御林の火

 街は戸ごとに燈火をつらね、諸門の陣々も篝に染まり、人の寄るところ、家のあるところ、五彩の燈にいろどられているため、こよい正月十五日の夜、天上一輪の月は、なおさら美しく見えた。
 王必の営中では、宵の口から酒宴がひらかれ、将士はもとより、馬飼の小者にいたるまで、怪しげな鳴物を叩いたり、放歌したり、踊ったり、無礼講というので、いやもうたいへんな賑いだった。
「もう、もう……飲けません。ぼつぼつ、おいとまを」
 金褘は、大酔を装って、酒席を退がりかけた。王必が、眼ばやく見つけて、
「いつになく、早いじゃないか。酒宴はこれからだ。まあ座に戻り給え。おいおい、金褘を帰してはいかんぞ」
 盃を持った手を高くあげて、遠くから声をかけていると、そのとき営中の二ヵ所から火が出たと告げる者があって、酒席は一瞬のまに暗黒となった。
「どこだ」「何事か」「過失か、放け火か」「喧嘩だろ」「いや、謀叛人だ」
 騒然たる口々の声もすでにむせるような煙につつまれだした。火はまさしく営内のすぐ裏と南門の傍から燃えだしている。
 金褘のすがたはいつの間にか見えなくなった。さては企む敵こそあれと、王必は、あわてふためいて、馬に打ち乗り、南門の火の手を望んで、奔り出して行ったかと思うと、その肩へ、矢があたって、彼は馬上から勢いよくころげ落ち、馬はそのまま、煙の中へ馳けこんでしまった。
 そのとき西門、南門から営中へ斬り込んできた一隊の叛乱軍がある。王必を射たのは、その先頭に立ってきた耿紀だった。ところが耿紀は、自分の射た敵が、まさか王必とは思わなかった。王必はもっと営中の奥深くにいると信じていたために、
「余人や雑兵に眼をくるるな」
 と、見す見す落馬していたものを馬蹄の下にして、先へ奔迅してしまった。
 王必は、そのため、命びろいしたようなものである。混乱の中に馬をひろい、燃えている南門の外から市街へ逃げ出した。彼の想像では何万という敵が足もとから起ったように感ぜられたに違いない。
 わっわっと、後ろから黒い人影が追ってくる。彼の部下なのだ。しかし彼はそれすら、敵ではないかと、生きたそらもないらしい。
 郊外にある夏侯惇の陣地まで急を告げに行くつもりだったろう。ところが、道を間違えて、彼方此方、馳けまわるうち、肩の痍からあふれ出る血しおに、眩暈をおぼえて、また馬を捨ててしまった。
「そうだ、金褘の邸は、たしかにこの辺……。金褘の家で痍の手当をして行こう」
 蹌踉と訪ねあてて、あわただしく、門を叩いた。
 すると、邸のうちには、門番もいなければ、奴僕もいないらしい。程なく答えがあって、奥のほうから、燭の光がうごいてきた。金褘の妻が自身そこを開けに近づいてくるようだった。
 金褘の妻は、心のうちで、門を叩いているのは、良人が帰ってきたものとのみ思っていたのである。近づいて、扉の閂を内側からはずしながら、
「オオ。お帰り遊ばせ。今すぐに開けまする。……王必は首尾よくお討ち取りになりましたか」
「えっ?」
 王必は仰天した。
 さては、こよいの叛乱は、金褘が張本人だったかと、初めてさとったので、
「いや、門違いした。ご免」
 と云い捨てるや否、倉皇と馳け出して、こんどは、曹休の邸へ行った。
 曹休の郎党は、みな物具をつけて、戸外に整列し、火の手を見ながら、主人の命を待っていたところである。
「王必が、血まみれになって来ました」
 と、家人の取次ぎに、曹休はすぐ彼に会った。そして仔細を聞き取ると、
「それは容易ならぬ計画のもとに行われた仕事に違いない。すぐ宮中へ行って、帝の御座を護れ」
 と、居合わす一族と郎党をひきいて、火の粉の降りしきる下を禁門へ向って馳け出した。

