漢中王に昇る

 魏の勢力が、全面的に後退したあとは、当然、玄徳の蜀軍が、この地方を風靡した。
 上庸も陥ち、金城も降った。
 申耽、申儀などという旧漢中の豪将たちも、
「いまは誰のために戦わん」といって、みな蜀軍の麾下へ、降人となって出た。
 玄徳は、布告を発して、よく軍民の一致を得、政治、軍事、経済の三面にわたって、画期的な基礎をきずいた。
 こうして彼の領有は、一躍、四川漢川の広大な地域を見るにいたり、いまや蜀というものは、江南の呉、北方の魏に対しても、断然、端倪すべからざる一大強国を成した。
 時を観ていた孔明は、折々、諸大将と意見を交わして、
「いまや東西両川の民は、ことごとく君の徳になつき、ひそかにわが皇叔が、名実ともに王位に即かれて、内は民を定め、外には騒乱の賊を鎮め給わんことを、心から希っておる」
 と、即位進言のこころを漏らすと、人々も異議なく、
「そうなくてはならない。ぜひ折を見て、亮軍師から皇叔へおすすめを仰ぎたい」
 と、同意を表した。
 孔明は、諸臣の代表として、法正を伴い、ある時、改まって、玄徳に謁した。そして、
「君にもはや、御齢五十をすぎ給い、威は四海に震い、徳は四民にあまねく、東除西討、いまや両川の地に君臨されて、名実ともに兼備わる。これは単なる人力のみの功績ではありません。天の理法、天の意というものも、思わねばなりません。よろしく君にはこの時に、天に応じて王位にお即きあるべきです」
 というと、玄徳は、さもさも驚いたように、その面を左右に振った。
「何をいうぞ、軍師。予は漢室の一族にはちがいないが、なお許都には、皇帝がおわす。いついかなる所にあっても、身は臣下の分を忘れたことはない。もし王位を僭称し、曹操の驕りに倣うような真似をしたら、何をもって、国賊を討つ名分となすぞ」
「いやいや、帝位を称え給うには非ず。漢中王に即かるる分には、何のさしつかえがありましょう。いま宇内二分して、呉は南に覇をとなえ、魏は北に雄飛し、また君のご威徳によって、西蜀漢中の分野ここに定まるとはいえ、なお前途の大統一を思う同気の輩は、我が君が、あまりに世間の誹りを気にかけて、いわゆる謙譲の美徳のみを唯一の道としておいでになると、ついには君の大器を疑い、三軍の心、ために変ずるの憂いがないとはいえません。天ゆるし、地もすすめる時は、隆々の盛運に乗って、君ご自身、さらに雲階を昇って栄位に進み、歓びを、帷幕や三軍の将士に頒つこそ、また国を旺にする大策たること疑いもありません。ねがわくは皇叔一個のご潔癖にのみとらわれず、御心を大にして、天地の欲するままに順応せられんことを」と、極力すすめた。
 玄徳はなお容易に肯じなかった。いかに臣下や両川の民がそれを望んでも、あきらかに天子から勅命がない以上は、自称し僭称するものである。そういうことは自分は嫌いだといって、飽くまでしりぞけた。
 けれど孔明以下、法正張飛趙雲もたびたび、進言して、玄徳の積極性をうながしたため、ついに彼もそれを許容することになり、ここに文官の譙周が表を作った。そして使いは、許都の天子のもとへその表を呈し、玄徳が漢中王に即くことを正式に奏した。
 建安二十四年の秋七月。
 沔陽(陝西省・漢中の西方)に式殿と九重の壇をきずいて、五色の幡旗をつらね、群臣参列のうえ、即位の典は挙げられた。
 同時に、嫡子劉禅の王太子たるべき旨も宣せられた。
 許靖をその太傅とし、法正は尚書令に任ぜられた。
 軍師孔明は、依然、すべての兵務を総督し、その下に、関羽張飛馬超黄忠趙雲の五将をもって、五虎大将軍となす旨が発布され、また魏延は、漢中の太守に封ぜられた。

