尉霊大望

 奮迅奮迅、帰るも忘れて、呉の勢を追いかけた関興は、その乱軍のなかで、父関羽を殺した潘璋に出会ったのである。
 やわか遁すべき――逃げ走る潘璋を追ってついに山の中まで入ってしまった。が、その仇は惜しや見失ってしまい、道に迷って闇夜の山中をさまよっていたのだった。
 一軒の山家から灯がもれていたので、立ち寄って一飯一宿の恩を乞うと、
「さあ、どうぞ」と、ひとりの老翁が柴の戸をあけて内なる一堂へ導いた。あっと、関興はそこに立つや否、愕いて拝伏した。正面の小さい壇に明々と燈火を照らし、亡父関羽の画像が祀られてあるではないか。
「老翁。わしの父とこの家と、どういう縁故があったのか」
「では、あなた様は、関将軍のご子息でございますな」
「されば、その関興だが」
「この地は、かつて関将軍が治め給うた領地でした。将軍の生けるうちすら、わたくしどもはご恩徳を頌えて、家ごとに朝夕拝しておりました。いわんや今、神明と帰し給うをや」
 老翁は、そういって、関興をねぎらい、この奇縁をよろこび、床下に蓄えていた酒瓶を開いて夜もすがら歓待した。
 すると深夜、外から扉を烈しく叩く者があって、
「開けろ。ここを開けろ。それがしは呉の大将潘璋だが、道に迷って困却いたした。朝まで母屋を貸してくれ」と、大声して訪れた。
 関興は突っ立って、
「あらふしぎ。これぞ亡父の引き合わせであろう」と、外へ躍り出るや否、
「父の仇、潘璋、逃げるなかれ」と、組みついた。
 不意をくった潘璋は、組敷かれて、ついに首を掻かれてしまった。関興は歓喜して、その首を馬の鞍わきにくくりつけ、老翁に別れを告げて立ち去った。
 すると麓のほうから潘璋の部下の馬忠が上がってきた。見ると、主人の首を鞍につけた若武者が降りてくる。しかもその手に抱えているのは、主人潘璋が、関羽を討ったとき功によって呉王から賜った、関羽が遺愛の有名なる偃月の青龍刀だ。
「やあ、何奴なれば」と、怒髪を逆だてるなり馬忠は打ってかかった。関興はオオッと迎えて、これも父の仇の片割れ、いざ来いと、力を尽して闘った。
 ときに一彪の軍馬が炬火を振って登ってきた。玄徳の命をうけて、関興を探しにきた張苞の一軍だった。
「すわ、大敵」と、馬忠は逃げてしまった。張苞、関興のふたりは手をたずさえて味方の本陣へ帰り、帝にまみえて潘璋の首を献じた。
 会戦このかた、連戦連敗の呉軍は、また潘璋を亡ってから、士卒のあいだには、
「とても蜀にはかなわぬ」
 という空気がどことなく漂ってきた。
 もともとこの軍には、さきに関羽を離れて、呉の呂蒙へ降参した荊州兵が多かったので、蜀帝にたいしては戦わないうちから一種の畏怖を抱いていたし、中には二心の者も相当にあった。
 それらの兵は、この負け続きの虚に乗って、
「蜀の天子が憎んでいるものは、蜀を裏切って、関将軍を敵に売った糜芳、傅士仁の二人だ。だからあの二人の首を取って、蜀帝の陣に献上申せば、きっと重き恩賞を下さるにちがいない」
 と、寄り寄りささやいて、不穏な兆候をあらわした。
 糜芳、傅士仁は、身の危険を感じだすと、
「これは油断がならん。味方のうちからいつ暴動が起るかもしれない。蜀帝の憎み給うものは、むしろ馬忠にちがいない。いま、われらして馬忠の首を持ち、蜀帝のまえに赴いて前非を悔ゆるなら、きっとお許しあるは疑いもないことだ」
 と相談して、自分たちの首を取られない前に、一夜彼らは馬忠の寝首を掻いた。そしてその首を取るや否、脱走して蜀の陣へ駈け込んでしまった。

