淮河の水上戦
一
孫権にとって甥の孫韶は義理ある兄の子でありまた兄の家、愈氏の相続人であった。だから彼が死罪になれば、兄の家が絶えることにもなる。
身は呉王の位置にあっても、軍律の重きことばかりは、如何ともし難いので、孫権はそんな事情まで語って徐盛に甥の命乞いをした。
「大王の龍顔に免じて、死罪だけはゆるしましょう。しかし戦後あらためて罰するかもしれません。それだけはお含みおきを」
王の言葉に対して、徐盛も譲歩せざるを得なかった。孫権は、そばにいる甥に云った。
「都督にお礼をいえ。拝謝せい」
すると、孫韶は、昂然として、
「いやです!」
と、首を振った。そしてなお、反対に声をあららげて、
「懦弱きわまる都督の作戦には、今後とも服しません。私が従わないのは、軍律に反くかも知れませんが、呉国のためには最大の計であると信じています。この忠魂、なんぞ死を怖れんやです。まして初志をまげることなんか嫌なこッてす」と、唾するように云い放った。この強情には、呉王もあきれ果てたものとみえ、
「この我儘者め。徐盛、もうふたたび、こんな我儘者は陣中で使ってくれるな」
と、居たたまれなくなったように急に馬へ乗って宮門へ帰ってしまった。
すると、その晩、
「孫韶が部下三千を連れ、勝手に兵船を出し、江を渡ってしまいました」
という知らせが、徐盛の眠りを愕かした。
「ちぇッ。遂に、脱け出したか」
徐盛は憤怒したが、さりとて見殺しにもできない。でにわかに、丁奉軍四千を、救援として、追いかけさせた。
その日、魏の大艦船隊は、広陵まで進んでいた。
先鋒の偵察船は、河流を出て揚子江をうかがったが、水満々たるのみで、平常の交通も絶え、一小船の影も見えない。曹丕は、聞くと、
「或いは南岸の呉軍に、企図するものがあるのかも知れない。朕、親しく大観せん」
と云って、旗艦の龍艦を、河口から長江へ出し、船楼に上って江南を見た。
旗艦の上には、龍鳳日月五色の旗をなびかせ、白旄黄鉞の勢威をつらね、その光は眼もくらむばかりであったし、広陵の河沿いから大小の湖には、無数の艨艟が燈火を焚いて、その光焔は満天の星を晦うするばかりだったが、江南呉の沿岸はどこを眺めても、漆のような闇一色であった。
侍側の蒋済がすすめた。
「陛下。この分では、一挙に対岸へ攻めよせても、大した反撃はないかもしれません」
「否々!」
と、あわてて制したのは劉曄である。彼は戒めた。
「実々虚々、鬼神もはかるべからずという。そこが兵法であろう。功をあせらず、まず数日はよくよく敵の気色をうかがうべきであろう」
「そうだ、あせることはない」
曹丕も同意した。彼はすでに呉を呑んでいた。
やがて月光が映した。数艘の速舸が矢のごとく漕いでくる。敵地深く探ってきた偵察船であった。その復命によると、
「呉の領一帯に、いずこの岸をうかがってみても、寂として、人民もいません。町にも一面の灯なく、部落も墓場のようです。お味方の襲来をつたえ、早くも避難してしまったのかもしれません」
曹丕も大いに笑った。
「さもあろうか」と、うなずいていた。
五更に近づくと、江上一帯に濃霧がたちこめてきた。しばらくは咫尺も見えぬ霧風と黒い波のみ渦巻いていた。しかしやがて夜が明けて陽が高く昇ると、霧は吹き晴れて、対岸十里の先も手にとるようによく見える快晴であった。
「おお」
「あれは如何に?」
舷の将士はみな愕き指さし合っていた。ひとりの大将は船楼を馳け上って、曹丕の室へ、何事か大声でその愕きを告げていた。
二
呉の都督徐盛も決して無為無策でいたわけではない。彼が固く守備を称えていたのもやがて積極的攻勢に移る前提であったことが、後になって思い合わされた。
