銀河の祷り

 彼の病気はあきらかに過労であった。それだけに、どっと打臥すほどなこともない。
 むしろ病めば病むほど、傍人の案じるのをも押して、軍務に精励してやまない彼であった。近頃聞くに、敵の軍中には、また気負うこと旺なる将士が、大いに司馬懿の怯惰を罵って、
「かかる都督を大魏国の軍の上にいただくには忍びぬ」
 と、激語憤動、ただならぬ情勢がうかがわれるとしきりに云ってくる。
 原因は、例の、孔明から贈った女衣巾幗の辱めが、その後、魏の士卒にまですっかり知れ渡ったため、
(――司馬懿大都督は孔明から書を送られて、腐った女のようだと辱められたが、それでもまだああして何らその敵に答える術を知らずにおる。――一体、われわれは木偶か藁人形か。なんのためにこんな大軍を結んで、蜀人にからかわれたり侮辱されたりしているのか)
 というような声がまたまた起り、そこから再燃した決戦論者の動揺であることが観取される。
 孔明は、病中ながら、その機微を知るや、
「出でよかし。敵動かば――」
 と、心ひそかに秘策をえがき、なお敏捷な諜者を放って、
「魏勢が出軍するか否か、しかと様子を見とどけて来い」と、命じた。
 諜者はやがて帰ってきた。
 待ちかねていた孔明は、
「どうであった」と、われから訊ねた。
 諜者のいわく。
「敵の営中に騒然たる戦気はたしかに感じられました。――けれど営門に一老夫が立っているのです。白眉朱面、金鎧まばゆきばかり装って、毅然と突っ立ち、手に黄鉞を杖ついて、八方を睨まえ、かりそめにも軍門をみだりに出入なすを許しません。――ために、営中の軍も出ることができないでおりまする」
 孔明は思わず手の羽扇を床へ取り落して云った。
「ああそれこそ、さきに魏廷から軍監として下った辛毘佐治にちがいない。……それほどまで厳に戦うを戒めておるか」
 一身を軍国蜀に捧げ、すでに自覚される病もおいて、日々これ足らずと努めている孔明にとって、この事はまた大きな失意を彼に加えた。
 時に渭水の流れは満ち、渭水の河床は涸れ、風雨の日、炎熱の日、天象は日々同じでなかったが、戦局はいっこう革まる様子もなく、秋はすでに満地の草の花に見えて、朝夕の風はようやく冷涼を帯びてきた。
「蜀の陣上には、一抹、何やら淋しきものが見える」
 仲達はある夕、ひそかに人を放って孔明の陣をうかがわせた。そしてその返答に依っては、突如、奇襲して出でんとしたか、銀甲鉄冑に身をかため、燭光ひそやかに待っていた。
 すると、姿を変えて探りに行った将は、ようやく四更の頃、彼の前にもどって来て、額の汗を押し拭いながら復命した。
「蜀陣の旌旗は依然、粛として寸毫の惰気も見えませぬ。また、深夜というのに、孔明は素輿(白木の輿)に乗って陣中を見まわり、常のごとく、黄巾をいただき白羽扇を持ち、その出入を見るや、衆軍みな敬して、進止軍礼、一糸のみだれも見ることができません、……実に、驚きました。森厳そのものの如き軍中の規律です。近頃、孔明が病気であるというような噂が行われておりますが、おそらくあれも敵がわざといわせている嘘言でしょう」
 仲達は歎じて、子の昭や師にいった。
諸葛は真に古今の名士だ。――名士とは、彼の如きをいうものだろう」