 糜芳と傅士仁のふたりを脚下に見ると、帝玄徳は怒龍のごとき激色をなして罵った。
「見るも浅ましき人非人ども、なんの面目あってこれへ来たか。ひとたび窮すれば、関羽を呉へ売り、ふたたび窮すれば、呉を裏切って馬忠の首を咥え来る。その心事の醜悪、行為の卑劣、犬畜生というもなお足らぬ。もし汝らをゆるさば百世の武門を廃らし、世の節義は地に饐えるであろう。さらに関羽の霊位に対しても、断じて生かしておくことはできない。――関興関興、この仇二人は汝に授ける。首を刎ねて、父の霊を祭るがよい」
 関興は、雀躍りして、
「ありがとうございまする」
 と両手にふたりの襟がみをつかんで、関羽の霊前まで引きずって行き、首を斬ってそこに供えた。
 本望をとげた彼のよろこびに引き代えて、張苞は、ひとりしおれていた。帝はその心事を察して、
「まだ汝の亡父を慰めてやれぬが、やがて呉の国に討入り、建業城下に迫る日は、必ず張飛の仇もそそがずにはおかぬ。張苞よ、悲しむなかれ」と、いたわった。
 ところがこの頃すでに、その仇なる范疆張達の両人は、身を鎖で縛められ、檻車に乗せられて、呉の建業から差し立てられ、道中駅路駅路で庶民の見世物に曝されていたのであった。
 なぜかというに。
 相次ぐ敗戦の悲報で、呉の建業では、常に保守派とみられる一部の重臣側から、急激に和平論が擡頭していた。この一派の意見としては、
(もともと、蜀は呉と結びたがっていたものだ。それが今日のように国を挙げて敵愾心を奮い起して攻めてきたのは呂蒙潘璋、傅士仁糜芳などに対する憤怒で、今はそれらの者もみな亡んでしまった。残っているのは、范疆張達の二名に過ぎない。しかしあんな人物のために、呉がおびただしい代償を払う理由などは毫もない。早々召捕って、張飛の首と共に、蜀の陣へ返してやるべきである。――そして荊州の地も玄徳へもどしてやり、呉妹夫人ももとの室へお送りあるように、表を以て和を求めたなら、蜀軍はたちまち旗を収め、これ以上、呉が天下に威信を墜とすことはないであろう。現状の推移にまかせていたら、ついにこの建業の城下に蜀の旗を見るような重大事に立ちいたるやも測り知れぬ)
 というのであって、それには勿論、主戦派の猛烈な論争も火の如く駁されたが、結局、一日戦えば一日呉の地が危なく見えてきたので、孫権もそれに同意する結果となってしまったのである。
 で、程秉を使者として、書簡をささげて、猇亭へいたらしめた。すなわち彼は、檻車の中に囚えてきた范疆張達の二醜に添うるに、なお沈香の銘木で作った匣に塩浸しとした張飛の首を封じ、併せて、蜀帝玄徳の前にさし出した。
 玄徳はこれを収めた。
 そして、二醜は、
「孝子へ与えん」
 と、張苞の手にまかせた。
 張苞は、額をたたいて、
「これぞ、天の与えか」
 と、躍りかかって、檻車の鉄扉を開き、ひとりひとりつかみ出して、猛獣を屠殺するごとく斬り殺した。
 そして、二つの首を、父の霊に供えて、おいおい声をあげて哭いた。呉の使いの程秉はそれをながめておぞ気をふるった。
 玄徳は沈黙している。そこで程秉が、
「主君の仰せには、呉妹君をもとの室へお返しして、ふたたび長く好誼をむすびたいと、切にご希望しておられる次第ですが」
 と回答をうながした。
 玄徳は、明瞭に、その媚態外交を、一蹴した。そして、
「朕のねがいはこれしきの事にとどまらん。呉を討ち、魏を平げ、天下ひとつの楽土を現じ、光武の中興に倣わんとするものである」
 と明らかに宣した。

前の章 出師の巻 第24章 次の章
Last updated 1 day ago