一帆呉へ下る

 玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。
 曹操も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、
「今をおいて玄徳を討つ時はなく、ここで玄徳を逸したら野に虎を放つようなものでしょう」
 と荀彧らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、
「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。
 ために玄徳は、長坂橋湖北省・当陽宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、
「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。
 ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。さきに命をうけて江夏へ行っていた関羽が、劉琦から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。
「ああまだ天は玄徳を見捨て給わぬか」
 こうなると人間はただ運命にまかせているしかない。一喜一憂、九死一生、まるで怒濤と暴風の荒海を、行くても知れずただよっているような心地だった。
「ともあれ、一刻も早く」と、関羽の調えてくれた船に乗って、玄徳たちは危うい岸を離れた。――その船の中で、関羽は糜夫人の死を聞いて、大いに嘆きながら、
「むかし許田の御狩に会し、それがしが曹操を刺し殺そうとしたのを、あの時、あなた様が強ってお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会いなさるまいものを」
 と、彼らしくもない愚痴をこぼすのを、玄徳はなだめて、
「いや、あの時は、天下のために、乱を醸すまいと思い、また曹操の人物を惜しんで止めたのだが――もし天が正しきを助けるものなら、いつか一度は自分の志もつらぬく時節がくるだろう」
 と、いった。
 するとその時、江上一面に、喊の声や鼓の音が起って、河波をあげながらそれは徐々に近づいてくる様子だった。
「さては、敵の水軍」と玄徳も色を失い、関羽もあわてて、船のみよしに立って見た。
 見れば彼方から蟻のような船列が順風に帆を張って来る。先頭の一艘はわけても巨大である。程なく近々と白波をわけて進んでくるのを見ると、その船上には、白い戦袍へ銀の甲鎧を扮装ったすがすがしい若武者が立っていて、しきりと此方へ向って手を打ち振っている。
「叔父、叔父。ご無事ですか。さきにお別れしたきり小姪の疎遠、その罪まことに軽くありません。ただ今、お目にかかってお詫び申すつもりです」
 彼の声もやがて聞えてきた。すなわち江夏城から来た劉琦なのである。
 玄徳、関羽のよろこびはいうまでもない。舷々相ふれると、玄徳は琦の手をとって迎え入れ、
「よくこそ、私の危急に、馳けつけて下すった」と、涙にくれた。
 また、数里江上を行くと、一簇の兵船が飛ぶが如く漕ぎよせてきた。――一艘の舳には、綸巾鶴氅の高士か武将かと疑われるような風采の人物が立っていた。すなわち諸葛孔明だった。
 ほかの船には、孫乾も乗っていた。――一体どうしてここへは? 人々が怪しんで問うと、孔明は微笑して、
「およそこの辺にいたら、各〻と落合えるであろうかと、夏口の兵を少し募って、お待ちしていただけです」と、あまり多くを語らなかった。

 危急に迫って、援軍をたのんでも、援軍の間に合う場合は少ないものであるが、それの間に合ったのは、やはり孔明自身行って、関羽劉琦をよく動かしたからであろう。
 しかし、それをつぶさに語るとなると、自分の口から自分の功を誇るようなものになるので、孔明は、
「さし当って、次の策こそ肝腎です。夏口漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまず彼処の城にお入りあって、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉琦君にも江夏の城へお帰りあって、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でしょう」と、まず将来の方針を示した。
 劉琦は、同意したが、
「それよりも、もっと安全なのは、ひとまず玄徳どのを、私の江夏城へおつれして、充分に装備をしてから、夏口へお渡りあっては如何ですか。――いきなり夏口へ入られるよりもそのほうが危険がないと思われますが」と、一応自分の考えも述べた。
 玄徳も孔明も、
「それこそ、然るべし」と、意見は一致し、関羽に手勢五千をつけて、先に江夏の城へやった。そして何らの異変もないと確かめて後、玄徳や孔明劉琦などは前後して入城した。
 こうして、すでに長蛇を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔に糾合したが、
「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」
 と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。
 荊州には、鄧義とか劉先などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、
「もはや誰のために戦おう」と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまった。
 曹操荊州に居すわって、いよいよ対呉政策に乗り出した。
 ――呉を如何にするか。
 これは多年の懸案である。しかもこの対策に成功しなければ、絶対に統一の覇業は完成しないのである。
「檄文を作れ」
 荀攸に命じて、檄を書かせた。もちろんそれは呉へ送るものである。

