鬮
一
許都に帰ると、曹操はさっそく府にあらわれて、諸官の部員から徐州の戦況を聞きとった。
一名の部員はいう。
「戦況は八月以来、なんの変化もないようであります。すなわち丞相のお旨にしたがい、発向の折、親しく賜わった丞相旗をうちたて、曹丞相みずから征してこの軍にありと敵に見せかけ、徐州を隔つこと百里の前に陣をとりて、あえて、軽々しく動くことを誡め、まだ一回の攻撃もしておりません」
曹操はそう聞くと、いかにも呆れ返ったように、
「さてさて鈍物という者は仕方がないものだ。機に応じ変に臨んで処することを知らん。下手に戦うなといえば、十年でも動かずにいる気であろうか。曹操自身、軍にあるものなら、百里も敵と隔てたまま、八月以来の長日月を、無為にすごしているわけはないと、かえって敵が怪しむであろう」
彼は、歯がゆく思ったか、急に軍使を派して、
「すみやかに徐州へ攻めかかって、敵の虚実を計れ」と、厳しく催促した。
日ならずして曹操の軍使は、徐州攻略軍の陣中に着いた。寄手の二大将、劉岱、王忠のふたりは、
「何事のお使いにや?」と、鞠躬如として出迎えた。
軍使は、曹操の指令をつたえ、
「丞相のおことばには、其許たちへは、生きた兵をあずけてあるに、何故、藁人形の如き真似しておるかと、きついご不興である。一刻もご猶予はあるべからず」と、ありのままを伝えた。
劉岱は、聞くと、その場で、
「いかさま、長い月日、ただ丞相の大旗をたてて、こうしているのもあまり無策と思おう。王忠殿、足下まず一押しして、敵がどう変じてくるか、一戦試みられい」と、いった。
王忠は、首を横に振って、
「こは意外な仰せではある。都を出る時、曹丞相には、親しく貴公へ向って、策をさずけ賜うたのではないか。貴公こそ先に戦って、敵の実力を計るべきだのに」
「いやいや、自分は寄手の総大将という重任をうけたまわっておる者、豈、軽々しく陣頭にすすみ得ようか。――其許まず先鋒に立ちたまえ」
「異なおことば哉。ご辺と、それがしとは、官爵の高下もないに、何で、それがしを下風に視られるか」
「いや、何も、下風に見くだすわけではないが」
「今の口ぶりはこの王忠を、部下といわないばかりではないか」
ふたりが争いだしたので軍使は眉をひそめながら、
「まあ待ちたまえ。まだ一戦もせぬうちに、味方のなかで確執を起すなど是非によらず、どちらも醜しと人にいわれよう。――それよりは拙者がいま、鬮を作るから、鬮を引いて、先鋒と後詰めの任をきめられては如何か」
「なるほど、それも一案」と、王忠も劉岱と同意したので、異存なくばと、念を押したうえ、軍使は二本の鬮をこしらえて二人に引かせた。
劉岱の鬮には、
後
と、書いてあった。
王忠が「先」を引いたのである。そこで否応なく、王忠は一軍を率いて、徐州城へ攻めかかった。
玄徳は徐州城の内にあって、かくと知ると、すぐ防禦を見まわった上、陳登に対策をたずねた。
陳登はその前から、寄手の丞相旗には不審を抱いていた。必定、これは曹操の詭計であろうと、看破していたので、
「まずひと当り当ってみれば、敵の実力がわかります。策はその上でいいでしょう」と、答えた。
「然り、それがしが参って、彼の虚勢か実体かを試み申さん」
と、列座の中から進み出た者がある。その大声だけでもすぐそれとわかる張飛であった。
二
張飛が進んで、城外の敵に当らんと望んで出ると、玄徳は、むしろ歓ばない色を顔に示して、
「いつもながらさわがしき男ではある。待て、待て」
と押し止め、行けとも、行ってはならんともいわなかった。
「それがしの武勇では、危ないと仰せられるのでござるか」
張飛が不平を洩らすと、
「いや、汝の性質は、至って軽忽で、さわがしいばかりであって、そのため事を仕損じ易いから、わしはその点を危惧しているのだ」と、玄徳は飾らずいった。
張飛は、なお面ふくらませて、
「もし、曹操に出会ったら、木ッ端みじんに敗れて帰るだろうと、それを心配なさるのでござろう。笑止笑止。曹操が出てきたら、むしろもっけの幸い、引ッつかんで、これへ持ちくるまでのこと」
「だまれ、それだからそちはさわがしい男というのだ。曹操は、その心底には、漢室にとって、怖るべき逆意を抱いているが、名分の上では、常に勅令を号することを忘れておらぬ。――故に、今われ彼に敵対すれば、曹操は得たりとして、われを朝敵と呼ぶであろう」
「この期になっても、まだそんな名分にくよくよしておられるのですか。では、彼が攻め襲せてきても手をこまねいて、自滅を待っているつもりですか」
「袁紹の救いがくれば、何とかこの危機も打開できようが、それもあてにはならないし、曹操からも敵視されては、はや、死するも門なからん……である。まったく玄徳の浮沈は今に迫っておる」
「はてさて、弱気なおことば、将たる者がご自身味方の気を減らしたもうことやある」
