関羽一杯の酒

 汜水関のほうからは、たえず隠密を放って、寄手の動静をさぐらせていたが、その細作の一名が、副将の李粛へ、ある時こういう報告をしてきた。
「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。おかしいのは兵站部から炊煙がのぼらないことです。まさか、喰わずに戦っているわけでもないでしょうが」
 李粛は、それを聞きおいて、次の日、べつな方面から、また二名の細作を呼び寄せて質した。
「近頃、寄手の後方に変りはないか」
「敵の糧道はどうだ」
「ここ一ヵ月半ばかり、糧車は通ったことはありません」
 李粛はうなずいて、もう一名の細作へ向い、
「敵の馬は、よく肥えているか」
「このごろ妙に痩せてきたように見られます」
「敵の兵隊は、どんな歌を謡うか」
「慕郷の歌をよく謡っています」
「よろしい」
 細作たちを退けると、李粛はすぐに、大将華雄に会って、一策を献じた。
「寄手の孫堅を生擒ってしまう時がきました。こよい手前は、一軍をひいて間道から敵の後ろへまわり、不意に夜討ちをかけますから、将軍は火光を合図に関門をひらき、正面から一挙に押し出してください」
「成功の見込みがあるかね」
「ありますとも。てまえが探り得たところでは、孫堅はなにか疑われて、後方の味方から兵糧の輸送を絶たれているようです。そのため兵気はみだれ、戦意は昂らず、ここ内紛を醸しておるようです。――今こそ、孫堅の首は、手に唾して奪るべしです」
「そうか。――今夜は月明だな」
「絶好な機ではありませんか」
「よし、やろう」
 秘策は、夕方までに一決した。
 その夜、李粛は、一軍の奇兵をひいて、月明りをたよりに、間道をすすみ、梁東の部落を本拠に布陣している寄手の背後へまわって、突如、喊の声をあげた。
「わあッ――、わあッ」
 闇にまぎれて、孫堅の幕中へ突き入り、諸所へ火を放ち、弓の弦を切って迫った。
 梁東の空に、赤い火光を見ると、かねての手筈である、華雄は、汜水関の大扉を、八文字にひらかせて、
「それっ、孫堅を生擒りにしてこの門へ迎え捕れ」
 と、ばかり万軍の中に馬を駆って、あたかも峡谷を湧きでる山雲のように、関下へ向って殺到した。
 なんでたまろう。梁東の寄手は、たちまち駆けみだされた。
「退くな」
「あわてるな」
 と、孫堅旗本は、善戦して部下を励ましたが、その兵は、甚だしく弱かった。
 一ヵ月も前から、なぜか、味方の後方から兵糧の輸送が絶えていたため、彼らは不平に燃え、軍紀は行われず、兵も痩せ、馬も痩せていたからである。
「無念」
 と、思ったが孫堅も、ほどこす術がなかった。
 旗本程普とか黄蓋などとも駈け隔てられてしまい、祖茂という家来一人をつれたのみで、遂に、みじめな敗戦の陣地から、馬に鞭打って逃げ走った。
 それと見るや、敵将の華雄は、飛ぶが如く馬を打って、
孫堅、卑怯なり、返せっ」
 と呼ばわった。
「何を」
 孫堅は、振向いて馬上から、弓をもってそれに酬いた。二すじまで射たが、弓はみな反れた。焦心りながら、第三矢をつがえたが、あまり強く引いたので、弓は二つに折れてしまった。

「しまったッ――」
 折れた弓を投げ捨てて、孫堅また駒をめぐらし、林の中へと逃げ入った。
「ご主君、ご主君」
 祖茂は、馳けつづいて来ながら、孫堅にいった。
「――盔をお脱りなさい。あなたの朱金の盔は、燦として、あまりに赤いから眼につきます。敵の目印になります」
「や、そうか」
 道理で、ひどく追い矢が集まると思い当ったので、孫堅は頭にかぶっていた「幘」という朱金襴の盔を手ばやく脱いで、焼け残りの民家の軒柱へそれをかけ、あわてて附近の密林へかくれこんでいた。
