針鼠
一
ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。
魏の夏侯惇は、襄陽から追い落されて、樊城へ引籠った。
彼についてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かった。
玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、ここに軍需品や金銀を貯えて、北面魏をうかがい、南面呉にそなえた。風を慕って、たちまち、商賈や漁夫の家が市をなし、また四方から賢士剣客の集まって来るもの日をおうて殖えていた。
一方。
呉の主力は、呉侯孫権の直属として、赤壁の大勝後は、その余勢をもって、合淝の城(安徽省・肥)を攻めていた。
ここの守りには魏の張遼がたてこもっていた。さきに曹操が都へ帰るに当って、特に、張遼へ託して行った重要地の一つである。
赤壁に大捷した呉軍も、合淝を攻めにかかってからは、いっこう振わなかった。
それもそのはず張遼の副将にはなお李典、楽進という魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。寄手は連攻連襲をこころみたが、不落の合淝に当り疲れて城外五十里を遠巻きにし、
「そのうちに食糧がなくなるだろう」と空だのみに恃んでいた。
ところへ、魯粛が来た。
孫権が、馬を下りて、陣門に出迎えたので、
「粛公は大へんな敬いをうけたものだ」と、諸兵みな驚いた。
営中に入ると、孫権は、魯粛に向って、意識的にいった。
「きょうは特に馬を下りて出迎えの礼をとった。この好遇は、いささか足下のなした赤壁の大功を顕すに足りたろうか」
魯粛は、首を振った。
「いうに足りません。その程度の表彰では」
孫権は、眼をみはって、
「では、どれ程に優遇したら、そちの功を顕すに足りるというのか」
「さればです」と、魯粛がいった。
「わが君が、一日も早く、九州のことごとくを統べ治めて、呉の帝業を万代にし給い、そのとき安車蒲輪をもって、それがしをお迎え下されたら、魯粛の本望も初めて成れりというものでしょう」
「そうか。いかにも!」
二人は手を打って、快笑した。
けれど魯粛はその後で、せっかく上機嫌な呉侯に、ちといやな報告もしなければならなかった。
それは、周瑜が金創の重態で仆れたことと、荊州、襄陽、南郡の三要地を、玄徳に取られたことの二つだった。
「ふふむ……周瑜の容態は、再起もおぼつかない程か」
「いや、豪気な都督のことですから、間もなく、以前のお元気で恢復されることとは思いますが……」
話しているところへ、今、合淝の城中から一書が来ましたと、一人の大将が、うやうやしく、呉侯の前に書簡をおいて行った。ひらいてみると、張遼からの決戦状であった。
呉の大軍は蠅か蛾か。いったいこの城を取巻いて、何を求めているのであるか。
文辞は無礼を極め、甚だしく呉侯を辱めたものだった。孫権は、赫怒して、
「よしっ、その分ならば、わが真面目を見せてくれよう」
と、翌早朝に陣門をひらいて、甲鎧燦爛と、自身先に立って旭の下を打って出た。
城からも、張遼をまん中に、李典、楽進など主なる武者は、総出となって押しよせて来た。
「呉侯、見参っ」
と、張遼は一本槍に、その巨物を目がけて行った。すると、馬蹄に土を飛ばして、
「下司っ、ひかえろ」
と、一大喝しながら立ちふさがった者がある。呉の大将太史慈であった。
二
呉の太史慈といえばその名はかくれないものだった。呉祖孫堅以来仕えてきた譜代の大将であり、しかも武勇はまだ少しも老いを見せていない。
魏の張遼とはけだし好敵手といってよかろう。双方、長鎗を交えて烈戦八十余合に及んだが、勝負は容易につかなかった。
この間隙に、楽進、李典のふたりは、大音をあげて、
「あれあれ、あれに黄金の盔をいただいたる者こそ、呉侯孫権にまぎれもない。もしあの首一つ取れば、赤壁で討たれた味方八十三万人の仇を報ずるにも足るぞ。励めや、者ども」
と下知して、自分たちもまっしぐらに喚きかかった。
孫権の身は、今や危うかった。電光一撃、李典の鎗が迫った時である。
「さはさせじ!」と、敢然横合いからぶつかって行った者がある。これなん呉の宋謙。
それと見て、楽進が、
「邪魔なっ」
と、間近から、鉄弓を射た。矢は宋謙の胸板を射抜く。どうっと、宋謙が落ちる。とたんに、砂煙を後に、孫権は逃げ走っていた。
張遼と太史慈とは、まだ火をちらして戦っていたが、この中軍の崩れから、敵味方の怒濤に押され、ついにそのまま、引き分れてしまった。
孫権は逃げる途中、なお幾度か危機にさらされたが、程普に救われて、ようやく無事なるを得た。
しかし、この日の敗戦が彼の心に大きな痛手を与えたことは争えない。帰陣の後、涙をながして、
「宋謙を失ったか」と、痛哀してやまなかった。
長史張紘は、よい時と考えて、
「こういう失敗は、良き教訓です。君はいま御年も壮なために、ともすれば血気強暴にはやり給い、呉の諸君は、為にみな、しばしば、心を寒うしています。どうか匹夫の勇は抑えて、王覇の大計にお心を用いて下さい」
