関羽千里行
読了時間:約23分一
時刻ごとに見廻りにくる巡邏の一隊であろう。
明け方、まだ白い残月がある頃、いつものように府城、官衙の辻々をめぐって、やがて大きな溝渠に沿い、内院の前までかかってくると、ふいに巡邏のひとりが大声でいった。
「ひどく早いなあ。もう内院の門が開いとるが」
すると、ほかの一名がまた、
「はて。今朝はまた、いやにくまなく箒目立てて、きれいに掃ききよめてあるじゃないか」
「いぶかしいぞ」
「なにが」
「奥の中門も開いている。番小屋には誰もいない。どこにもまるで人気がない」
つかつか門内へ入っていったのが、手を振って呶鳴った。
「これやあ変だ! まるで空家だよ!」
それから騒ぎだして、巡邏たちは奥まった苑内まで立ち入ってみた。
するとそこに、十人の美人が唖のように立っていた。
「どうしたのだ? ここの二夫人や召使いたちは」
巡邏がたずねると、美姫のひとりが、黙って北のほうを指さした。
――その朝、曹操は、虫が知らせたか、常より早目に起きて、諸将を閣へ招き、何事か凝議していた。
そこへ、巡邏からの注進が聞えたのである。
「――寿亭侯の印をはじめ、金銀緞匹の類、すべてを庫内に封じて留めおき、内室には十美人をのこし、その余の召使い二十余人、すべて関羽と共に、二夫人を車へのせて、夜明け前に、北門より立退いた由でございます」
こう聞いて、満座、早朝から興をさました。猿臂将軍蔡陽はいった。
「追手の役、それがしが承らん。関羽とて、何ほどのことやあろう。兵三千を賜らば、即刻、召捕えて参りまする」
「いや待て。――われにこそ無情いが、やはり関羽は真の大丈夫である。来ること明白、去ることも明白。まことに天下の義士らしい進退だ。――其方どもも、良い手本にせよ」
蔡陽は、赤面して、列後に沈黙した。
すると程昱は、彼に代って、
「関羽には三つの罪があります。丞相のご寛大は、却って味方の諸将に不平をいだかせましょう」
と、面を冒して云った。
「一、忘恩の罪。二、無断退去の罪。三、河北の使いとひそかに密書を交わせる罪――」
「でも今――みすみす彼が河北へ走るのを見のがしては、後日の大患、虎を野へ放つも同様ではありませぬか」
「さりとて、追討ちかけて、彼を殺せば、天下の人みな曹操の不信を鳴らすであろう。――如かず! 如かず! 人おのおのその主ありだ。このうえは彼の心のおもむくまま故主のもとへ帰らせてやろう……。追うな、追うな。追討ちかけてはならんぞ」
二
ついに関羽は去った!
自分をすてて玄徳のもとへ帰った!
辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。
「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」
憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。
来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。
「…………」
けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛は、胸中の苦悶をしばだたいた。
「いま関羽を無事に国外へ出しては、後日、かならず悔い悩むことが起るに相違ない。殺すのは今のうちだ。今の一刻を逸しては……」
と、ひそかに腕を扼し、足ずりして、曹操の寛大をもどかしがっていた。
曹操はやがて立ち上がった。
そして、あたりの諸大将に云った。
「関羽の出奔は、あくまで義にそむいてはいない。彼は七度も暇を乞いに府門を訪れているが、予が避客牌をかけて門を閉じていたため、ついに書をのこして立ち去ったのだ。大方の非礼はかえって曹操にある。生涯、彼の心底に、曹操は気心の小さいものよと嗤われているのは心苦しい。……まだ、途も遠くへはへだたるまい。追いついて、彼にも我にも、後々までの思い出のよい信義の別れを告げよう。――張遼供をせい!」
やにわに彼は閣を降り、駒をよび寄せて、府門から馳けだした。
「……わからん。……実にあのお方の心理はわからん」
× × ×
山はところどころ紅葉して、郊外の水や道には、翻々、枯葉が舞っていた。
赤兎馬はよく肥えていた。秋はまさに更けている。
「……はて。呼ぶものは誰か?」
関羽は、駒をとめた。
「……おおういっ」
という声――。秋風のあいだに。
「さては! 追手の勢」
関羽は、かねて期したることと、あわてもせず、すぐ二夫人の車のそばへ行った。
「扈従の人々。おのおのは御車をおして先へ落ちよ。関羽一人はここにあって路傍の妨げを取り除いたうえ、悠々と、後から参れば――」
と、二夫人を愕かさぬように、わざとことば柔らかにいって駒を返した。
「雲長。待ちたまえ」と、さらに駒を寄せた。
関羽はにこと笑って、
「わが字を呼ぶ人は、其許のほかにないと思っていたが、やはり其許であった。待つことかくの如く神妙であるが、いかにご辺を向けられても、関羽はまだご辺の手にかかって生捕られるわけには参らん。さてさてつらき御命をうけて来られたもの哉――」
と、はや小脇の偃月刀を持ち直して身がまえた。
「否、否、疑うをやめ給え」と、張遼はあわてて弁明した。
「身に甲を着ず、手に武具をたずさえず――拙者のこれへ参ったのは、決して、あなたを召捕らんがためではない。やがて後より丞相がご自身でこれに来られるゆえ、その前触れにきたのでござる。曹丞相の見えられるまで、しばしこれにてお待ちねがいたい」
三
「なに。曹丞相みずからこれへ参るといわれるか」
「いかにも、追ッつけこれへお見えになろう」
「はて、大仰な」
彼が、狭い橋上のまン中に立ちふさがったのは、大勢を防ごうとする構えである。――道路では四面から囲まれるおそれがあるからだ。
「いや。やがて分ろう」
「――さては、われを召捕らんためではなかったか。張遼の言は、真実だったか」
と、やや面の色をやわらげたが、それにしても、曹操自身が、何故にこれへ来たのか、なお怪しみは解けない容子であった。
――と、曹操は。
はやくも駒を橋畔まで馳け寄せてきて、しずかに声をかけた。
「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」
関羽は、聞くと、馬上のまま慇懃に一礼して、
「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して昔日の約束を違えんなどとは考えていない。……しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」
「鴻恩、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく……ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各〻とざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」
「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、牌をかけおいたのは予の科である。――否、自分の小心のなせる業と明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」
