兵学談義

 戒めなければならないのは味方同士の猜疑である。味方の中に知らず知らず敵を作ってしまう心なき業である。
 が、その反間苦肉をほどこした曹操のほうからみれば、いまや彼の軍は、西涼馬超軍に対して、完全なる、
 敵中作敵
 の計に成功したものといえる。
 味方割れ、同時に、和睦の決裂だ。――馬超は、自らつけた火と、自ら招いた禍いの兵におわれて、辛くも、渭水の仮橋まで逃げのびて来た。
 かえりみると、龐徳馬岱ともちりぢりになり、つき従う兵といえば、わずか百騎に足らなかった。
「やあ、あれに来るは、李湛ではないか」
 西涼を出るときは、八旗の一人とたのんでいた旗本。もちろん味方と信じていると、その李湛は、手勢をひいてこれへ近づくや否、
「や、あれにおる。討ち洩らすな」
 と、自身も真っ先に、鎗をひねって、馬超へ撃ってかかった。
 馬超は驚いて、
「貴様も謀反人の片割れか」
 赫怒して、これに当ると、李湛は、その勢いに恐れて、馬をかえしかけた。
 すると、一方からまた、曹操の部下于禁の人数が、わっと迫り、于禁は軍勢の中にもまれながら、弓をつがえて、馬超を遠くから狙っていた。
 弦音とともに、馬超は馬の背に屈みこんだので、矢はぴゅんと、それていった。
 皮肉にも、そのそれ矢は、李湛の背にあたって、李湛は馬から落ちて死んだ。
 馬超は、わき目もふらず、于禁の人数へ馳け入った。そしてさんざんに敵を蹴ちらし、渭水の橋の上に立って、ほっと大息をついていた。
 夜は更け、やがて夜が明けそめる。
 馬超は橋上に陣取って、味方の集合を待っていたが、やがて集まって来たのは、ことごとく敵兵の声と敵の射る箭ばかりだった。
 橋畔の敵勢は、刻々と水嵩を増す大河のように、囲みを厚くするばかりである。かくてはと、馬超は幾度も橋上から奮迅して、敵の大軍へ突撃を試みたが、そのたびに、五体の手傷をふやして、空しくまた、橋上に引っ返すほかなかった。
 のみならず、左右の部下は、ふたたび橋の上に帰らず、或る者は矢にあたって、ばたばた目の前に仆れてゆくので、
「ここで立往生を遂げるくらいなら、もう一度、最後の猛突破を試み、首尾よく重囲を斬り破れば、一方へ拠って再挙を計ろう。またもしそれも成らずに斃れるまでも、ここで満身に矢をうけて空しく死ぬよりまだ増しだぞ」
 残る面々をうち励まして、わうっと、猛牛が火を負って狂い奔るように、馬超はふたたび橋上を馳け出した。
「つづけ」
「離れるな」
 と、馬超の将士四、五十人も死物狂いに突貫した。人、人を踏み、馬、馬を踏み、曹軍の一角は、血を煙らせて、わっと分れる。
 けれど、馬超に従う面々は、随処にその姿を没し、彼はいつか、ただ一騎となっていた。
「近づいてみろ。この命のあらん限りは」
 鎗は折れたので、とうに投げ捨てている。敵の矛を奪って薙ぎ、敵の弩弓を取って、撲りつけ、馬も人も、さながら朱で描いた鬼神そのものだった。
 ――が、いくら馬超でも、その精力には限度がある。もうだめだと、ふと思った。
(もう駄目)
 それをふと、自分の心に出した時が、人生の難関は、いつもそこが最後となる。
「くそっ、まだ、息はある」
 馬超は気づいて、自分の弱音を叱咤した。そしてまた、目にも見あまる敵軍に押しもまれながら、小半刻も奮戦していた。
 折しも西北の方から一手の軍勢がこれへ馳けてきた。思いもよらず味方の馬岱龐徳だった。曹軍の側面を衝いてたちまち遠く馳けちらし、
「それっ、いまの間に」とばかり、馬超の身を龐徳が鞍わきに抱きかかえると、雲か霞かのように、遠く落ちて行った。

