫嵩なども、道の傍に、拝伏して、
「おめでとう存じあげます」と、慶賀を述べ、臣下の礼をとった。
 董卓は、大得意になって、
「相府にやれ」と、車の馭官へ命じた。
 そして丞相府にはいると、
「参内は明日にしよう。すこし疲れた」と、いった。
 その日は、休憩して、誰にも会わなかったが、王允だけには会って、賀をうけた。
 王允は、彼に告げて、
「どうか、こよいは悠々身心をおやすめ遊ばして、明日は斎戒沐浴をなし、万乗の御位を譲り受け給わらんことを」と、祷って去った。
「ご気分はいかがです」と、誰かその後から帳をうかがう者があった。
 呂布であった。
 董卓は、彼を見ると、やはり気強くなった。
「オオ、いつもわしの身辺を護っていてくれるな」
「大事なお体ですから」
「わしが位についたら、そちには何をもって酬いようかな。そうだ、兵馬の総督を任命してやろう」
「ありがとうございます」
 呂布は、常のように戟を抱え、彼の室外に立って、夜もすがら忠実に護衛していた。

 その夜は、さすがに彼も、婦女を寝室におかず、眠りの清浄を守った。
 けれど、明日は、九五の位をうける身かと思うと、心気昂ぶって、容易に眠りつけない様子だった。
 ――と、室の外を。
 戛。戛。
 と、誰か歩く靴音がする。
 むくと、身を起し、
「誰かっ」と咎めると、帳の外に、まだ起きていた李粛が、
呂布が見廻っているのです」と、答えた。
呂布か……」
 そう聞くと、彼はすっかり安心してかすかに鼾をかき始めたが、また、眼をさまして、しきりと、耳をそばだてている。
 ――遠く、深夜の街に、子どもらの謡う童歌が聞えた。

青々、千里の草も
眼に青けれど
運命の風ふかば
十日の下は
生き得まじ

 風に漂ってくる歌声は、深沈と夜をながれて、いかにも哀切な調子だった。
 彼は、それが耳について、
李粛」と、また呼んだ。
「は。まだお目をさましておいででしたか」
「あの童謡は、どういう意味だろう。なんだか、不吉な歌ではないか」
「その筈です」
 李粛は、でたらめに、こう解釈を加えて、彼を安心させた。
「漢室の運命の終りを暗示しているんですから。――ここは長安の帝都、あしたから帝が代るのですから、無心な童謡にも、そんな予兆が現れないわけはありません」
「なるほど。そうか……」
 憐れむべし、彼はうなずいて、ほどなく昏々と、ふかい鼾の中に陥ちた。
 後に思えば。
 童謡の「千里の草」というのは「董」の字であり、「十日の下」とは卓の字のことであった。

千里
何青々
十日下
猶不生

 と街に歌っていた声は、すでに彼の運命を何者かが嘲笑していた暗示だったのであるが、李粛の言にあやされて、さしもの奸雄も、それはわが身ならぬ漢室のことだと思っていたのである。
 朝の光は、彼の枕辺に映しこぼれてきた。
 董卓は、斎戒沐浴した。
 そして、儀仗をととのえ、きのうに勝る行装をこらして、朝霧のうすく流れている宮門へ向って進んでゆくと、一旒の白旗をかついで青い袍を着た道士が、ひょこり道を曲ってかくれた。
 その白旗に、口の字が二つ並べて書いてあった。
「なんじゃ、あれは」
 董卓が、李粛へ問うと、
「気の狂った祈祷師です」と、彼は答えた。
 口の字を二つ重ねると「呂」の字になる。董卓はふと、呂布のことが気になった。鳳儀亭で貂蝉と密会していた彼のすがたが思い出されていやな気もちになった。
 ――と、もうその時、儀杖の先頭は、宮中の北掖門へさしかかっていた。

