日時計
一
かくて、小覇王孫郎の名は、旭日のような勢いとなり、江東一帯の地は、その武威にあらまし慴伏してしまったが、ここになお頑健な歯のように、根ぶかく歯肉たる旧領を守って、容易に抜きとれない一勢力が残っていた。
太史慈、字は子義。
その人だった。
主柱たる劉繇が、どこともなく逃げ落ちてしまってからも、彼は、節を変えず、離散した兵をあつめ、涇県の城にたてこもり、依然として抗戦しつづけていた。
きのうは九江に溯江し、きょうは秣陵に下り、明ければまた、涇県へ兵をすすめて行く孫策は、文字どおり南船北馬の連戦であった。
「小城だが、北方は一帯の沼地だし、後ろは山を負っている。しかも城中の兵は、わずか二千と聞くが、この最後まで踏み止まっている兵なら、おそらく死を決している者どもにちがいない」
孫策は、涇県に着いたが、決して味方の優勢を慢じなかった。
むしろ戒めて、
「みだりに近づくな」と、寄手の勢を遠巻きに配して、おもむろに城中の気はいを探っていた。
「周瑜」
「はっ」
「君に問うが、君が下知するとしたら、この城をどうしておとすかね」
「至難です。多大な犠牲を払う覚悟でなければ」
「君も至難と思うか」
「ただ、わずかに考えられる一つの策は、死を惜しまぬ将一人に、これも決死の壮丁十人を募り、燃えやすい樹脂や油布を担わせて、風の夜、城中へ忍び入り、諸所から火を放つことです」
「忍び入れるだろうか」
「大勢では見つかりましょう」
「でも、あの高い城壁を」
「よじ登るに、法を以てすれば、登れぬことはありません」
「だが――誰をやるか」
「陳武が適任でしょう」
「陳武は、召抱えたばかりの者だし、将来も使えるいい大将だ。それを死地へやるのは惜しい。――また、もっと惜しいのは、敵ながら太史慈という人物である。あれは生擒りにして、味方に加えたいと望んでおるのだが」
「それでは、こうしては如何です。――中に火光が見え出したら、同時に三方から息もつかず攻めよせ、北門の一方だけ、わざと手薄にしておきます。――太史慈はそこから討って出ましょう。――出たら彼一名を目がけて追いまくり、その行く先に、伏兵をかくしておくとすれば」
「名案!」
孫策は、手を打った。
陳武の下に、十名の決死隊が募られた。もし任務をやりとげて、生きてかえったら、一躍百人の伍長にすすめ、莫大な恩賞もあろうというので、たくさんの志望者が名のりでた。
その中から十名だけの壮丁を選んで、風の夜を待った。
無月黒風の夜はやがて来た。
油布、脂柴などを、壮丁の背に負わせて、陳武も身軽にいでたち、地を這い、草を分けて、敵の城壁下まで忍びよった。
城壁は石垣ではない。高度な火で土を焼いた磚という一種の瓦を、厚さ一丈の余、高さ何十丈に積みかさねたものである。
――が、何百年もの風雨に曝されているので、磚と磚とのあいだには草が生え、土がくずれ、小鳥が巣をつくり、その壁面はかなり荒れている。
「おい一同。まず俺ひとりが先へ登って行って、綱を下ろすから、そこへかがみこんだまま、敵の歩哨を見張っておれ。――いいか、声を出すな、動いて敵に見つかるな」
陳武は、そう戒めてから、ただ一人でよじ登って行った。――磚と磚のあいだに、短剣をさしこんで、それを足がかりとしては、一歩一歩、剣の梯子を作りながら踏み登って行くのであった。
二
「――火だっ」
「火災だっ」
「怪し火だ!」
銭糧倉から、また、矢倉下から、書楼の床下から、同時にまた、馬糧舎からも、諸門の番人が、いちどに喚き出した。
城将の太史慈は、
「さわぐな。敵の計だ。――うろたえずに消せばよい」
と、将軍台から叱咤して、消火の指揮をしていたが、城中はみだれ立った。
――びゅっッ!
――ぴゅるん!
