鳳雛去る
一
喪旗を垂れ、柩をのせた船は、哀々たる弔笛を流しながら、夜航して巴丘を出て、呉へ下って行った。
「なに、周瑜が死んだと?」
孫権は、彼の遺書を手にするまで、信じなかった。いや信じたくなかった。
周瑜の遺書には、
瑜死ニ臨ミ、泣血頓首シテ、書ヲ主君明公ノ麾下ニ致ス
と書き始めて、縷々といま斃れる無念をのべ、呉の将来を憂い、その国策を誌し、そして終りには、
(自分の亡い後は、魯粛を大都督として職をお任せあれば、彼は篤実忠良な仁者ですから、外に過たず、内に人心を獲ましょう)
とも云いのこしてあった。
孫権の悲嘆はいうまでもない。暗澹と、彼の将来を思って、
「周瑜のような王佐の才を亡くして、この後何を力とたのもう」
と慟哭した。
けれどいつまで嘆いている所ではないと、張昭そのほかの重臣たちに励まされて、周瑜の遺言を守り、魯粛を大都督に任命した。以後、呉の軍事はすべて、彼の手に委ねられた。
もちろん、国葬を以て、遺骸は篤く葬られた。国中、喪に服して、哀号の色もまだ拭われないうちに一船、江を下ってきて、
「元勲、瑜公の死を聞き、謹んで遠くよりおくやみに来ました」と告げた者がある。
そう関門へ告げに来た者は、すなわち趙雲子龍であったが、正使は諸葛孔明その人であり、玄徳の名代として従者五百余をつれて上陸した。
喪を弔う――と称してきた者を拒むわけにもゆかなかった。魯粛が迎えて対面した。しかし故人周瑜の部下や、呉の諸将も口々に、
「斬ってしまえ」
「これへ来たこそ幸いなれ、彼の首を、霊前に供え、故人の怨恨を今ぞ晴らさん」
と、ひしめきあった。
けれど、孔明のそばには、たえず趙雲が油断なく眼をくばっているので、容易に手が下せなかった。
しかも孔明は塵ほどな不安も、姿にとめていなかった。
殺気満ち盈つ中を、歩々、水の如くすすんで、周瑜の祭壇に到るや、その前にぬかずいて、やや久しく黙拝していたが、やがて携えてきた酒、その他の種々を供え、霊前に向ってうやうやしく自筆の弔文を読んだ。
惟、大漢ノ建安十五年。南陽、諸葛亮、謹ンデ祭ヲ大都督公瑾周府君ノ霊前ニ致シテ曰ウ。
嗚呼公瑾不幸ニシテ夭亡ス、天人倶ニ傷マザルハ非ズ……
孔明の声は、一語一句、呉将の肺腑にしみた。弔文は長い辞句と切々たる名文によってつづられ、聞く者、哭くまいとしても哭かずにいられなかった。
――亮ヤ不才、計ヲ問イ、謀ヲ求ム、皆君ガ神算ニ出ヅ。呉ヲ扶ケ、曹ヲ討チ、劉ヲ安ンジ、首尾掎角、為ニ完シ、嗚呼公瑾今ヤ永ク別ル。何ヲ慮リ何ヲカ望マン。冥々滅々、霊アラバ我心ヲ鑑ラレヨ。此ヨリ天下再ビ知音無カラン。嗚呼痛マシイ哉。
読み終ると、孔明は、ふたたび地に伏して大いに哭き、哀慟の真情、見るも傷ましいばかりだったので、並びいる呉の将士もことごとく貰い泣きして、心ひそかに、皆こう思った。
(周瑜と孔明とは、たがいに仲が悪く、周瑜はつねに孔明を亡き者にしようとし、孔明もまた周瑜に害意をふくんでいると聞いていたが、……この容子ではまるで骨肉の者と別れたような嘆き方だ。察するところ、周瑜の死は、まったく孔明のためではなく、むしろ周瑜自身の狭量が、みずから求めて死を取ったものだろう。どうもそれでは致し方もない……)
初めの殺意は、かえって、後の尊敬となって、魯粛以下、みな引き留めたが、孔明は長居は無用と、惜しまれる袂をふり切って、その日のうちにすぐ船へ帰って行った。
ところが、ここにただ一人、城門の陰から見え隠れに、孔明のあとをつけて行った破衣竹冠のみすぼらしい浪人者があった。
二
魯粛は、江の岸まで孔明を送ってきた。
別れて孔明が、船へ乗ろうとした時である。竹冠の浪人は、
「待てっ」
いきなり馳け寄りざま、臂を伸ばして、孔明の肩を引っつかんだ。そして、大声に、
「すでに周都督を、気をもて殺しながら、口を拭いて、自らその喪を弔うと称し、呉へ来るなどは、呉人を盲にした不敵な曲者、呉にも眼あきはいるぞ」
と、片手に剣を抜いて、あわや孔明を刺そうとした。
別れて十歩ほど、そこを去りかけた魯粛も、この声に仰天して、
「何をするかっ、無礼者」と、馳けもどるなり浪人の腕をつかんで振り飛ばした。
すると浪人は、自身ひょいと飛びのいて、
「あははは、冗談です」
と、もう剣を鞘に収めていた。
見れば、背の低い、そして鼻の平たい、容貌といい風采といい、まことに人品のいやしげな男だった。
孔明は、にこと笑って、
「やあ、誰かと思うたら、龐統ではないか」
と、親しげに寄って、その肩を打ち叩いた。
「なんだ、貴君か」
と、魯粛も気抜けしたり、ほっと胸をなでたりして、
「悪いお戯れをなさる。部下の血気者でも狼藉に及んだかと思って、ぎょッとしましたよ」
一笑して、彼はそのまま、城内へ帰って行った。
龐統、字は士元、襄陽名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住していた頃から、はやくも知識人たちの間には、
――と、その将来を囑目されていたのだった。
荊州滅亡の後、その龐統は、呉の国に漂泊しているとは、かねて孔明も人のうわさに聞いていたが、ここで相見たのは、まことに意外であった。