 それより先に、孔明から呉へ要請していた蜀呉同盟条約による第二戦線の展開については、まだここには、なんの詳報も入っていなかった。それはすでに、この年の五月、呉の水陸軍が三道から魏へ攻撃を起したことによって、条約の表面的履行は果たされた形になっていたものである。
 孔明がその快捷の報を、久しく心待ちにしていたであろうことは想像に難くない。
 昨年から幾多の風説は聞いていた。
 或る者は、呉の優勢をいい、或る者はまだ本格的戦争はないといい、また或る者は、呉の退散を伝えた。
 呉魏の戦場とここでは、余りに隔絶している。いたずらな諜報はすべて信じられなかった。
 秋の初めの頃である。
 突然、成都から、尚書の費褘が陣へ来た。
「呉のことで、お伝えに」
 と費褘はいう。孔明はさてこそと思い、その日も体の容態は何となくすぐれなかったが、平然常の如く応接した。
「あちらの戦況はどうですか」と、まず訊ねた。
 費褘は唇に悲調をたたえて語った。
「――夏五月頃から、呉の孫権は、約三十万を動員して、三方より北上し、魏を脅かすことしきりでしたが、魏主曹叡もまた合淝まで出陣し、満寵、田予、劉劭の諸将をよく督して、ついに呉軍の先鋒を巣湖に撃砕し、呉の兵船兵糧の損害は甚大でした。ために、後軍の陸遜は表を孫権にささげて、敵のうしろへ大迂回を計ったもののようでしたが、この計もまた、事前に魏へ洩れたため、機謀ことごとく敵に裏を掻かれ、呉全軍は遂に何らの功もあげず大挙退いてしまったのです。……どうもまことに頼みがいなき盟国というしかありませんが」
「…………」
「や? 丞相。どうなさいましたか。――急にご血色が」
「いや、さしたることはない」
「でも、お唇の色までが」
 費褘は驚いて、侍臣を呼びたてた。
 人々が駈け寄ってきてみたときは、孔明は袂を以て自ら面をおおい、榻の上にうっ伏していた。
「丞相、丞相」
「いかがなさいましたか」
「お心をたしかにして下さい」
 諸将も来て、共に掻い抱き、静室に移して、典医に諮り、あらゆる手当を尽した。半刻ほどすると、孔明の面上に、ぽっと血色が甦ってきた。――人々はほっと眉をひらき、
「お心がつきましたか」と、枕頭をのぞき合った。
 孔明は大きく胸を波動させていた。そして、ひとつひとつの顔にひとみを注ぎ、
「……思わず病に負けて、日頃のたしなみも昏乱したとみえる。これは旧病の興ってきた兆といえよう。わが今生の寿命も、これでは久しいことはない」
 語尾は独りごとのようにしか聞えなかった。
 しかし夕方になると、
「心地は爽やかだ。予を扶けて露台に伴え」
 というので、侍者典医などが、そっと抱えて、外へ出ると、孔明はふかく夜の大気を吸い、
「ああ、美しい」
 と、秋夜の天を仰ぎ見ていたが、突然、何事かに驚き打たれたように、悪寒が催してきたといって内にかくれた。
 そして侍者をして、急に姜維を迎えにやり、姜維が倉皇としてそこに見えると、
「こよい、何気なく、天文を仰いで、すでに我が命が旦夕にあるを知った。……死は本然の相に帰するだけのことで、べつに何の奇異でもないが、そちには伝えおきたいこともあるので早々招いた。かならず悲しみに取り乱されるな」
 いつもに似ず、弱々しい語韻であったが、そのうちにも、秋霜のようなきびしさがあった。
「……ご無理です。丞相にはどうしてそのようなお覚悟をなさいますか。悲しむなとおっしゃっても、そんなことを仰せられると、姜維は哭かないではいられません」
 病窓の風は冷やかに、彼の声涙もあわせて、燭は折々消えなんとした。