と、諫めた。
孫権も、理に服して、
「以後は慎む」と、打ちしおれていたが、翌日、太史慈が来てこういうことを耳に入れた。
「それがしの部下に、戈定という者がいます。これが張遼の馬飼と兄弟なのです。依って、密かに款を通じ、城中から火の手をあげて、張遼の首を取ってみせんといっております。で、それがしに今宵五千騎をおかし下さい。宋謙が仇を取ってみせましょう」
孫権は、たちまち心をうごかして、
「その戈定はどこにいるのか」と、たずねた。
太史慈は答えて、
「もう城中にいるのです。昨日の合戦に、敵勢の中にまぎれて、難なく城中に入りこんでいるわけで」
「では首尾はよいな」
「大丈夫です。こんどこそは」
太史慈は自信にみちていった。
孫権がこれを以て、昨日の敗辱をそそぐには好機おくべからざるものと乗り気になったことはいうまでもない。
馬飼というのは、いわゆる馬廻り役の小者であろう。張遼の馬飼と、太史慈の部下戈定とは、その晩、城中の人なき暗がりでささやき合っていた。
「ぬかるな。……丑の刻だぞ」
「心得た。おれが、馬糧小屋をはじめ諸所へ火をつけて廻るから、おめえは、謀叛人だ、裏切者だ、と呶鳴ってまわれ」
「よしよし。おれも一緒になって火をつけながら、呶鳴りちらす」
「火の手と共に、城外から太史慈様が攻めこむことになっている。どさくさまぎれに、西門を内から開くことも忘れるなよ」
「合点合点。忘れるものか。一代の出世の鍵は今夜にありだ」
「……しっ。誰か来た」
ふたりは人の跫音に、あわてて左右にわかれてしまった。
三
守将の張遼は、きのうの城外戦で、大きな戦果をあげたにもかかわらず、まだ部下に恩賞も頒たず、自分も甲の緒すら解いていなかった。
多少、不平の気を帯びた副将や部将たちは、暗に、彼の小心を嗤った。
「敵はきのうの大敗で、すでに遠く陣地を退げてしまったのに、遼将軍にはなぜいつまで、甲も解かず、兵に休息もさせないのですか」
張遼は、答えた。
「勝ったのは、昨日のことで、今日はまだ勝っていない。明日のこともまだ勝っていない。いわんや全面的な勝敗はまだまだ先が知れん。およそ将たるものは、一勝一敗にいちいち喜憂したりするものではない。こよいはことに夜廻りをきびしくし、すべて、物具を解かず、昼夜四交代の制をそのまま、かりそめにも防備の気をゆるませぬように励まれよ」
すると果たしてその夜の深更に至って、妙に城中がざわめき出したと思うと、
「謀叛人があるぞっ」
「裏切者だ、裏切者だ」と、いう声が聞え出した。
張遼には、狼狽はなかった。すぐ寝所から出て城中を見廻った。もうもうと何か煙っている。諸所にぼうと赤い火光も見える。
「おう、将軍ですか」
楽進がそこへ駈けつけて来た。眼色を変えて、次にいった。
「城中に謀叛人が起ったようです。軽々しく外へお出にならんほうがよろしい」
「楽進か。何をあわてているのだ大丈夫、あわてるな」
「でも、あの喊声、あの火の手、由々しき騒動です」
「いやいや、わしは最初から眼を醒ましていたからよく聞いていた。裏切者と呶鳴る声も、出火だ、謀叛人だと告げ廻っている声も、ふた色ぐらいな声でしかない。おそらく、一両人の者が城中を攪乱するためにやった仕事だろう。それに乗せられて混乱する味方自身のほうがはるかに危険だ。――足下はすぐ城兵を取鎮めに行け。みだりに騒ぐ者は斬るぞと触れまわれ」
楽進が去ると間もなく、李典が二人の男を縛って連れてきた。城中攪乱を目論んでたちまち看破されてしまった張本人の戈定と馬飼の小者だった。
「こやつか。斬れっ」
二つの首は、無造作に斬って捨てられた。――とも知らず、かねてその二人としめし合わせのあった寄手の一軍と、その首将太史慈は、
「しめた。火の手は上がった!」とばかり、城門へ殺到した。
とっさに、この事あるをさとった張遼は、城兵を用いて、わざと、
「謀叛人があるぞ」
「裏切者だぞ」と、諸方で連呼させながら、西の一門を、故意に内から開かせた。
「――すわや」と、太史慈はよろこび勇んで、手勢の先頭に立って壕橋を駈け渡り、西門の中へどっと喚き込んだ。とたんに、一発の鉄砲が、轟然と四壁や石垣をゆるがしたと思うと、城の矢倉の陰や剣塀の上から、まるで滝のように矢が降りそそいで来た。
「あっ! しまった」
太史慈は、急に引返したが、一瞬のまに射立てられた矢は全身に刺さってまるで針鼠のようになっていた。
李典、楽進の輩は、この図にのって城中から大反撃に出た。ために、呉軍は大損害をこうむり、逆に、攻囲の陣を払って、南徐の潤州(江蘇省・鎮江市)あたりまで敗退するのやむなきに至ってしまった。
しかもまた、譜代の大将太史慈をも遂にこの陣で失ってしまった。死に臨んで太史慈はこう叫んで逝ったという。
「大丈夫たるもの、三尺の剣を帯びて、この中道に仆る。残念、いうばかりもない。しかし四十一年の生涯、呉祖以来三代の君に会うて、また会心なことがないでもなかった。ああ、しかしなかなか心残りは多い」