打風乱柳
一
「おい」
張飛はいった。大地に坐っている大勢の百姓町民へ向って、
「おまえ達は、退散しろ。これから俺がやることに、後で、かかり合いになるといけないぞ」
しかし百姓たちは、泥酔しているらしい張飛が、何をやりだすのかと、そこを起っても、まだ附近から眺めていた。
張飛は、門を打ち叩いて、
「番人どもっ、開けろ、開けなければ、ぶちこわすぞっ」と、どなり出した。
役館の番卒は、「何者だっ」と、中から覗き合っていたが、重棗の如き面に、虎髯を逆だて、怒れる形相に抹硃をそそいだ巨漢が、そこを揺りうごかしているので、
「誰だ、誰だ?」と、さわぎ立ち、県尉玄徳の部下だと聞くと、督郵の家来たちは、
「開けてはならぬぞ」と、厳命した。そして人数をかためて、門の内へさらにまた、幾重にも人墻を立ててひしめき合っていた。
その気配に、張飛はいよいよ怒りを心頭に発して、
「よしっ、その分ならば!」
門の柱へ両手をかけたと思うと、地震のようにみりみりとそれは揺れだして、あれよと人々の驚くうちに、すさまじい物音立てて内側へ仆れた。
中にいた番卒や督郵の家来たちは、逃げおくれて、幾人かその下敷になった。張飛は、豹の如く、その上を躍り越えて、
「督郵はどこにいるかっ。督郵に会わんっ」と、咆哮した。
番卒たちは、それと見て、
「やるな」
「捕えろ」と、さえぎったが、
「えい、邪魔な」
とばかり張飛は投げとばす、踏みつぶす、撲りたおす、あたかも一陣の旋風が、塵を巻いて翔けるように、役館の奥へと躍りこんで行った。
折から勅使督郵は、昼日中というのに、帳を垂れて、この田舎町のひなびた唄い女などを相手に酒をのんでいたところだった。
淫らな胡弓の音を聞きつけて、張飛がその室をうかがうと、果たして正面の榻に美人を擁して酔いしれている高官がある。まぎれもない督郵だ。
張飛は、帳を払って、
「やいっ佞吏、腐れ吏人。よくもわが義兄玄徳に汚名をぬりつけ、偽罪の訴状を作って都へ上せたな。先頃からの傲慢無礼といい、勅使たる身がこの態たらくといい、もはや堪忍はならぬ。天に代って、汝を懲らしめてやるからそう思え」
眼は百錬の鏡にも似、髯はさかしまに立って、丹の如き唇を裂いた。
「――きゃっ」と、胡弓や琴をほうりだして妓たちは榻の下へ逃げこんだ。
督郵も、ちぢみ上がって、
「なんじゃ、待て、乱暴なことをするな」
と、ふるえ声で、逃げかけるのを、張飛はとびかかって、
「どこへ行く」
軽く一つ撲ったが、督郵は顎でもはずしたように、ぐわっと、歯をむいたままふん反った。
「じたばたするな」
張飛は、その体を軽々と横に引っ抱えると、また疾風のように外へ出て行った。
二
門外へ出てくると、
「犬にでも喰われろ」
と、張飛は、引っ抱えてきた督郵のからだを、大地へたたきつけて罵った。
「汝のような腐敗した佞吏がいるから、天下が乱れるのだ。乱賊は打つも、佞吏を懲らす者はない。人のなし得ぬ正義をなし、人の抗し得ぬ権力に抗す。それを旗幟とする義軍の張飛を知らずや。やいっ」
督郵の顔を踏んづけて、張飛がいうと、督郵は、手足をばたばたさせて、
「者どもっ。この狼藉を。――この乱暴者を、搦め捕れ。誰かいないか」
悲鳴に似た声でわめいた。
「やかましい」
髻をつかんで引廻した上、張飛は、門前の巨きな柳の樹に目をつけて、
「そうだ、見せしめのために」
と、督郵の両手を有りあう縄で縛りあげ、その縄尻を柳の枝に投げて、吊しあげた。
柳から生った人間のように、督郵の足は宙に浮いた。張飛は、彼が暴れても落ちないように縄の端を幹に巻いて、
「どうだ、やいっ」
と、一本の柳の枝を折って、まずぴしりと一つ撲った。
「痛いっ」
「あたり前だ」と、また一つ打ち、
「悪吏の虐政に苦しむ人民の傷みはこんなものじゃないぞ。汝も、廟鼠の一匹だろう。かの十常侍などいう佞臣の端くれだろう。その醜い面をさらせよ。その卑しい鼻の穴を天日に向けて哭けっ。――こうか、こうか、こうしてやる」
柳の枝は、すぐ粉々になった。
また新しい柳の枝を折って撲りつけるのだった。三十、四十、五十、二百以上も打ちすえた。
督郵は、見栄もなく、ひイひイひイと声をあげて、
「ゆるせ」と、泣き声だし、
「待て、待ってくれ。なんでもいう通りにするから」