で、孔明は、船が纜を解くまでの寸間に、一書をしたためて、彼にこう告げて手渡した。
「おそらく、御身の大才は、呉の国では用いられまい。君も一生そう浪人しているつもりでもあるまいから、もし志を得んと思うなら、この書をたずさえて、いつでも荊州へやって来給え。わが主玄徳は寛仁大度、かならず君が補佐して、君の志も、共に達することができよう」
孔明の船は、江をさかのぼって、遠く見えなくなった。
船影が見えなくなるまで、龐統は岸にたたずんでいたが、やがて飄乎として、何処へか立ち去った。
その後、呉では、周瑜の柩をさらに蕪湖(安徽省・蕪湖)へ送った。蕪湖は周瑜の故郷であり、そこの地には故人の嫡子や女などもいるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでいるので、名残りを篤うさせたのであった。
けれどいくら死後の祭を盛大にしてやっても、なお恋々と故人の才を惜しんでは日夜痛嘆していたのは孫権自身であった。すでに乗り出してしまった大業に向って、まだ赤壁の一戦に大捷を克ち獲たきりである所へ、たのむ股肱を失ったのであるから、その精神的な傷手の容易に癒えないのも無理はなかった。
それに代る柱石として、魯粛を大都督に任じたものの、魯粛の温厚篤実では、この時代をよく乗り切って呉の国威を完うし得るかどうかすこぶる疑わしい。――それは誰よりも魯粛自身がよく知っていた。
「私は元来、取るに足らない凡庸です。周都督のご遺言といい、君命もだし難く、一応おうけ致したものの、決して天下人なきわけではありません。ぜひ、孔明にも勝るところの人物を挙げてその職にあたらせていただきとう存じます」
彼の正直なことばを孫権もそのまま容れて、しかし一体、そのような人物がいるだろうかと反問した。もしおるならば推薦せよといわぬばかりに。
三
「おります。ただ一人」と、魯粛は、主君の言下に、こう推薦した。
「世々襄陽の名望家で、龐統、字は士元、道号を鳳雛先生ともいう者ですが」
「おお、鳳雛先生か。かねて名だけは聞いておる。周瑜と人物をくらべたら?」
「故人の評はいえません。しかし、孔明も彼の智には深く伏しています。また襄陽人士のあいだでも、二人を目して、兄たり難く弟たり難しといっています」
「そんな偉才か」
「上天文に通じ、下地理を暁り、謀略は管仲、楽毅に劣らず、枢機の才は孫子、呉子にも並ぶ者といっても過言ではないでしょう」
孫権は渇望の念を急にした。すぐ召し連れよとある。魯粛が数日のあいだ龐統を市中に探している間も、
「まだか。まだか」
幾度も催促したほどだった。
けれどやがて魯粛がたずね当てて呉の宮中へつれて来たのを一見すると、孫権はひどくがっかりした顔をした。
何分にも、風采があがらない。面は黒疱瘡のあとでボツボツだらけだし、鼻はひしげているし、髯は髯というよりも、短い不精髯でいっぱいだ。
(こんなまずい男様も少ない)と孫権は、古怪を感じながら、それでも二、三の問いを試みた。
「足下。何の芸があるか」
龐統は答えた。
「飯を喰い、やがて死ぬでしょう」
「才は?」と、訊くと、
「ただ機に臨んで、変に応じるのみ」と、ぶっきら棒である。
孫権はいよいよ蔑みながら、
「足下と、周瑜とをくらべたら」
「まず、珠と瓦でしょうな」
「どっちが?」
「ご判断にまかせます」
明らかに、この黒あばたが、自ら珠を以て任じている顔つきなので、孫権は、ぷっと怒りを含んで奥へかくれてしまった。そして、魯粛を呼び、
「あんな者はすぐ追い返せ」といった。
魯粛は、彼の感情に曇った鑑識を極力、訂正につとめた。
「一見、狂人に似、風采もあがらない男ですが、その大才たる証拠には、かの赤壁の戦前に、周瑜に教えて、連環の計をすすめ、一夜にあの大功を挙げ得た陰には、実に龐統の智略があったのです。――故人の偉勲を傷つけるわけではありませんが」
「いやいや、予は虫が好かんのだ」
「御意にかないませぬか」
「天下人なきに非ずと、そちもいったではないか。何を好んで……」
「ぜひもございません」
夜に入っていた。
魯粛は、気の毒にたえないので、自ら城門の外まで彼を送ってきた。そして、人なき所まで来ると、声をひそめて慰めた。
「きょうの不首尾、まったく要らざる推挙をした私の罪です。先生もさぞ不快だったでしょう」
龐統はただ笑っている。
魯粛はことばをかさねて、
「先生はこれを機に、呉を去るお意でしょう」
「去るかもしれない」
「国外へ出て、もし主君をお選びになるとしたら、誰に仕えますか」
「もちろん魏の曹操さ」
もし曹操のもとへ彼に奔って行かれてはたまらないと魯粛は思っていた。で、一書を袂から取り出して、
「荊州の玄徳にお仕えなさい。かならず貴君を重用しましょう」
と極力、玄徳の徳をたたえて、紹介状を渡した。
「あははは。曹操につくといったのは戯れだよ。ちょっと君の心を量ってみたまでさ」
「それで安心しました。先生が玄徳を扶けて、曹操を討つ日が早く来れば、呉にとっても大慶ですから。――では、ご機嫌よう」
「おさらば」
ふたりは、相別れたが、なお幾度も振向き合った。