許田の猟
一
都へ還る大軍が、下邳城を立ち出で、徐州へかえると、沿道の民は、ちまたに溢れて、曹操以下の将士へ、歓呼を送った。
その中から、一群れの老民が道に拝跪しながら進みでて、曹操の馬前に懇願した。
「どうか、劉玄徳様を、太守として、この地におとどめ願います。呂布の悪政をのがれて、平和に耕田の業や商工の営みができますことは、無上のよろこびでございますが、玄徳様がこの国を去るのではないかと、みなあのように悲しんでおりまするで」
曹操は、馬上から答えた。
「案じるな。劉使君は、莫大な功労があるので、予と共に都へ上って、天子へ拝謁し、やがてまた、徐州へ帰って来るであろう」
そう聞くと、沿道の民は、諸声あげて、どっと歓び合った。
ふかく民心の中に根をもっている玄徳の信望に、曹操はふと妬みに似たものを覚えながら、面には莞爾と笑みをたたえながら、
「劉使君。このような領民は、子のように可愛いだろうな。天子に拝をすまされたら、早く帰って、もとの如く徐州を平和に治めたまえ」と、振向いていった。
――日を経て。
三軍は許都に凱旋した。
曹操は、例によって、功ある武士に恩賞をわかち、都民には三日の祝祭を行わせた。朝門街角ともその数日は、挙げてよろこびの声に賑わった。
玄徳の旅舎は丞相府のひだりに定められた。特に一館を彼のために与えて、曹操は礼遇の意を示した。
のみならず、翌日、朝服に改めて参内するにも、玄徳を誘って、ひとつ車に乗って出かけた。
市民は軒ごとに、香を焚いて道を浄め、ふたりの車を拝跪した。
そして、ひそかに、
「これはまた、異例なことだ」と、眼をみはった。
禁中へ伺候すると、帝は、階下遠く地に拝伏している玄徳に対し、特に昇殿をゆるされて、何かと、勅問のあって後、さらに、こう訊ねられた。
「其方の先祖は、そも、何地の如何なるものであるか」
「……はい」
玄徳は、感泣のあまり、しばしは胸がつまって、うつ向いていた。――故郷楼桑村の茅屋に、蓆を織って、老母と共に、貧しい日をしのいでいた一家の姿が、ふと熱い瞼のうちに憶い出されたのであろう。
帝は、彼の涙をながめて、怪しまれながら、ふたたび下問された。
「先祖のことを問うに、何故そちは涙ぐむのか」
「――さればにござります」
玄徳は襟を正し、謹んでそれに答えた。
「いま、御勅問に接し、おぼえず感傷のこころをうごかしました。――という仔細は、臣が祖先は中山靖王の後胤、景帝の玄孫にあたり、劉雄が孫、劉弘の子こそ、不肖玄徳でありまする。中興の祖劉貞は、ひとたびは、涿県の陸城亭侯に封ぜられましたが、家運つたなく、以後流落して、臣の代にいたりましては、さらに、祖先の名を辱めるのみであります。……それ故、身のふがいなさと、勅問のかたじけなさに思わず落涙を催した次第でありまする。みぐるしき態をおゆるし下しおかれますように」
帝は、驚きの眼をみはって、
「では、わが漢室の一族ではないか」
と、急に朝廷の系譜を取りよせられ、宗正卿をして、それを読み上げさせた。
漢ノ景帝、十四子ヲ生ム。乃チ中山靖王劉勝。――勝。陸城亭侯劉貞ヲ生ム。貞。沛侯劉昂ヲ生ム。昂。漳侯劉禄ヲ生ム。禄。沂水侯劉恋ヲ生ム。恋。欽陽侯劉英ヲ生ム。英……。
朗々と、わが代々の先祖の名が耳をうってくる。
――その末裔の末裔に、今、我なるものが、ここにあるのかと思うと、玄徳は体じゅうの血が自分のものでないように熱くなった。
二
漢家代々の系譜に照らしてみると、玄徳が、景帝の第七子の裔であることは明らかになった。
つまり景帝の第七子中山靖王の裔は、地方官として朝廷を出、以後数代は地方の豪族として栄えていたが、諸国の治乱興亡のあいだに、いつか家門を失い、土民に流落して、劉玄徳の両親の代には、とうとう沓売りや蓆織りを生業としてからくも露命をつなぐまでに落ちぶれ果てていたのであった。
「世譜に依れば、正しく、朕の皇叔にあたることになる。――知らなかった。実に今日まで、夢にも知らなかった。朕に、玄徳のごとき皇叔があろうとは」