「彼を知り、己を知るは、将たる者の備え、決して、いたずらに憂いているのではない。いま城中にある兵糧は、よく幾月を支え得ようか。またその兵糧を喰う大部分の軍兵は、元来、曹操から預ってきた者どもで、みな許都へ帰りたがっておるであろう。かかる弱体をもって、曹操に当らんなど、思いもよらぬことである。ただ千に一つのたのみは、袁紹の来援であるが、これとても……」
彼の正直な嘆息に、帷幕の人々も何となく意気があがらない態だった。――あまりに正直すぎる大将という者も困りものだ。こんな気の弱いご主君はほかにあるまい――と張飛も奥歯をかみながら黙ってしまう。
――と。次に、関羽が前へ出ていった。
「ご深慮はもっともです。けれど、坐して滅亡を待つべきでもありますまい。それがし城外へまかり向って、およそ寄手の兵気虚実をさぐる程度に、小当りに当ってみましょう。策は、その上で」
と、陳登と同意見をのべた。穏当なりと認めたか、玄徳は、
「行け」
と、関羽にゆるした。
関羽は、手勢三千を率して城外へ打って出た。折ふし、十月の空は灰いろに閉じて、鵞毛のような雪が紛々と天地に舞っていた。
城を離れた三千騎の兵馬は、雪を捲いて寄手王忠軍へ衝ッかけていた。
雪と馬、雪と戟、雪と兵、雪と旗、卍となって、早くも混戦になった。
「そこにあるは、王忠ではないか。なんで楯のかげばかり好むぞ」
大青龍刀をひっさげながら、関羽は馬を乗りつけて、敵の中軍へ呼びかけた。
王忠も躍りあわせて、
「匹夫っ、降るなら、今のうちだぞ。わが中軍には、曹丞相あり。あの御旗が目に見えぬか」
といった。
ふる雪に、牡丹のような口を開いて、関羽はからからと大笑した。
「曹操がおるなれば、なによりも望む対手。これへ出せ」
三
王忠は、唾して云い返した。
「かりにも、曹丞相ほどなお方が、汝ごとき下賤の蛮夫と、なんで戦いを交えようか。もう一度生れ直してこい」
「ほざいたな。王忠」
関羽が馬を駆け寄せると、王忠も槍をひねって、突っかけてくる。関羽はよいほどにあしらって、わざと逃げだした。
「口ほどにもない奴」と、浅慮にも、王忠は図にのって関羽を追っかけた。
「口ほどもないか、あるか、鞍の半座を分けてつかわす。さあ、王忠、こっちへ来い」
関羽は、青龍刀を左の手に持ち変えた。王忠は、あわてて馬の首をうしろへ向けた。が、早くも関羽の臂は彼の鎧の上小帯をつかみ、
「じたばたするな」
と、ばかり軽々小脇に引っ抱えて馳けだした。
潰乱する王忠軍を蹴ちらして、馬百匹、武器二十駄を分捕って、関羽の手勢はあざやかに引揚げた。
帰城すると、早速、関羽は王忠をしばりあげて、玄徳の前に献じた。
玄徳は王忠に向って、
「汝、何者なれば、詐って、曹丞相の名を偽称したか」と、詰問した。
王忠は答えて、
「詐りは、われらの私心ではない。丞相がわれらに命じて、御旗をさずけ、擬兵の計事をさせられたのである」と、ありのままに云った。
そして、なお、
「不日、袁紹を破って、丞相がこれに来給えば、徐州ごときは、一日に踏みつぶしてしまわれるであろう」と豪語を放った。
玄徳はどう考えたか、王忠の縄を解いて、
「君の言は、まことに、神妙である。事の成行きから、丞相のお怒りをうけ、征を受けて、やむなくこの徐州を守るものの、玄徳には曹操に敵対する意志はない。君もしばらく、当城にあって、四囲の変化を待ち給え」と、彼を美室に入れて、衣服や酒を与えた。
王忠を奥に軟禁してしまうと、玄徳はまた近臣を一閣に集めて、
「誰ぞ、この次に、もうひとりの劉岱を、敵の陣から生捕ってくる智者はないか」と、いった。
関羽は、雑談的に、
「やはり家兄のお心はそこにありましたか。実は、王忠と出会った時、よほど一戟のもとに斬って捨てんかと思ったなれど、いやいや或いは兄のご本心は、曹操と和せず戦わず――不戦不和――といったような微妙な方針を抱いておられるのではないかとふと考えつき、わざと手捕りにして持ち帰りましたが」と語って、自分の推測があたっていたか否かを、率直にたずねた。
すると、玄徳は、会心の笑みをもらして、
「さなり、さなり! 不戦不和とは、よくわが意中の計を観た。さきに張飛がすすんで行こうといったのを止めたのも、張飛のさわがしい性質では、必ず王忠を殺してくるにちがいないとおそれたからである。王忠、劉岱のごとき輩を殺したところで、われには何の益もなく、かえって曹操の怒りを煽るのみであるし、もし、生かしておけば、曹操がわれに対する感情もいくらか緩和されてくるであろう」
そう聞くと、張飛はまた、前へ進み出て、玄徳にいった。
「わかりました。そうご意中を承れば、こんどは、此方が出向いて、必ず劉岱をひきずり参らん。どうか此方をおつかわし下さい」
「参るもよいが、王忠と劉岱とは、対手がちがうぞ」
「どう違いますか」
「劉岱は、むかし兗州の刺史であった頃、虎牢関の戦いで、董卓と戦い、董卓をさえ悩ましたほどの者である。決してかろんずる敵ではない。それさえわきまえておるならば行くがよい」