淯水は紅し

 今朝、賈詡のところへ、そっと告げ口にきた部下があった。
「軍師。お聞きですか」
曹操のことだろう」
「そうです」
「急に、閣を引払って、城外の寨へ移ったそうだな」
「そのことではありません」
「では、何事か」
「申すもちと、はばかりますが」
 と、小声を寄せて、鄒氏と曹操との関係をはなした。
 賈詡は、その後で主君の張繍の座所へ出向いた。
 張繍も、いやな顔をして、ふさいでいたが、賈詡の顔を見ると、いきなり鬱憤を吐きだすようにいった。
「怪しからん! ――いかに驕り誇っているか知らんが、おれを辱めるにも程がある。おれはもう曹操などに屈してはいられないぞ」
「ごもっともです」
 賈詡は、張繍の怒っている問題にはふれないで、そっと答えた。
「……が、こういうことは、あまりお口にしないほうがよいでしょう。男女のことなどというものは論外ですからな」
「しかし、鄒氏も鄒氏だ……」
「まあ、胸をさすっておいで遊ばせ。その代りに、曹操へは、酬うべきものを酬うておやりになればよいでしょう」
 謀士賈詡は、何事か、侍臣を遠ざけて密語していた。
 すると次の日。
 城外に当る曹操の中軍へ、張繍がさりげなく訪ねてきて、
「どうも困りました。私を意気地ない城主と見限ったものか、城中の秩序がこのところゆるんでいるので、部下の兵が、勝手を振舞い、他国へ逃散する兵も多くて弱っておりますが」
 と、愚痴をこぼした。
 曹操は、彼の無智をあわれむように、打笑って、
「そんなことを取締るのは君、造作もないじゃないか。城外四門へ監視隊を備え、また、城の内外を、たえず督軍で見廻らせて、逃散の兵は、即座に、首を刎ねてしまえば、すぐやんでしまうだろう」
「そうも考えましたが、降服した私が、自分の兵とはいえ、貴軍へ無断で、配備をうごかしては……とその辺をはばかっておるものですから」
「つまらん遠慮をするね。君のほうは君の手で、びしびし軍律を正してくれなければ我軍としても困るよ」
 張繍は、心のうちで、「思うつぼ」と、歓んだが、さあらぬ顔して、城中へ帰ってくると、すぐその由を、賈詡に耳打ちした。
 賈詡はうなずいて、
「では、胡車児をこれへ、お呼び下さい。私からいいつけましょう」と、いった。
 城中第一の勇猛といわれる胡車児はやがて呼ばれて来た。毛髪は赤く、鷲のような男である。力能く五百斤を負い、一日七百里支那里)を馳けるという異人だった。
「胡車児。おまえは、曹操についている典韋と戦って、勝てる自信があるか」
 賈詡が問うと、胡車児は、すこぶるあわてた顔いろで、顔を横にふった。
「世の中に誰も恐ろしい奴はありませんが、あいつには勝てそうもありません」
「でも、どうしても、典韋を除いてしまわなければ曹操は討てない」
「それなら、策があります。典韋は酒が好きですから、事によせて、彼を酔いつぶし、彼を介抱する振りをして、曹操の中軍へ、てまえがまぎれこんで行きます」
「それだ! わしも思いついていたのは。――典韋を酔いつぶして、彼の戟さえ奪っておけば、おまえにも彼を打殺すことができるだろう」
「それなら、造作もありません」
 胡車児は、大きなやえ歯をむきだして笑った。

 本尊様と狛犬のように、常に、曹操のいる室外に立って、爛々と眼を光らしている忠実なる護衛者の典韋は、
「ああ、眠たい」
 閑なので、欠伸をかみころしながら、司令部たる中軍の外に舞う白い蝶を見ていた。
「もう、夏が近いのに」と、無聊に倦んだ顔つきして、同じ所を、十歩あるいては十歩もどり、今度の遠征ではまだ一度も血にぬらさない手の戟を、あわれむ如くながめていた。
 かつて、曹操兗州から起つに当って、四方の勇士を募った折、檄に応じて臣となった典韋は、その折の採用試験に、怪力を示して、曹操の口から、
(そちは、殷の紂王に従っていた悪来にも劣らぬ者だ)
 といわれ、以来、典韋と呼ばれたり、悪来とも呼ばれたりしてきた彼である。