 禁門の掟なので、董卓も、儀仗の兵士をすべて、北掖門にとどめて、そこから先は、二十名の武士に車を押させて、禁廷へ進んだ。
「やっ?」
 董卓は、車の内でさけんだ。
 見れば、王允黄琬の二人が、剣を執って、殿門の両側に立っているではないか。
 彼は、何か異様な空気を感じたのであろう。突然、
李粛李粛。――彼らが、抜剣して立っているのは如何なるわけか」
 と、呶鳴った。
 すると、李粛は車の後ろで、
「されば、閻王の旨により、太師を冥府へ送らんとて、はや迎えに参っているものとおぼえたりっ」
 と、大声で答えた。
 董卓は、仰天して、
「な、なんじゃと?」
 膝を起そうとした途端に、李粛は、それっと懸け声して、彼の車をぐわらぐわらと前方へ押し進めた。
 王允は、大音あげて、
郿塢の逆臣が参ったり、出でよっ、武士どもっ」
 声を合図に――
「おうっ」
「わあっ」
 馳け集まった御林軍の勇兵百余人が、車を顛覆えして、董卓を中からひきずり出し、
「賊魁ッ」
「この大奸」
「うぬっ」
「天罰」
「思い知れや」
 無数の戟は、彼の一身へ集まって、その胸を、肩を、頭を滅多打ちに突いたり斬り下げたりしたが、かねて要心ぶかい董卓は、刃もとおさぬ鎧や肌着に身をかためていたので、多少血しおにはまみれてもなお、致命傷には至らなかった。
 巨体を大地に転ばせながら、彼はその間に絶叫を放っていた。
「――呂布っ、呂布ッ。――呂布はあらざるかっ、義父の危難を助けよ」
 すると、呂布の声で、
「心得たり」と、聞えたと思うと、彼は画桿の大戟をふりかぶって、董卓の眼前に躍り立ち、「勅命によって逆賊董卓を討つ」と、喚くや否、真っ向から斬り下げた。
 黒血は霧のごとく噴いて、陽も曇るかと思われた。
「うッ――むっ。……おのれ」
 戟はそれて、右の臂を根元から斬り落したにすぎなかった。
 董卓は、朱にそまりながら、はったと呂布をにらんで、まだなにか叫ぼうとした。
 呂布は、その胸元をつかんで、
「悪業のむくいだ」と罵りざま、ぐざと、その喉を刺しつらぬいた。
 禁廷の内外は、怒濤のような空気につつまれたが、やがて、それと知れ渡ると、
「万歳っ」
 と、誰からともなく叫びだし、文武百官から厩の雑人や、衛士にいたるまで、皆万歳万歳を唱え合い、その声、そのどよめきは、小半刻ほど鳴りもやまなかった。
 李粛は、走って、董卓の首を打落し、剣尖に刺して高くかかげ、呂布はかねて王允から渡されていた詔書をひらいて、高台に立ち、
「聖天子のみことのりにより、逆臣董卓を討ち終んぬ。――その余は罪なし、ことごとくゆるし給う」
 と、大音で読んだ。
 董卓、ことし五十四歳。
 千古に記すべきその日その年、まさに漢の献帝が代の初平三年壬申、四月二十二日の真昼だった。

