蜀呉修交

 要するに、陸遜の献策は。
 一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨を結ばず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う。
 ということであった。
 呉の方針は、それを旨として、以後、軍は進めて、あえて戦わず、ただ諸方へ細作を放って、ひたすら情報をあつめ、蜀魏両軍の戦況をうかがっていた。
 ――と、果たせるかな、四路の魏軍は、曹丕の目算どおり有利には進展していない。まず、遼東勢は西平関を境として、蜀の馬超に撃退されている模様だし、南蛮勢は、益州南方で蜀軍の擬兵の計に遭って潰乱し、上庸の孟達はうそかほんとか病と称して動かず、中軍曹真もまた敵の趙雲に要害を占められて、陽平関も退き、斜からも退き、まったく総敗軍の実状であると伝えられた。
「……ああ、実によかった。もし陸遜のことばを容れずに、呉が進んでいたら、わが呉の苦境に至ったことは想像にも余りあるものだった。まさに、陸遜の先見は、神算というものであった」
 孫権も、今となっては、心から僥倖を祝して、その善言を献じた陸遜に対して、いよいよ信頼を加えた。
 ところへ、蜀の国から鄧芝という者が使者として来たことが披露された。
 張昭は、孫権に云った。
「これはかならず孔明の意中をふくんで来た者にちがいありません」
「どう待遇するか」
「まず、その使者を、試みてごらんなさい。どんな人物か。彼の申し出でに、どう答えるかは、その上でよいでしょう」
 孫権は、武士に命じて、殿前の庭に、大きな鼎をすえさせた。それへ数百斤の油をたたえ、薪を積んで、ふつふつと沸らせた。
「蜀使を通せ」
 孫権は群臣と共に、階を隔てて傲然と待ちかまえる。千余人の武士は、階下から宮門にいたるまで、戟、戈、鎗、斧などを晃々と連ねて並列していた。
 この日、客館を出て、初めて宮門へ導かれた鄧芝は、至極粗末な衣冠をつけ、元来風采もあがらない男なので、供の者かと間違われるほど、威儀も作らず簡単に案内のあとからついて来た。
 が、この男、呉宮城内に満つる剣槍にも、少しもおそれる色がないし、大釜に煮え立っている油の焔を見ても、ほとんど何らの感情もあらわさない。ただ、階下へ来るとニコとして、孫権の座壇を振り仰いでいた。孫権は、簾を巻かせて、見おろすや否、大喝して、
「わが前に来て、拝を執らないやつは、どこの何者だ」
 と、叱った。
 鄧芝は昂然と、なお突っ立ったままで、
「上国の勅使は、小邦の国主に拝をしないのが慣いである」
 孫権は、その顔を、油の鼎のようにして、
「小癪なやつ。汝、三寸の舌をもって、酈食其が斉王を説いた例にでもならおうとするのか。あわれむべき奴。たとえ汝にいにしえの随何や陸賈のごとき弁ありとも、やわかこの孫権の心をうごかし得べきか。帰れ帰れ」
「ははは。あははは」
「匹夫、何を笑う?」
「呉には豪傑も多く賢人も星の如しと聞いていたが、何ぞ知らん、一人の儒者を、これほど怖れようとは」
「だまれ、誰が汝ごときを怖るるか」
「ではなぜそれがしの舌を憂い給うか」
「汝を用いるは孔明である。はかるに孔明は、使いをもって、わが呉と魏のあいだを裂き、代るに、呉と蜀との旧交をあたためんとするものであろうが」
「臣はかりそめにも蜀帝国の御使いであり、また蜀中より選ばれたる第一の使臣たり儒者たるもの。迎うるに、剣槍の荊路を以てし、饗するに、大釜の煮え油を以てするとは、何事であるか。呉王を初め建業城中の臣下には、よくこの一人の使いを容れる器量をお持ちなきか。まことに、案外なことであった……」
