泥魚
一
途中、しかも久しぶりに都へかえる凱旋の途中だったが――曹操はたちどころに方針を決し、
「曹洪は、黄河にのこれ。予は、これより直ちに、汝南へむかって、玄徳の首を、この鞍に結いつけて都へ還ろう」と、いった。
一部をとどめたほか、全軍すべて道をかえた。彼の用兵は、かくの如く、いつもとどこおることがない。
すでに、汝南を発していた玄徳は、
「よもや?」と、思っていた曹操の大軍が、あまりにも迅く、南下して来たばかりか、逆寄せの勢いで攻めてきたとの報に、
「はや、穣山(河北省)の地の利を占めん」と、備えるに狼狽したほどであった。
劉辟、龔都の兵をあわせ、布陣五十余里、先鋒は三段にわかれて備えを立てた。
東南の陣、関羽。
西南には張飛。
南の中核に玄徳、脇備えとして趙雲の一隊が旗をひるがえしていた。
地平線の彼方から、真黒に野を捲いてきた大軍は、穣山を距ること二、三里、一夜に陣を八卦の象に備えていた。
夜明けとともに、弦鳴鼓雷、両軍は戦端を開始していたが、やがて中軍を割って、曹操自身すがたを現し、
「玄徳に一言いわん」と、告げた。
玄徳も、旗をすすめ、駒を立てて、彼を見た。
曹操は大声叱咤して云った。
「以前の恩義をわすれたか。唾棄すべき亡恩の徒め。どの面さげて曹操に矢を射るか」
玄徳は、にこと笑い、
「君は、漢の丞相というが帝の御意でないことは明らかだ。故に、君がみずから恩を与えたというのは不当であろう。記憶せよ、玄徳は漢室の宗親であることを」
「だまれ、予は、天子の勅をうけて、叛くを討ち、紊すを懲らす。汝もまた、その類でなくて何だ」
「いつわりを吐き給うな。君ごとき覇道の奸雄に、なんで天子が勅を降そう。まことの詔詞とは、ここにあるものだ」と、かねて都にいた時、董国舅へ賜わった密書の写しを取りだし、玄徳は馬上のまま声高らかに読みあげた。
その沈着な容子と、朗々たる音吐に、一瞬敵味方とも耳をすましたが、終ると共に、玄徳の兵が、わあっと正義の軍たる誇りを鯨波としてあげた。
いつも、朝廷の軍たることを、真っ向に宣言してのぞむ曹操の戦いが、この日はじめて、位置をかえて彼に官軍の名を取られたような形になった。
彼が憤怒したこというまでもない。鞍つぼを叩いて、
「偽詔をもって、みだりに朝廷の御名を騙る不届き者、あの玄徳めを引掴んで来いっ」
眦を裂いて命じた。
「おうっ」と、吠えて、許褚がすすむ。
迎えたのは趙雲。
戟、剣、馬蹄から立つ土けむりの中に、戛々と火を発し、閃々とひらめき合う。
勝負――つくべくも見えなかった。
関羽の一陣、横から攻めかかる。
張飛の手勢も、猛然、声をあわせて、側面を衝いた。
曹操の八卦陣は、三方からもみたてられて、ついに五、六十里も退却してしまった。
「幸先はよいぞ」
その夜、玄徳がよろこびを見せると、関羽は首を振って云った。
「計の多い曹操のことです。まだまだ歓ぶところにはゆきません」
「いや、彼の退却は、長途の疲れを、無理してきたためで、計ではなかろう」
「では、試みに、趙雲を出して、挑んでごらんなさい」
次の日、趙雲が進んで、挑戦してみたが、曹操の陣は、唖の如く、鳴りをしずめたきり動かない。
――七日、十日と過ぎても、一向戦意を示さなかった。
二
「はて。――曹操の備えとしてはいつにない守勢だ。彼はそんな消極的な戦法を好む性格ではないが?」
ひとり関羽は怪しんでいた。曹操を知るもの、関羽以上の者はない。
果たせるかな、変があらわれた。
「汝南から前線へ、兵糧の運輸中龔都の隊は、道にて曹操の伏勢に囲まれ、全滅の危うきに瀕しています!」と、いう後方からの飛報だった。
すると、また、次の早馬の伝令には、
「――強力な敵軍が、遠く迂回してきて、汝南の城へ急迫し、留守の守りは、苦戦に陥っている!」と、ある。
玄徳は、色を失って、
「留守の城には、われを始め、人々の妻子もおること」
と、関羽をして、救いのため、そこへ急派し、同時に張飛には、兵糧輸送隊の救援を命じた。
だが、その張飛の手勢も、現地まで行かないうちに、またも敵に包囲されたと聞えてきたし、関羽のほうとは、それきり連絡も絶えて、玄徳の本軍は、ようやく孤立の相を呈してきた。
「進まんか。退かんか?」
玄徳は、迷った。
趙雲は、討って出て、前面の敵と雌雄を決すべきだと、悲壮な覚悟をもって云ったが、
「いや、それは捨て身だ。軽々しく死ぬときではない」
と、玄徳は自重して、ひとまず穣山へ退却しようと決めた。
