二次出師表
一
蜀呉の同盟はここしばらく何の変更も見せていない。
孔明が南蛮に遠征する以前、魏の曹丕が大船艦を建造して呉への侵寇を企てた以前において、かの鄧芝を使いとして、呉に修交を求め、呉も張蘊を答礼によこして、それを機会にむすばれた両国の唇歯の誼みは、いまなお持続されている。
これをもって観ると、
魏が、街亭に勝って、蜀を退けた後、また直ちに反転して、呉と戦わざるを得なくなった理由は、ただ単に、曹休の献言や呉の周魴の巧みな誘計によって軍をうごかしたものとはいえない。
もっと大きな原因は、蜀呉の盟約にある。
(魏が呉を侵すときは、蜀は直ちに、魏の背後を脅かさん。もしまた、魏と蜀とが相たたかう場合は、呉は魏の側面からこれを撃つの義務を持つ)
というその折の条文によって、祁山、街亭の戦いが開始されるや、呉は当然、どういう形をとっても、魏の側面へ向って軍事行動を起さなければならない立場にあったのである。
これに対して、魏もまた、充分なる警戒を払っていたにちがいない。そうした空気において、たまたま周魴の詭計が行われたので、それを口火として、時を移さず魏呉の戦端がひらかれたものと、正しくは観るべきものであろう。
だから曹休が敗れ去ると共に、呉軍の引揚げも早かった。蜀へ対する条約履行はこれで果しているからである。さらになお、呉の孫権は、この戦果と、義務の完遂を、書簡のうちに誇張して、成都へ使いを派し、蜀の劉禅にむかって、
「呉が、盟約を重んずることは、かくの如くである。貴国はなお安んじて、孔明をして、魏を攻めさせ給え。呉はつねに盟国の信義をもって、魏の諸境を脅かし、ついに彼をして首尾両面の奔命に疲らせ、いかに魏が強大を誇るも敗るるほかなきまで撃ち叩くであろう」
と、云い送った。
その後、魏の動静を見ていると、曹休は、石亭の大敗を、ふかく辱じ恐れて、洛陽へ逃げもどっていたが、間もなく癰疽を病んで死んでしまった。
彼は国の元老であり帝族の一人である。曹叡は、勅して厚く葬らせた。すると、その大葬を機として、呉の抑えとして、南の境にいた司馬懿仲達が取るものも取りあえず都へ上って来た。諸大将はあやしんで、
「都督は何故にそんなに慌てて上洛されたのか」と、彼に問う者が多かった。
司馬懿は、それに答えて、
「お味方は、街亭に一勝はしたが、その代りに、呉に一敗をうけてしもうた、孔明はかならず、お味方のこの敗色をうかがって、ふたたび迅速な行動を起してくるにちがいない。――隴西の地、急なるとき、誰がよく孔明を防ぎますか。かくいう司馬懿のほか人はないと思う。それ故にいそぎ上って参った」
聞く者は嗤った。
「彼は案外、卑怯だぞ。呉は強い、蜀は弱い。そう見ておるのだ。さきの一戦に味をしめて、呉には勝てんが、蜀になら勝てるつもりでおるのだろう」
しかしこういう毀誉褒貶を気にかける司馬懿でもない。彼は彼として深く信ずるものあるが如く、折々、悠々と朝に上り、また洛内に自適していた。
ときに孔明もまた、以来漢中にあって軍の再編制を遂げ、その装備軍糧なども、まず計画どおり進んだのでおもむろに魏の間隙をうかがっていた。
呉の大捷を伝えて、成都から三軍へ酒を賜った。孔明は、一夜盛宴を張って、恩賜を披露し、あわせて将士の忍苦精励をなぐさめた。
すると、宴たけなわの頃、一陣の風がふいて、庭上の老松の枝が折れた。孔明はふと眉を曇らせたが、なお将士の歓を興醒めさせまいと、何気ない態で杯をかさねていると、侍中の一士が、
