一書生
一
程秉は逃げ帰るように急いで呉国へ引き揚げた。その結果、ふたたび建業城中の大会議となって、閣員以下、呉の諸将は、今さらの如く蜀の旺盛な戦意を再認識して、満堂の悽気、恐愕のわななき、おおうべくもなかった。
「諸員。何をか恐れるか。呉には、幸いにも、国家の柱ともいうべき大才が生れておる。なぜ各位は、かかる時、この人を王にすすめて、以て蜀を破ろうとしないのか」
ときに一議席からこう提唱した者がある。闞沢、字は徳潤であった。
孫権はにわかに眼をかがやかして、
「わが呉下に、そのような大器量な人物がいようとは、予もまだ知らなかった。いまや呉は危急存亡の境にある。もし呉を興すほどな真の大才にして野におるならば、我はその人の履を取って迎えることでもするであろう」と、その誰なるかを、闞沢に質した。
闞沢がそれに答えて、
「余人でもありません。それはいま荊州にいる陸遜です」
というと、議場はたちまちがやがやし出して、中には、嘲笑の声すら聞えた。
「……?」孫権は首をかしげている。諸人は騒然と非をささやく。そして張昭、顧雍などの重臣連も、苦笑をたたえて、こもごも反対した。
「呉の国柱と仰がれた人は、その初めを周瑜公となし、次いで魯粛公がこれを享け、先頃までは、呂蒙公を以て、国家の大事も、この人あればと、衆みな信望していたものでした。――ところが、いま呂蒙も亡く、国中この難局に心をいため、これらの故人を、仰ぎ慕うこと、まことに切なるものがありますが、まだ以て、黄口の一儒生にすぎない陸遜を目して、護国の英傑と恃むものは一人もないでしょう。闞沢はなにを勘ちがいされたか」
張昭がいうと、顧雍も、
「陸遜は元来、文字の人で、軍事には何の才もありはしない。それに年は若いし、世の儒生と同じように柔弱で、どう贔屓目に見ても、取り立ててこれという程な秀才とも思われぬから、おそらくは用いてみても、部下の諸将が彼に服すまい。上将に服せざるは乱の兆という。要するに、彼を用いて、蜀を破らんなどとは、痴人の夢にすぎないものだ」
と、痛烈にこき下ろした。
そのほか反対者はずいぶん多かったが、孫権は一同の反論を退けて、
「陸遜を呼べ」と、すぐ荊州へ早馬をもって命を伝えた。彼にその英断を下させたものは、闞沢が、
(もし私の言に誤りがあったら私の首をお取りになってもよい)
とまで、責めを一身に負って推挙に努めたにもよるが、もっと心をうごかしていたのは、死んだ呂蒙が生前に陸遜を賞めていたことばであり、また、
(あの呂蒙が、自分の代りに荊州の境の守りに抜擢したほどの者とすれば、年は若くても、何か見どころのある人物にちがいあるまい)と、考えたからであった。陸遜は、召しに依って、急遽、建業へ帰って、呉王に謁した。そして呉王から、この大任をうけて、汝よくそれに応うる自信ありや、と問われると、陸遜は、
「国家存亡の時、辞すべきではありませんから、謹んで大命を拝します」
と、言外に自信をほのめかしてから、こう云い足した。
「御口ずから大命を降したもう以上、これで充分ですが、願わくは文武の諸大将をことごとく召して、厳かな儀式を営まれ、その上で御命の剣を臣にお授けください」
孫権は、承知した。
そこで建業城の北庭に、夜を日についで台を築かせ、百官を列し、式部、楽人を配して、陸遜を壇に登らせた。
そして呉王孫権手ずから剣を授け、また白旄、黄鉞、印綬、兵符などすべてを委して、
「いま足下を封じて大都督護軍鎮西将軍とし、拝して婁侯の称を贈る。以後、六郡八十一州ならびに荊州諸路の軍馬を総領せよ」