太史慈の体を、矢がかすめた。
台に立っていられないほど風も強い闇夜である。
諸所の火の手は防ぎきれない。一方を消しているまに、また一箇所から火があがる。その火はたちまち燃えひろがった。
のみならず城の三方から、猛風に乗せて、喊の声、戦鼓のひびき、急激な攻め鉦の音などがいちどに迫ってきたので、城兵は消火どころではなく、釜中の豆の如く沸いて狼狽しだした。
「北門をひらいて突出しろ」
太史慈は将軍台から馳け下りながら、部将へ命令した。そして真っ先に、
「城外へ出て、一挙に、孫策と雌雄を決しよう! 敵は城を囲むため、三方へ全軍をわけて、幸いにも北方は手薄だぞ」と、猛風をついて、城の外へ馳けだした。
火にはおわれ、太史慈には励まされたので、当然釜中の豆も溢れだした。
ところが、手薄と見えた城北の敵は、なんぞ知らん、案外に大勢だった。
「それっ、太史慈が出たぞ」と合図しあうと、八方の闇から乱箭が注がれてきた。
太史慈の兵は、敵の姿を見ないうちに、おびただしい損害をうけた。
それにも怯まず、
「かかれかかれ! 敵の中核を突破せよ!」
と、太史慈はひとり奮戦したが、彼につづく将士は何人もなかった。
その少い将士さえ斃れたか、逃げ散ったか、あたりを見廻せば、いつの間にか、彼は彼ひとりとなっていた。
「――やんぬる哉、もうこれまでだ」
焔の城をふり向いて、彼は唇を噛んだ。この上は、故郷の黄県東莱へひそんで、再び時節を待とう。
そう心に決めたか。
なおやまない疾風と乱箭の闇を馳けて、江岸のほうへ急いだ。
すると後ろから、
「太史慈をにがすな!」
「太史慈、待てっ」
と、闇が吼える。――声ある烈風が追ってくる。十里、二十里、奔っても奔っても追ってくる。
この地方には沼、湖水、小さな水溜りなどが非常に多い。長江のながれが蕪湖に入り、蕪湖の水がまた、曠野の無数の窪にわかれているのだった。
その湖沼や野にはまた、蕭々たる蘆や葭が一面に生い茂っていた。――ために、彼は幾たびか道を見失った。
「――しまッた!」
ついに、彼の駒は、沼の泥土へ脚を突っこんで、彼の体は、蘆のなかへほうり出されていた。
すると、四方の蘆のあいだから、たちまち熊手が伸びた。
分銅だの鈎のついた鎖だのが、彼の体へからみついた。
「無念っ」
太史慈は、生擒られた。
高手小手に縛められて、孫策の本陣へとひかれてゆく途中も、彼は何度も雲の迅い空を仰いで、
「残念だっ」と、眦に悲涙をたたえた。
三
やがて彼は、孫策の本陣へ引かれて来た。
「万事休す」と観念した彼は、従容と首の座について、瞑目していた。
すると誰か、「やあ、しばらく」と、帳をあげて現れた者が、友人でも迎えるように、馴々しくいった。
太史慈が、半眼をみひらいて、その人を見れば余人ならぬ敵の総帥孫策であった。
太史慈は毅然として、
「孫郎か、はやわが首を刎ね落し給え」と、いった。
孫策は、つかつかと寄って、
「死は易く、生は難し、君はなんでそんなに死を急ぐのか」
「死を急ぐのではないが、かくなる上は、一刻も恥をうけていたくない」
「君に恥はないだろう」
「敗軍の将となっては、もうよけいな口はききたくない。足下もいらざる質問をせず、その剣を抜いて一颯に僕の血けむりを見給え」
「いやいや。予は、君の忠節はよく知っておるが、君の噴血をながめて快笑しようとは思わぬ。君は自分を敗軍の将と卑下しておらるるが、その敗因は君が招いたものではない。劉繇が暗愚なるためであった」
「…………」
「惜しむらく、君は、英敏な資質をもちながら、良き主にめぐり会わなかったのだ。蛆の中にいては、蚕も繭を作れず糸も吐けまい」
「…………」
太史慈が無言のままうつ向いていると、孫策は、膝を折って、彼の縛めを解いてまた云った。
「どうだ。君はその命を、もっと意義ある戦と、自己の人生のために捧げないか。――云いかえれば、わが幕下となって、仕える気はないか」
太史慈は、潔く、
「参った。降伏しました。願わくはこの鈍材を、旗下において、なんらかの用途に役立ててください」
「君は、真に快男子だ。妙に体面ぶらず、その潔いところも気に入った」
手を取って、彼は、太史慈を自分の帷幕へ迎え入れ、