 憮然としていうと、さすがに衆臣も恥じ、孫権もやや自分の小量を顧みたものか、にわかに厳めしい武士はみな退けて、初めて彼を殿上の座に迎え上げた。

「あらためて問うが、足下は蜀の説客として、この孫権に、何を説こうとして来たか」
「最前、大王が仰っしゃった通り、蜀呉両国の修交を求めに来ました」
「それならば、予は大いに危ぶむ。すでに蜀主玄徳亡く、後主は幼少であるから、よく今後も国家の体面を保ち得るかどうか」
 ここまで孫権が切り出してくると、鄧芝はわがものだと胸のうちで確信をもった。
「大王も一世の英賢孔明も一代の大器。蜀には山川の嶮あり、呉には三江の固めありです。これを以て、唇歯の提携をなすのに、なんの不足不安がありましょう。大王はこの強大な国力をもちながら、魏にたいして臣と称しておられますが、いまに見ていてご覧なさい。魏は口実をみつけて、かならず王子を人質に求めてきましょう。そのときもし魏の命に従わなければ魏は万鼓して呉を攻め、併せてわが蜀には好条件を掲げて軍事同盟を促してくるにきまっている。――長江の水は下るに速し、かりに蜀軍の水陸軍が魏の乞いを容れるとしたときは、呉は絶対に安全であり得ましょうか」
「…………」
「大王にはいかが思われますか」
「…………」
「ああ。やんぬる哉。大王には初めからそれがしを説客と見ておられる。そして詭弁に詐かれまいというお気持が先になっている。それがしは決して私一箇の功のためにこの言を吐くものではありません。一に両国の平和をねがい、蜀のため、呉のために、必死となって申し上げたのです。ご返事はお使いをもって蜀へお達しください。もう申しあげるべき使者の言は終りましたから、この身は自ら命を絶ってその偽りでないことを証明してお目にかけます」
 鄧芝はこう云い切るや否、やにわに座から走り出して、階欄の上から油の煮え立っている大鼎の中へ躍り込もうとした。
「やあ、待ち給えっ、先生」
 孫権がこう大呼したので、堂上の臣は馳け寄って、あわやと見えた鄧芝を後ろから抱き止めた。
「先生の誠意はよく分った。他国に使して君命を辱めぬ臣あり、またその人を観てよく用いる宰相のあるあり、蜀の前途は、この一事を見ても卜するに足る。――先生、まず上賓の席につかれい。貴国のご希望は充分考慮するであろうから」
 俄然、孫権は態度をかえた。たちまち侍臣に命じて、後堂に大宴を設け、上賓の礼をとって、鄧芝を迎えあらためた。
 鄧芝の使命は大成功を収めた。彼の熱意が孫権をして翻然と心機一転させたものか、或いはすでに孫権の腹中に、魏を見捨てる素地ができていたに依るものであろうか。いずれにせよ呉蜀の国交回復はここにその可能性が約されて、鄧芝は篤くもてなされて十日も建業に逗留していた。
 その帰るにあたっては、呉臣張蘊が、あらためて答礼使に任ぜられ、鄧芝とともに、蜀へ行くことになった。
 だが、この張蘊は、鄧芝にくらべると、だいぶん人物が下らしく、
(まだまだ易々と調印はゆるさぬ。この眼で蜀の実状を観た上のことだ。条約の成るか成らぬかはおれの復命一つにある)といわぬばかりな態度で蜀へ臨んだ。
 蜀では、対呉政策の一歩にまず成功を認めたので、後主劉禅以下、国を挙げて歓びの意を表し、張蘊が都門に入る日などはたいへんな歓迎ぶりであった。
 ために張蘊はよけいに思い上がって、蜀の百官をしり眼に見くだし、殿に上っては、劉禅皇帝の左に坐して、傲然、虎のような恰好をしていた。
 三日目には彼のための歓迎宴が成都宮の星雲殿にひらかれた。この晩も、張蘊は傍若無人に振る舞っていたが、孔明はいよいよ重く敬って、その意のままにさせていた。

