草を刈る

 百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。
 張飛は、一策を案出した。
「集まれ」
 七、八百の兵をならべて命じた。
「貴様たちはこれから鎌を持って山路を尋ね、馬糧の草を刈ってこい。なるべく巴城の裏山に面した所の奥深い山の草を刈って参れ」
 鎌をたずさえた草刈り部隊は、おのおの、城の裏山へ分け入った。
 次の日も、次の日も、草刈り隊はさかんに草を本隊へ運んだ。城中の厳顔は、これを知って、
「はて、張飛のやつ、何のつもりで、にわかに山の草を刈りだしたのか?」
 いかに城外から挑んでも、城を閉じて、相手にしなかったので、張飛もこの城へ手を下しようがなく、先頃から怏々として、作戦に窮していた状はよくうかがわれたが、急に攻め口の活動も怠って、山路に兵を入れているのは、なんのためか、厳顔にも察しがつかなかった。
「鎌を持て。そして城の搦手に集まれ」
 厳顔は、十名の物見を選んで、こういいつけた。
 密偵の者は、鎌を携えて夕方搦手門に集まった。厳顔が出てきて、こう密命をくだした。
「夜のうちに、裏山へ入りこみ、夜明けとなって、張飛の兵がやってきたら、巧みに、彼の草刈り隊にまぎれこみ、終日、草を刈って馬に積んだら、そのまま張飛の兵になりすまして、敵の本陣へついて行け。そして、彼らが何のために働いているか探り知ったら、早速、脱け出してその真相を城へ告げい。早く正しい報告を持って来た者へ順に恩賞を与えるであろう」
 草刈り兵になりすました厳顔の密偵たちは、心得て、おのおの夜のうちに山へかくれていた。
 翌日の夕方。
 例のとおり張飛の兵は、馬に草を積んでぞろぞろ本陣へ帰って行ったが、そのうちの組頭が、張飛の顔を見るといった。
「大将、決して労を惜しむわけではありませんが、雒城へ通るには、何もあんな道なき所を伐り拓かなくても、べつに、巴城の搦手の上から巴郡の西へ出る間道がありました。なぜあの隠し道をおすすみにならないのですか」
 すると、張飛は初めて知ったように、眼をみはって、
「何、何。そんな間道があったのか。馬鹿野郎っ。そのような道のあることを存じながら、なぜ今日まで黙っていたのだ」
 張飛の大喝は、獅子の吼えるように、草刈り兵ばかりでなく、全軍を震えあがらせた。
「猶予はならん。すぐ進発の準備をしろ。ここの巴城などは打ち捨て、一路雒城へ通らんことこそ、おれの狙いだ。兵糧を炊け、輜重を備えろ」
 にわかの軍令に、宵闇は一時大混雑を起した。
 二更、兵糧をつかう。
 三更、兵馬の隊伍成る。
 四更、月光を見ながら、枚を銜み、馬は鈴を収め、降る露を浴びながら、粛々と山の隠し道へすすんで行く。
 厳顔の廻し者はかくと知るや、宵の間に、ここを脱出して、城中へ前後して走り帰った。
 一番に戻ってきた者も、二番に帰ってきた者の言葉も、次々の者のいう報告も、すべて一致していたので、
「さてこそ」と、厳顔は手を打っていった。
「あくまで、城方が出て戦わぬに気を悩まし、遂にここを避けて、間道より雒城へ押し通らん彼の所存とみゆる。――愚や、愚や張飛。それこそわが望むところ」
 厳顔もまた城中の勢をことごとく手分けして、勝手を知る間道の要所要所に、兵を伏せて待っていた。
 おそらくは、張飛の先陣、中軍が山を越える頃、輜重兵糧の車馬はなお遅れて遠く後陣にあろう。その頃、合図の鼓とともに、いちどに繰り出して、敵陣を寸断せよ。個々撃滅して、みなごろしにすべし――と厳顔は味方の武将につたえていた。
 やがて、木々のしげる間を、黒々と敵の先鋒中軍は通って行った。まぎれもない張飛の姿も見えた。それをやりすごして、輜重部隊の影を見た頃、
「今ぞ」
 と、厳顔は、合図の鼓を高らかに打たせた。

