江東の虎

 この暁。
 洛陽の丞相府は、なんとなく、色めき立っていた。
 次々と着いてくる早馬は、武衛門の楊柳に、何頭となくつながれて、心ありげに、いななきぬいていた。
「丞相、お目をさまして下さい」
 李儒は、顔色をかえて、董卓の寝殿の境をたたいていた。
 宿直の番士が、
「お目ざめになりました。いざ」と、帳を開いて、彼の入室をゆるした。
 艶めかしい美姫と愛くるしい女童が、董卓にかしずいて、玉盤に洗顔の温水をたたえて捧げていたが、秘書の李儒がはいって来たのを見ると、目礼して、遠い化粧部屋へ退がって行った。
「なんだな、早朝から」
 董卓は、脂肪ぶとりの肥大な体を、相かわらず重そうに揺るがして、榻へよった。
「大事が勃発しました」
「また、宮中にか?」
「いや、こんどは遠国ですが」
「草賊の乱か」
「ちがいます――かつてなかった叛軍の大がかりな旗挙げが起りました」
「どこに」
陳留を中心として」
「では、主謀者は曹操袁紹のやつだろう」
「さようです。たちまちのうちに、十八ヵ国の諸国をたぶらかし、われ密詔を受けたりと偽称して、幕営二百余里にわたる大軍を編制しました」
「そいつは捨ておけん」
「もとよりのことです」
「で――まだ詳報はこないか」
「昨夜、夜半から今暁にかけて、ひんぴんたるその早馬です。――すでに、敵は袁紹を総大将と仰ぎ、曹操を参謀とし、その第一手の先鋒を呉の孫堅がひきうけて、汜水関近くまで攻め上ってきた由にございます」
孫堅。――ああ、長沙の太守だな。あれは戦は上手かな?」
「上手なはずです。なにしろ、兵法で有名な孫子の末孫ですから」
孫子の末裔だと」
「はい、呉郡富春浙江省・富陽市)の産で、孫、名は堅、字は文台と申し、南方ではなかなか名の売れている男です」
 と、李儒は、かねて聞き及んでいる彼の人がらについて、こんな話をした。
 それは、孫堅が十七歳の頃のことである。
 孫堅は父に伴われて、銭塘地方へ旅行したことがある。当時、銭塘地方の港場は、海賊の横行が甚だしくて、その害をこうむる旅船や旅客は数知れないくらいだった。
 ある夕べ、孫堅が父と共に、港を歩いていると、海岸で何十人という海賊どもが、海から荷揚げした財貨を山分けするので騒いでいた。
 孫堅は、それを見かけると、わずか十七歳の少年のくせに、いきなり剣を抜いて、海賊の群れへ躍り入り、賊の頭目を真二つに斬って、
(我は、沿海の守護なり)
 と叫んで、阿修羅のごとく、暴れまわった。
 賊は驚いて、あらかた逃げてしまった。ために、山と積まれてあった盗難品の財宝は、後に、それぞれ被害者の手にかえった。その中には、銭塘の富豪が家宝とした宝の匣などもあった。けれど孫堅は、一物も礼など受けなかった。
 以来、彼の名は、弱冠から南方にひびいて、その人望は、抜くべからざるものになってきた――という話なのである。
「ふーム。そいつは相当な男だとみえる。しからばこちらからも、由々しい大物を大将として、討伐に向わせねばならんが……」
 董卓もさすがに、慎重になって、
「はて、誰がよいか」と、思案していた。
 すると、帳の蔭にあって、
「丞相丞相、それがしのあるを、なにとて忘れ給うか」と、不平そうにいう者があった。

