橋畔風談
一
蟠桃河の水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞をひき、夜は眉のような月が香った。
けれど、その水にも、詩を詠む人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遥する雅人の影もなかった。
「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」
劉備は、家を出た。
沓や蓆をだいぶ納めてある城内の問屋へ行って、価を取ってくる日だった。
午から出ても、用達をすまして陽のあるうちに、らくに帰れる道のりなので、劉備は驢にものらなかった。
いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、埃ッぽい。
雨が久しくなかったので、沓の裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取って、脂光りのしている市の軒なみを見て歩いていた。
蓮根の菓子があった。劉備はそれを少し買い求めた。――けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、野鴨の丸揚げや餅など売っている場所なので、その混雑かと思うていたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えている。
「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから高札を仰いだ。
見ると――
遍く天下に義勇の士を募る
という布告の文であった。
黄巾の匪、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生に青田なし。
今にして、鬼賊を誅せずんば、天下知るべきのみ。
太守劉焉、遂に、子民の泣哭に奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬の君子、野に潜むの義人、旗下に参ぜよ。
欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん。
涿郡校尉鄒靖
「なんだね、これは」
「兵隊を募っているのさ」
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇もなにもない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「憎い黄匪めを討つんだ、槍の持ち方が分らないうちは、馬の飼糧を刈っても軍の手伝いになる。おれは行く」
ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。
「…………」
劉備は、時勢の跫音を聞いた。民心のおもむく潮を見た。
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。
「……ああ」
気がついて、間がわるそうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳のうしろから、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。
二
さっきから楊柳の下に腰かけて、路傍の酒売りを相手に、声高に話していた男のあったことは、劉備も知っていた。
自分の容子を、横目ででも見ていたのだろうか、二、三歩、高札から足を退けると、
「貴公、それを読んだか」
片手に、酒杯を持ち、片手に剣の把を握って不意に起ってきたのである。
楊柳の幹より大きな肩幅を、後ろ向きに見ていただけであったが、立上がったのを見ると、実に見上げるばかりの偉丈夫であった。突然、山が立ったように見えた。
「……私ですか」
劉備はさらに改めて、その人を見なおした。
「うむ。貴公よりほかに、もう誰もいないじゃないか」
黒漆の髯の中で、牡丹のような口を開いて笑った。
声も年頃も、劉備と幾つも違うまいと思われたが、偉丈夫は、髪から腮まで、隙間もないように艶々しい髯をたくわえていた。
「――読みました」
劉備の答えは寡言だった。
「どう読んだな、貴公は」と、彼の問いは深刻で、その眼は、烱々として鋭い。
「さあ?」
「まだ考えておるのか。あんなに長い間、高札と睨み合っていながら」
「ここで語るのを好みません」
「おもしろい」
偉丈夫は、酒売りへ、銭と酒杯を渡して、ずかずかと、劉備のそばへ寄ってきた。そして劉備の口真似しながら、
「ここで語るのを好みません……いや愉快だ。その言葉に、おれは真実を聴く。さ、何処かへ行こう」
劉備は困ったが、「とにかく歩きましょう。ここは人目の多い市ですから」
「よし歩こう」
偉丈夫は、闊歩した。劉備は並行してゆくのに骨が折れた。
「あの虹橋の辺はどうだ」
「よいでしょう」
偉丈夫の指さすところは町はずれの楊柳の多い池のほとりだった。虹をかけたような石橋がある。そこから先は廃苑であった。何とかいう学者が池をほって、聖賢の学校を建てたが、時勢は聖賢の道と逆行するばかりで、真面目に通ってくる生徒はなかった。
