遺孤を託す

 この年四月頃から蜀帝玄徳は永安宮の客地に病んで、病状日々に篤かった。
「いまは何刻か?」
 枕前の燭を剪っていた寝ずの宿直や典医が、
「お目ざめでいられますか。いまは三更でございます」と、奏した。
 白々と耀き出した燭を見つめながら病床の玄徳は独り言に、
「では、夢だったか……」と、つぶやいた。
 そして夜の明くるまで、亡き関羽張飛の思い出ばなしを侍臣に語った。
 臣下はみな折あるごとに、
成都へお帰りあそばして、ゆるゆるご養生あそばしては」
 と、すすめたが、彼は、
「この敗戦をなして、何で成都の臣民にあわせる面があろうぞ」
 と呉にやぶれたことを、今なおふかく辱じているらしく、そのたび眉をひそめられた。
 病はようやく危篤にみえた。彼もすでに命を悟ったものか、
「丞相孔明に会いたい」
 と、云い出した。
 すでに危篤の急使はそのとき成都についていたのである。
 孔明は、この報らせに、すぐ旅装をととのえ、太子劉禅を都にのこして、まだ幼ない劉永、劉理の二王子だけを伴うて、旅の道も夜を日に継ぎ、やがて永安宮に来りまみえた。
 彼は、かわり果てた玄徳のすがたを見て、その床下に、拝哭した。
「……近う。もっと、近う」
 帝は、近臣に勅して、龍床の上に座を与え、孔明の背へほそい御手をのばして、こう宣らせられた。
「丞相よ、ゆるせ。朕、浅陋の才をもって、帝業をなし得たのは、ひとえに丞相を得た賜ものであったのに……。ついに御身の諫めを用いずかかる敗れを招き、また身の病もいますでに危うきを知る。……朕なき後は、この上にもなお内外の大事すべて御身に託しおくしかない。……朕なき後も、孔明世に在りと、それのみ唯一のたのみとし玄徳は逝くぞよ」
 滂沱、また滂沱、病顔をたるるものは、孔明の頸を濡らすばかりであった。
「陛下。どうか龍体を保たんと、せめて太子がご成人の頃までは」
 と、孔明が咽びながらなぐさめると、帝は、かろく面を横に振って、あたりの近臣をみな室の外へ遠ざけた。
 その中に、馬良の弟、馬謖もいた。瞼を紅く泣きはらした馬謖のすがたは傷々しく見えた。
 玄徳は、ふと問うた。
「丞相は、馬謖の才を、日頃からどう観ておるか」
「末たのもしい若者。将来の英雄と見ておりますが」
「いや、病中親しく見ておるに、ことば実に過ぎ、胆量才に劣り、行く末、難しい者と思われた。心して用いられよ」
 と、平常のごとくそんなことを語ったりしていた。しかし黄昏れ近く、にわかに容態が改まったと思うと、
「諸臣はみな詰めておるか」
 と問い、孔明が臣下みな一睡もせず詰めております――と答えると、
「では、病帳を開け」
 と命じて、龍床から一同のものへ最後の謁を与えた。そしてまた、
太子劉禅に与うるの遺詔)
 を諸臣にあずけ、かならず違背あるなかれと告げよと云い終ると、ふたたび眼をとじていたが、やがて孔明にむかい、
「朕、賤土に育ち、書は余り読まなかったが、人生の何たるやは、この年までにほぼ解したつもりである。もういたずらに歎くをやめよ」
 といい、何か最期の一言を告げんとするらしく、その唇はおごそかに息をととのえていた。

 玄徳と孔明の仲も、今や両者の幽明の境は、わずか幾つかの呼吸をする間しかなかった。
 われを忘れて、孔明は帝の龍床にすがり、面を寄せて、涙のうちに云った。
「何か仰せ遺す詔がありましたら、どうぞおつつみなくお命じ下さい。孔明、不才ですが、余命のあらんかぎりは、胆にお言葉を銘じて、必ずお心残りはないように仕りましょう」
「よくいうてくれた。玄徳はいまを以て世を去るであろう。わが為すことは尽きた。ただ丞相の誠忠を信じて、大事の一言を託しおけば、もう何らの気がかりもない」
「……一言の大事と仰せ遊ばすのは」
「丞相よ。人将に死なんとするやその言よしという。朕の言葉に、いたずらに謙譲であってはならぬぞ。……君の才は、曹丕に十倍する。また孫権ごときは比肩もできない。……故によく蜀を安んじ、わが基業をいよいよ不壊となすであろう。ただ太子劉禅は、まだ幼年なので、将来は分らない。もし劉禅がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が輔佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、彼不才にして、帝王の器でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ……」
 孔明は拝泣して、手足の措くところも知らなかった。何たる英断、何たる悲壮な遺詔であろう。太子が不才ならば、汝が立って、帝業を完うせよというのである。孔明は、龍床の下に頭を打ちつけ、両眼から血を流さんばかり哭いていた。
 玄徳はさらに幼少の王子劉永と劉理のふたりを側近くまねいて、
「父のない後は、おまえたち兄弟は、孔明を父として仕えよ。もし父の言に反くときは不孝の子であるぞ。よいか……」
 と、諭して、しばし人の親として名残り惜しげの眼ざしをこらしていたが、ふたたび孔明に向って、
「丞相、そこに坐し給え。朕の子らをして、父たる人へ、誓拝をさせるであろう」
 と、云った。
 ふたりの王子は、孔明のまえに並んで、反かざることを誓い、また再拝の礼をした。
「ああこれで安心した」
 と玄徳はふかい呼吸を一つして、傍らの趙雲子龍をかえりみ、
「御身とも、百戦万難の中を久しく共歓共苦してきたが、ついにきょうがお別れとなった。晩節を香ばしゅうせよ。また丞相とともに、あとの幼き者たちをたのむぞ」
 と、一言し、また李厳にも、同じ言をくりかえし、そのほかの文武百官にたいしては、
「すでに命のせまるを覚ゆ。一々汝らに言を付嘱するを得ない。それみな一致して社稷を扶け、おのおの保愛せよ」
 云い終ると、忽然、崩じた。とき寿齢六十三歳。蜀の章武三年、四月二十四日であった。
 永安宮中、なげきかなしむ声のうちに、孔明はやがてその霊柩を奉じて、成都へかえった。
 太子劉禅は、城を出て迎え、哀痛して、日々夜々の祭を営んだ。
 そして、父の遺詔をひらき、読み拝して、
「かならず泉下の御心を安んじ奉りまする」
 という旨を、祭壇にこたえ、また群臣に誓った。
 蜀の臣下もまた、先帝の遺詔を、暗誦するばかりくり返しくり返し読んで、かならず違背なきことを孔明に約した。
「国は一日も、君なくんばあらず」と、孔明は百官に議して、その年、太子劉禅を皇帝の位に上せて、漢の正統を継ぐの大式典を執り行った。
 同時に改元して、章武三年は、建興元年とあらためられた。
 新帝劉禅、字は公嗣。ときまだ御年は十七歳であったが、父の遺詔を奉じて、よく孔明を敬い、その言を尊んだ。
 帝のお旨によって、孔明は武卿侯に封ぜられ、益州の牧を領した。また、その年八月、恵陵の大葬がすむと、国議は、先帝劉玄徳に、昭烈皇帝と諡した。
 大赦の令が発せられ、国中みな、昭烈皇帝の遺徳をたたえ、また新帝の治世に、その余光あれと祈った。

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