趙子龍
読了時間:約12分
関連人物
この章に登場する人物「趙雲子龍」の詳細情報もご覧いただけます。
この章に登場する人物「趙雲子龍」の詳細情報もご覧いただけます。
一
「ご一見を」と、見参に供えた。
玄徳がその功を称揚してやまないこともいうまでもない。即座に彼を、征西大将軍に封じ、
「老黄忠のために賀をなさん」と、その夜、大酒宴を張った。
ところへ、前線の大将張著から注進があった。急使のことばによると、
「夏侯淵が討たれたと聞いた曹操の憤恨は、ひと通りなものでありません。自身二十万騎をひきい、先陣には徐晃を立て、濛々たる殺気をみなぎらして、漢水まで迫ってきましたが、何思ったか、そこで兵馬をとどめ、米倉山の兵粮を北山のほうへ移しておる様子です」
「察するに、曹操は、二十万という大兵を持ってきたため、その兵粮が続かなくなるのをおそれて、あらかじめ食糧の確保に心を用いているものと思われる。要するに、彼の弱点がそこにあることを自ら曝露しているものでしょう。いま味方の一軍を深く境外へ潜行させ、敵が虎の子にしているその輜重を奪うことに成功したら、それは今次の戦において第一の勲功といってもさしつかえありますまい」
傍らで聞いていた黄忠は、
「軍師。わしに命じられい。ふたたび行って、わしがその事を実現してみせる」と、望んだ。
孔明は冷静な面を横に振った。
と、なお黄忠を危ぶむかのような口ぶりでゆるした。
「将軍、あなたは今度のことを、何の苦もなく引請けてしまわれたが、一体、ご胸中には、いかなる妙計がおありなので?」
「妙計。そんなものはない。ただ事成らねば、死を期しているだけだ。この度ばかりでなく、それが常に老黄忠の戦に臨む心事でござる」
「いや、あなたにそんな危地を踏ませることはできない。先陣はそれがしがする」
「何の、強いて命を乞うた黄忠が先に立つのが当然。足下は副将、後陣につけ」
「同じ君に仕え、同じ忠義を尽さんとするのに、何の主将副将の差別があろう。では、先陣後陣のことは鬮を引いてそれに従おうではないか」
「鬮で? それはおもしろい」
「もし自分が、午の刻までに、敵地から帰らなかったら、その時には、援軍を繰りだしてくれ」
「老将軍が午の刻までに帰らなかったら、自分は直ちに漢水を渡って遮二無二敵の中へ深く駈けこむであろう。その時には、汝はしかと本陣を守り、滅多にここを動いてはならぬぞ」
「柵はきびしいが、守備は手薄と思われたり。それっ、駈け上って、満山の兵粮へ火を放て」
錆びたる声で、老黄忠は、一令を下した。それを耳にするや否、蜀の兵は朝霧をついて諸所の柵を打ち破り、まだ眠っていたらしい魏兵の夢を驚かした。
二
「すわ一大事」
と、仰天した。
「しまった」――と張郃は足ずりして「この上は、小癪な蜀の雑兵を踏み殺し、せめてはその首将たる黄忠の首でも挙げねば魏公に申しわけがない。さなくとも彼黄忠は、夏侯淵の讐、討ちもらすな」と、部下を励ました。
山上山下、木も草も燃ゆるなかに、組む者、突きあう者、血みどろな白兵戦は、陽の高くなるまで続けられた。
「徐晃、行け」
曹操はさらに増援を送った。
「さきにも云った通り、汝は砦の狭間狭間に弩を張り、敵が迫るまで、みだりに動くな」
云い残すや否、三千の兵をさし招き、野を馳せ、数条の流れを越えて、ひたぶるに北山の黒煙へ近づいた。
「見つけたり。どこへ行く」
「うい奴だ。迎えにきたか」
と趙雲は、ただ一突きに、突き殺して、血しぶきの中を、駈けぬけて行く。
「やあ、味方かと思えば、敵の新手か。大将、これへ出よ」
北山の麓まぢかく、重厚な一軍を構えて、こう呼ばわり阻める者があった。自ら名乗るを聞けば、
「われこそ魏の大将焦炳なり」と、いう。
趙雲は前へすすんで、
「先にきた蜀の一軍はどこにいるか」
と、いった。焦炳は、呵々と打ち笑いながら、
「なにを寝ぼけておるか。黄忠を始め、蜀の木ッ端どもは、一兵のこらず討ち殺した。汝もまた、わざわざ骨を埋めに来たか」
云いつつ馬上から鋭い三尖刀をさしのべた。
「ほんとか!」と趙雲は、ありッたけな声で、相手へ吼えかかったかと思うと、
「では、弔合戦の手始めだ」
とばかり、焦炳の胸いたへ、ぶすと槍を突きとおし、大空へ刎ねあげて、
「知らないか、趙子龍がこれへ来たことを」
と魏軍のまん中へ馬を突っ込んだ。
兵か煙か、渦巻く中に、ただひとつ、彼の影のみは、堂々無数の群刃簇槍を踏みつぶしつつ、血しおの虹を撒いて、駈け廻っていた。
「趙将軍だ。趙将軍だ」
「お迎えにきた。もう安心されい」と一散に走りだした。
曹操は高きに登って、その日の戦況を見ていたが、大いに愕いて、
三
「思えば、危うい一戦だった」と、祝杯の用意を命じていた。
ところへ、後詰の張翼が、馬煙を捲いて逃げ帰ってきた。それはいいが、その同勢のあわて方といったらない。われがちに逃げこむや否、
「すわや、たいへんだぞ。諸門を閉めろ。吊橋をあげてしまえ」
と、まるで雷鳴の下に耳をふさぐ女子のように打ち震えていう。
趙雲はまだ杯を持たない間に、この騒動を耳にしたので、
「何事か」と部下に問わせた。
張翼はそこへ来て、祝杯どころではないといわんばかりな顔をして告げた。
「すべての陣門を敵へ開け。射手はみな壕の中に身を伏せろ。旗は潜め、鼓は休めよ。そして、林のように、寂として、たとい敵が眼に映るところまで来てもかならず動くな」
かくて、しばらくすると、まったく鳴りをしずめた城内から壕橋へかけて、戛々と、ただ一騎の蹄の音が妙に高く聞えた。
見れば、趙雲ただ一騎、槍を横たえてそこに突っ立っている。手をかざして彼方を眺めれば、里余にわたる黄塵の煙幕をひいて、魏の大軍がひたひたとこれへつめよせて来る。
――が、その雲脚の如き勢も、城の間近まで来たかと思うと、ぴたと止って、ただ遠く潮騒に似た喊声が聞えて来るのみだった。
「いぶかしいものがあるぞ、敵の城には」
「人もないようにしんとしておる。大手の門を開け放して」
「誰かひとり濠橋の上に立っているようだが――よもや人形でもあるまいに」
「何か深く謀っているにちがいない。めったには近づけぬぞ」
魏兵の先鋒は、疑心暗鬼にとらわれてそこから進み得なかった。
中軍にいた曹操は、
「何をためらっているか」と、みずから陣前へ出て、かかれかかれとばかり、下知した。
日は暮れかけていた。暮靄を衝いて、徐晃の一隊がわッと突進する。張郃の兵もどっと進む。
すると初めて、趙雲が、
「やあ、魏の人々。せっかく、これまで来ながら、ものもいわぬまに逃げ帰る法やある。待ち給え、待ち給え」と、呼びかけた。