「ところで君、先頃の神亭の戦場では、お互いに、よく戦ったが、あの際、もっと一騎打ちをつづけていたら、君はこの孫策に勝ったと思うかね」と、笑いばなしにいった。
太史慈も、打笑って、
「さあ、どんなものでしょうか。勝敗のほどはわかりませんな」
「だが、これだけは確実だったろう。――予が負けたら、予は君の縄目をうけていた」
「勿論でしょう」
「そうしたら、君は予の縄目を解いて、予がなした如く、予を助けたであろうか」
「いや、その場合は、恐らくあなたの首はなかったでしょうな。――なぜならば、私にはその気もちがあっても、劉繇が助けておくはずがありませんから」
「ははは、もっともだ」
孫策は、哄笑した。
酒宴をもうけて、二人はなお愉快そうに談じていた。孫策は、彼に向って、
「これから戦いの駈引きについてもいろいろ君の意見を訊くから、良計があったら、教えてもらいたい」といったが、太史慈は、
「敗軍の将は兵を語らずです」と、謙遜した。
孫策は、追及して、
「それはちがう。昔の韓信を見たまえ。韓信も、降将広武君に謀計をたずねておる」
「では、大した策でもありませんが、あなたの帷幕の一員となった証に愚見を一つのべてみます。……がしかし私の言は、恐らく将軍のお心にはあわないでしょう」
太史慈は、孫策の面を見ながら、微笑をふくんだ。
四
孫策も、微笑した。
「ははあ、では君は、せっかく進言しても、この孫策に用いる度量があるまいといわるるのか」
「そうです」
太史慈は、うなずいて、
「――それをおそれます。しかし一応、申しのべてみましょう」
「うむ。聞こう」
「ほかでもありませんが、劉繇に付き従っていた将士は、その後、主とたのむ彼を見失って、四散流迷しております」
「あ。敗残兵のことか」
「ひと口に、敗残軍といえば、すでに弱力化した無能の群れとして、これを無視してしまう傾きがありますが、時利あらずで、その中には、惜しむべき大将や兵卒らも入りまじっています」
「うむ。それをどうせよと、君は進言するか」
「今、この太史慈を、三日間ほど、自由に放して下されば、私が行って、それらの残軍を説き伏せ、粗を捨て、良を選び、必ず将来、あなたの楯となるような精兵三千をあつめて帰ります。――そしてあなたに忠誠を誓わせてご覧にいれますが」
「よし。行ってくれ給え」
孫策は、度量を見せて、すぐ許したが、
「――だが、きょうから三日目の午の刻(正午)までには、必ず帰って来なければいかんよ」
と、念を押して、一頭の駿馬を与え、夜のうちに、彼を陣中から放してやった。
翌朝。
帷幕の諸将は、太史慈のすがたが見えないので、怪しんで孫策にたずねると、ゆうべ彼の進言にまかせて、三日の間、放してやったとのことに、
「えっ。太史慈を?」と、諸将はみな、せっかく生捕った檻の虎を野へ放したように唖然とした。
「おそらく、太史慈の進言は、偽りでしょう。もう帰って来ないでしょう」
そういう人々を笑いながら、孫策は、首を振った。
「なに、帰って来るさ。彼は信義の士だ。そう見たからこそ、予は彼の生命を惜しんだので、もし信義もなく、帰って来ないような人間だったら、再び見ないでも惜しいことはない」
「さあ、どうでしょう」
諸将はなお信じなかった。
三日目になると、孫策は、陣外へ日時計をすえさせて、二人の兵に日影を見守らせていた。
「辰の刻です」
番兵は、一刻ごとに、孫策へ告げにきた。しばらくするとまた、
「巳の刻となりました」
と、報らせてくる。
日時計は、秦の始皇帝が、陣中で用いたのが始めだという。「宋史」には何承天が「表候日影」をつかさどるとある。明代には晷影台というのがある。日時計の進歩したものである。
後漢時代のそれは、もちろん原始的なもので、垂直の棒を砂上に立て、その投影と、陰影の長さをもって、時刻を計算したものだった。
砂地のかわりに、床を用いたり、また、壁へ映る日影を記録したりする方法などもあった。
「午の刻です!」
陣幕のうちへ、刻の番の兵が大声で告げると、孫策は、諸将を呼んで、
「南のほうを見ろ」と、指さした。
果たせるかな、太史慈は、三千の味方を誘って、時も違えず、彼方の野末から、一陣の草ぼこりを空にあげて帰って来た。
孫策の烱眼と、太史慈の信義に感じて、先に疑っていた諸将も、思わず双手を打ちふり、歓呼して彼を迎えた。