「なんの、なんの、丞相の寛濶な度量は、何ものにも、較べるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」
「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も潔い。……おお、張遼、あれを」
「滞府中には、あなたから充分な、お賄いをいただいておるし、この後といえども、流寓落魄貧しきには馴れています。どうかそれは諸軍の兵にわけてやってください」
しかし曹操も、また、
「それでは、折角の予の志もすべて空しい気がされる。今さら、わずかな路銀などが、君の節操を傷つけもしまい。君自身はどんな困窮にも耐えられようが、君の仕える二夫人に衣食の困苦をかけるのはいたましい。曹操の情として忍びがたいところである。君が受けるのを潔しとしないならば、二夫人へ路用の餞別として、献じてもらいたい」と強って云った。
四
関羽は、ふと、眼をしばだたいた。二夫人の境遇に考え及ぶと、すぐ断腸の思いがわくらしいのである。
「ご芳志のもの、二夫人へと仰せあるなら、ありがたく収めて、お取次ぎいたそう。――長々お世話にあずかった上、些少の功労をのこして、いま流別の日に会う。……他日、萍水ふたたび巡りあう日くれば、べつにかならず、余恩をお報い申すでござろう」
彼のことばに、曹操も満足を面にあらわして、
「いや、いや、君のような純忠の士を、幾月か都へ留めておいただけでも、都の士風はたしかに良化された。また曹操も、どれほど君から学ぶところが多かったか知れぬ。――ただ君と予との因縁薄うして、いま人生の中道に袂をわかつ。――これは淋しいことにちがいないが、考え方によっては、人生のおもしろさもまたこの不如意のうちにある」
「秋も深いし、これからの山道や渡河の旅も、いとど寒く相成ろう。……これは曹操が、君の芳魂をつつんでもらいたいため、わざわざ携えてきた粗衣に過ぎんが、どうか旅衣として、雨露のしのぎに着てもらいたい。これくらいのことは君がうけても誰も君の節操を疑いもいたすまい」
「かたじけない」
関羽はそこから目礼を送ったが、その眼ざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかとなお充分警戒しているふうが見えた。
「――せっかくのご餞別、さらば賜袍の恩をこうむるでござろう」
そういうと、関羽は、小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべてその薙刀形の刃さきに、錦の袍を引っかけ、ひらりと肩に打ちかけると、
「おさらば」と、ただ一声のこして、たちまち北の方へ駿足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。
「見よ。あの武者ぶりの良さを――」
「なんたる傲慢」
「恩賜の袍を刀のさきで受けるとは」
「丞相のご恩につけあがって、すきな真似をしちらしておる」
「今だっ。――あれあれ、まだ彼方に姿は見える。追いかけて! ……」
と、あわや駒首をそろえて、馳けだそうとした。
曹操は、一同をなだめて、
「むりもない事だ。関羽の身になってみれば、――いかに武装はしていなくとも、こちらはわが麾下の錚々たる者のみ二十人もいるのに、彼は単騎、ただひとりではないか。あれくらいな要心はゆるしてやるべきである」
そしてすぐ許都へ帰って行ったが、その途々も左右の諸大将にむかって、
「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫しい心操に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう。其方たちも、この世でよき人物に会ったことを徳として、彼の心根に見ならい、おのおの末代にいたるまで芳き名をのこせよ」と、訓戒したということである。
このことばから深くうかがうと、曹操はよく武将の本分を知っていたし、また自己の性格のうちにある善性と悪性をもわきまえていたということができる。そして努めて、善将にならんと心がけていたこともたしかだと云いえよう。
五
思いのほか手間どったので、関羽は二夫人の車を慕って、二十里余り急いで来たが、どこでどう迷ったか、先に行った車の影は見えなかった。
「……はて。いかが遊ばしたか」と、とある沢のほとりに駒をとめて、四方の山を見まわしていると、一水の渓流を隔てた彼方の山から、
「羽将軍、しばらくそこにお停りあれ」と、呼ばわる声がした。