「ただ今、趙雲の子趙統と趙広が、二人して参りましたが、これへ召しましょうか」
と、取り次いできた。
聞くと、孔明は、はっとした顔色をして、
「ああ、いけない。趙雲の子が訪ねきたか、……老松の梢はついに折れたそうな」
と、嗟嘆しながら、手の盃を床へ投げてしまった。
二
彼の予感はあたっていた。
果たして、やがてそこへ導かれて来た趙雲の二人の子は、
「昨夜、父が亡くなりました」
と、父趙雲子龍の病歿を報せにきたのであった。
孔明は耳をそばだてて惜しんだ。
「趙雲は、先帝以来の功臣、蜀の棟梁たる者であった。大きくは国家の損失であるし、小さくは、わが片臂を落されたようなここちがする」
彼は、潸然と涙した。
直ちに、この悲しみは、成都へも報じられた。後主劉禅も声を放って泣き、「むかし当陽の乱軍中に、趙雲の腕に救われなかったら、朕が今日のいのちはなかったものである。悲しいかな、いまその人は逝く」
勅して、順平侯と諡し、成都郊外の錦屏山に、国葬をもって厚く祭らしめた。また、その遺子趙統を、虎賁中郎に封じ、弟の趙広を、牙門の将に任じて、父の墳を守らせた。
ときに、近臣は奏して、
「漢中の諸葛亮から、ただ今、楊儀が使いとして、到着いたしました」
という趣を上聞に達した。
楊儀は闕下に伏して、うやうやしく孔明の一書を捧呈した。これなん孔明がふたたび悲壮なる第二次北伐の決意を披瀝したいわゆる「後出師表」であった。
帝は、御案の上にひらいた。
表にいう。
(――漢と賊とは両立しない。王業はまた偏安すべきものでない。これを討たざるは、座して亡ぶを待つにひとしい。坐して亡びんよりは、むしろ出でて討つべきである。そのいずれがよいかなど、議論の余地はない)
孔明は表の冒頭にまずこう大正案を下していた。彼の抱持する理想とその主戦論にたいし、いまなお、成都の文官中には、消極論がまま出るからであった。
しかし彼は筆をすすめて、
(この業たるや、けだし一朝一夕に成るものでなく、魏を撃滅することの困難と百忍を要することはいうまでもない)
と、慎重にしてかつ悲調なる語気をもって、魏の強大な戦力と、蜀の不利な地勢弱点を正論し、なお今日、自己が漢中にとどまって、戦衣を解かないでいる理由を六ヵ条にわけて記し、不撓不屈、ただ先帝の遺託にこたえ奉るの一心と国あるのみの赤心を吐露し、その末尾の一章には、
今、民窮シ、兵疲ルルモ、事熄ムベカラズ、僅カニ一州ノ地ヲ以テ、吾レ二十倍ノ賊ト持久セントス。コレ臣ガマダ解カザルノ(戦袍ノ意)一也。臣、タダ鞠躬尽力、死シテ後已マンノミ。成敗利鈍ニイタリテハ、臣ガ明ノヨク及ブトコロニ非ザル也。謹ンデ表ヲタテマツッテ聖断ヲ仰グ。
建興六年冬十一月
と悲壮極まることばが読まれた。
先頃。
魏はおびただしい軍隊を呉の境に派して、しかも戦い利あらず、のち曹休も歿し、以後、魏の関中にはかつての如き勢いなくまた戦気も見えず、西域の守りも自然脆弱たるをまぬがれまい――と見て孔明が、この再挙の機をとらえて、表を上せてきたものであることは、すでに言外にあふれている。
もとより帝はこれをゆるした。
楊儀は直ちに漢中へ急ぎ帰った。
詔を拝すと、孔明は、
「いざ、征かん」
約半歳余の慎重な再備と軍紀に結集された蜀の士馬三十万を直ちに起して、陳倉道へ向って進発した。
この年、孔明四十八歳。――時は冱寒の真冬、天下に聞ゆる陳倉道(沔県の東北二十里)の嶮と、四山の峨々は、万丈の白雪につつまれ、眉も息も凍てつき、馬の手綱も氷の棒になるような寒さであった。