「誰だ。帳の蔭でいう者は」
 董卓が咎めると、
呂布です」と、姿をあらわした。
 呂布は、一礼して、
「何をお迷いなされますか。たかの知れた曹操袁紹輩の企てなど片づけるに何の造作がありましょうや。こんな時、それがしをお用い下さらずして、何のために、赤兎馬を賜わったのですか」
 と、むしろ責めるような語気で、なお云った。
「この呂布を、お差向けねがいます。芥の如き大軍をかき分けて、孫堅とやらを始め、曹操袁紹など逆徒に加担の諸侯の首を、一々大地に梟けならべてご覧に入れん」
「いや、たのもしい」と、董卓も大いによろこんで、
「そちがおればこそ儂も枕を高くして、安臥しておられるのだ。決して、寝所の帳か番犬のように、忘れ果てていたわけじゃない」と、慰めた。
 時すでに、丞相室の帳外には、変を聞いて馳けつけてきた諸将がつめあっていたが、
呂布どの、待たれよ。鶏を裂くに、なんぞ牛刀を用うべき。敵の先鋒には、それがしまず味方の先鋒となって、ひと当り当て申さん」と、云いながら、はいってきた一将軍があった。
 諸人、眸をあつめて、誰かと見るに、虎体狼腰、豹頭猿臂、まことに稀代な骨がらを備えた勇将とは見えた。
 すなわち、関西の人、華雄将軍であった。
「おお、華雄か。いみじくも申したり。まず汝、汜水関へ下って、よく嶮を守り、わが洛陽を安んぜよ」
 と、董卓は大いによろこんで、ただちに、印綬を彼にゆるし、与うるに五万の兵をもってした。
 華雄は再拝して退き、李粛、胡軫、趙岑の三名を副将として選抜し、威風堂々と、その日に、汜水関へと進発して行った。
 北軍到る!
 北軍南下す!
 飛報は早くも袁紹曹操たちの革新軍へも聞え渡った。
 先手を承った孫堅の陣はもちろん、
「来れや、敵」と、覚悟のまえの緊張を呈していた。
 その後陣に、済北鮑信が備えていたが、北軍南下の報らせを聞くと、弟の鮑忠をそっと呼んで、
「どうだ弟。おまえがひとつ、小勢をつれて間道を迂回し、汜水関の敵へ、奇襲をやってみんか」
「やりましょう」
「実は、長沙孫堅が、いちはやく先手を承ってしまったので、このままにいれば、われわれは彼の名誉の後塵を拝するばかりだ。残念ではないか」
「私もそう思っていたところです」
「では、すぐ行け。首尾よく関内に突撃したら、火をつけろ。煙を合図に外からおれが大挙して攻めかけるから」
「心得ました」
 鮑忠は、兄の鮑信としめし合わせ、夜のうちに五百騎ばかり引いて道なき山を越えて行った。
 しかし、それはすぐ、敵の華雄の知るところとなってしまった。物見の小勢につり込まれて、深入りした鮑忠は、難なく取りかこまれて五百の兵と共に敵地で全滅の憂き目に会ってしまった。
 その際。
 華雄は、自身馬をすすめて、鮑忠を一刀のもとに斬り落し、
「幸先よし」
 と、首を取って、その首を早馬で洛陽へ送った。
 董卓からは、感状と剣一振りとが直ちに届けられてきた。

 味方の鮑忠が、抜け馳けして、早くも敵に首級を捧げ、敵をよろこばせていたとは知らず、先手の将、孫堅は、
「いで、ひと押しに」
 と、戦術の正法を行って、充分な備えをしてから、汜水関の正面へ攻めかけ、
「逆臣を扶くる匹夫。なんぞ早く降伏を乞わざるか。われは、革新の先鋒たり。時勢はすでに刻々と革まるを、汝ら、頑愚の眼にはまだ見えぬか」と、関城の下でどなった。
 華雄はこれを聞いて、
「笑うべきたわ言をほざくやつだ」
 と、自分の周囲を見まわして、
「誰か、孫堅が首を取って、この関城に、第一の功を誇ろうとする者はないか」と、いった。
 副将の胡軫、声に応じて、
「それがしに命じ給え」と、名乗り出た。
「胡軫か、よかろう」
 すなわち、華雄から五千の兵を分ち与えられて、胡軫は直ちに、関を下った。
 だが、華雄はなお不安と見たか、さらにまた、自身一万の兵をひいて、関の側面から出て行った。
 関下の激戦は、もう始まっていた。
 孫堅は、槍を押っとり、
「出で来りし者は、胡軫と見えたり。いでや来れ」
 寄せ合うと、胡軫も、
「なんの猪口才な」
 と、矛を舞わし、悍馬の腹を上げて、躍りかかってきた。
 すると、孫堅旗本程普は、
「この狼め。ご主君の手をわずらわすまでもない。くたばれッ」と、横あいから槍を投げた。
 風を切って飛んだ投げ槍は、ぐざと、胡軫の喉を突きとおし、しかも胡軫のからだを馬の上からさらって、串刺しにしたまま大地へ突き立ってしまった。
 北軍の華雄は、
「死なしたり」
 と、地だんだ踏んだが、すでに胡軫の組五千は崩れ立った後なので、収拾もつかない。
「退けや、退けや」
 と、汜水関へひとまず兵をおさめて、関の諸門を閉め、勢いに乗じて、間近に寄せてきた敵へ、、大木、鉄弓、火弓など、雨のように浴びせかけた。
 せっかく、敵の副将は討ち取ったが、そのため、孫堅は部下に多数の犠牲を出してしまった。
「かくては、益もなし」と、はやく機を察して、孫堅もまた、さっと見事な退陣ぶりを見せて、梁東という部落の辺まで、兵を引いてしまった。
 そして、袁紹の本陣へ、その日の獲物たる胡軫の首を送り届けて、同時に、
「兵糧を送られたい」と、云ってやった。
 ところが、本陣のうちに、孫堅へ恨みをふくむ者がいた。軍の総帥たる袁紹へささやいて、
「それは考えものですぞ」と讒言した。
「彼――孫堅という人間は、江東の虎です。彼を先手として、もし洛陽を陥しいれ、董卓を殺し得たとしても、それは狼をのぞいて、虎を迎えてしまうようなものです。あの功に焦心っている容子を見れば、およそ邪心が察せられます。――兵糧が乏しくなってきたのはよい折、この折を幸いに、兵糧を送らずにおいて、彼自身の兵が意気沮喪して、乱れ散るのを待つのがいいです。それが賢明というものです」
 袁紹は、そう聞くと、
「実にも道理」
 と、その説を容れ、とうとう兵糧を送らなかった。諸州十八ヵ国から集まってきた将軍同志の胸には味方とはいえ、おのおの虎視眈々たるものや、異心があったのは、是非もないことである。

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