 即位の後、玄徳は、ふたたび表をもって、その趣を天子に奏した。
 先に都へ使いを立てて、捧げた表は、諸葛孔明以下、蜀臣百二十人の連署をもって奉上したものであり、後のは、劉備玄徳の認めたものである。
 表はいずれも長文で、辞句荘重を極めている。朝廷はその秋ただちに、劉備玄徳にたいして、
漢中王領大司馬」の印綬を贈った。
「なに、むかし蓆を織っていた凡下が、ついに漢中王の名を冒したというか。憎むべき劉備の不遜、あくまで、この曹操と互角に対峙せん心よな」
 魏王曹操が、ために大きく衝動をうけたことは、いうまでもない。
「起てよ、わが百万の鉾刃。――何ぞ、蜀の傍若無人なる。彼をして無事に、漢中王の名を僭称させておいては、身禁門を擁護する曹操として、何の面目やある」
 魏王は、獅子吼した。
 時に大議事堂に満つる群臣の中から起って、
「否とよ大王、一旦のお怒りに駆らるるは、上乗に非ず、すべからく蜀の内部に衰乱の兆すを待って、大挙、軍を向け給え」と、いさめた者がある。
 諸人が、何人かと見れば、司馬懿、字は仲達、近ごろ曹操の側臣中、彼ありと、ようやく認められてきた英才である。
 曹操はじろと見て、
「――うむ、それもよかろう。しかし仲達、蜀の衰亡を、ただ拱手して待つわけでもあるまい。汝にいかなる計があっていうか」
「さればです。臣の察するに、呉の孫権は、先に妹を玄徳に嫁し、のち取り返して、以後、絶縁のままになっているものの、その心中には、歯をくいしばるの恨みをのんでおりましょう。――いま魏王の御名をもって、使いを呉に立て、呉が荊州を攻むるならば、魏は呼応して、呉を援け、また玄徳の側面を突かん――と、利害をあきらかにおすすめあれば、孫権のうごくこと、百に一つも間違いはありません」
「呉を。……そうか、呉をしてまず、戦わせるか」
荊州の危うきときは、漢川も危殆に瀕し、漢川を失えば蜀もまた窒息のやむなきに至りましょう。いずれにせよ、長江波高き日は、玄徳が一日も安らかに眠られない日です。彼は両川の兵をあげても、荊州の急を救わんとするでしょう。かかる状態を作っておいてから、わが魏の大軍がうごくにおいては、兵法の聖がいっているごとく、必勝を見て戦い、戦うや必ず勝つ、の図にあたりましょう」
「善言善言」
 仲達の考えは容れられた。使者には満寵が選ばれた。彼はたびたび、呉へも行っているし、外交官として聞えがある。
 さてここに、呉の孫権も、遠く魏蜀の大勢をながめ、呉の将来も、決して今日の安泰を、明日の安泰としていられないものを自覚していた。
 ところへ、魏使が着いた。
 孫権はまず張昭にたずねた。張昭は答えていう。
「おそらく修交を求めてきたのでしょう。ともあれ会ってごらんなさい」
 孫権はそれに従った。満寵を引いて、主賓の座を分ち、礼おわって、来意をたずねた。満寵はつつしんで使いの旨をのべ、
「魏と呉とはもとより何の仇もなく、ただ孔明の弄策に災いされ、過去数年の戦いを見たものです。その結果、利を獲たものは、実に、呉でもなく魏でもなく、いまや蜀漢二川の地を占めている玄徳ではありますまいか。――魏王曹操も、非をさとり、貴国と長く唇歯の誼みを結んで、共に玄徳を討たんという意思を抱いておられます。ねがわくは、相侵すなく、両国の修交共栄の基礎がここに定まりますように」と、魏王の書簡を孫権の座下に呈した。

 使者の満寵は、やがて歓迎の宴に臨んだ。曹操の書簡を見てからの孫権は甚だ気色が麗しい。満寵はひそかに、
(この外交は成功する)と、信じていた。
 彼は酔って客館にさがった。だが、呉宮の殿堂は、深更まで、緊張を呈していた。重臣はみな残って、孫権を中心に、
(魏の申し出にどう答えるか)と、その修交不可侵条約の求めにたいして、検討評議にかかったのである。
「もちろん魏の大望は、天下を統一して、魏一国となすにあるので、これは曹操の詐りにきまっておるが、さればといって、明らかに彼の申し出を拒み、魏の重圧を一方にひきうけて、蜀の立場を有利にさせ、呉の兵馬を消耗しては面白くない」
 これは顧雍の説だった。
 そのほか有力な呉人の国際観も、たいがい同じ見解をもっている。
 要するに、不和不戦、なるべく魏との正面衝突は避け、他をもって戦わせ、そのあいだにいよいよ国力を充実し、起つ機会を充分にうかがうべし――という意見である。
 諸葛瑾が、一策を唱えた。
「ひとまず使者の満寵はお帰しあって、呉よりも改めて、一使を魏に派遣されたらいかがです。そのあいだに別な使者を荊州へ送るのです。いま荊州の守りは、例の関羽ですが、これに我が君より書簡をつかわし、大勢を説いて、呉に協力させまする。もし関羽だに承知して、呉に与するなら、断然、魏を拒んで、曹操と一戦なすも、決して、呉は敗るるものではありません」
 張昭が中途で訊ねた。
「もし関羽が断ったら?」
「そのときは、直ちに魏の申し入れを容れ、相携えて荊州を攻め取るばかり」
「妙変、臨機、大いによろしい。けれど諸葛兄、それはほとんど、後者にきまっていよう。玄徳の信任も篤く、忠誠無比といわれる関羽が、一片の書簡に変じて、呉に協力しようとは思われん」
「さよう。単なる外交では望みはありますまい。けれど彼は情にもろい豪傑です。私の計とは、婚姻政策です。関羽には一男一女がありますから、呉の世子にその娘を迎えたいがといったら、親心として、大よろこびで応じてくると考えますが」
 孫権諸葛瑾の案にうなずいた。さしずめ、瑾を使者として、荊州へつかわそう。そして一方、魏の曹操にも、使いを立て、まず双方の機変を打診してみた上としても、呉が態度を定めるのは遅くもあるまい――ということに議をまとめて、次の日、満寵にはしかるべき礼物と答書を与えて、魏へ送り帰した。
 魏の船が出ると、すぐ後から瑾の乗っている船が出た。その船は荊州へ着いた。
 孔明の兄とは知っているが、呉の使者として来たと聞くと、関羽は出迎えもせず、悠然、これを待って対面し、
「何です。ご辺の用向きは」と、応対まことに武骨だった。
 瑾は不快とも思わない。むしろ武弁で正直な関羽の人柄に敬慕をおぼえながら話した。
「将軍のお娘御も、もう妙齢とうかがいましたが、主人孫権にも一男あり、呉の人はみな、好世子とたたえております。いかがでしょう、ご愛嬢を、呉の世子に嫁がせるお心はありませんか」
 聞くと、関羽は、毛ぶかい顔をゆがめて、さも卑しむように、瑾の口もとをながめ、
「ないなあ、そんな気は」と、膠なく、いった。
 瑾がかさねて、
「なぜですか」とたたみかけると、関羽は勃然と、髯の中から口を開き、
「なぜかって、犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ」と、吐き出すように云った。
 瑾は頸をすくめた。それ以上、口をあくと、関羽の剣がたちまち鞘を脱して来そうな鬼気を感じたからであった。

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