 四面の伏兵は、喊声をあげながら、まず敵行軍を両断し、後尾の輜重隊を包囲した。
 すると、おどろくべし。すでに先刻、中軍にあって先へ通って行ったはずの張飛が、その輜重隊から躍りでて、
「厳顔老匹夫、よく来た」
 と、大声にいった。
 厳顔は仰天して、馬からころげ落ちそうになった。
 振り向けば、豹頭炬眼、その虎髯も張飛にまちがいはない。
「おうっ、出会うたは、幸いである。張飛うごくな」
 部下のてまえぜひなく彼は、敢然、馬をとばして、張飛の大矛へ、甲体を投げこんで行った。
「年よりの冷や水」
 あざ笑いながら、張飛は、丈八の矛も用いず、片手をのばして、厳顔の上帯をつかみよせてしまった。そして、
「それっ、受取れ」
 と、自分の部隊の中へほうり投げた。
 さすが、武芸のたしなみ深い老将なので、投げられても、醜く腰は打たなかった。よろめく足を踏み止めて、直ちに四囲の雑兵と戦った。けれどいかにせん老齢だ。力尽きて、高手小手に縛りあげられてしまった。
 さきに中軍を率いて通った張飛らしいのは、部下の似ている者を偽装させた影武者だった。その先鋒も、またたちまち、取って返してきて城兵を蔽いつつんだ。
「厳顔はすでにわが軍の捕虜となったぞ。降る者はゆるさん。刃向うものは八ツ裂きにして猪狼の餌にするぞ」
 張飛の声を聞くと、城兵は争って甲や戈を投げ捨て、その大半以上、降人になった。こうして張飛は、ついに巴城に入って、郡中を治めた。
 法三条を出して、
 民ヲ犯スナ
 旧城文物ヲ破壊スナ
 旧臣土民ヲ愛撫セヨ
 と掲げたので、巴城の土民は、
張飛という大将は、聞くと見るとは、大きなちがいだ)
 と、みな彼になついた。
 張飛は、厳顔をひかせて、庁上から彼を見た。
 厳顔はひざまずかない。
 張飛は、眼をいからして、
「汝、礼を知らぬか」と、叱咤した。
 あざ笑って、厳顔は、
「われ、敵にする礼を知らず」と、冷やかに嘯いた。
 張飛は、階をとび降りた。そして佩剣に手をかけて、
「老匹夫、たわ言をやめろ。今のうちに、降参するといわぬと、もうその首が前に落ちるぞ」
「そうか。……首よ。わが多年の首よ。おさらばであるぞ。……張飛、猶予すな、いざ、斬れっ」
 みずから頸をのばした。
 張飛はふいに彼のうしろへ寄ってその縄を解いた。そして手を取って庁上へいざない、みずから膝を折って再拝した。
「厳顔。あなたは真の武将だ。人の節義を辱めるはわが節義に恥じる。さっきからの無礼はゆるしたまえ」
「君。節義を知るか」
「聞かずや厳顔。皇叔関羽とこの張飛との桃園の誓いを」
「ああ、聞いておる。君ですらかくの如し。関羽や玄徳はどんな立派な人だろう」
「どうか、その人々と、ともに交わって、蜀の民を安んじてやって下さい」
「君も味なことをいう男だ」
 厳顔は張飛の恩に感じて、ついに降伏をちかい、成都に入る計を教えた。
「ここから雒城までの間だけでも、途中の関門には、大小三十七ヵ所の城がある。力業で通ろうとしたら百万の兵をもって三年かかっても難しいであろう。しかし、この厳顔が先に立って、我すらかくの如し、況や汝らをや――と諭してゆけば、風をのぞんで帰順するでしょう」
 事実、彼を先鋒に立てて進むほどに、関は門を開き、城は道を掃いて、血を見ずにすべての要害を通ることができた。

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