しかし、万全な退却は、進撃よりも難しい。昼は、陣地を固く守って、士気を養い、ひそかに準備をしておき、翌晩、闇夜を幸いに、騎馬を先とし、輸車歩兵をうしろに徐々と退却を開始して、そして約五、六里――穣山の下までさしかかった時である。突然断崖のうえで声がした。
「劉玄徳を捕り逃がすなっ!」
それに答える喊声と共に、山の上から太い火の雨が降ってきた。無数の松明が焔の尾をひいて、兵馬の上へ浴びせかかってきたのである。
山は吠え、鼓は鳴り、岩石はおちてくる。
逃げまどう玄徳の兵は明らかに次の声を耳に知った。
「曹操は、ここにある。降る者はゆるすであろう。弱将玄徳ごときに従いて、犬死する愚者は死ね。生きて楽しもうとする者は、剣をすてて、予の軍門に来れ」
火の雨の下、降る石の下に、阿鼻叫喚して、死物狂いに退路をさがしていた兵は、そう聞くと争って剣を捨て、槍を投げ、曹操の軍へ投降してしまった。
趙雲は、玄徳の側へ寄りそって、血路を開きながら、
「怖れることはありませんぞ。趙雲がお側にあるからは」と、励まし励まし逃げのびた。
山上からどっと、于禁、張遼の隊が襲せてきて、道をふさぐ。
趙雲は、槍をもって、さえぎる敵を叩き伏せ、玄徳も両手に剣を揮って、しばし戦っていたが、またまた、李典の一隊が、うしろから迫ってきたので、彼はただ一騎、山間へ駈けこみ、ついにその馬も捨てて身ひとつを、深山へ隠した。
夜が明けると、峠の道を、一隊の軍馬が、南のほうから越えてきた。驚いて、隠れかけたが、よく見ると、味方の劉辟だった。
孫乾、糜芳なども、その中にいた。聞けば、汝南の城も支えきれなくなったので、玄徳の夫人や一族を守護して、これまで落ちのびてきたのであるという。
汝南の残兵千余をつれて、まず関羽や、張飛と合流してから、再起の計を立てようものと、そこから三、四里ほど山伝いに行くと、敵の高覧、張郃の二隊が、忽然、林の中から紅の旗を振って突撃してきた。
劉辟は、高覧と戦って、一戟のもとに斬り落され、趙雲は高覧へ飛びかかって、一突きに、高覧を刺し殺した。
しかし、わずか千余の兵では、ひとたまりもない。玄徳の生命は、暴風の中にゆられる一穂の燈火にも似ていた。
三
勇にも限度がある。
趙雲子龍も、やがては、戦いつかれ、玄徳も進退きわまって、すでに自刃を覚悟した時だった。
一方の嶮路から、関羽の隊の旗が見えた。
養子の関平や、部下周倉をしたがえ、三百余騎で馳せ降ってきた。
猛然、張郃の勢を、うしろから粉砕し、趙子龍と協力して、とうとう敵将張郃を屠ってしまった。
玄徳ははからぬ助けに出会って、歓喜のあまり、この時、天に両手をさしのべて、
「ああ、我また生きたり!」と、叫んだという。
そのうちに、おとといから敵中に苦戦していた張飛も、麓の一端を突破して、山上へ逃げのぼってきた。
玄徳に出会って、
「味方の輸送部隊にあった龔都も惜しいかな、雄敵夏侯淵のために、討死をとげました」
と、復命した。
「ぜひもない……」
玄徳は、山嶮に拠って、最後の防禦にかかった。けれど、にわか造りの防寨なので、風雨にも耐えられないし、兵糧や水にも困りぬいた。
「曹操自身、大軍を指揮して、麓から総がかりに襲せてきます」
物見はしきりと、ここへ急を告げた。――玄徳は、怖れふるえた。夫人や老幼の一族を、如何にせん? ――と憂い悩んだ。
「孫乾を、夫人や老少の守護にのこし、その余の者は、のこらず出て、決戦しよう」
これが大部分の意見だった。
玄徳も決心した。関羽、張飛、趙子龍など、挙げて、麓の大軍へ逆落しに、突撃して行った。
半日の余にわたる死闘、また死闘の物凄じい血戦の後、月は山の肩に、白く冴えた。
その夜、曹操は、
「もはや、これ以上、痛めつける必要もあるまい」
と、敗将玄徳の無力化したのを見とどけて、大風の去るごとく、許都へ凱旋してしまった。
わずかな残軍を、さらに散々に討ちのめされた玄徳、わずかな将士をひきつれて、ここかしこ流亡の日をつづけた。
ひとつの大江に行きあたった。
渡船をさがして対岸へ着き、ここは何処かと土地の名を漁夫に訊くと、
「漢江(湖北省)でございます」と、いう。
その漁夫が知らせたのであろう、江岸の小さい町や田の家から、
「劉皇叔様へ――」と、羊の肉や酒や野菜などをたくさん持ってきて献じた。
一同は河砂のうえに坐って、その酒を酌み、肉を割いた。
汀のさざ波は、玄徳の胸に、そぞろ薄命を嘆かせた。