と、帝のおよろこびは一通りでない。御涙さえ流して、邂逅の情を繰返された。
改めて、叔甥の名乗りをなし、帝は慇懃礼をとって、玄徳を便殿へ請じられた。そして曹操もまじえて酒宴を賜わった。
帝はいつになく杯を重ねられ、龍顔は華やかに染められた。こういう御気色はめずらしいことと侍側の人々も思った。――知らず、玄徳を見て、帝のお胸に、どんな灯が点ったであろうか。
ここ許昌の都に、朝廷を定められて以来、本来ならば、王道の隆昌と漢家の復古を、万民と共に、祝福して、帝の御気色をうるわしくしなければならないのに、侍従の人々が見るところでは、さはなくて、帝にはむしろ怏々と何か常に楽しまぬご容子に察しられた。一日とて、憂暗なお眸の清々と晴れていたことはない。
「それなのに、今日ばかりは、何という明るいご微笑だろう?」
と侍従たちにも怪しまれるほど、その日の宴は、帝にも心からご愉快そうであった。
帝の特旨に依って、玄徳は、左将軍宜城亭侯に封ぜられた。
また、それ以来、朝野の人々も、玄徳をよぶのに「劉皇叔」と敬称した。
――が、ここに、当然、彼の擡頭をあまりよろこばない一部の気運も醸されてきた。
それは、丞相府にあって、軍力政権ふたつながら把握している曹操が股肱――荀彧などの諸大将だった。
「承れば、天子には、玄徳を尊んで、叔父となされ、ご信任も並ならぬものがあるとか。……将来、丞相の大害となるを、ひそかにみな憂えていますが」
と、或る時、荀彧や劉曄が、そっと曹操に関心をうながすと、曹操は打ち笑って、
「予と玄徳とは、兄弟もただならぬ間柄だ。なんで、予の害になろう」と、取合わなかった。
「いや、丞相のお心としてはそうでしょうが、つらつら玄徳の人物を観るに、まことに、彼は一世の英雄にちがいありません。いつまで、丞相の下風についているか知れたものではない。親しき仲にも、特に、用心がなくてはかないますまい」
劉曄も切に注意した。
曹操は、なお、度量の大を示すように、笑い消して、
「好きもまた、交わること三十年。悪きもまた、交わること三十年。好友悪友も、根元は、わが心の持ちかたにあろう」と、意にかける風もなかった。
そして彼と玄徳との交わりは、日をおうほど親密の度を加え、朝に出るにも車を共にし、宴楽するにも、常に席を一つにしていた。
三
一日。
相府の一閣に、程昱が来て、曹操とふたりきりで、密談していた。
程昱は、野心勃々たる彼が腹心のひとりである。しきりに天下の事を論じたあげく、
「丞相。もはや今日は、なすべきことをなす時ではありませんか。何故、猶予しおられるのですか」
と、なじった。
曹操は、そら嘯いて、
「なすこととは?」と、わざと反問した。
「覇道の改革を決行することです。――王道の政治すたれてもはや久しく、天下はみだれ民心は飽いています。覇道独裁の強権がしかれることを世間は待望していると思います」
程昱のいう裏には、明らかに朝廷無視の叛意がふくまれている。――が、曹操は、それを否定もせず、たしなめもしなかった。
「まだ、早い」
といっただけである。
程昱がかさねて、
「しかし、今、呂布も亡んで、天下は震動しています。雄略胆才もみな去就に迷い、紛乱昏迷の実情です。この際、丞相が断乎として、覇道を行えば……」
と、なお云いかけると、曹操は細い鳳眼をかっとひらいて、
「めったなことを口外するな、朝廷にはまだまだ股肱の旧臣も多い。機も熟さぬうち事を行えば自ら害を招くような結果を見よう」と、声を以て、彼の声を抑えつけた。
けれど曹操の胸に、すでにこの時、人臣の野望以上のものが、芽を萌していたことは争えぬ事実だった。――彼は、程昱に口をつぐませて、自分もしばらく沈思していたが、やがて血色の醒めた面をあげ、常の如き細い眸に熒々たる光をひそめながら独りつぶやいた。
「そうだ。ここ久しく戦に忙しく、狩猟に出たこともない。天子を許田の猟に請じて、ひとつ諸人の向背を試してみよう」
急に、彼は思い立った。――即ち犬や鷹の用意をして、兵を城外に調え、自身宮中に入って、帝へ奏上した。