いま、玄徳、孔明の輩は、その余命をわずかに江夏夏口に拠せて、なお不逞な乱を企ておる。予、三軍をひきいて、疾くこれに游漁す。君も呉軍をひきいて、この快游を共にし給わずや。漁網の魚は、これを採って一盞の卓にのぼせ、地は割譲て、ながく好誼をむすぶ引出物としようではないか。

 という意味のものだった。
 ただし曹操としても、こんな一片の文書だけで、呉が降参してこようなどとは決して期待していない。いかなる外交もその外交辞令の手もとに、
(これがお嫌なら、またべつなご挨拶を以て)といえる「実力」が要る。彼は呉へ檄を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。
 総勢八十三万の兵を、号して百万ととなえ、西は荊陜から東は※黄にわたる三百里のあいだ、烟火連々と陣線をひいて、呉の境を威圧した。
 この時、呉主孫権も、隣境の変に万一あるをおそれて、柴桑城(廬山、鄱陽湖の東南方)まで来ていたが、事態いよいよただならぬ形勢となったので、
「今こそ、呉の態度を迫られる時が来た。曹操についたが得策か、玄徳と結んだがよいか。ここの大方針は呉の興亡を決するものだ。乞う、そちの信じるところを忌憚なく聞かしてくれい」
 呉の大賢といわるる魯粛は、孫権から直々にこう問われた。

 魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたえた。
劉表の喪を弔うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
「玄徳を援助したら、曹操は怒って、いよいよ鋭鋒を呉へ向けてくるだろう」
「いや、ちがいます。玄徳の勢いが衰退したので、曹操はたちまち呉へ大軍を転じて来たものです。故に、玄徳が強力となれば、背後の憂いがありますから、曹操は決して、思い切った侵攻を呉へ試みることはできません」
 魯粛は、なお説いて、
「私がお使いに立てば、それらの大策の決定は後日に譲るまでも、とにかく荊州から江夏にわたる曹操、玄徳、両方の実状をしかとこの眼で見てくるつもりです。それも重要な前提ですから」
 と、いった。
 呉の国のうごきは今、呉自身の浮沈を決する時であると共に、曹操の大軍にも、江夏の玄徳の運命にも、こうして重大な鍵をもっていた。
 江夏の城中にあっても、その事について、度々、評議するところがあったが、孔明はいつも、
「呉は遠く、曹は近く、結局われわれの抱く天下三分の理想――すなわち三国鼎立の実現を期するには、あくまで遠い呉をして近い曹操と争わせなければなりません。両大国を相搏たせて、その力を相殺させ、わが内容を拡充する。真の大策を行うのはそれからでしょう」
 と、至極、穏当な論を述べていた。
「だが、そううまく、こちらの望みどおりにゆけばよいが?」
 と、これは、玄徳だけの懐疑ではない。誰しも一応はそう考える。
 これに対して、孔明は、
「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。然るときは、わたくし自身、一帆の風にまかせて、呉国へ下り、三寸不爛の舌をふるって、孫権曹操を戦わせ、しかも江夏の味方は、そのいずれにも拠らず、一方のやぶれるのを見てから、遠大にしてなお万全な大計の道をおとりになるようにして見せます。――戦わば必ず勝つ戦いを戦うこと、三歳の児童も知る兵法の初学です」
 ――こう聞いても、人々はなお釈然となれなかった。むしろ不安にさえなった。
孔明は何か非常な奇蹟でもあらわれるのをそらだのみにして、あんな言を吐いているのではないか」
 そう思われる節がないでもないからである。
 ところが、その奇蹟は、数日の後、ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪を弔うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」と、いう知らせが、江岸の守備兵から城中へ通達されてきたのである。
「どうして軍師には、この事あるを、ああはやくからお分りになっておられたのか?」
 ざわめく人々の問いに、孔明は、
「いかに強大な呉国でも、常勝軍と誇る曹兵百万が、南下するに会っては、戦慄せざるを得ないにきまっている。加うるに呉は富強ではあるが実戦の体験が少ない。境外の兵備の進歩やその実力をはかり知っておらぬ。――で、ひとまずは、使者を派して、君玄徳を説きつけ、あくまで曹操の背後を衝かせておくの策を考えるものと私は観た」と語り――また劉琦をかえりみて、呉の孫策が死んだ時、荊州から弔問の使者が会葬に行ったか否かをたずねて、琦がその事なしと答えると、
「それごらんなさい。呉と荊州とは、累代の仇。今それをも捨てて使者をよこしたのは、喪を弔うの使いではなく、実は虚実をさぐるための公然たる密命大使であることが、その一事でも明らかでしょう」と、笑って説明した。