と、遂には、涙さえこぼして、あわれっぽく叫んだが、
「だめだ。その手は食わぬ」
と、張飛は、乱打をやめなかった。
その日も玄徳は、私宅に閉じこもって、怏々とすぐれない一日を過していたが、誰やらあわただしく門をたたく者があるので自身出てみると四、五名の百姓が、
「大変です。今、張飛さまが、お酒に酔って、役所の門をぶちこわし、勅使の高官を、柳の木に吊しあげて打ちすえております」
と、告げて去った。玄徳は驚いて、そのまま馳けだして行った。
折ふし居合せた関羽も、
「ちぇッ、張飛のやつ、また持病を起したか」
と、舌打ちしながら、玄徳の後から馳けつけた。
見ると、柳に吊されている督郵は、衣裳もやぶれ、脛は血を流し、顔面は紫いろにふくれていた。もう少し遅かったら、すんでのこと、撲り殺されていたであろう。
仰天して、玄徳は、
「これっ、何をする」と、張飛の腕くびをつかんで叱りつけた。
張飛は、大息つきながら、
「いや、止めないで下さい。民を害する逆賊とはこいつのことです。息のねを止めないでは俺の虫がおさまらん」
と、玄徳のさえぎりなどは物ともせず、さらに、柳鞭をうならせて、督郵のからだを所きらわず打ちつづけた。
三
悲鳴を放って、張飛の鞭にもがいていた督郵は、柳の梢から玄徳のすがたを見つけて、
「おお、それへ来たのは、県尉玄徳ではないか。公の部下の張飛が、酒に酔って、わしをかくの如く殺そうとしている。どうか早く止めてくれ。もしわしを助けてくれたなら、このまま、張飛の罪も不問にし、おん身には、帝に急使を立てて前の訴状をとどめ、代わるに充分な恩爵をもって酬ゆるであろう」と、叫んでまた、
「はやく助けてくれ」
と何度も悲鳴をくり返した。
そのいやしい言葉を聞くと、張飛の暴を制しかけていた玄徳も、かえって止める意志をさまたげられた。
けれど、彼は、いかに醜汚な人間であろうとも、勅命をうけて下った天子の使いである。玄徳は、叱咤して、
「止めぬかっ張飛」と、彼の手から柳の枝を奪い、その枝をもって張飛の肩を一つ打った。
玄徳に打たれたことは初めてである。さすがの張飛も、はっと顔色を醒まして棒立ちになった。もちろん不平満々たる色をあらわしてではあったが。
玄徳は、柳の幹の縄を解いて、督郵のからだを大地へ下ろしてやった。すると、それまで、是とも非ともいわず黙って見ていた関羽が、つと馳け寄ってきて、
「長兄。お待ちなさい」
「なぜ」
「そんな人間を助けてやったところで、所詮、むだなことです」
「何をいう。わしはこの人間から利を得るために助けようとするのではない。ただ、天子の御名を畏るるのみだ」
「わかっております。しかしそういうお気持も、いったいどこに通じましょうか。前には、身命を賭して、大功を立てておられながら、わずか一県の尉に封ぜられたのみか、今また、督郵のごとき腐敗した中央の吏に、最大の侮辱をうけ、黙っていれば、罪もなき罪におとし入れられようとしているではありませんか」
「……ぜひもない」
「ぜひもないことはありません。こんな不法は蹴とばすべきです。先頃からそれがしもつらつら思うに、枳棘叢中鸞鳳の栖む所に非ず――と昔からいいます。棘や枳のようなトゲの木の中には良い鳳は自然栖んでいない――というのです。われわれは栖む所を誤りました。如かずいちど身を退いて、別に遠大の計をはかり直そうではありませんか」
関羽には、時々、訓えられることが多い。やはり学問においては、彼が一日の長を持っていた。
玄徳はいつも聴くべき言はよく聴く人であったが、今も、彼の言をじっと聞いているうちに、大きくうなずいて、
「そうだ。……いいことをいってくれた。我れ栖む所を誤てり」
と、胸にかけていた県尉の印綬を解いて、督郵にいった。
「卿は、民を害する賊吏、今その首を斬って、これに梟けるはいと易いことながら、恥を思わぬ悲鳴を聞けば、畜類にも不愍は生じる。あわれ、犬猫と思うて助けてとらせる。――そしてこの印綬は、卿に託しておく。我れ今、官を捨てて去る。中央へよろしくこの趣を取次ぎたまえ」
そして張飛、関羽のふたりをかえりみて、
「さ。行こう」
と、風の如くそこを去った。
霏々と散りしいた柳葉の地上に督郵は、まだ何か、苦しげに喚いていたが、玄徳らの姿が遠くなるまで、前に懲りて、近づいていたわり助ける者もなかった。