「関羽といい、張飛といい、また趙雲子龍といい、そのほかの諸将も、みな王佐の才あり、稀世の武勇をもちながら、わしのような至らぬ人物を主と仰いで従ってきたため、事ごとに憂き目にばかり遭わせてきた。それを思うと、この玄徳は、各〻に対してあげる面もない心地がする。――にもかかわらず、各〻はほかに良き主を求め、富貴を得ようともせず、こうして労苦を共にしてくれるのが……」
杯の酒にも浮かず、玄徳がしみじみいうと、諸将みな沈湎、頭を垂れてすすり泣いた。
関羽は杯を下において、
「むかし漢の高祖は、項羽と天下を争って、戦うごとに負けていましたが、九里山の一戦に勝って、遂に四百年の基礎をすえました。不肖、われわれも皇叔と兄弟の義をむすび、君臣の契をかため、すでに二十年、浮沈興亡、極まりのない難路を越えてきましたが、決してまだ大志は挫折しておりません。他日、天下に理想を展べる日もあらんことを想えば、百難何かあらんです。お気弱いことを仰せられますな」と切に励ました。
四
「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。……時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生に処するには、得意な時にも得意に驕らず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ちいらず、――そこに動ぜず溺れず、出所進退、悠々たることが、難しいのではございますまいか」
関羽は、しきりと、言葉をつづけた。ひとり玄徳の落胆を励ますばかりでなく、敗滅の底にある将士に対して、ここが大事と思うからであった。
彼はふと、乾き上がっている河洲の砂上を見まわして、
「――ごらんなさい」と、指さして云った。「そこらの汀に、泥にくるまれた蓑虫のようなものが無数に見えましょう。虫でも藻草でもありません。泥魚という魚です。この魚は天然によく処世を心得ていて、旱天がつづき、河水が乾あがると、あのように頭から尾まで、すべて身を泥にくるんで、幾日でも転がったままでいる。餌をあさる鳥にもついばまれず、水の干た河床でもがき廻ることもありません。――そして、自然に身の近くに、やがて浸々と、水が誘いにくれば、たちまち泥の皮をはいで、ちろちろと泳ぎだすのです。ひとたび泳ぎだすときは、彼らの世界には俄然満々たる大江あり、雨水ありで、自由自在を極め、もはや窮することを知りません。……実におもしろい魚ではありませんか。泥魚と人生。――人間にも幾たびか泥魚の隠忍にならうべき時期があると思うのでございまする」
関羽の話に人々は現実の敗戦を見直した。そこに人生の妙通を悟った。
孫乾はにわかに云いだした。
「荊州の地は、ここから遠くないし、太守劉表は九郡を治めて、当世の英雄たり、一方の重鎮たる存在です。――ひとまず、わが君には荊州へおいであって、彼をお頼み遊ばしては如何ですか。劉表は喜んでかならずお扶けすると存じますが」
玄徳は、考えていたが、
「なるほど、荊州は江漢の地に面し、東は呉会に連なり、西は巴蜀へ通じ、南は海隅に接し、兵糧は山のごとく積み、精兵数十万と聞く。ことに劉表は漢室の宗親でもあるから、同じ漢の苗裔たる自分とは遠縁の間がらでもあるが……たえて音信を交わしたこともないのに、急に、この敗戦の身と一族をひき連れて行ってどうであろうか?」
と、先方の思惑をはばかって、ためらう容子だった。孫乾は進んで自分がまず荊州へ行かんといい、一同の賛意を得ると、すぐその場から馬をとばして使いに立った。
劉表は、彼を城内に引いて、親しく玄徳の境遇を聞きとると、即座に、快諾してこういった。
「漢室の系図によれば、この劉表と劉備とは、共に宗親のあいだがらであり、遠いながら彼は予の義弟にあたる者である。いま九郡十一州の主たる自分が、一人の宗親を見捨てて扶けなかったとあれば、天下の人が笑うだろう――すぐ荊州へ参られよと、伝えてくれい」
すると、侍側の大将、蔡瑁がそばから拒んだ。
「無用無用。その儀は、お見合わせがよいでしょう。――玄徳は義を知らず恩を忘れる男です。はじめは呂布と親しみ、のち曹操に仕え、近頃また、袁紹に拠って、みな裏切っています。それを以てその人を知るべしで、もし玄徳を当城に迎えたら、曹操が怒って、荊州へ攻め入ってくる惧れもありましょう」
聞くと、孫乾は色を正して、
「呂布は、人道の上において、正しき人であったか。曹操は真の忠臣か。袁紹は、世を救うに足る英雄か。ご辺はなぜ、ことばを歪曲して、無用な讒言をなさるか」と、つめ寄った。
劉表も叱りつけて、
「要らざるさし出口はひかえろ」
と一喝したので、蔡瑁も顔あからめて黙ってしまった。