「何を泣く。定まれることを」
 孔明は叱った。子を叱るように叱った。馬謖の亡い後、彼の愛は、姜維に傾けられていた。
 日常、姜維の才を磨いてやることは、を愛でる者がの光を慈むようであった。
「はい。……おゆるし下さい。もう哭きませぬ」
姜維よ。わしの病は天文にあらわれている。こよい天を仰ぐに、三台の星、みな秋気燦たるべきに、客星は明らかに、主星は鈍く、しかも凶色を呈し、異変歴々である。故に、自分の命の終りを知ったわけだ。いたずらに病に負けていうのではない」
「丞相、それならば何故、禳をなさらないのですか。古くからそういう時には、星を祭り天を祷る禳の法があるではございませんか」
「おお、よく気がついた。その術はわれも習うていたが、わが命のためになすことを忘れていた」
「おいいつけ下さい。わたしが奉行して、諸事調えまする」
「うむ。まず鎧うたる武者、七々四十九人を選び、みな皁き旗を持ち、みな皁き衣を着て、祷りの帳外を守護せしめい」
「はい」
「帳中の清浄、壇の供えは、人手をかりることはできない。予自ら勤めるであろう。そして、秋天の北斗を祭るが、もし七日のあいだ、主燈が消えなかったら、わが寿命は今からまた十二年を加えるであろう。しかしもし祷りの途中において、主燈の消えるときは、今生ただ今、わが命は終ろう。――それゆえの帳外の守護である。ゆめ、余人に帳中をうかがわすな」
 姜維は、謹んで命をうけ、童子二名に、万の供え物や祭具を運ばせ、孔明は沐浴して後、内に入って、清掃を取り、壇をしつらえた。一切の事、祭司を用いず、やがて北斗を祭る秘室のうちに、帳を垂れて閉じ籠った。
 孔明を断ち、夜は明けるまで、一歩もそこから出なかった。
 一日。二日。三日――と続いた。
 夜々、秋の気は蕭索として、冷涼な風は帳をゆすり、秘壇の燈や紅帋金箋の祭華をもそよそよ吹いた。
 外に立てば、銀河は天に横たわり、露は零ちて、旌旗うごかず、更けるほどに、寂さらに寂を加えてゆく。
 姜維は、四十九人の武者とともに、帳外に立って、彼も、孔明の祷りが終るまではと、以来、も水も断って、のごとく、屹立していた。
 帳中の孔明はと見れば、祭壇には大きな七盞の燈明がかがやいている。その周りには四十九の小燈を懸けつらね、中央に本命の主燈一盞を置いて、千々種々の物を供え、香を焚き、咒を念じ、また、折々、盤の清水をかえ、かえること七度、拝伏して、天を祈る。――その祷りの必死懸命となるときは、願文を誦する声が、帳外の武者の耳にも聞えてくるほどであった。
「――亮、乱世ニ生レテ、身ヲ農迹ニ隠ス所ニ、先帝三顧ノ恩ヲウケ、孤子ヲ託スルノ重キヲ被ル。是ニヨリテ、不才、犬馬ノ労ヲ尽シ、貔貅ノ大軍ヲ領シテハ、六度、祁山ノ陣ニ出ヅ。ソレ臣ノ希ウトコロ、唯誓ッテ反国ノ逆ヲ誅シ、以テ先帝ノ遺詔ニコタエ、世々ノ大道ヲ明ラカニセンノミ。カカル秋ニ意ワザリキ、将星墜チントシテ、我今生ノ命スデニ終ラントスルヲ天ノ告ゲ給ウアラントハ。――謹ンデ静夜ヲ仰ギ、昭カナル天心ニ告ス。北極元辰マタ天慈ヲ垂レ地上ノ嘆ヲ聞キ給エ。亮ノ命ヤ一露ヨリ軽シト雖モ任ハ万山ヨリ重シ。――憐レ十年ノ寿ヲカシテ亮ガ業ヲ世ニ遂ゲ得サセ給エ」
 ――こうして、晨になると彼は綿のごとく疲れ果てたであろう身に、また水をかぶって、病をなげうち、終日、軍務を見ていたという。
 その七日間における彼の行を、古書の記すところに見ると、惨心、読むに耐えないものがある。

 ――旦ヲ待チテハ、次ノ日マタ、病ヲ扶ケラレテ、時務ヲ治ム。為ニ、日々血ヲ吐イテ止マズ。死シテハマタエル
 カクテ昼ハ共ニ魏ヲ伐ツノ計ヲ論じ、夜ハ罡ニ歩シ、斗ヲ踏ンデ祷ヲナス。

 その一念、その姿、まさに文字どおりであったろうと思われる。

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