酒中別人

 葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず涪城の城下に総軍をまとめ、涪水関を固めている高沛楊懐の二将へ、
「お聞き及びのとおり、にわかに荊州へ立ち帰ることとなった。明日、関門をまかり通る」
 と、使いをやって開門を促しておいた。
 高沛は手を打って、
楊懐、絶好な時が来たぞ。明日、玄徳がここを通過したら、軍旅の労をねぎらわんと、酒宴を設けてその場で刺し殺してしまおう。――蜀の憂患を除くためだ。抜かり給うな」
 と、ここでは二人が手に唾して夜の明けるのを待っていた。
 翌る日、玄徳は大行軍の中にあって、龐統と駒をならべ、何か語りながら涪水関へ向って来た。
 すると、一陣の山風に、旗竿の竿が折れた。玄徳は、眉を曇らせて、
「や、や。これは何の凶兆か」
 と、駒を止めた。
 龐統は、一笑して、
「これは天が前もって凶事を告知してくれたものです。故に、凶ではありません。むしろ吉兆というべきでしょう。――思うに楊懐高沛がきょうこそ君を刺殺せんと待ちうけているものと考えられる。わが君、ご油断あそばすな」
「そのことならば」
 と、玄徳は、身に鎧を重ね、宝剣を佩き、悪鬼羅刹も来れと、心をすえて更に駒をすすめた。
 龐統は、幕将の魏延、黄忠などに、何事かささやいて、一歩一歩のあいだにも、戦態を作りながら前進していた。
 すでに、関門の大廈が、近々と彼方の山峡に見えた頃である。
 楽を奏しながら、錦繍の美旗をかかげて、彼方から来る一群の軍隊がある。
 真先に来た大将がいった。
「今日、荊州へご帰還あるという劉皇叔におわさずや。遠路の途中をおなぐさめ申さんがため、いささか粗肴と粗酒を献じたく、これまでお迎えに出たものです。何とぞお納めをねがいたい」
 龐統が出て挨拶した。
「これはこれは過分な礼物。皇叔にもいかばかりお歓びあるやしれません。高沛楊懐の二兄にもよしなにお伝えおき下さい」
「いずれ後刻、陣中お見舞に伺う由ですが、とりあえず、酒肴をお目にかけよとのことに、あれへ品々を担わせて来ました」と、おびただしい酒の瓶、小羊、鶏の丸焼きなどを、それへ並べて帰った。
 一行はそこに幕舎を張って、酒の瓶を開き、山野の風物に一息いれながら、杯を傾けて休息していた。そこへ高沛楊懐が、兵三百を供につれて、
「お名残り惜しいことです。せめて今日は、親しくお杯を賜わりたいもので」
 と、素知らぬ顔をもって陣中見舞に訪れた。
「さあ、どうか」
 迎え入れて、幕舎の酒宴は賑わった。――玄徳が常に似合わずよく飲むので、龐統は心配していたが、そのあいだに、かねて云い含めておいた通り、関平劉封の二人は、席を抜けて、外にいた三百余の関門兵を、遠くへ引退がらせてしまった。
 そして引返すと二人は幕の陰からおどり出て、
「刺客っ。神妙にしろ」
 と、不意に、楊懐を蹴とばし、高沛に組みついて、うしろ手に縛りあげてしまった。
「何をするかっ。客に対して」
 楊懐が、威猛高に吼えると、関平は彼のふところを探って、秘していた短剣を取りあげた。高沛のふところからも短剣があらわれた。
「これを何に使うつもりで来たか」
 と、突きつけると、
「剣は武人の護りだっ」
 と、屈せずにいう。
 関平劉封は共に腰なる長剣を抜いて、
「武人の護りとは、こういう正々堂々の剣をいうのだ。この護りは、以て、卑劣なる汝ら害獣を天誅するために研がれている。さ、斬れ味をみろ」
 と、幕外へひき出して、有無をいわせず、二つの首を落してしまった。