 だが、その悪来典韋も、狛犬がわりに、戟を持って、この長日を立っているのは、いかにも気だるそうであった。
「こらっ、何処へゆく」
 ふと、ひとりの兵が、閣の廊をうかがって、近づいて来たので、典韋はさっそく、退屈しのぎに、呶鳴りつけた。
 兵は、膝をついて、彼を拝しながら、手紙を出した。
「あなたが、典韋様ですか」
「なんだ、おれに用か」
「はい、張繍様からのお使いです」
「なるほど、おれへ宛てた書状だが、はて、何の用だろう」
 ひらいてみると、長いご陣中の無聊をおなぐさめ申したく、粗樽をもうけてお待ちしているから明夕城中までお越し給わりたい――という招待状であった。
「……久しく美酒も飲まん」
 典韋は、心のなかで呟いた。翌日は、昼のうちだけ非番だし、行こうと決めて、
「よろしくお伝えしてくれ」と、約束して使いの兵を帰した。
 次の日、まだ日の暮れないうちから出向いて、二更の頃まで、典韋は城中で飲みつづけた。そしてほとんど、歩くのもおぼつかない程、泥酔して城外へもどって来た。
「主人のいいつけですから、私が中軍までお送りします。わたくしの肩におつかまり下さい」
 一人の兵が、介抱しながら、親切に体を扶けてくれる。見るときのう手紙を持って使いに来た兵である。
「おや、おまえか」
「ずいぶんご機嫌ですな」
「何しろ一斗は飲んだからな。どうだ、この腹は。あははは、腹中みな酒だよ」
「もっと飲めますか」
「もう飲めん。……おや、おれは随分、大漢のほうだが、貴様も大きいな。背がほとんど同じぐらいだ」
「あぶのうございます。そんなに私の首に捲きつくと、私も歩けません」
「貴様の顔は、すごいな。髯も髪の毛も、赤いじゃないか」
「そう顔を撫でてはいけません」
「なんだ、鬼みたいな面をしながら」
「もうそこが閣ですよ」
「何、もう中軍か」
 さすがに、曹操の室の近くまで来ると、典韋は、ぴたとしてしまったが、まだ交代の時刻まで間があったので、自分の部屋へはいり込むなり前後不覚に眠ってしまった。
「お風邪をひくといけませんよ。……ではこれでお暇いたしますよ」
 送ってきた兵は、典韋の体をゆり動かしたが、典韋の鼾声は高くなるばかりであった。
「……左様なら」
 赤毛赤髯の兵卒は、後ずさりに、出て行った。その手には、典韋の戟を、いつのまにか奪りあげて持っていた。

 曹操はこよいも、鄒氏と共に酒を酌みかわしていた。
 ふと、杯をおいて、
「なんだ、あの馬蹄の音は」と、怪しんで、すぐ侍臣を見せにやった。
 侍臣は、帰ってきて、
張繍の隊が、逃亡兵を防ぐため、見廻りしているのでした」と、告げた。
「ああそうか」
 曹操は、疑わなかった。
 けれどまた、二更の頃、ふいに中軍の外で、吶喊の声がした。
「見てこい! 何事だ?」
 ふたたび侍臣は馳けて行った。そして帳外からこう復命した。
「何事でもありません。兵の粗相から馬糧を積んだ車に火がついたので、一同で消し止めているところです」
「失火か。……何のことだ」
 すると、それから間もなく、窓の隙間に、ぱっと赤い火光が映じた。宵から泰然とかまえていた曹操も、ぎょッとして、窓を押し開いてみると、陣中いちめん黒煙である。それにただ事ならぬ喊声と人影のうごきに、
典韋っ、典韋!」と呼びたてた。
 いつになく、典韋も来ない。
「――さては」と、彼はあわてて鎧甲を身につけた。
 一方の典韋は、宵から大鼾で眠っていたが、鼻をつく煙の異臭に、がばとはね起きてみると、時すでに遅し、――寨の四方には火の手が上がっている。
 すさまじい喊殺の声、打鳴らす鼓の響き。張繍の寝返りとはすぐ分った。
「しまった! 戟がない」
 さしもの典韋もうろたえた。
 しかも暑いので、半裸体で寝ていたので、具足をつけるひまもなかった。
 ――がそのまま彼は外へ躍りだした。
典韋だ! 悪来だ!」
 敵の歩卒は、逃げだした。
 その一人の腰刀を奪い、典韋は、滅茶苦茶に斬りこんだ。