 市中といわず、禁門の中といわず、火の狂うところには、
「逆、曹賊を殺して、順、漢室の復古を扶けよ」
 という声があった。
 また、諸声あわせて、
「死ねや死ねや。漢朝のために――」
 と、悲壮な叫びが聞えた。
 けれど、曹休をはじめ、曹氏の一族は、市街に戦い、禁門に争い、これもまた、命を惜しまず、叛乱兵と斬りむすび、よく宮中を守っていた。
 かかるうちに、火は東華門から五鳳楼へ燃えてきたので、帝は御座所を深宮に遷され、ひたすら成行きを見まもっておられた。
 そのうち城外五里の地に屯している夏侯惇の三万騎も、
「ただならぬ空の赤さ。何事か洛内に異変があるぞ」
 と、早くも出動を開始して、続々、市街へ入ってきた。
 こうなってはもう金褘、韋晃、耿紀などの計画も、その成功を期することは覚束なかった。何よりは、帝の御動座を促して――と、禁中へ入ろうとしたが、すでに曹休が軍馬を並べており、王必を討ち取って、これへ合流する筈の金褘、耿紀などはいつまでも来ない。
 当然、韋晃は苦戦に陥ったのみならず、こういう手違いと情勢の不振を見たため、御林軍の多くは、二の足を踏んでしまい、予定のとおり錦旗の下に集まって、反魏王、反曹一族の声明をすることすら避けてしまった。
 あわれを止めたのは、太医吉平の子、吉邈兄弟である。民衆に檄を伝えて街頭から義兵を糾合するつもりで、大いに活躍していたが、たちまちこれへ殺到した夏侯惇の大軍に出会うや、ひとたまりもなく剿滅され、吉邈も吉穆も、兄弟枕をならべて討死してしまった。
 騒擾は、暁まで続いた。しかし余燼のいぶる朝空に、陽が昇った頃には、
「昨夜、洛内を騒がした反り忠の者ども、首謀者以下、あらまし召捕り終んぬ。ねがわくは、ご安堵あらせ給え」と、夏侯惇の口上をうけた急使やら、戦況を告げにゆく早馬やらが、鄴都へ向って頻繁に立っていた。
 曹操は、この訴えに、
「さてこそ、管輅の予言はこのことであったか」
 と、思い当ると共に、朝廷の内深くひそんでいる漢朝旧臣派の根づよい結束に身の毛をよだてて、
「こういう時は、根を刈らねばならん。およそ漢朝の旧臣と名のつく輩は、その位官高下を問わず、一束にして、鄴都へ送りよこせ」と、厳達した。
 もちろんそれは、今度の魏王顛覆計画の実際運動には加盟していない者だけであったが、いやしくも金褘や耿紀の徒と、少しでも交渉があったとか、日頃の言動がくさいと睨まれている者は、ことごとく、市に引出して、その首を刎ねてしまった。
 熱血児耿紀は、うしろ手に縛されて、大路をひかれて行きながら、天を睨んで、
曹操曹操。今日、生きて汝を殺すあたわずとも、死して鬼となり、かならず数年のうちに、汝を鬼籍に招いてやるぞ。待っておれっ」
 と、罵ってやまなかったという。
 同志の韋晃は、刑場に坐って、すでにその頭へ、刃の下らんとする刹那、
「待てっ」
 と、刑吏をにらみつけて、からからと自嘲を洩らしたと思うと、
「恨むべし、恨むべし。天にあらず、微忠のなお至らざるを」
 と、大きく叫んで、頭上の一閃も待たず、自らその頭を大地へ叩きつけて、歯牙も頭蓋骨もこなごなに砕いて死んでしまった。
 金褘の三族も、すべて死をこうむった。燈籠祀りのあとは昼も晦く、燃えいぶった宮門禁裡の奥深く、冬木立に群るる寒鴉の声もかなしげだった。
 わずかに、心から市人の胸を慰めたものは、御林軍の大将王必が、矢痍がもとで、これも間もなく死んだということだけであった。

 代々漢朝の臣であり、累代の朝廷に仕えてきた公卿だという理由だけで、たくさんな官人たちは車に盛られ、馬の背に乗せられ、まるで流民のように、許都から、鄴都へさし立てられた。