学者は、それでも根気よく、石橋に立って道を説いたが、市の住民や童は、(気狂いだ)と、耳もかさない。それのみか、小賢しい奴だと、石を投げる者もあったりした。
学者は、いつのまにか、ほんとの狂人になってしまったとみえ、ついには、あらぬ事を絶叫して、学苑の中をさまよっていたが、そのうちに蓮池の中に、あわれ死体となって浮び上がった。
そういう遺蹟であった。
「ここはいい。掛け給え」
偉丈夫は、虹橋の石欄へ腰をかけ、劉備にもすすめた。
劉備は、ここまで来る間に、偉丈夫の人物をほぼ観ていた。そして、(この人間は偽ものでない)と思ったので、ここへ来た時は、彼もかなりな落着きと本気を示していた。
「時に、失礼ですが、尊名から先に承りたいものです。私はここからほど遠くない楼桑村の住人で、劉備玄徳という者ですが」
すると偉丈夫は、いきなり劉備の肩を打って、「好漢。それはもう聞いておるじゃないか。この方の名だって、よくご承知のはずだが」といった。
三
「えっ? ……私も以前からご存じの方ですって」
「お忘れかな。ははは」
偉丈夫は、肩をゆすぶって、腮の黒い髯をしごいた。
「――無理もない。頬の刀傷で、容貌も少し変った。それにここ三、四年はつぶさに浪人の辛酸をなめたからなあ。貴公とお目にかかった頃には、まだこの黒髯もたくわえてなかった時じゃ」
そういわれても、劉備はまだ思い出せなかったが、ふと、偉丈夫の腰に佩いている剣を見て、思わずあっと口をすべらせた。
「おお、恩人! 思い出しました。あなたは数年前、私が黄河から涿県のほうへ帰ってくる途中、黄匪に囲まれてすでに危うかった所を助けてくれた鴻家の浪士、張飛翼徳と仰っしゃったお方ではありませんか」
「そうだ」
張飛はいきなり腕をのばして、劉備の手を握りしめた。その手は鉄のようで、劉備の掌を握ってなお、五指が余っていた。
「よく覚えていて下された。いかにもその折の張飛でござる。かくの如く、髯をたくわえ、容貌を変えているのも、以来、志を得ずに、世の裏に潜んでおるがためです。――で実は、貴公に分るかどうか試してみたわけで、最前からの無礼はどうかゆるされい。」
偉丈夫に似あわず、礼には篤かった。
すると劉備は、より以上、慇懃にいった。
「豪傑。失礼はむしろ私のほうこそ咎めらるべきです。恩人のあなたを見忘れるなどということは、たとえいかに当時とお変りになっているにせよ、相済まないことです。どうか、劉備の罪はおゆるし下さい」
「やあ、ご鄭重で恐れいる。ではまあ、お互いとしておこう」
「時に、豪傑。あなたは今、この県城の市に住んでおるのですか」
「いや、話せば長いことになるが、いつかも打明け申した通り、どうかして黄巾賊に奪われた主家の県城を取返さんものと、民間にかくれては兵を興し、また、敗れては民間に隠れ、幾度も幾度も事を謀ったが、黄匪の勢力はさかんになるばかりで、近頃はもう矢も尽き刀も折れたという恰好です。……で先頃から、この涿県に流れてきて、山野の猪を狩って肉を屠り、それを市にひさいで露命をつないでおるような状態です。おわらい下さい。ここのところ、張飛も尾羽打枯らした態たらくなので」
「そうですか。少しも知りませんでした。そんなことなら、なぜ楼桑村の私の家を訪ねてくれなかったのですか」
「いや、いつかは一度、お目にかかりに参る心ではいたが、その折には、ぜひ尊公に、うんと承知してもらいたいことがあるので――その準備がまだこっちにできていないからだ」
「この劉備に、お頼みとは、いったい何事ですか」
「劉君」
張飛は、鏡のような眼をした。らんらんとそのなかに胸中の炬火が燃えているのを劉備は認めた。
「尊公は今日、市で県城の布令を読まれたであろう」
「うむ。あの高札ですか」
「あれを見て、どう思われましたか。黄匪討伐の兵を募るという文を見て――」
「べつに、どうといって、なんの感じもありません」
「ない?」
張飛は、斬りこむような語気でいった。明らかに、激怒の血を、顔にうごかしてである。
けれど劉備は、
「はい。何も思いません。なぜなら、私には、ひとりの母がありますから。――従って、兵隊に出ようとは思いませんから」
水のように冷静にいった。
四
秋かぜが橋の下を吹く。
虹橋の下には、枯蓮の葉がからから鳴っていた。
びらっと、色羽の征箭が飛んだと見えたのは、水を離れた翡翠だった。
「嘘だっ」
張飛は、静かな話し相手へ、いきなり呶鳴って、腰かけていた橋の石欄から突っ立った。
「劉君。貴公は、本心を人に秘して、この張飛へも、深くつつんでおられるな。いや、そうだ。張飛をご信用なさらぬのだ」
「本心? ……私の本心は今いった通りです。なにを、あなたにつつむものか」
「しからば貴公は、今の天下を眺めて、なんの感じも抱かれないのか」
「黄匪の害は見ていますが、小さい貧屋に、ひとりの母さえ養いかねている身には」
「人は知らず、張飛にそんなことを仰っしゃっても、張飛はあなたを、ただの土民と見ることはできぬ。打明けて下さい。張飛も武士です。他言は断じて致さぬ漢です」
「困りましたな」
「どうしても」