 寨の門の一つは、彼ひとりの手で奪回した。しかしまたたちまち、長槍を持った騎兵の一群が、歩卒に代って突進して来た。
 典韋は、騎士歩卒など、二十余人の敵を斬った。刀が折れると、槍を奪い、槍がササラのようになると、それも捨てて左右の手に敵兵二人をひッさげ、縦横にふり廻して暴れまわった。
 こうなると、敵もあえて近づかなかった。遠巻きにして、矢を射はじめた。半裸体の典韋に矢は仮借なく注ぎかけた。
 それでも典韋は、寨門を死守して、仁王のごとく突っ立っていた。しかし余り動かないので恐々と近づいてみると、五体に毛矢を負って、まるで毛虫のようになった典韋は、天を睨んで立ったまま、いつの間にか死んでいた。
 かかる間に、曹操は、
「空しくこんな所で死すべからず――」
 とばかり、馬の背にとび乗って、一散に逃げだした。
 よほど機敏に逃げたとみえ、敵も味方も知らなかった。ただ甥の曹安民ただ一人だけが裸足で後からついて行った。
 しかし、曹操逃げたり! とは直ぐ知れ渡って、敵の騎馬隊は、彼を追いまくった。追いかけながら、ぴゅんぴゅんと矢を放った。
 曹操の乗っている馬には三本の矢が立った。曹操の左の肘にも、一箭突き通った。
 徒歩の安民は、逃げきれず、大勢の敵の手にかかって、なぶり殺しに討たれてしまう。
 曹操は、傷負の馬に鞭うちながら、ざんぶと、※水の河波へ躍りこんだが、彼方の岸へあがろうとした途端に、また一矢、闇を切ってきた鏃に、馬の眼を射ぬかれて、どうと、地を打って倒れてしまった。

 ※水の流れは暗い。もし昼間であったら紅に燃えていたろう。
 曹操も満身血しお、馬も血みどろであった。しかも馬はすでに再び起たない。
 逃げまどう味方の兵も、ほとんどこの河へ来て討たれた様子である。
 曹操は、身一つで、ようやく岸へ這いあがった。
 すると闇の中から、
「父上ではありませんか」と、曹昂の声がした。
 曹昂は、彼の長子である。
 一群の武士と共に、彼も九死に一生を得て、逃げ落ちてきたのであった。
「これへお召しなさい」
 曹昂は、鞍をおりて、自分の馬を父へすすめた。
「いい所で会った」
 曹操はうれしさにすぐ跳び乗って馳けだしたが、百歩とも駈けないうちに、曹昂は、敵の乱箭にあたって、戦死してしまった。
 曹昂は、弊れながら、
「わたくしに構わないでお落ち下さい。父上っ。あなたのお命さえあれば、いつだって、味方の雪辱はできるんですから、私などに目をくれずに逃げのびて下さい」と、叫んだ。
 曹操は、自分の拳で自分の頭を打って悔いた。
「こういう長子を持ちながら、おれは何たる煩悩な親だろう。――遠征の途にありながら、陣務を怠って、荊園の仇花に、心を奪われたりなどして、思えば面目ない。しかもその天罰を父に代って子がうけるとは。――ああ、ゆるせよ曹昂
 彼は、わが子の死体を、鞍のわきに抱え乗せて、夜どおし逃げ走った。
 二日ほど経つと、ようやく、彼の無事を知って、離散した諸将や残兵も集まって来た。
 折も折、そこへまた、
于禁が謀叛を起して、青州の軍馬を殺した」といって、青州の兵らが訴えてきた。
 青州は味方の股肱、夏侯惇の所領であり、于禁も味方の一将である。
「わが足もとの混乱を見て、乱を企むとは、憎んでも余りある奴」
 と、曹操は激怒して、直ちに于禁の陣へ、急兵をさし向けた。
 于禁も、先頃から張繍攻めの一翼として、陣地を備えていたが、曹操が自分へ兵をさし向けたと聞くと、慌てもせず、
「塹壕を掘って、いよいよ備えを固めろ」と、命令した。
 彼の臣は日頃の于禁にも似あわぬことと、彼を諫めた。
「これはまったく青州の兵が、丞相に讒言をしたからです。それに対して、抵抗しては、ほんとの叛逆行為になりましょう。使いを立てて明らかに事情を陳弁なされてはいかがですか」
「いや、そんな間はない」
 于禁は陣を動かさなかった。
 その後、張繍の軍勢も、ここへ殺到した。しかし于禁の陣だけは一糸みだれず戦ったので、よくそれを防ぎ、遂に撃退してしまった。
