冬葉啾々

 魏の大軍が呉へ押襲せてくるとの飛報は、噂だけにとどまった。
 嘘でもなかったが、早耳の誤報だったのである。
 この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将の任命も内々決定していたのであるが、参軍の傅幹という者が、長文の上書をして、
 一、今はその時でない事
 一、漢中張魯、蜀の玄徳などの動向の重大性
 一、呉の新城秣陵の堅固と長江戦の至難
 一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備
 等の項目にわたって諫言したので、曹操も思い直して出動を見あわせ、しばらくはなお、内政文治にもっぱら意をそそぐこととした。
 新たに、文部の制を設け、諸所に学校を建てて、教学振興を計った。
 彼がこうして少し、善政を布くと、すぐそれを誇大にたたえて、お太鼓をたたく連中もできてくる。
 宮中の侍郎王粲、和洽、杜襲などという軽薄輩で、
「曹丞相はもう魏王の位に即かるべきだ。魏王になられたところで、何のふしぎもない」
 と、運動をしはじめた。
 うわさを聞いて、荀攸が固く止めた。さすがに曹操を扶けてきた賢臣である。お太鼓連をたしなめてこういった。
「さきに九錫の栄をうけて、魏公の金璽を持たれたのは、いわゆる人臣の位を極めたというもの。その上なお、魏王の位に進まれたら、俗にいう、天井を衝いて、人心の反映は、決して、曹丞相によい結果はもたらさないでしょう。あなた方にしても、それでは贔屓のひき倒しということになろう」
 これが人伝てに、曹操の耳へ入ったのである。もちろんその間に、為にする者の肚も入っているから、曹操は非常な不快を感じた。
荀攸もまた、荀彧に倣おうとするのか。ばかなやつだ」
 非常に立腹して、そう罵ったと聞えたから、それをまた、人伝てに耳にした筍攸は、いたく気に病んで、門を閉じて自ら謹慎したまま遂に、その冬、病死してしまった。
「五十八歳で世を去ったか。……彼も功臣のひとりだったが」
 死んでみると、曹操は、痛惜にたえないように呟いて、盛んな葬祭をとり行った。
 で、魏王に即く問題は、しばらく沙汰止みになっていたが、このことは、宮廷の諫議郎趙儼から、帝のお耳へも入っていた。
「……趙儼が、市へひきだされて、斬られたそうです。おそろしい曹操
 玉座へこう告げにきた。
 帝も、玉体を震わせ給うて、
「つい今朝までも、禁裡に仕えていたものが、夕べにはもう市で命を失うていたか。朕も后も、いつかは同じ運命に遭うであろう。曹操の増上慢が極まることを知らない限りは」
 幽宮の秘窓に、おふたりの涙は渇かなかった。事実曹操の威と、許都の強大が、旺になればなるほど、朝廷の式微は、反比例に衰えを増し、ここに献帝のおわすことすら魏の官民は忘れているようだった。
「こうして朝夕、針の莚にあえなく生きているよりは、わたくしの父伏完に、ご決意のほどを、そっとお降しあれば、父はきっと、曹操を刺す謀をめぐらしましょう……。穆順なれば確かです。あれをおつかわし遊ばしませ」
 伏皇后は、ついに思いきって帝の御意をこう動かした。
 もとより献帝のご隠忍は年久しいことだったので、胸中の埋み火は、たちまち、理性の灰を除いてしまった。きびしい監視の眼をしのんで秘勅の一文をしたためられた。
 これを穆順という一朝臣にあずけて、そっと、伏皇后の父君にあたる伏完のやしきへ持たせてやったのである。忠節無二な穆順は、御詔書を、髻の中にかくして、この命がけの使いに、一夜禁門から出て行った。

 朝臣のうちにも、曹操のまわし者たるいわゆる「視る目嗅ぐ鼻」はたくさんいる。
 すぐ密告して、曹操の耳へこう伝えた者がある。
「何かそそくさした様子で、穆順が内裏を出て、伏完の宅へ使いに行ったようです」
 勘のよい曹操には、すぐ何かぴんと響くものがあったに違いない。彼は、わずかな武士をつれて、自身、内裏の門にたたずみ、穆順がもどって来るのを待っていた。
 もう深更だった。
 穆順は何も知らずに、帰ってきた。門の衛士には、出るとき賄賂をやってある。あたりに人影はない。すたすたと内裏の門へさしかかった。
「待て待て」
 ふいに物蔭から呼び止める声がした。ふと横を見れば、曹操が立っているのだ。穆順はゾッとして毛孔をよだてた。
「何処へ参った」
「は。……はい」
「はいではない。返辞を求めるのだ。今頃、何処へ使いに出たか」
「実はその、お后さまが、夕刻からにわかにご腹痛をお催しあそばしたので、てまえに医師をつれてこいとの仰せに、医師を求めに参りました」
「うそをつけ」
「いえ。ほ、ほんとです」
「宮中にも典医はおる。なにしに市へ医を捜しにゆく要があろう。ほかの医者だろう、汝が、求めに行ったのは」
 闇のほうへさしまねいて、武士達を呼び、「こいつの体を検めろ」と、曹操は命じた。
 武士達は、穆順の衣服を剥いで、足の先まで調べたが、一物も出ないので、科めるかどもなく、遂に、彼を放した。
 虎の口をのがれたように、穆順は衣服を着直すとすぐ走りかけた。
 すると、頭にかぶっていた帽子が、夜風に落ちた。
 あわてて拾いかけると、
「こらっ、待て」
 曹操は、自分でその帽子を取って、仔細に検めた。
 帽子の中からも、何も出なかった。汚い物を捨てるように、
「行け」
 と、投げ返してやると、穆順は、両手に受けて、真蒼になった顔の上に、それをかぶった。
「いやいや、まだ行くな」
 曹操は、三度呼びとめた。そして今度は、穆順がかぶり直した帽子を引きちぎって、その下の髻を、髪の根まで掻きわけた。
「果たして!」
 曹操は舌を鳴らした。一通の紙片があらわれたのだ。細字で綿密に書いてある。伏完の筆蹟で、むすめの伏皇后にあてたものであった。
 ――こよい秘かな内詔を拝して涙にくれた。何事も時節であるから、もうしばらく時を待つがよい。自分には期するところがある。遠き慮りを以て、蜀の玄徳と語らい、漢中張魯を誘い、魏へ侵略の鉾を向けしむれば、曹操はかならず国外へ出て、兵事政策もすべて一方へ傾く。その虚を計って、内に密々同志を結び、一挙に大義を唱えて大事をなすならば、きっと成功を見るは疑いもない。帝のご宸襟もそのときには安んじ奉ることができよう。それまではかならず人に色を気どられ給うな。
 文意はあらまし右のようなものだった。怒りの極度というものはかえって氷塊の如く冷やかである。曹操は一笑をたたえて、伏完の返簡を袖に納めると、
「そいつを拷問にかけろ」と、命じて、府へ立ち帰った。
 夜明け頃、獄吏が、階下にひざまずいて、
穆順を拷問にかけて、夜どおし責めましたが、一言も吐きません」
 と、吟味に疲れた態で云った。
 一方、伏完の宅を襲った兵達は、帝の内詔を発見して持ってきた。曹操は冷然と、武将に命をさずけた。
伏完以下、彼の三族を召し捕って、獄につなげ。縁故の者は一名も余すな」
 さらに、御林将軍の郗慮に命じては、内裏へ入って、皇后の璽綬を奪りあげ、平人に落して罪をあきらかにせよといった。