 見ていると、――案のじょう、その盔へ雨霰のように、敵の矢が飛んできた。
 だが、いくら射ても、射ても盔は燦爛として、位置も変らないので、射手の兵は怪しみだし、やがて近づいてきて、
「や、孫堅はいない」
「盔ばかりだ」と、立騒いでいた。
 林の上に、月は煌として冴えていた。白影黒影、さながら魚群の泳ぐように、孫堅の行方をさがし求めている。
 その中に、華雄の姿もあった。
 孫堅の臣、祖茂は、木かげに潜っていたが、それを見るとむらむらとして、
「うぬっ、董賊の股肱めッ」と、槍をしごいて、突かんとした。
 眼ばやく、ちらと、こちらへ眸をうごかした華雄は、
「敗残の匹夫、そこにいたかッ」
 と、雷喝した声は、まるで大樹も裂くばかりで、刃鳴一閃のもとに祖茂の首は飛んでしまった。
 青い血けむりを後に、
「誰か、今の首を拾って来い」
 と、兵に云い捨てて華雄は悠々とほかへ駒を向けて立去った。
「……ああ、危なかった」
 後に。――孫堅はほっと辺りを見まわしていた。首のない祖茂の胴体がほうりだされてあるすぐ近くの灌木の茂みの中に、孫堅も息をこらして潜んでいたのである。
「……祖茂よ、ああ惨だ」
 孫堅は落涙した。祖茂が日ごろの忠勤を思い出して、胸が痛んだ。
 さはいえ、敵の重囲のなかだ。孫堅は気を取り直して、血路を思案した。矢傷の苦痛もわすれて二里ばかり歩いた。
 やがて、逃げのびてきた味方を集めたが、それは全軍の十分の一にも足らない数だった。ほとんど、全滅的な敗北を遂げたのである。
 悲痛なる夜は明けた。
 敗れた者の傷魂のように、その晩、残月のみが白かった。
「先鋒の味方は全滅したぞ」
「敵の大軍は、勝ちに乗って刻々迫って来つつある――」
 後方の本陣は大動揺を起した。
 総帥の袁紹、唯幕の曹操、みな色を変えた。
 前には。
 鮑将軍の弟の鮑忠が、抜けがけをして、かなりの味方を損じたという不利な報告があったし、今また、先鋒の孫堅が、木ッ端微塵な大敗をこうむったという知らせに、幕営の諸将も、全軍の兵気も、
「いかがすべき?」と、いわんばかり、すっかり意気沮喪の態であった。
 それか、あらぬか。
 袁紹曹操を始めとして、十七鎮の諸侯は、その日、本営の一堂に会して、頽勢挽回の大作戦会議をこらしていた。けれど、敵軍の旺なことや、敵将華雄の万夫不当の勇名に圧しられてか、なんとなく会も萎縮していた。
 総帥の袁紹も、はなはだ冴えない顔をしていたが、ふと座中の公孫瓚のうしろに立って、ニヤニヤ笑みをふくんでいる者が眼についたので、
公孫瓚、貴公のうしろに侍立している人間は誰だ。いったい何者だ」
 と、質した。――不愉快な! といわんばかりな語気をもってである。

 袁紹に訊ねられて、公孫瓚は、自分のうしろをちょっと振向いて、
「あ、この者ですか」と、それを機に一堂の諸将軍へも、改めて紹介した。
「これは涿県楼桑村の生れで、それがしとは幼少からの朋友です。劉備字は玄徳といって、つい先頃までは、平原県の令を勤めていた者です。――どうかよろしく」
 曹操は、眼をみはって、
「オオ、ではかつて、黄巾の乱の折、広宗の野や潁川地方にあって、武名を鳴らした無名の義軍を率いていた人か」
「そうです」
「道理で――どこかで見たことがあるような気がしていたが。……そうそう潁川の合戦で、賊を曠野につつんで焼打ちした時、陣頭でちょっと会釈を交わしたことがある。だいぶ前になるので、とんと見忘れていた」
 袁紹も、初めて疑いを解いて、ぶしつけな質問をした不礼を詫び、
楼桑村に名族の子孫ありとはかねがね耳にしていた。その玄徳どのとあれば、漢室の宗親である。誰か、席を与え給え」と、いった。
 一将軍が、座を譲って、