いま夜明けと共に船上の将士が口々に愕きを伝えている中へ、曹丕もまた船房から出て、手をかざして見るに、なるほど、部下が肝を冷やしたのも無理はない。呉の国の沿岸数百里のあいだは一夜に景観を変えていた。
ゆうべまで、一点の燈もなく、一旒の旗も見られず、港にも部落にも、人影一つ見えないと、偵察船の者も報告して来たのに、いま見渡せば、港には陸塁水寨を連ね、山には旌旗がみちみちて翻り、丘には弩弓台あり石砲楼あり、また江岸の要所要所には、無数の兵船が林のごとく檣頭を集めて、国防の一水ここにありと、戦気烈々たるものがあるではないか。
「ああ、こは抑いかなる戦術か。呉には魏にもない器量の大将がおるとみえる」
曹丕は思わず長嘆を発して、敵ながら見事よと賞めたたえた。
要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防禦施設に、すべて草木や布をおおいかぶせ、或いは住民をほかへ移し、或いは城廓には迷彩をほどこしたりして、まったく敵の目をくらましていたのだった。そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、いまや淮河の隘路から長江へと出てくる気配を見たので、一夜に沿岸全部の偽装をかなぐり捨て、敢然、決戦態勢を示したものである。
「彼にこの信念と用意がある以上、いかなる謀があるやも測り難い」と、曹丕はにわかに下知して、淮水の港へ引っ返そうとしたところ、運悪くせまい河口の洲に旗艦を乗りあげてしまったため、日暮れまでその曳きおろしに混乱していた。
ようやく、船底が洲を離れたと思うと、今度は昨夜以上の烈風が吹き出してきて、諸船はみな虚空に飛揺し、波は船楼を砕き人を翻倒し、何しろ物凄い夜となってきた。
「危ない危ない。また乗しあげるぞ」
暗黒の中に戒め合いながら、疾風にもまれていたが、そのうちに船と船とは衝突するし、舵を砕かれ、帆檣を折られ、暴れ荒ぶ天地の咆哮の中に、群船はまったく動きを失ってしまった。
曹丕は船に暈って、重病人のように船房の中に臥していた。それを文聘が背に負って、小舟に飛び移り、辛くも淮河のふところをなしている一商港に上陸った。
船暈は土を踏むとすぐ忘れたように癒る。ここには魏の陸上本営があるので、そこへ入ったときはもう平常の曹丕らしい元気だった。
「いやひどい目に遭うた。しかしこの荒天も暁までには収まるだろう」と、諸大将と共に語り合っていたが、それまた束の間であった。深夜に至ってからこの暴風雨の中を二騎の早打ちが着いて、
「蜀の大将趙雲が、陽平関から出て、長駆わが長安を攻めてきました」
という大事を告げたので、曹丕はまた色を失ってしまった。
「長安は魏の肺心に位する要地。わが遠征の長日にわたるべきを察して、孔明が敏くも虚を衝かんとする兆したりや必せりである。それは一刻も捨ておかれまい」
突如、夜のうちに、水陸両軍へ向って、総引き揚げの命は発せられ、皇帝曹丕もまたやや風のおさまるのを待ってもとの龍艦へ立ち帰ろうとした。
すると、どこから江を渡ってきたのか、約三千ほどの兵が、魏の本営に火を放って、これを一撃に殺滅し、さらに魏帝のあとを追撃してきた。
「味方か?」「失火か?」
と思っていたのが、呉軍だったので、魏帝と左右の諸大将は狼狽をきわめ、みるまに討たれては屍の山をなす味方をすてて、辛くも龍艦に逃げもどり、淮河の上流へ十里ほど漕ぎつづけると、たちまち、左岸右岸、前方の湖も、一瞬に火の海となった。
この辺は、大船の影もかくれるほどな芦萱のしげりであったが、呉軍はこれへ大量な魚油をかけておいて、こよい一度に火を放ったものであった。
魏の大艦小艇などの何千艘は、両方の猛焔、波上を狂いまわる油の火龍に、彼方に焼け沈み、此方に爆発し、淮河数百里のあいだは次の日になっても黒煙濛々としてこの帰結を見ることもできなかった。