 やがて魯粛は賓閣へ迎えられた。彼は、劉琦に弔慰を述べ、玄徳には礼物を贈って、
「呉主孫権からも、くれぐれよろしく申されました」
 と、まずは型の如き使節ぶりを見せた。
 後、後堂で酒宴となり、こんどは玄徳から遠来の労をねぎらった。
 魯粛は、酔い大いに発すると、玄徳へ向ってずけずけ訊ね出した。
「あなたは年来、曹操から眼の仇にされて、彼と戦いをくり返しておいでだから、よくご存じであろうが――いったい曹操という者は、天下統一の大野心を抱いているのでしょうか、それとも慾心はただ自己の繁栄に止まっている程度でありましょうか」
「さあ? ……どうであろう」
「彼の帷幕ではいま、誰と誰とが、もっとも曹操に用いられておりましょうな」
「よく知らぬが」
「では――」と、魯粛はたたみかけて、
曹操の持つ総兵力というものは、実際のところ、どのくらいでしょう」
「その辺も、よくわきまえぬ」
 何を問われても、玄徳は空とぼけていた。これは孔明の忠告によるものだった。
 魯粛は少し色をなして、
新野当陽そのほか諸所において、曹操と戦ってきたあなたが、敵について、何の知識もないわけはないでしょう」と、詰問ると、玄徳はなお茫漠たる面をして、
「いや、いつの戦いでも、こちらは、曹操来ると聞けば、逃げ走ってばかりいたので、くわしいことはまったく不明です。ただ孔明なら少しは心得ているであろうが」
諸葛亮はどこにおられますか」
「いま呼んでおひきあわせ致そうと考えていたところだ。誰か、孔明を召し連れてこい」
 玄徳の命にひとりが立ち去って行くと、やがて孔明もここへ姿をあらわして、物やわらかに席に着いた。
「亮先生。――自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
「されば、このたびの門出にも、お会いしてきました。何やらお言伝でも承って参りたいと存じたが、公のお使い、わざと差し控えてきましたが」
「いや、余事はおいて、時に、わが主玄徳におかれては、かねてより呉の君臣に交友を求め、相たずさえて曹操を討たんと欲しられていますが、貴下のお考えでは如何であろうか」
「さあ、重大ですな」
「自惚れではありませんが、呉もまたわれわれと結ばなければ、存立にかかわりましょう。もしわが主玄徳が、一朝に意気地を捨てて、曹操につけば、これ自己の保身としては、最善でしょうが、呉にとっては脅威でしょう。南下の圧力は倍加するわけですから」
 ことばは鄭重だがその言外に大国の使臣を強迫しているのである。魯粛は恐れざるを得なかった。孔明のいうような場合が実現しない限りもないからである。
「自分は呉の臣ですが――劉皇叔のために――個人としてここだけのことをいえば、貴国の交渉如何によっては、わが主孫権も決して動かないことはなかろうと信じられます。ただ、その使節は大任ですが」
「では、脈があるというわけですな」
「まあ、そうです。幸い、亮先生の兄上は、呉の参謀であり、主君のご信頼もふかいお方ですから、ひとつ先生自身、呉へ使いされたらどうかと思いますが」
 そばで聞いていた玄徳は顔のいろを失った。呉の計略ではないかと考えたからである。魯粛がすすめれば勧めるほど、彼は許す気色もなかった。
 孔明は、なだめて、
「事すでに急を要します。信念をもって行ってきます。どうかお命じください」
 と、再三、許しを仰いだ。そして数日の後には、ついに魯粛と共に、下江の船に乗ることを得た。

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