「おかけなさい」と、すすめると、玄徳は初めて口をひらいて、
「いやいや、私は、将軍方とは比較にならない小県の令です。身分がちがいます。どうして諸公と並んで席に着けましょう。これで結構です」
 と、かたく辞退し、そのまま公孫瓚のうしろに侍立していた。
 袁紹はかぶりを振って、
「ご遠慮には及ぶまい。なにもご辺の公職に席を上げようといったのではなく、ご辺の祖先は前漢の帝系であり、国のため功績もあったことだから、それに対して敬意を払ったわけだ。遠慮なく席に着かれるがよい」
 公孫瓚も、共にいった。
「折角のご好意だから、頂戴したがよかろう」
 諸将軍も、またすすめるので、
「――では」
 と玄徳は、堂上の一同へ、拝謝をした上、初めて一つの席を貰った。
 で、関羽張飛のふたりは、歩を移して、改めて玄徳の背後に屹と侍立していた。
 ――時しも。
 暁天に始まって、すでに半日の余にわたる大戦は、いよいよたけなわであった。
 先頃からの勝ちに誇って、
「十八ヵ国十七鎮の大兵と誇称するも、反逆軍は烏合の勢とみえたり。何ほどのこともないぞ」
 と、甘く見た華雄軍は、その擁する洛陽の精兵を挙げて、孫堅の一陣を踏みちらし、勢いに乗って汜水関の守りを出たものであった。そしてすでに数十里を風が木の葉を捲くごとく殺到し、鼓は雲にひびき、鬨の声は、山川をゆるがし、早くも、ここ革新軍の首脳部たる本陣の間近まで迫って来たらしくある。
「味方の二陣は、ついに、突破されました」
「三陣も!」
「残念。中軍もかき乱され、危うく見えます」
 刻々の敗報である。
 そして、敵の華雄軍は、長い竿の先に孫堅の朱い盔をさしあげ、罵詈悪口をついて、大河の如くこれへ襲せてくる――という伝令のことばだった。

 ひきもきらぬ伝令が、みな味方の危機を告げるばかりなので総大将袁紹をはじめ、満堂の諸将軍もさすがに色を失って、
「いかがせん!」と、浮腰になった。
 曹操は、さすがに、
「狼狽してもしかたがない。こんな時は、よけい胆気をすえるに限る」
 と、侍立の部下をかえりみて、
「酒を持ってこい」と、命じた。
「はっ」
 酒杯は、各将軍の卓にも、一ツずつ置かれた。曹操は、杯をもつと、ぐびぐび飲んでいた。
 わあっッ……
 うわあっ
 百雷の鳴るような鬨の声だ。大地が、ぐわうぐわうと地鳴りしている。
 また、血まみれの斥候が一名、堂の階下へ来て、
「だっ、だめですっ」
 絶叫してこときれてしまった。
 すぐまた、次の二、三騎が、
「味方の中軍は、敵の鉄兵に蹂躙され、ために、四散して、もはやここの備えも、手薄となりました」
「本陣を、至急、ほかへ移さぬと危ないと思われます。包囲されます」
「あれあれ、あの辺りに、もはや敵の先駆が――」
 告げ来り、告げ去り、もはやここの本陣も、さながら暴風の中心に立つ一木の如く、枝々みな震い樹葉みなふるえた。
「つげ」
 曹操は、部下に酒をつがせ、なお腰をすえていたが、酔うほどに蒼白となった。
「包囲されては」と、早くも、本陣の退却を、ひそひそ議する者さえある。
 酒どころか、諸将軍の顔の半分以上は、土気色だった。
 万丈の黄塵は天をおおい、山川草木みな血に嘯く。
 ――時に、突如席を立って、
「云いがいなき味方かな。このうえは、それがしが参って、敵勢をけちらし、味方の頽勢を一気にもり返してお目にかけん」
 と、咆ゆるが如くいって、はや剣を鳴らした者がある。
 袁紹将軍の寵将で、武勇の誉れ高い兪渉という大将であった。
「行け」
 袁紹は、壮なりとして、彼に杯を与えた。
 兪渉は、ひと息に飲んで、
「いでや」とばかり、兵を引いて、敵軍のまっただ中へ駆け入ったが、またたく間に、彼の手兵は敗走して来て、