 ここへ来て、彼らは初めて曹操の魏王宮を見、その華麗壮大なのに、呆っ気にとられた。
 そして、心ひそかに、
「ああ、もう都は、許都にはなく、鄴都にあるようなものだ……」
 と、つぶやき合った。
 曹操は、この汚い百官の群れを、その壮麗な魏宮の庭園に立たせ、
「先頃の乱のとき、汝らのうちには、門を閉じて、ただ慄えあがっていた者もあろうし、また、敢然出て火を鎮めんと、働いた者もあるであろう。いちいち調べるのは、面倒くさい。あれに紅白二旒の旗が立ててあるから、火を防ぎに出た者は、紅の旗の下に立て、また、門を閉じて、出なかった者は、白い旗の下にかたまれ」と、云いわたした。
 まるで児童あつかいである。あわれや、衰えたりといえ、朝夕、禁裡に仕える身なるものをと、悲涙をのみ、憤怒を抑えていた者もあろうが、色にでも、そんな気ぶりを現わしたら、すぐ首が飛んでしまう。
「……?」
 官人たちは、お互いに右をみ、左をみ、どっちへ行こうかと、迷っているふうだったが、期せずして、全人員の八割までが、ぞろぞろと、紅い旗の下へ馳け集まった。
 これは、各〻が、
「もし、門を閉じて、出なかったといえば、きっと過怠なりといって、咎めを受けるにちがいない。都下の騒擾とともに、火を防ぎに出たといえば、何の罪科にも触れはしまい」
 という心理であった。
 ところが、曹操は、高台の上からそれを見届けるや、叱呼して、武将に命じた。
「よしっ。紅の旗の下に集まった輩は、残らず、異心ある者と見てよろしい。一人のこらず引っくくって、漳河の岸へ引っ立てろ。もちろんみな打ち首だ」
 驚いたのは、四百余名の官人たちである。彼のいる高き台を仰いで、悲鳴を放った。
「罪なし、罪なし。われらに、何の罪があってぞ」
「非道ではないか」
「無情ぞや、魏王」
 しかし曹操は、耳のない人のように、いや涙すらない巨像のように漳河の水のほうを見ていた。
 残るわずかな官人――白旗の下に立った者だけは、これを赦して、許都へ返させた。
 同時に宮廷の侍側、閣員、内外の諸官人などに、大更迭が行われた。
 鍾繇を相国に。
 華歆をして御史大夫に。
 また曹休を、王必亡きあとの、御林軍総督に任じ、さらに侯位勲爵の制を、六等十八級にさだめて、金印、銀印、亀紐、鐶紐、紫綬などの大法を、勝手に改めたり、それを授与したり、ほとんど、朝廷を無視して、魏王の意のままとなした。
 従って、曹操の一族とか、その一族に附随する者どもとかの専横、独善、依怙、驕慢ぶりなどは、推して知るべきものがあった。まことに、曹氏の縁につながりなくんば、人と生れても人にはあらず、と誰やら慨嘆したことはそのまま、許都の常識とまでなりつつあった。
 その曹操も管輅の卜にはひどく、傾倒もし、感謝もしていたらしく、
「実に、よくあたった。実に汝の予言に従わず、予が漢中に遠征していたら、大事はもっと大事と化し、それこそ一夜に消せない火の災いとなっていたろう。――褒美をやる。管輅、何なりと望め」と、いった。
 すると、管輅は、
「私には、火を防ぐ力も、水を支える力もありません。大王が鄴都にとどまったのも天の定数です。許都の乱も約束事です。また私が大王に見出されて、予言申し上げたのも、おそらく天意でしたろう。こう考えると、私が大王から恩爵をいただく理由はちっともない。拝謝いたします。ご褒美の儀はごかんべん下さい」
 どうしても彼はそれを受けなかった。

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