三
魏の境界にある常備隊は、漢中のうごきを見るや、大いに愕いて、
「孔明ふたたび侵寇す。蜀の大軍無慮数十万。いそぎ防戦のお手配あれ」
と、この由を、都洛陽へ伝令した。
洛陽の空気もこのところ決して楽観的なものでなかった。呉からうけた一敗の打撃はたしかにこたえている。蜀に全力を傾けんか、呉のうかがうものあらんことが思われ、呉へ向わんか、蜀のうごきが見遁しがたい。そういう精神的な両面戦への気づかいに加えて、先頃の曹休が招いた大敗とは、すくなからずその自信を失墜させていた。
「――果たして、孔明はまた襲ってきた。長安の一線を堅守して、国防の完きを保つにはそも、たれを大将としたらよいか」
魏帝曹叡は、群臣をあつめて問うた。席には、大将軍曹真もいた。曹真は面目なげにこういった。
「臣、さきに隴西に派せられ、祁山において孔明と対陣し、功すくなく、罪は大でした。ひそかに慙愧して、いまだ忠を攄ぶることができないのを辱かしく思っております。ところが、近ごろ一人のたのもしき大将を得ました。彼はよく六十斤にあまる大刀を使い、千里の征馬に乗ってもなお鉄胎の強弓をひき、身には二箇の流星鎚を秘し持って、一放すればいかなる豪敵も倒し、百たび発して百たびはずすことがありません。――ねがわくはこの者こそ、このたびは臣の先鋒にお命じ賜わらんことを」
善智の材、猛勇の質を求めること、今ほど急なるときはない。魏帝は勅してすぐその者を呼ばせた。殿上に一怪雄があらわれた。身の丈七尺、眼は黄、面は黒く、腰は熊のごとく背中は虎に似ている。しかもそれに盛装環帯して、傲岸世に人なきが如き大風貌をしている。
「おお、偉なり偉なり」
と曹叡は歓び眺めて、
「彼の産はどこか」
と曹真へたずねた。曹真は、わがことのように誇って、
「王双、直答申しあげよ」
と、促した。
王双は伏して奉答した。
「隴西狄道の生れ、王双、あざなは子全と申す者であります」
「すでにこの猛将を得、全軍の吉兆といわずしてなんぞ、蜀軍来るも、また患はない」
魏帝は、即座に、彼を前部大先鋒に任じ、また虎威将軍の号を以てその職に封じた。
さらに、また、
「これは汝の偉躯に似合うであろう」
と、鮮やかな錦の戦袍と黄金の鎧とを、王双に賜わった。
そして、曹真になお、
「辱じて辱に怯むな。ふたたび大都督として戦場に征き、さきの戦訓を生かして、孔明をやぶれ」
と、前のとおり総司令官たるの印綬をさずけた。
曹真は、恩を謝して、洛陽の兵十五万をひきつれ、長安へ行って、郭淮や張郃らの軍勢と合した。そして前線諸所の要害に配し、防戦のそなえを万端ととのえ終った。
すでに漢中を発した蜀軍は、陳倉道を進んでくるうちに、ここの隘路と三方の嶮を負って、
(通れるものなら通ってみよ)
といわんばかりに要害を構えている一城にぶつかっていた。これなん先に魏が孔明の再征を見越して、早くも築いておいた陳倉の城で、そこを守る者も、忠胆鉄心の良将、かの郝昭なのであった。
「この大雪。この嶮路。加うるに魏の郝昭が要害に籠っていては、とても往来はなりますまい。如かず、道をかえて、太白嶺の鳥道をこえ、祁山へ打って出てはいかがでしょう」
蜀の諸将は孔明にいった。
孔明は容れない。
「この一城をだに攻め陥せないようなことでは、祁山へ出た所で、魏の大軍には剋てまい。陳倉道の北は街亭にあたる。この城を落して、味方の足溜りとなせ」