「許田へ行幸あって、親しく臣らと共に狩猟をなされては如何ですか。清澄な好日つづきで、野外の大気もひとしおですが」
帝は、お顔を振って、
「猟へ出よとか。田猟は聖人の楽しみとせぬところ。朕も、それ故に、猟は好まぬ」
「いや、聖人は猟をしないかもしれませんが、いにしえの帝王は、春は肥馬強兵を閲、夏は耕苗を巡視し、秋は湖船をうかべ、冬は狩猟し、四時郊外に出て、民土の風に親しみ、かつは武威を宮外に示したものです。おそれながら、常々、深宮にのみ御座あっては、陛下のご健康もいかがかと、臣らもひそかに案じられてなりません。――かたがた、天下はなはだ多事の折でもあり、陛下のみならず公卿たちも、稀には、大気に触れ、心身を鍛え、宏濶な気を養うことが刻下の急務かと考えられますが」
帝は、拒むお言葉を知らなかった。曹操の実力と強い性格とは、形や言葉でなく、何とはなしに帝を威圧していた。
「……では、いつか行こう」
お気のすすまない容子ながら、帝は、行幸を約束された。何ぞ知らん、すでに兵車の用意は先にできていたのである。帝は、曹操の我意に、人知れず、眉をふるわせられたが、ぜひなく、
「さらば、劉皇叔も、供して参れ」
と、にわかに詔して、御手に彫弓、金※箭をたずさえ、逍遥馬に召されて宮門を出られた。
今朝方から、曹操の兵が城外におびただしく、禁門の出入りも何となく常と違うので、早くから衛府に詰めていた玄徳は、それと見るや、自身、逍遥馬の口輪をとって、帝のお供に従った。
関羽、張飛、その余の面々も、弓をたばさみ、戟を擁し、玄徳と共に、扈従の列に加わった。
四
御猟の供は十万余騎と称えられた。騎馬歩卒などの大列は、蜿蜒、宮門から洛内をつらぬき、群星地を流れ、彩雲陽をめぐって、街々には貴賤老幼が、蒸されるばかりに蝟集していた。
「あれが、劉皇叔よ」
などと、警蹕のあいだにも、ささやく声が流れる。
この日。
曹操は、「爪黄飛電」と名づける名馬にまたがって、狩装束も華やかに、ひたと天子のお側に寄り添っていた。
その曹操が前後には、彼の股肱とする大将旗下がおのおの武器をたずさえ、豪歩簇擁、尺地もあまさぬばかり続いて行くので、朝廷の公卿百官は、帝の側近くに従うこともできなかった。はるか後ろのほうから甚だ手持ち不沙汰な顔を揃えて歩いていた。
かくて御料の猟場に着くと、許田二百余里(支那里)のあいだを、十万の勢子でかこみ、天子は、彫弓金※箭を御手に、駒を野に立てられ、玄徳をかえりみて宣うた。
「皇叔よ。今日の猟を、朕のなぐさみと思うな。朕は、皇叔が楽しんでくれれば共にうれしかろう」
玄徳は、恐懼して、
「おそれ多いことを」
と、馬上ながら、鞍の前輪に顔のつくばかり、拝伏した。
ところへ、勢子の喊声におわれて、一匹の兎が、草の波を跳び越えてきた。
帝は、眼ばやく、
「獲物ぞ。あれ射てとれ」
と、早口にいわれた。
「はっ」
と、玄徳は馬をとばして、逃げる兎と、併行しながら、弓に矢をつがえてぴゅっんと放した。
白兎は、矢を負って、草の根にころがった。帝は、その日、朝門を出御ある折から、始終、ふさぎがちであった御眉を、初めてひらいて、
「見事」
と、玄徳の手ぎわを賞し、
「彼方の丘を巡ろうか。皇叔、朕がそばを離れないでくれよ」
と堤のほうへ、先に駒をすすめて行かれた。
すると、一叢の荊棘の中から、不意にまた、一頭の鹿が躍りだした。帝は手の彫弓に金※箭をつがえて、はッしと射られたが、矢は鹿の角をかすめて外れた。
「あな惜しや」
二度、三度まで、矢をつづけられたが、あたらなかった。
鹿は、堤から下へ逃げて行ったが、勢子の声におどろいて、また跳ね上がってきた。
「曹操、曹操っ。それ射止めてよ」
帝が急きこんで叫ばれると、曹操はつと馳け寄って、帝の御手から弓矢を取り、それをつがえながら爪黄馬を走らすかと見る間に、ぶんと弦鳴りさせて射放った。
金※箭は飛んで鹿の背に深く刺さり、鹿は箭を負ったまま百間ばかり奔って倒れた。
公卿百官を始め、下、将校歩卒にいたるまで、金※箭の立った獲物を見て、いずれも、帝の射給うたものとばかり思いこんで、異口同音に万歳を唱えた。