「お答えのしようがありません」
「ああ――」
憮然として、張飛は、黒漆の髯を秋かぜに吹かせていたが、何か、思い出したように、突然、佩いている剣帯を解いて、
「お覚えがあるでしょう」と、鞘を握って、劉備の面へ、横ざまに突きつけていった。
「これはいつか、貴公から礼にと手前へ賜わった剣です。また、私から所望した剣であった。――だが不肖は、いつか尊公に再び巡り合ったら、この品は、お手もとへ返そうと思っていた。なぜならば、これは張飛の如き匹夫が持つ剣ではないからだ」
「…………」
「血しぶく戦場で、――また、戦に敗れて落ち行く草枕の寝覚めに――幾たびとなく拙者はこの剣を抜き払ってみた。そして、そのたびに、拙者は剣の声を聞いた」
「…………」
「劉君、其許は聞いたことがあるか、この剣の声を!」
「…………」
「一揮して、風を断てば、剣は啾々と泣くのだ。星衝いて、剣把から鋩子までを俯仰すれば、朧夜の雲とまがう光の斑は、みな剣の涙として拙者には見える」
「…………」
「いや、剣は、剣を持つ者へ訴えていうのだ。いつまで、わが身を、為すなく室中に閉じこめておくぞと。――劉備どの、嘘と思わば、その耳に、剣の声を聞かそうか、剣の涙を見せようか」
「……あっ」
劉備も思わず石欄から腰を立てた。――止める間はなかった。張飛は、剣を払って、ぴゅっと、秋風を斬った。正しく、剣の声が走った。しかもその声は、劉備の腸を断つばかり胸をうった。
「君聞かずや!」
張飛は、いいながら、またも一振り二振りと、虚空に剣光を描いて、
「何の声か。そも」と、叫んだ。
そしてなおも、答えのない劉備を見ると、もどかしく思ったのか、橋の石欄へ片足を踏みかけて、枯蓮の池を望みながら独り云った。
「可惜、治国愛民の宝剣も、いかにせん持つ人もなき末世とあってはぜひもない。霊あらば剣も恕せ。猪肉売りの浪人の腰にあるよりは、むしろ池中に葬って――」
あなや、剣は、虹橋の下に投げ捨てられようとした。劉備は驚いて、走り寄るなり彼の腕を支え、「豪傑待ち給え」と、叫んだ。
五
張飛はもとより折角の名剣を泥池に捨ててしまうのは本意ではないから、止められたのを幸いに、
「何か?」と、わざと身を退いて、劉備の言を待つもののように見まもった。
「まず、お待ちなさい」
劉備は言葉しずかに、張飛の悲壮な顔いろをなだめて、
「真の勇者は慷慨せずといいます。また、大事は蟻の穴より漏るというたとえもある。ゆるゆるはなすとしましょう。しかし、足下が偽ものでないことはよく認めました。偉丈夫の心事を一時でも疑った罪はゆるして下さい」
「おっ。……では」
「風にも耳、水にも眼、大事は路傍では語れません。けれど自分は何をつつもう、漢の中山靖王劉勝の後胤で、景帝の玄孫にあたるものです。……なにをか好んで、沓を作り蓆を織って、黄荒の末季を心なしに見ておりましょうや」と、声は小さく語韻はささやく如くであったが、凛たるものをうちに潜めていい、そしてにこと笑ってみせた。
「豪傑。これ以上、もう多言は吐く必要はないでしょう。折を見てまた会いましょう。きょうは市へきた出先で、遅くなると母も案じますから――」
張飛は獅子首を突きだして、噛みつきそうな眼をしたまま、いつまでも無言だった。これは感きわまった時にやるかれの癖なのである。それからやがて唸るような息を吐いて、大きな胸をそらしたと思うと、
「そうだったのか! やはりこの張飛の眼には誤りはなかった! いやいつか古塔の上から跳び降りて死んだかの老僧のいったことが、今思いあたる。……ウウム、あなたは景帝の裔孫だったのか。治乱興亡の長い星霜のあいだに、名門名族は泡沫のように消えてゆくが、血は一滴でも残されればどこかに伝わってゆく。ああ有難い。生きていたかいがあった。今月今日、張飛は会うべきお人に会った」
独りしてそう呻いていたかと思うと、彼はにわかに、石橋の石の上にひざまずき、剣を奉じて、劉備へいった。
「謹んで、剣は、尊手へおかえしします。これはもともと、やつがれなどの身に佩くものではない。――が、ただしです。あなたはこの剣を受け取らるるや否や、この剣を佩くからには、この剣と共にある使命もあわせて佩かねばならぬが」
劉備は、手を伸ばした。
何か、おごそかな姿だった。
「享けましょう」
剣は、彼の手にかえった。
張飛は、いく度も、拝姿の礼を、くり返して、
「では、そのうちに、きっと楼桑村へ、お訪ねして参るぞ」
「おお、いつでも」
劉備は、今まで佩いていた剣と佩きかえて、前の物は、張飛へ戻した。それは張飛に救われた数年前に、取換えた物だったからである。
「日が暮れかけてきましたな。じゃあ、いずれまた」
夕闇の中を、劉備は先に、足を早めて別れ去った。風にふかれて行く水色の服は汚れていたが、剣は眼に見える黄昏の万象の中で、なによりも異彩を放って見えた。
「体に持っている気品というものは争えぬものだ。どこか貴公子の風がある」
張飛は見送りながら、独り虹橋の上に立ち暮れていたが、やがてわれにかえった顔をして、
「そうだ、雲長にも聞かせて、早く歓ばしてやろう」と、何処ともなく馳けだしたが、劉備とちがってこれはまた、一陣の風が黒い物となって飛んで行くようだった。