すなわち魏延に攻撃の命を下し、連日これを攻めさせたが、城はゆるぎもしなかった。
四
ときに陣中に勤祥という者があった。その勤祥は、城方の守将、郝昭とは、もともと同郷の友であったと、自ら名乗り出て、孔明に献言した。
「ひとつ私を、城下まで出して下さい。郝昭とは、ずいぶん親しかった間がらでしたが、自分が西川に流落して以来、つい無沙汰のままに過ぎていました。懇々、利害を説いて、彼に降伏するように勧めてみます」
孔明は、望むところと、その乞いをゆるした。
勤祥は、城門の下へ行って、
「友人の勤祥である。久しぶりに郝昭に会いたくてやって来た」
と城中へ申し入れた。
郝昭は、櫓から一見して後、昔の友と見さだめると、門を開いて、なつかしげに迎え入れた。
「ずいぶん久しかったなあ」
「足下も達者で何よりだ」
「ときに君は、いったい何しにやって来たのかね?」
「ぜひ、足下に、ひき会わせたい人があるからだ」
「ほう。誰を」
「もちろん、それはわが諸葛孔明だがね」
聞くと共に郝昭は、勃然と色を変じて、
「帰ってくれ給え。帰れ」
「足下は何を怒るのか」
「我は魏に仕え、君は蜀に仕えておる。その語をあらわすなら、友として会うことはできない」
「いや、友なればこそ、こうして足下のために来たのじゃないか。一体、足下は、この城中に何千の兵を擁して、不落を誇っているのか、そしてわが蜀軍が何十万あるか、足下はその眼で見ないのか。勝敗はすでに知れておる。可惜、足下ほどな英質を持って」
「だまれっ」
郝昭はやにわに席を突っ立ち、城門のほうを指さした。
「帰り給え。足もとの明るいうちに」
「いや、このままでは帰らん。それがしも、この友情と、味方の嘱をうけて来たものだ」
「よろしい。――おいっ、誰か来い」
郝昭は、部下の将を呼んで、眼の前で命じた。
「お客様を馬の背に縛りつけてあげろ」
「はっ」
部将は、馬をひいて来て、有無をいわせず、勤祥を馬の背に押しあげた。そして、城門を開けさせると、郝昭自身、槍の柄でその馬の尻をなぐった。
馬は城外へ向ってすっ飛んで行った。勤祥はありのままを孔明に復命し、
「いやどうも、むかしながら義の固い男です」
と、懲々したように云った。
しかし孔明は、もう一度行ってさらに利害を説けと命じた。郝昭の人物が惜しまれていたのである。勤祥は、甲衣馬装を飾って、今度は堂々と城の壕ぎわに立った。
「郝伯道やある。ふたたび、われの忠言を聞け」
こう城へ向っていうと、やがて郝昭は、櫓の上に姿をあらわして、
「孺子。何の用やある」と、いった。
勤祥は、また説いた。
「量るに、この一孤城、いかんぞ蜀の大軍を防ぎ得べき。わが丞相は、足下の英才を惜しんでやまぬゆえに、ふたたびそれがしをこれへ差向けられたものだ。この機を逸せず、門を開いて、蜀に降り、また、この勤祥とも、長く交友の楽しみを保て」
「いうをやめよ。汝とそれがしとは、なるほど、かつては相識の友であったが、弓矢の道では、知り合いでもない。いったん魏の印綬をうけ、たとえ一百の寡兵なりと、この身を信じて預け賜ったからには、その信に答うる義のなかるべきや。われは武門、汝は匹夫。いま一矢を汝に与えぬのも、武士のなさけだ。戦の邪魔、疾く疾く失せよ」
姿を櫓の上からかくすと、忽ちおびただしい矢弾が空に唸った。勤祥はぜひなく立ち戻って、
「私の手にはおえません」
と、ついに孔明の前で匙を投げてしまった。孔明は、一言に決した。
「よし、この上は、自身指揮して踏みやぶるまでのことだ」