 敵中作敵の計が見事成功したのを望んで、曹操は馬を前線へ進めてきた。そして、馬超を逸したと聞くと、
「画龍点睛を欠く」
 と、つぶやいて、すぐ馬前の人々へいった。
馬超に従いて落ちて行った兵力はどのくらいだったか」
 ひとりの大将が答えていう。
龐徳馬岱などの、約千騎ばかりです」
「なに、千騎。――それならもう無力化したも同じものだ。汝ら、日夜をわかたず、彼を追いかけて、殊勲を競え。もし馬超の首をたずさえて来たら、その者には、千金を賞するであろう。また馬超を生捕ってきた者には、身分を問わず、万戸侯に封じて、いちやく、諸侯の列に加えてやろう」
 これは大きな懸賞である。いでやとばかり、下は一卒一夫まで、奮い立って、馬超追撃を争いあった。
 こういう慾望と情勢の目標にされては、いかに馬超でもたまるものではない。追い詰められ追い詰められ、また、取って返しては敵に当り、踏み止まっては追手と戦い、果ては、わずか三十騎に討ちへらされ、夜も寝ず、昼も喰わず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。
 龐徳馬岱とは、途中、馬超とも別れ別れになってしまい、遠く隴西地方を望んで敗走したが、それと知って、曹操は自身、
「いま彼らを地方へ潜伏させては」
 と、禍いの根を刈るつもりで、あくまでも追撃を加えていた。
 そして、長安郊外まで来ると、都から荀彧の使いが、早馬に乗って、一書をもたらして来た。
「北雲急なりと見て、南江の水しきりに堤をきらんとす。すこしも早く、兵を収めて、許都に還り給わんことを」と、ある。
 そこで曹操は、全軍をまとめ、
「ひとまず引揚げよう」と、軍令を一下した。
 左の手を斬り落された韓遂西涼侯に封じ、また彼と共に降参した楊秋、侯選なども、列侯に加えて、それには、
渭水の口を守れ」と、命じた。
 ときに元、涼州の参軍で、楊阜という者、すすんで彼にこう意見をのべた。
馬超の勇は、いにしえの韓信、英布にも劣らないものです。今日、彼を討ち洩らしてのお引揚げは、山火事を消しに行って、また山中に火だねを残して去るようなもので、危険この上もありません」
「いうまでもなく、それは案じている。せめて彼の首を見、予自身半年もいて、戦後の経略までして還れば万全だが、何せい、都の事情と南方の形勢は、それをゆるさぬ」
「以前、それがしと共に、涼州の刺史をつとめていた者で、韋康という人物があります。よく涼州の事情に通じ民心を得ていますから、この者に、冀城を守らせ、一軍を領せしめておいたら、大きな抑えともなり、たとい馬超が再起を計っても、やがて自滅して行くものと考えられますが」
「では、その任を、其方に命じよう。汝と、その韋康と、よく心を協せて、ふたたび馬超が勢いの根をはびこらせぬように努めるがいい」
「それには、一部のお味方をとどめて、長安の要害だけは、充分お守り下さるように」
「もちろんだ。長安の堺には、充分な兵力と、誰かしかるべき良将を残して行こう」
 すなわち夏侯淵に対して、命は下った。
「旧都長安には、韓遂をとどめておくが、彼は、左腕を失って、身のうごきもままになるまい。汝は、予が腹心、予になり代ってよく堺を守れよ」
 すると、夏侯淵が、
「張既、字を徳容という者がいます。高陵の生れです。これを京兆の尹にお用い下さい。張既と力を協せて、必ず、丞相をして二度と西涼の憂をなからしめてみせます」
「よろしい。張既ものこれ」
 曹操は、乞いをゆるした。