と、陸遜に大権をゆだねた。
二
陸遜が新たに総司令官として戦場へ臨むという沙汰が聞えると、呉の前線諸陣地にある諸将は、甚だしく不満をあらわして、口々に、
「あんな黄口の小児が、大都督護軍将軍に任ぜられるとはいったい何事だ」
「あんな文弱の徒に、軍の指揮ができると思うておられるのか」
「呉王のお旨が解し難い。これは何か周囲の者の策謀によるものだろう」
などと、早くも呉の全面的崩壊を口にいう者すらあった。
そこへ陸遜は着任した。
荊州諸路の軍馬を集め、丁奉、徐盛などの諸将を新たに加えて、堂々と新鋭の旗幟を、総司令部に植えならべた。
けれど従前から各部署にいる大将連は、昂然として、みな敢えて服さない色を示していた。賀を陳べてくる者すらない。
陸遜はすこしも気にかけるふうもなく、日を量って、
(軍議をひらくにより参集あるべし)と通告を発し、その日、やむなく集まってきた諸将を下に、彼は一段高い将台に立って、こう云い渡した。
「自分が建業を発するとき、呉王は親しくこの身に宝剣印綬を授けたまい、閾の内は王これを司らん、閾の外の事は将軍これを制せよ。もし配下に紊す者あらば、まず斬って後に報ずべしとまで仰せられた。――自分は王のこのご信任に感泣して、一身を顧みるいとまもなくかくは赴任してきたわけである」
と、まず抱懐の一端をのべて味方のうちにある根拠なき妄説の一つを粉砕し、また、
「軍中つねに法あり。王法に親なしともいう。各部隊は層一層、軍律を厳に守られたい。もし肯かずんば、敵を破るまえに、内部の賊を斬らん」と、語尾つよく宣言した。
諸人は黙然としてただ仏頂面をそむけていた。するとその不満組の一人たる周泰がすこしすすんで将台の上へ呼びかけた。
「さきに前線へ来て悪戦苦闘を続けておられたわが呉王の甥君たる孫桓は、先頃から夷陵の城に取り籠められ、内に兵糧なく、外は蜀兵に遮断されておる。いま大都督の幸いにこれに臨まれた上は、一日もはやく妙計をめぐらして、まず孫桓を救い出し、もって呉王のお旨を安め奉り、あわせてわれらの士気を昂揚されたい。――借問す、大都督には、かかる大計をお持ちなりや」
陸遜はほとんど問題にしなかった。
「夷陵の一城などは、枝葉にすぎない。それに孫桓はよく部下を用いる人だから必ず力を協せてよく守るだろう。急に救わなくても落城する気づかいはない。むしろ自分が破ろうとするのは蜀軍の中核にある。敵の中核が崩れれば、夷陵の如きはひとりでに囲みが解けてしまうのである」
聞くと諸将はみな、どっとあざ笑って、
「果たせるかな、この人、無策」と侮蔑のささやきを交わしながら退散した。
韓当、周泰のふたりなどは、
「かかる大都督を上にいただいていては滅ぶしかない」と、面色を変えたほどだった。
すると次の日、大都督の名をもって、各部署へ、
(攻め口をかたく守り、敢えて進まんとするなかれ。一人出でて戦うもこれを禁ず)
という軍令が下った。
「ばかな。もう黙ってはいられない」
諸将は、憤懣、不平の眦をそろえて、大都督部へ難詰に押しかけた。
「われわれは戦に来ているものだ。すでに命を捨ててここに来ている。しかるに、これ以上、手を拱いて、自滅を待つような命を発せられるとは、如何なるお考えであるか。よも、わが呉王としても、そんな消極的なお旨で貴公を任じられたわけではあるまい」
韓当、周泰などを先にして、各〻、口を極めて反対すると、陸遜は手に剣をとって、
「自分は一介の書生にすぎぬが呉王に代って諸君に令を下すものである。これ以上、異論をさしはさむにおいては、何者たるを問わず、斬って軍律を明らかにするぞ」