 その後で、于禁は、自身で曹操をたずねた。そして青州の兵が訴え出た件は、まったく事実とあべこべで、彼らが、混乱に乗じて、掠奪をし始めたので、味方ながらそれを討ち懲らしたのを恨みに思い、虚言を構えて、自分を陥さんとしたものであると、明瞭に云い開きを立てた。
「それならばなぜ、予が向けた兵に、反抗したか」と、曹操が詰問すると、
「――されば、身の罪を弁疏するのは、身ひとつを守る私事です。そんな一身の安危になど気をとられていたら、敵の張繍に対する備えはどうなりますか。仲間の誤解などは後から解けばよいと思ったからです」
 と、于禁は明晰に答えた。

 曹操はその間、じっと于禁の面を正視していたが、于禁の明快な申し立てを聞き終ると、
「いや、よく分った。予が君に抱いていた疑いは一掃した」
 と、于禁へ手をさしのべ、力をこめて云った。
「よく君は、公私を分別して、混乱に惑わず、自己一身の誹謗を度外視して、味方の防塁を守り、しかも敵の急迫を退けてくれた。――真に、君のごとき者こそ、名将というのだろう」
 と、口を極めて賞讃し、特にその功として、益寿亭侯に封じ、当座の賞としては、黄金の器物一副をさずけた。
 また。
 于禁を誹って訴えた青州の兵はそれぞれ処罰し、その主将たる夏侯惇には、
「部下の取締り不行届きである」との理由で、譴責を加えた。
 曹操は今度の遠征で、人間的な半面では、大きな失敗を喫したが、一たん三軍の総帥に立ち返って、武人たるの本領に復せば、このように賞罰明らかで、いやしくも軍紀の振粛をわすれなかった。
 賞罰のことも片づくと、彼はまた、祭壇をもうけて、戦没者の霊を弔った。
 その折、曹操は、全軍の礼拝に先だって、香華の壇にすすみ、涙をたたえて、
典韋。わが拝をうけよ」と、いった。
 そして、瞑目久しゅうして、なお去りやらず、三軍の将士へ向って、
「こんどの戦で、予は、長子の曹昂と、愛甥の曹安民とを亡くしたが、予はなお、それを以て、深く心を傷ましはしない。……けれど、けれど、日常、予に忠勤を励んだ悪来典韋を死なせたのは、実に、残念だ。――典韋すでに亡しと思うと、予は泣くまいとしても、どうしても泣かずにはおられない」と、流涕しながらいった。
 粛として、彼の涙をながめていた将士は、みな感動した。
 もし曹操の為に死ねたら幸福だというような気がした。忠節は日常が大事だとも思った。
 何せよ、曹操は、惨敗した。
 しかし味方の心を緊め直したことにおいては、その失敗も償って余りがあった。
 逆境を転じて、その逆境をさえ、前進の一歩に加えて行く。――そういうこつを彼は知っていた。
 故あるかな。
 過去をふりむいて見ても、曹操の勢力は、逆境のたびに、躍進してきた。
 × × ×
 一たん兵を退いて都の許昌に帰ってくると、曹操のところへ、徐州呂布から使者が来て、一名の捕虜を護送してよこした。
 使者は、陳珪老人の子息陳登であり、囚人は、袁術の家臣、韓胤であった。
「すでにご存じでしょうが、この韓胤なる者は、袁術の旨をうけて、徐州へ来ていた婚姻の使者でありました。――呂布は、先頃、あなたからの恩命に接し、朝廷からは、平東将軍の綬を賜わったので、いたく感激され、その結果、袁術と婚をなす前約を破棄して、爾後、あなたと親善をかためてゆきたいという方針で――その証として、韓胤を縛りあげ、かくの如く、都へ差立てて来た次第でありまする」
 陳登は、使いの口上をのべた。
 曹操はよろこんで、
「双方の親善が結ばれれば、呂布にとっても幸福、予にとっても幸福である」
 と、すぐ刑吏に命じて、韓胤の首を斬れといった。
 刑吏は、市にひき出して、特に往来の多い許都の辻で、韓胤を死刑に処した。
 その晩、曹操は、
「遠路、ご苦労であった」
 と、使いの陳登を私邸に招待して、宴をひらいた。

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