何者かと眸をこらしていると、やがて百人ばかり歩卒をしたがえ、まっ先に立ってくる一名の大将があった。
打ち眺めれば、その人、まだ年歯二十歳がらみの弱冠で、頭は黄巾で結び、身に青錦の袍を着て、たちまち山を馳けおり、渓河をこえて、関羽の前に迫った。
関羽は青龍刀をとり直して、
「何者ぞ、何者ぞ。はやく名字を申さぬと、一颯のもとに、素首を払い落すぞ」
と、まず一圧を加えてみた。
すると、壮士はひらりと馬の背をおりて、
「して、何のために、卒をひきいて、わが行く道をはばめるか」
「まず、私の素志を聞いていただきたい。実は私は、少年の客気、早くも天下の乱に郷を離れて、江湖のあいだを流浪し、五百余人のあぶれ者を語らい、この地方を中心として山賊を業としている者です。ところが、同類の者に、杜遠という男がいます。これがつい今しがた、街道へ働きにでて、二夫人の車を見かけ、よい獲物を得たりと、劫掠して山中へ引き連れてきたわけです」
「なに。――では二夫人の御車は汝らの山寨へ持ち運ばれて行ったのか」
すぐにも、そこへと、関羽が気色ばむのを止めて、
「が、お身には、何のお障りもありません。まず、私の申すことを、少しお聞き下さい。……私は簾中の御方を見て、これは仔細ありげなと感じましたので、ひそかに、車についた従者の一名に、いかなるわけのお人かとたずねたところ、なんぞ知らん、漢の劉皇叔の夫人なりと伺って、愕然といたしました。……で早速、仲間の杜遠に迫り、かかるお人を拉し来って何とするぞ、すぐもとの街道へ送って放し還そうではないかと、切にすすめましたが杜遠は、頑としてきき入れません。のみならず、怪しからぬ野心すらほのめかしましたから、不意に、剣を払って、杜遠を刺し殺し、その首を取って、将軍に献ぜんために、これにてお待ちしていた次第でございます」
と、一級の生首を、そこへ置いて再拝した。
関羽は、なお疑って、
「山賊の将たる汝が、何故、仲間の首を斬って縁もない自分に、さまでの好意を寄せるか、何とも解し難いことである」と容易に信じなかった。
「ごもっともです――」と、廖化は、山賊という名に卑下して、
「二夫人の従者から将軍が今日にいたるまでのご忠節をつぶさに聞いて、まったく心服したためであります。緑林の徒とても、心まで獣心ではありません」
といったが、たちまち、馬に乗ったかと思うと、ふたたび以前の山中へ馳けもどった。
しばらくすると、廖化はまた姿を見せた。
こんどは百余人の手下に、二夫人の車をおさせて、大事そうに山道を降りてきたのである。
夫人は簾の裡からいった。
「もし、廖化がいなかったら、どんな憂き目をみたかしれぬ。その者に将軍からよく礼をいうてたもれ」
六
「二夫人のご無事はまったく貴公の仁助である」と深く謝した。
廖化は、謙遜して、
「当り前なことをしたのに、あまりなご過賞は、不当にあたります。ただ願うらくは、私もいつまで緑林の徒と呼ばれていたくありません。これを機に、御車の供をお命じくだされば、幸いここに百十余の歩卒もおりますから、守護のお役にも立つかと思われますが」と、あわせて希望をのべた。
「今日のご仁情は、かならず長く記憶しておく。いつか再会の日もあろう。関羽なり、わが主君なりの落着きを聞かれたら、ぜひ訪ねて参られよ」
車は、ふたたび旅路へ上った。
道は遠く、秋の日は短い。
三日目の夕方、車につき添うた一行は、疎林の中をすすんでいた。
片々と落葉の舞う彼方に、一すじの炊煙がたちのぼっている。隠士の住居でもあるらしい。
訪うて宿をからんためであった。関羽が訪うと、ひとりの老翁が、草堂の門へ出てきてたずねた。
「あんたは、何処の誰じゃ」
「そうです」
老翁は、かぎりなく驚いている。そして重ねて、
「あのお車は」と、たずねた。
関羽はありのまま正直に告げた。老翁はますます驚き、そして敬い請じて門のうちに迎えた。
二夫人は車を降りた。翁は、娘や孫娘をよんで、夫人の世話をさせた。
「たいへんな貴賓じゃ」
翁は清服に着かえて、改めて二夫人のいる一室へあいさつに出た。
関羽は、二夫人のかたわらに、叉手したまま侍立していた。
老翁は、いぶかって、
「将軍と、玄徳様とは、義兄弟のあいだがら、二夫人は嫂にあたるわけでしょう。……旅のお疲れもあろうに、くつろぎもせず、なぜそのような礼儀を守っておいでかの?」
関羽は、微笑をたたえて、
「玄徳、張飛、それがしの三名は、兄弟の約をむすんでおるが、義と礼においては君臣のあいだにあらんと、固く、乱れざることを誓っていました。故に、ふたりの嫂の君とともに、かかる流寓艱苦の中にはあっても、かつて君臣の礼を欠いたことがありません。家翁のお目には、それがおかしく見えますか」
「いや、いや、滅相もない。いぶかったわしこそ浅慮でおざった。さても今どきにめずらしいご忠節」