と声を励まして叱咤した。
三
諸将は黙った。恐れを抱いてみな帰ってしまった。しかし誰ひとり陸遜に服しはしない。むしろ来た時よりも、憤懣を内にふくんで、
「青書生めが、急に権力をもつと、ああしてやたらに威張ってみたくなるのだろう」
などと帰路でめいめい口ぎたなく嘲笑を交わしていた。
こういう間に、士気いよいよ高い蜀の大軍は、猇亭から川口にいたる広大な地域に、四十余ヵ所の陣屋と壕塁を築き、昼は旌旗雲と紛い、夜は篝火に天を焦がしていた。
「呉軍の総司令は、こんど陸遜とかいう者に代ったそうだが、聞いたことのない人物である。たれか彼を知っておらぬか」
敵の組織に改革が行われたと伝えられてきた日、蜀帝はすぐ左右に問うた。
答えたのは、馬良である。
「敵は思い切った人物を登用したものです。陸遜は江東の一書生でまだ若年ですが、呉の呂蒙すら、先生と敬って、決して書生扱いにはしなかったと聞いています。深才遠計、ちょっと底が知れない男です」
「それほどな才略を、なぜ今日まで呉は用いずにきたのであろう」
「おそらく彼の親しい友人でも、彼にそんな器量があろうとは、誰も知らなかったのではないでしょうか。さすがに呂蒙は目が高かったとみえ、はやくから彼を用い、呉軍が荊州を襲ったのも、関羽を一敗地に介したのも、呂蒙の奇略といわれていますが、実はすべて、陸遜の智嚢から出たものでした」
「では、陸遜こそ、わが義弟を討った仇ではないか」
「そう云ってもよろしいでしょう」
「なぜはやく告げなかった。さる仇敵ならば一日とて、朕が旗の前に誇らしてはおかなかったものを。すぐ兵を進めよ」
「まず、ご熟慮を仰ぎます。陸遜の才は、呂蒙に劣らず、周瑜の下でもありません」
「汝は、朕の兵略が、黄口の豎子にすら及ばんというか」
馬良はこれ以上いさめる語を知らなかった。帝玄徳は、諸将に令して、陣を押し進めた。
とかく一致を欠いていた呉の陣営も、蜀の猛陣をまぢかに見ては、もう私議私憤をとり交わしてはいられない。俄然、団結して総司令部の帷幕にかたまり、いかに迎え撃つべきかの指令を、陸遜の眉に求めた。
「現状固守、みだりに動くなかれ。それだけだ」
陸遜はそれだけいうと、
「や。あの山上は、韓当の持ち場ではないか。鋭気があり過ぎる」
心もとなく思ったか、自身馬をとばして、そこへ馳せて行った。そして、
「韓当。軽々しく山を下るな」
と、今しも、兵馬を揃えて、敵前へ駈け下ろうとする彼を押し止めた。
韓当はいきり立って、
「大都督、あれを見ないか、野にひるがえる黄羅の傘蓋こそ、まさしく蜀帝の陣坐するところだ。目前、それを見ながら、内に屈んでいるほどなら、もう戦などはせぬがいい」
「敵の奇変を見ず、ただ形を見れば、そう思うのはむりもない。蜀の玄徳ともある者が目に見えるだけの布陣を以て、身を呉の陣前にさらすわけはない。――浅慮に彼の罠へ士卒を投じるの愚をなすな。幸いなるかな、ときは今、大夏のこの炎天。われ出でず戦わず、ひたすら陣を守って日を移しておるならば、彼は、曠野の烈日に、日々気力をついやし、水に渇し、ついには陣を引いて山林の陰へ移るであろう。そのときに至れば、かならず陸遜は号令一下、諸将の奮迅をうながすであろう。将軍、これも呉国のためだ。乞う、涼風を懐中に入れて、敵の盲動と挑戦を、ただ笑って見物して居給え」
全線どこの部署も、うごかないので、韓当もやむなく、拳を握って、陸遜の命のままに、じっとしていた。
蜀軍はさんざん悪口嘲弄を放って、呉の怒りをしきりに誘った。