 酒、半酣の頃、孔明は張蘊に向って、
「先帝の遺孤劉禅の君も、近ごろ宝位につかれ、陰ながら呉王の徳を深くお慕い遊ばされておる。どうかご帰国の上は、呉王に奏してわが蜀と長久の好誼をむすび、共に魏をうって、共栄の歓びをわかたん日の近きに来るように、あなたからも切におすすめ下さるよう、ご協力のほど、かくの如くお願い申しあげる」と、あくまで辞を低く、礼を篤く、くり返していった。
「ウむ。……まあ、どういうことになるか」
 張蘊は眼を斜めにして、そういう孔明を見やりながら、わざとほかへ話をそらしては、大人を気どって、傲慢な笑い方をしていた。
 いよいよ帰る日となると、朝廷からはおびただしい金帛が贈られ、孔明以下、文武百官もみな錦や金銀を餞別けた。
 張蘊はほくほく顔だった。そして孔明の邸宅における最後の晩餐会にのぞんだところが、酒宴の中へ、ひとりの壮漢がずかずか入ってきて、
「やあ、蘊先生、明日はお帰りだそうですな。どうでした? あなたの対蜀観察は。ははは。まあ一杯いただきましょうか」と、主賓の近くに坐していきなり手を出した。
 張蘊は自分の尊厳を傷つけられたように、不快な顔をして、亭主の孔明にむかい、
「何者です。彼は」と、たずねた。
 孔明が答えて、――益州の学士で秦宓、字は子勅です、と紹介すると、張蘊はあざ笑って、
「学士か。いや、どうも近頃の若い学士では」
 すると秦宓は、色を正して、屹と、彼に眸を向けた。
「若いと仰せられたが、わが蜀の国では、三歳の童子もみな学ぶの風があります。ゆえに年二十歳をこえれば、学問にかけてはもう立派な一人前のものを誰もそなえておる」
「では、汝は、何を学んだ?」
「上は天文から下は地理にいたるまで、三教九流、諸子百家、古今の興廃、聖賢の書およそ眼を曝さないものはない」と秦宓はあえて大言を放った後で、
「――呉の国ではいったい、何歳になったら学士として世間に通るのですか。六十、七十になってから、やっと学問らしいものを身に持っても、それでは世に貢献する年月は幾らもないではありませんか」と、反問した。
 せっかくご機嫌の良かった張蘊は、面を逆さに撫でられたような顔をした。そして小憎い青二才、と思ったか、或いは自己の学問を誇ろうとしたのか、
「然らば、試みに問うが」
 と、天文、地理、経書、史書、兵法などにわたって、次から次へと難問を発した。
 ところが、学士秦宓は、古今の例をひき、書中の辞句文章を暗誦して一々それに答えること、滔々としていささかの淀みもなく、聴く者をして、惚れぼれさせるばかりだった。
 張蘊はまったく酒もさめ果てた顔をして、
「蜀にはこんな俊才が何人もおるのかしら」
 と、ついに口をつぐみ、また自ら恥じたもののように、いつの間にか退席してしまった。
 孔明は、彼に恥を負わせて蜀を去らしては、と大いに心配して別室にいざない、
「足下はすでに、天下を安んじ、国家を経営する実際の学識に達しておられるが、秦宓のごときはまだ学問を学問としか振り廻せない若輩で、いわば大人と子供のちがいですから、まあおゆるし下さい。酒間の戯談は、たれも一時の戯談としか聞いておりませんから」
 と、ふかく謝して慰めた。
 で、張蘊も、
「いや、若い者のこと、私も何とも思ってはおりませんよ」
 と、機嫌を直した。そして次の日、帰国したが、そのときまた、蜀からふたたび回礼使として、鄧芝が同行した。
 程なく、蜀呉同盟は成立を見、両国間に正式の文書が取りかわされた。

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