万歳万歳の声は、山野を圧して、しばし鳴りも止まないでいると、そこへ曹操が馬を飛ばしてきて、
「射たるは、我なり!」
と、帝の御前に立ちふさがった。
そして彫弓金※箭を諸手にさしあげ、群臣の万歳を、あたかも自身に受けるような態度を取った。
はっと、諸人みな色を失い興をさましてしまったが、特に、玄徳のうしろにいた関羽の如きは、眼を張り、眉をあげて、曹操のほうをくわっとにらめつけていた。
五
その時、関羽は、
「人もなげな曹操の振舞い。帝をないがしろにするにも程がある!」
と、口にこそ発しなかったが、怒りは心頭に燃えて、胸中の激血はやみようもなかったのである。
無意識に、彼の手は、剣へかかっていた。玄徳ははっとしたように、身を移して、関羽の前に立ちふさがった。そして手をうしろに動かし、眼をもって、関羽の怒りをなだめた。
ふと、曹操の眸が、玄徳のほうへうごいた。玄徳は咄嗟に、ニコと笑みをふくんでその眼に応えながら、
「いや、お見事でした。丞相の神射には、おそらく及ぶ者はありますまい」
「はははは」
曹操は高く打笑って、
「お褒めにあずかって面はゆい。予は武人だが、弓矢の技などは元来得手としないところだ。予の長技は、むしろ三軍を手足の如くうごかし、治にあっては億民を生に安からしめるにある。――さるを奔る鹿をもただ一矢で斃したのは、これ、天子の洪福というべきか」
と、功を天子の威徳に帰しながら、暗に自己の大なることを自分の口から演舌した。
それのみか、曹操は、忘れたように、帝の彫弓金※箭を手挟んだまま、天子に返し奉ろうともしなかった。
猟が終ると、野外に火を焚き、その日、獲たところの鳥獣の肉を焙って、臣下一統に酒を賜わったが、何となく公卿百官のあいだには、白けた空気がただよって、そこに一抹の暗影を感じないわけにはゆかなかった。
やがて、帝には還御となる。
玄徳も洛中に帰った。その後、彼は一夜ひそかに、関羽を呼んで、
「いつぞやの御猟の節、何故、曹操に対して、あのような眼ざしを向けたか。誰も気づかぬ様子であったからよいが、近頃、其方にも似合わぬ矯激な沙汰ではないか」
と、戒めた。
関羽は、頭を垂れて、神妙に叱りをうけていたが、静かに面をあげて、
「ではわが君には、曹操のあの折の態度に、何の感じもお抱きになりませんでしたか」
「そんなこともないが」
「私はむしろ、わが君が、何で私を制止されたか、お心を疑うほどです。この許昌の都に親しく留まって以来、眼にふれ耳に聞えるものは、ことごとく曹操の暴戻なる武権の誇示でないものはありません。彼は決して、王道をまもる武臣の長者とはいえぬ者です。覇気横溢のまま覇道を行おうとする奸雄です。その野心をはや露骨にして、公卿百官を始め、十万の将士を前に、上を冒し奉り、上を立ちふさいで、自身が臣下の万歳をうけるなどという思い上がった態を見ては、余人は知らず、関羽は黙止しておられません。……たとえ如何ようなお咎めをうけるとも、関羽には忍び難うて、この身がふるえます」
「もっともなことだ……」
玄徳は、うなずいた。幾たびも同感のうなずきを見せた。
「――だが関羽。ここは深慮すべき秋ではないか。鼠を殺すのに、手近な器物を投げつけるとする。鼠の価値と、器物の価値とを、考え合わす必要があろう。われら、義兄弟の生命は、そんな安価なものではない筈だ。もしあの折、かりにそちが目的を仕遂げたところで、彼には十万の兵と無数の大将がひかえている。われらも共に許田の土と化さねばなるまい。そしてまたまた大乱のうちから、次の曹操が現われたら何にもならないことになるではないか。――張飛なら知らぬこと、其方までがそんな短慮では困る。夢、ことばの端にも、そんな激色を現わしてはならぬ」
諄々と説かれて、関羽はかえすことばもなかった。
しかし彼は、独り星夜の外に出ると、長嗟して、天へ語った。
「今日、あの奸雄を刺さなければ、やがて明日の禍いとなるは必定だ。誓っていう! 天下の乱兆は、さらに、曹操が生きてゆくほど大になろう!」