「魏公の命だ――」
 ということは彼らにとって絶対だった。世はまさに逆しまである。鎧うた御林の兵(近衛軍)は大将の郗慮を先頭に禁園犯すべからざる所まで、無造作になだれこんで行った。
 折ふし、帝は外殿に出御しておられたが、物音におどろかれて、
「何事ぞ」と、侍従たちを顧みられた。
 郗慮が、ずかずかとそこへ来た。そして無礼極まる態度をもって、
「仔細これあり、今日、魏公曹操のお旨により、皇后の璽綬を奪り収めらる。さようお心得ください」と、いった。
 愕然、帝は色を失われた。
「さては」と、早くもお胸のうちに、穆順の捕われたことを覚られたからである。
 すでに内裏のほうではただならぬ震動のうちに女官たちの悲鳴がながれていた。土足で後宮を馳けまわる暴兵たちは、口々に、
「皇后はどこへ隠れたか」と、罵り罵り捜していた。
 伏皇后は、いちはやく、宮女に扶けられて、内裏の朱庫の内へかくれておられた。ここには二重壁があって、壁の中へ身を塗りかくしてしまう仕掛けがしてあった。
 郗慮も来て、
「この中が怪しい。尚書令の華歆を呼んでこい」
 と、協力をうながし、共に朱庫の扉を破って、内部へおどりこんだ。
 けれどもここにも見えなかった。郗慮は外へ戻ろうとしたが、尚書令はその職掌がらこの構造を知っているので、剣を抜いて壁を切り開いた。たちまち壁は鮮血を噴き、その中から伏皇后には悲鳴をあげて転び出られた。
 忌むべし、眼をおおうべし。朝廷とか臣道とかの文字はあっても、自ら「道の国」と称しても、ひとたび覇者の自我が振うときはこの国にはこんな非道が平然と行われたのであった。華歆は、后の黒髪をつかんでひきすえ、后が、
「助けよ」と、呼ばると、華歆は、
「直接、魏公に会って哭け」とばかり取り合わなかった。そして素足のまま引っ立てて、曹操のまえに連れてゆくと、曹操は、はッたと后を睨みつけて、
「われかつて、汝を殺さざるに、かえって、汝われを殺さんと謀る。この結果は、いまに思い知らしてやる」と、いった。そして、武士に命じて、鞭や棒で乱打を加えたから、皇后はもだえ苦しみながら遂に息絶えてしまった。
 その悲鳴や曹操の罵る声は、外殿の廊まで聞えてきたほどだった。帝はお髪をつかみ、身を慄わせて、天へ叫び、地へ昏絶された。
「こんなことが、天日の下に、あってもいいものか、この地上は、人間の世か、獣の世か」
 血も吐かんばかりな有様に、郗慮は武士の手を借りて、むりやりに帝を抱えまいらせ、秘宮のうちへ閉じこめた。
 曹操は、毒に酔える人みたいに、もうどんなことでも平然とやってのけた。伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人という男女老幼を、この日たった半日のまに残らず捕えて、宮衙門の街辻で、首斬ってしまった。
 とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の啾々と御林に哭いて、幾日も幾日も衙門の冷霜は解けなかった。
「陛下。承れば供御の物も、連日おあがりにならない由ですが、どうかもう宸襟を安んじていただきたい。臣も、なにとてこれ以上、情けのない業をしましょう。本来、無情は曹操の好んですることではないのですが、ああいう問題が表面化しては、捨ておくわけには参らないではありませんか」
 曹操は、一日、朝へ出て、幽愁そのものの裡に閉じ籠っておられる帝へ奏した。
 そしてまた、自身の女を、強いて皇后にすすめ参らせた。帝も拒むお力はなく、彼の言に従われて、ついに翌春の正月、晴れて曹操一女は、宮中に入り、皇后の位に即いた。当然、それとともに曹操もまた、国舅という容易ならぬ身分を加えた。

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