「兪渉将軍は、乱軍の中に、敵将華雄と出会って、戦うこと、六、七合、たちまち彼の刀下に斬って落された」
 とのことに、満堂の諸侯は、驚いていよいよ肌に粟を覚えた。
 すると、太守韓馥が、
「さわぎ給うな。われに一人の勇将あり。いまだかつて、百戦におくれをとったことを知らない潘鳳という者である。彼なれば、たやすく華雄を打取ってくるにちがいありません」
 袁紹は、よろこんで、
「どこにおるか、その者は」
「たぶん、後陣の右翼におりましょう」
「すぐこれへ呼べ」
「はっ」
 潘鳳は、召しに応じて手に大きな火焔斧をひっさげ、黒馬をおどらして、本陣の階下へ馳けて来た。
「いかさま、頼もしげなる豪傑だ。すぐ馳け入って、敵の華雄を打取ってこい」
 袁紹の命に潘鳳はかしこまって、直ちに乱軍の中へはいって行ったが、間もなく潘鳳もまた、華雄のために討ち取られ、その首は、敵の凱歌の中に、手玉にとられて、敵を歓ばしめているという報らせに、満堂ふたたび興をさまし、戦意も失ってしまったかに見えた。

 袁紹は、股を打って嘆声を発した。
「ああ、惜しいかな。こんなことになるならば、わが臣下の、顔良文醜の二大将をつれて来るのだったに」
 席を立って、地だんだを踏んだり、また席に返って、嗟嘆をつづけた。
「その顔良文醜の両名は、後詰めの人数を催すために、わざと、国もとへのこして来てしまったが、もしそのうちの一人でもここにいたら敵の華雄を打つことは、手のうちにあったものを! ……」
 と、一座は黙然。
 袁紹の叱咤ばかり高かった。
「ここには、国々の諸侯もかくおりながら、その臣下に、華雄を討つほどの大将一人持っていないとあっては、天下のあざけりではあるまいか。後代までの恥辱ではあるまいか」
 とはいえ、総帥の彼自身が、すでに及ばぬ悔いばかり呶鳴って、焦躁に駆られているので、満座の諸侯とて言葉もなく、皆さしうつ向いているばかりだった。
 すると、その沈痛を破って、
「ここに人なしとは誰かいう。それがし願わくば、命ぜられん。またたく間に、華雄が首をとって、諸侯の台下に献じ奉らん」と、叫んだ者があった。
 諸人、驚いて、
「誰か」
 と、階下を見ると、その人、身の丈は長幹の松の如く、髯の長さ剣把に到り、臥蚕の眉、丹鳳の眼、さながら天来の戦鬼が、忽として地に降りたかと疑われた。
「彼は、何者か。いったい誰の手に属している大将か」
 袁紹が訊ねると、公孫瓚、それに答えて、
「されば、ここにおる玄徳の弟で、関羽という者です」
「ほ。玄徳の弟か。して、いかなる官職にあった者か」
「玄徳の部下として、馬弓手をやっていたそうです」
 聞くなり袁紹は非常に怒って関羽を見下し、
「ひかえろ、汝、足軽の分際でありながら、諸侯の前もはばからず、人もなげなる広言。この忙しない軍中にいけ邪魔な狂人めが、――やおれ部下どもこの見ぐるしい曲者を、眼のまえから追いのけろっ」
 と大喝して叱った。
 すると、曹操が諫めて、
「待ち給え。味方同士、怒り合っている場合でない。この人物も、かく諸侯列座のまえで、大言をはくからには、よもいたずらのたわ言とは思えん。試みに、駆け向わせてみたら如何でしょう。もし敗れて逃げ帰って来たら、その上で罰をただし給え」
「いや、曹操の仰せも、一理あるが如しとはいえ、足軽者の馬弓手などを出して駆け向わせたら、敵の華雄に笑われて、よい土産ばなしと、洛陽までもいい伝えられようが」
「笑わば笑え。曹操が見るところでは、この男、一馬弓手とはいえ、世の常ならぬ面だましいを備えおる。――はや敵も間近、時おくれては、この本陣も蹂躙されん。是非の軍法は後にして執り行えばよし。――関羽関羽。この酒をひと息のんで、すぐ駆け向え。はや戦え」