 あすは都へ還るという前夜、曹操は諸大将と一夕の歓を共にした。
 その席上で、一人の将が、曹操に訊いた。
「後学のため、伺いますが。――合戦の初めに、馬超の軍勢は、潼関に拠っていましたから、渭水の北は遮断された形でした」
ムム
「で当然、河の東を攻めて、お進みかと思いのほか、さはなくて、いたずらに野陣の危険にさらされたり、後また北岸に陣屋を作り、いつになく、戦法に惑いがあるように見えましたが……」
「それは、難きを攻めず、易きを衝く、兵法の当然を行ったまでだ」
「それなら分りますが、今度はその反対のように動いたとしか思われませんでしたが」
「その条件を、敵方に作らせるよう、初めには、わざと敵の充実している正面に当ると見せ、敵兵力をことごとく味方の前に充実させておいてから、徐晃朱霊などの別働隊を以て、敵兵力の薄い河の西からたやすく越えさせたわけじゃ」
「なるほど、では丞相の主目的は、むしろ別働隊のほうにあったわけですな」
「まず、そんなものか」
「後、わが主力は北へ渡り、堤にそって寨を構築し、しばしば失敗したあげく、氷の城まで築かれましたが、丞相も初めには、こう早く戦が終ろうとはお思いなさらなかったものでしたか」
「いやいや、あれはわざと、味方の弱味を過大に見せ、敵を驕り誇らせるためと、もう一つは、西涼の兵は悍馬の如く気短だから、その鋭角をにぶらすため、ことさらに、悠長と見せて彼を焦立たせたまでのこと」
敵中作敵の計は、疾く前から考えのあったことですか」
「戦機は勘だ。また天来の声だ。常道ではいえない。戦前の作戦は、大事をとるから、ただ敗けない主義になりやすい。それがいざ戦に入ると疾風迅雷を要してくる。また序戦では、参謀の智嚢と智嚢とは敵味方とも、いずれ劣らぬ常識線で対峙する。だがそのうちに、天来の声、いわゆるカンをつかみ、いずれかが敵の常道を覆すのだ。ここが勝敗のわかれ目になる。すべて兵を用いるの神変妙機は一概にはいい難い」
 かれの解説は、子弟に講義しているように、懇切であった。諸将はまた、口々に訊ねた。
「出陣の初め、丞相には、西涼軍の兵力が刻々と増し、その中には八旗の旗本、猛将なども多いと聞かれたとき、手を打ってお歓びになりましたが、あれは如何なるお気持であったのですか」
西涼は、国遠く、地は険に、中央から隔てられている。その王化の届かぬ暴軍が、いちどに集まって来てくれれば、これは労せず招かず猟場に出てくれた鹿や猪と同じではないか」
「ははあ、なるほど」
「もし、彼らが、西涼を出ず、王威にも服せず、ただ辺境にいて、威を逞しゅうしているのを、遠征しようとするならば、莫大な軍費と兵力と年月を必要とする。おそらく一年や二年くらいでは、今度ほどな戦果を収めることはできなかったろう。……で思わず、西涼軍が大挙して来ると聞いたとき、嬉しさのあまり、歓びを発したが、それに不審を抱いたことは、そち達もようやく兵を語る眼がすこしあいてきたというものである。この上とも実戦のたびには、日頃の小智にとらわれず、よく大智を磨くがよい」
 語り終って、曹操は、杯をあげた。諸大将もみな嘆服して、
「丞相いまだ老いず」
 と、心から賀した。
 都に還ると、献帝はいよいよ彼を怖れ給うて、自身、鸞輿に召して、凱旋軍を迎え、曹操を重んじて、漢の相国蕭何の如くせよと仰せられた。すなわち彼は、履のまま殿上に昇り、剣を佩いて朝廷に出入りするのも許される身となったのである。

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