 大奸を誅して、万歳の声は、禁門の内から長安の市街にまで溢れ伝わったが、なお、
「このままではすむまい」
「どうなることか」と、戦々兢々たる人心の不安は去りきれなかった。
 呂布は、云った。
「今日まで、董卓のそばを離れず、常に、董卓の悪行を扶けていたのは、あの李儒という秘書だ。あれは生かしておけん」
「そうだ。誰か行って、丞相府から李儒を搦め捕って来い」
 王允が命じると、
「それがしが参ろう」
 李粛は答えるや否、兵をひいて、丞相府へ馳せ向った。
 すると、その門へ入らぬうちに、丞相府の内から、一団の武士に囲まれて、悲鳴をあげながら、引きずり出されて来るあわれな男があった。
 見ると、李儒だった。
 丞相府の下部たちは、
「日頃、憎しと思う奴なので、董太師が討たれたりと聞くや否、かくの如く、われわれの手で搦め、これから禁門へつきだしに行くところでした。どうか、われわれには、お咎めなきよう、お扱いねがいます」と、訴えた。
 李粛は、なんの労もなく、李儒を生擒ったので、すぐ引っさげて、禁門に献じた。
 王允は、直ちに、李儒の首を刎ねて、
「街頭に梟けろ」と、それを刑吏へ下げた。
 なお、王允がいうには、
郿塢の城には、董卓の一族と、日頃養いおいた大軍がいる。誰か進んでそれを掃討してくれる者はいないか」
 すると、声に応じて、「それがしが参る」と、真っ先に立った者がある。
 呂布であった。
呂布ならば」と、誰も皆、心にゆるしたが、王允は、李粛皇甫嵩にも、兵をさずけ、約三万余騎の兵が、やがて郿塢へさして下って行った。
 郿塢には、郭汜張済李傕などの大将が一万余の兵を擁して、留守を護っていたが、
「董太師には、禁廷において、無残な最期を遂げられた」
 との飛報を聞くと、愕然、騒ぎだして、都の討手が着かないうちに、総勢、涼州方面へ落ちてしまった。
 呂布は、第一番に、郿塢の城中へ乗込んだ。
 彼は、何者にも目をくれなかった。
 ひたむきに、奥へ走った。
 そして、秘園の帳内を覗きまわって、
貂蝉っ、貂蝉っ……」
 と、彼女のすがたを血眼で捜し求めた。
 貂蝉は、後堂の一室に、黙然とたたずんでいた。呂布は、走りよって、
「おいっ、歓べ」と、固く抱擁しながら、物いわぬ体を揺すぶった。
「うれしくないのか。あまりのうれしさに口もきけないのか。貂蝉、おれはとうとうやったよ。董卓を殺したぞ。これからは二人も晴れて楽しめるぞ。さあ、怪我をしては大変だ。長安へお前を送ろう」
 呂布はいきなり彼女の体を引っ抱えて、後堂から走り出した。城内にはもう皇甫嵩や李粛の兵がなだれ入って、殺戮、狼藉、放火、奪財、あらゆる暴力を、抵抗なき者へ下していた。
 金銀玉や穀倉やその他の財物に目を奪われている味方の人間どもが、呂布には馬鹿に見えた。
 彼は、貂蝉をしかと抱いて、乱軍の中を馳け出し、自分の金鞍に乗せて、一鞭、長安へ帰って来た。

 郿塢城の大奥には、貂蝉のほかにも良家の美女八百余人が蓄えられてあった。
 繚乱の百花は、暴風の如く、馳け入る兵に踏み荒され、七花八裂、狼藉を極めた。
 皇甫嵩は、部下の兵が争うて奪うにまかせ、なお、
董卓が一族は、老幼をわかたず、一人残らず斬り殺せ」と、厳命した。
 董卓の老母で今年九十幾歳という媼は、よろめき出て、
「扶け給え」と、悲鳴をあげながら、皇甫嵩の前へひれ伏したが、ひとりの兵が跳びかかったかと見るまにその首はもう落ちていた。
 わずか半日のまに、誅殺された一族の数は男女千五百余人に上ったという。
 それから金蔵を開いてみると、十庫の内に黄金二十三万斤、白銀八十九万斤が蓄えられてあった。また、そのほかの庫内からも金繍綾羅、翠珍宝、山を崩して運ぶ如く、続々と城外へ積み出された。
 王允は、長安から命を下して、
「すべて、長安へ移せ」と、いいつけた。
 また、穀倉の処分は、「半ばを百姓に施し、半ばは官庫に納むべし」と、命令した。
 その米粟の額も八百万という大量であった。
 長安の民は賑わった。
 董卓が殺されてからは、天の奇瑞か、自然の暗合か、数日の黒霧も明らかに霽れ、風は熄んで地は和やかな光に盈ち、久しぶりに昭々たる太陽を仰いだ。
「これから世の中がよくなろう」
 彼らは、他愛なく歓び合った。
 城内、城外の百姓町人は、老いも若きも、男も女も祭日のように、酒の瓶を開き、餅を作り軒に彩聯を貼り、神に燈明を灯し、往来へ出て、夜も昼も舞い謡った。
「平和が来た」
「善政がやって来よう」
「これから夜も安く眠られる」
 そんな意味の詞を、口々に唄い囃して、銅鑼をたたいて廻った。
 すると彼らは、街頭に曝してあった董卓の死骸に群れ集まって、
董卓董卓だ」と、騒いだ。
「きょうまで、おれ達を苦しめた張本人」
「あら憎や」
 首は足から足へ蹴とばされ、また首のない屍の臍に蝋燭をともして手をたたいた。
 生前、人いちばい肥満していた董卓なので、膏が煮えるのか、臍の燈明は、夜もすがら燃えて朝になってもまだ消えなかったということである。
 また。
 董卓の弟の董旻、兄の子の董璜のふたりも、手足を斬られて、市に曝された。
 李儒は、董卓のふところ刀と日頃から憎しみも一倍強くうけていた男なので、その最期は誰よりも惨たるものだった。
 こうして、ひとまず誅滅も片づいたので、王允は一日、都堂に百官をあつめて慶びの大宴を張った。
 するとそこへ、一人の吏が、
「何者か、董卓の腐った屍を抱いて、街路に嘆いている者があるそうです」
 と、告げて来たので、すぐ引っ捕えよと命じると、やがて縛られて来たのは、侍中蔡邕であったから人々はみなびっくりした。
 蔡邕は、忠孝両全の士で、また曠世の逸才といわれる学者だった。だが、彼もただ一つ大きな過ちをした。それは董卓を主人に持ったことである。
 人々は、彼の人物を惜しんだが、王允は獄に下して、免さなかった。そのうちに何者かのために獄の中で縊め殺されてしまった。彼ばかりか、こういう惜しむべき人間もまた、幾多犠牲になったことか知れないであろう。