 曹操が、酒をついで与えると、関羽は、杯を眺めただけで、再拝しながら、
「ありがたい御意ですが、そこにお預かりおき下さい。ひと走り行って、華雄の首を引ッさげ帰り、お後で頂戴いたしますから」
 と、八十二斤と称する大青龍刀を横ざまに擁し、そこにあった一頭の馬をひきよせ、ぱっと腰を鞍上へ移すや否、漆黒の髯は面から二つに分かれて風を起し、たちまち戦塵のなかへ姿を没してしまった。

 関羽の揮う青龍刀の向うところ、万丈の血けむりと、碧血の虹が走った。
 はるかに、味方の陣を捨て、むらがる敵軍の中へ馳け入るなり、
華雄やある。敵将華雄はいずれにあるぞ。わが雄姿に恐れをなして潜んだるか。出合えっ」
 と、呼ばわった。猛虎が羊の群れを追うように、数万の敵は浪打って散った。
 喊の声は、天地をつつみ、鼓声はみだれ、山川もうごくかと思われた。
 此方――敗色にみなぎっていた味方の本陣では、彼の働きに、一縷ののぞみをかけて、
「戦況いかに?」
 と、袁紹曹操をはじめ、国々の諸侯みな総立ちとなって、帷幕のうちから、戦いの空を見まもっていた。
 すると、やがて。
 敵も味方も、鳴りを忘れて、ひそとなった一瞬――まるで血の池を渡って来たような黒馬にまたがって、関羽は静々と、数万の敵兵をしり目に、袁紹曹操たちの眼のまえに帰ってきた。
 ひらと、駒を降りるや、
「いざ、諸侯のご実検に」
 と、階を上がって、中央の卓の上に、まだ生々しい一個の首級を置いた。
 それは、敵の大将、華雄の首であったから、満堂の諸侯も、階下の兵も、われをわすれて、
「おお、華雄だ」
華雄の首を打った」
 と、期せずして、万歳をさけぶと、その動揺めきに和して、味方の全軍も、いちどに勝鬨をあげた。
 関羽は、数歩すすんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまま、先に預けておいた酒杯を取りあげて、
「――では、このご酒を、頂戴いたします」
 と、胸を張って、ひと息に飲みほした。
 酒は、まだあたたかだった。
 曹操は、彼の労を多として、
「見事だ。もう一献、ついでやろう」
 と、手ずから瓶を持つと、
「いや、ひとりそれがしの誉れとしては済みません。どうか、その一献は、全軍のために挙げて下さい」
「そうか。いかにも。――では万歳を三唱しよう」
 酒杯を持って、曹操が起立すると、ふたたび破れんばかりな勝鬨の嵐が起った。
 すると、玄徳のうしろから、
「あいや、勝利に酔うのはまだ早い。義兄関羽が、華雄を斬ち取ったからには、此方とても、ひと手柄してみせる。この機をはずさず、全軍をすすめ給え。此方、先鋒に立ってまたたくまに洛陽へ攻め入り、董相国を生擒って、諸侯の階下にひきすえてお見せ申さん」と、誰か叫んだ。
 人々が、振向いてみると、それは一丈八尺の蛇矛を突っ立てて玄徳のそばに付いていた張飛であった。
 袁紹の弟、袁術は、にがにがしげに見やって、
「いらざる雑言を申すな。諸侯高官、国々の名将も、各〻、謙譲の口をとじて、さし控えておるに、汝、一県令の部下として、身のほどをわきまえんか。僭上なやつだ。だまれっ」
 と、叱った。
 曹操が、なだめると、袁術はなおつむじを曲げて、
「かような軽輩を用いて、吾々と同視するなら、自分は自分の兵をまとめて、本国へ帰る」
 と、憤然としていった。
 むずかしくなりそうなので、曹操は、公孫瓚に告げて、玄徳、関羽張飛の三人を、席から退かした。
 そして、夜になってから玄徳のところへ、ひそかに酒肴を贈って、悪く思わないようにと、三名の心事を慰めた。

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