「わが君。何を無言にふさぎこんでおられますか」
「今、ここでともに酒をのんでいた高沛楊懐がもう首になったかと思うと、あまり快い気がしない」
「そんなお気の弱いことで、よく今日まで、百戦を経ておいでになりましたな」
「戦場はまたちがう」
「ここも戦場です。まだ涪水関は占領していません」
高沛楊懐が供につれて来た三百の関門兵はどうしたか」
「そっくり捕虜にしてあります。いま一網にして酒をのませ、肴を喰らわせているので、彼らは狂喜している様子で」
「なぜ擒人の兵にそんな馳走するのか」
「黄昏まで、歓楽させておきましょう。その後、彼らを用いる一計がありますから」
 龐統が小声に何かささやくと、玄徳はうなずいて、妙案妙案と呟いた。
 日の暮るるまで、幕舎のまわりでは、歌曲の声が湧き、時々歓声があがり、酒宴はやまずに続いているような態であった。
「星が出た」
 一吹の角笛とともに、龐統は一軍をあつめて、徐々、涪水関の下へ近づいて行った。
 先頭には、捕虜の関門兵三百を立たせていた。この者どもはもう完全に寝返って、龐統の薬籠中のものになっているらしい。岩乗絶壁のような鉄門の下に立ってこう呶鳴った。
「楊将軍、高将軍のお戻りであるぞ。開門開門」
 昼間の出来事は何も知らない関門の蜀兵は、声に応じて、
「おうっ」
 と、鉄扉を八文字に開いた。
「すすめっ」
 喊声をあげながら、怒濤の兵は関門へ突入した。ほとんど、衂らずに、涪水関は占領された。
 玄徳は直ちに、諸軍をわけて要害の部署につかせ、
「蜀すでにわが掌にあり」
 と、三度の凱歌をあげさせた。
 山谷のどよめく中に、庫中の酒は開かれ、将士は祝杯をほしいままにした。
 玄徳も昼から酒に親しんでいたので、夜半から暁にかけて、幕僚の将を会して杯をかさねると、泥のように酔ってしまった。
 大きな酒瓶にもたれて、彼は前後も知らず眠り始めた。ふと、眼をさましてみると、龐統はまだ独り残って痛飲している。
「まだ、夜は明けぬか」
 龐統は笑って、
「とうに小鳥がさえずっていますよ。どうです、もう一献」
「いや、夜が明けたら、酒どころではない」
「でも、人生の快味は、こういう時ではありませんか」
「そうだ。ゆうべは実に愉快だったな。酒を飲みつつ一城を奪ったようなものだ」
「ヘエ、そんなに愉快でしたか」
 と、龐統は例のひしげた鼻に皮肉な小皺をよせて、
「――人の国を奪って、楽しみとするは、仁者の兵にあらず、あなたらしくもありませんな」
 玄徳は酔後の顔を逆さまになであげられたような気がしたのだろう。むっとして色をなしてすぐ云った。
「昔武王は、紂を討って、初めに歌い、後に舞ったという。武王の兵は、仁義の兵でなかったか。ばか者っ、退け」
 龐統は恐れをなして、匆々に退出した。玄徳はまだ酔っていたとみえる。左右の者に介添えされて、ようやく後堂の寝所へはいった。
 大睡の後、眼をさまして、衣を着かえていると、近侍の者から、
「今朝ほどは、大へんなご剣幕で、さすがの龐統も、胆をちぢめて引退がりましたよ」
 と、酔態を語られて、
「えっ、そんなに彼を叱ったか」
 と玄徳は急に、衣を正して、龐統をよんだ。そして辞を低うして、
「先生。今暁の無礼は、酔中の不覚、ゆるしてください」
 といった。
 龐統は耳のない人間みたいに黙っていたが、玄徳が重ねて詫びると、初めて口を開き、
「君臣ともに、酔中の浮魚。戯歌水游、みな酒中のこと。酒中別人です、酒中別人です。わたくしの皮肉もお気にかけて下さるな」
 と、共々、手をたたいて、朗らかに笑った。

前の章 図南の巻 第3章 次の章
Last updated 1 day ago