 都堂の祝宴にも、ただひとり顔を見せなかった大将がある。
 呂布であった。
「微恙のため」と断ってきたが、病気とも思われない。
 長安の市民が七日七夜も踊り狂い、酒壺を叩いて、董卓の死を祝している時、彼は、門を閉じて、ひとり慟哭していた。
貂蝉貂蝉っ……」
 それは、わが家の後園を、狂気のごとく彷徨いあるいている呂布の声だった。
 そして、小閣の内へかくれると、そこに横たえてある貂蝉の冷たい体を抱きあげてはまた、「なぜ死んだ」と、頬ずりした。
 貂蝉は、答えもせぬ。
 彼女は、郿塢城の炎の中から、呂布の手にかかえられて、この長安へ運ばれ、呂布の邸にかくされていたが、呂布がふたたび戦場へ出て行った後で、ひとり後園の小閣にはいって、見事、自刃してしまったのである。
「もう貂蝉も、おれのものだ。はれておれの妻となった」
 やがて帰って来た呂布は、それまでの夢を打破られてしまった。
 貂蝉の自殺が、
「なぜ死んだか」
 彼には解けなかった。
「――貂蝉は、あんなにも、おれを想っていたのに。おれの妻となるのを楽しんでいたのに」
 と思い迷った。
 貂蝉は、何事も語らない。
 だが、その死顔には、なんの心残りもないようであった。
 ――すべきことを為しとげた。
 微笑の影すら唇のあたりに残っているように見えた。
 彼女の肉体は獣王の犠牲にひとたびは供されたが、今は彼女自身のものに立ち返っていた。天然の麗質は、死んでからよけいにのごとく燦いていた。死屍の感はすこしもなく、生けるように美しかった。
 呂布の煩悩は、果てしなく醒めなかった。彼の一本気は、その煩悩まで単純であった。
 きのうも今宵も、彼は飯汁も喉へ通さなかった。夜も、後園の小閣に寝た。
 月は晦い。
 晩春の花も黒い。
 懊悩の果て、彼は、貂蝉の胸に、顔を当てたままいつか眠っていた。ふと眼がさめると、深夜の気はひそとして、闇の窓から月がさしていた。
「おや、何か?」
 彼は、貂蝉の肌に秘められていた鏡嚢を見つけて、何気なく解いた。中には、貂蝉が幼少から持っていたらしい神符札やら麝香などがはいっていた。それと、一葉の桃花箋に詩を書いたものが小さく折りたたんであった。
 詩箋は麝香に染みて、名花の芯をひらくような薫りがした。貂蝉の筆とみえ、いかにも優しい文字である。呂布は詩を解さないが、何度も読んでいるうちに、その意味だけは分った。

女の皮膚は弱いというが
鏡にかえて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすすんで荊棘へ入る
父母以上の恩に報いる為に
またそれが国の為と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
匕首を秘めて獣王へ近づき
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一盞にわれを仆しぬ
聞ゆ――今、死の耳に
長安の民が謡う平和の歓び
われを呼ぶ天上の迦陵頻伽の声

「あ……あっ。では……?」
 呂布もついに覚った。貂蝉の真の目的が何にあったかを知った。
 彼は、貂蝉の死体を抱えて、いきなり馳け出すと、後園の古井戸へ投げこんでしまった。それきり貂蝉のことはもう考えなかった。天下の権を握れば、貂蝉ぐらいな美人はほかにもあるものと思い直した容子だった。

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