出師の表

 馬謖は云った。
「なぜか、司馬仲達という者は、あの才略を抱いて、久しく魏に仕えながら、魏では重く用いられていません。彼が曹操に侍いて、その図書寮に勤めていたのは、弱冠二十歳前後のことだと聞いています。曹操曹丕曹叡、三代に仕えてきた勲臣にしては、今の彼の位置は余りに寂寥ではありませんか」
 孔明は静かな眸で語る者の面を見ていた。馬謖はこう前提してから自分の心にある一計を孔明に献じた。
「――いや、司馬懿は自ら封を請うて西涼州へ着任しました。明らかに、彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。当然、魏の重臣どもは、司馬懿の行動を気味悪く思って、狐疑していることも確かです。そこで、司馬仲達に謀反の兆しありと、世上へ流布させ、かつ偽りの廻文を諸国へ放てば、魏の中央は、たちまちこれに惑い、司馬懿を殺すか、職を褫奪して辺境へ追うかするに相違ありません」
 彼の説くところはよく孔明の思慮とも一致した。孔明は彼の献言を容れて、ひそかにその策を行った。いわゆる対敵国内流言策である。旅行者を用い、隠密を用い、或いは縁故の家から家へ、女子から女子へなど、それにはあらゆる細胞が利用される。
 一方、偽の檄文を作って、諸州の武門へ発送した。案の如く、司馬懿に対して、世間にいろいろな陰口が立ってきたところへ、この檄の一通が、洛陽鄴城の門を守る吏員の手に入り、それはまた直ちに魏の宮中へ上達された。
 檄文の内容は過激な辞句で埋まっている。魏三代にわたる罪状をかぞえ、天下の不平の徒へ向って、打倒魏朝を煽動したものである。
「これが真実、司馬懿の筆になった檄だろうか」
 曹叡は、色を失いながらも、なお迷うものの如く、重臣の秘密会でこう下問した。
 大尉華歆が伏答して、
「さきに司馬懿が、西涼の地を領したいと願い出たのはいかなる肚かと思っていましたが、これに依って、臣らは、彼の意を知ることができたような気がいたしまする」
「しかし、朕には、司馬懿に叛かれるような覚えがない。そも、彼は何を怨んで魏に弓を引く心になったと卿らは考えるのか」
「それはすでに太祖武帝曹操の諡)が疾く観破して仰せられていたことです。――司馬懿は鷹のごとく視て、狼の如く顧みる――と。故に、武帝ご在世中は、書庫の文書などを整理する閑役に付けおかれ、兵馬のことにはお用いになりませんでした。もし彼に兵権を附与せば、かえって、国家の害をなす者であるとの深い深い思し召からであります」
 王朗も共に私見を述べた。
「いま華歆の申しあげた如く、司馬懿は、弱冠の時から深く韜略を研究して、軍機兵法をさとりながら、しかも要心ぶかく、先帝の代にも碌々と空とぼけ、今日、まだ幼くして、陛下が御即位あそばした折を見て、初めて鷹の如き性をあらわし、狼の如く、西涼から檄を放って、多年の野望を仕遂げんと、謀りだしたものと考えられます。一刻もはやくこれはご征伐なさらなければ、遂に、燎原の火となりましょう」
 魏王曹叡は幼いので、諸臣の説を聞いても、なお迷っていて決しきれなかった。そのうちに、一族の曹真が、
「まさかそんなこともあるまい。もし軽々しく征伐して、それが真実でなかったら、求めて君臣の間に擾乱を醸すものではないか」という穏当な反対も出たりしたため、結局、漢の高祖が雲夢に行幸した故智にならって、魏帝みずから安邑に遊び、司馬懿が出迎えに出るとき、そっと気色をうかがって、彼に叛気が見えたら即座に縛め捕ってしまえばよかろう――という説に帰着した。
 やがて行幸は実現された。布達に依って、司馬仲達西涼の兵馬数万を華やかに整えて、魏帝の輦を、安邑の地に出迎えるべく当処を立ってきた。すると誰からともなく、
「すわや司馬懿が、十万の勢をひきいて、これへ押しよするぞ」
 とさわぎ出して、近臣は動揺し、魏帝も色を失って、沿道いたる処、恟々たる人心と、乱れとぶ風説の坩堝となってしまった。

 何も知らない司馬仲達は、数万の兵を従えて安邑の町へ入ってきた。するとたちまち、鉄甲の装備も物々しく、曹休の一軍がこれを道に阻んで、
「通すことはならん」
 と、呼ばわり、かつ曹休自身、馬をすすめて、こう呶鳴った。
「聞け、仲達。汝は、先帝より親しく、孤を託すぞとの、畏き遺詔を承けた者の一人ではないか。何とて、謀叛をたくらむぞ。ここより一歩でも入ってみよ、目にもの見せん」
 仲達は仰天して、それこそ蜀の間諜の計に過ぎないと、声を大にして言い訳した。そして、馬をくだり、剣も捨て、数万の兵も城外へのこして、単身、
「仔細は、天子にまみえて、直々に奏答しましょう」と、曹休に従いて行った。
 そして、魏帝の輦の前にいたるや、彼は、大地に拝伏して、そのいわれなきことを、涙とともに弁解した。
「臣が、西涼の封を望んだのは、決して私心私慾ではありません。その地の重要性にかんがみて、ひそかに蜀に備えんがためであります。どうかもう少しご静観ください。必ず蜀を討って、次に、呉を亡ぼし、以て三代の君恩に報ずるの日を誓って招来してお目にかけまする」
 その神妙な容子に、曹叡は心をうごかされたが、華歆、王朗などは、容易に信じなかった。
「とにかく、彼は鷹であり狼である」という眼をもって彼を眺めたので、ともあれご沙汰を相待つべし――と仲達を控えさせておいて、幼帝を中心に密議した。もとより華歆、王朗の言が、それを決定するのであることはいうまでもない。即ちこう決まった。
「要するに司馬懿に兵馬を持つ地位を与えたからいけないのだ。世間にいろいろな臆測が生じたり、こんな不穏な問題が起ったりする原因にもなる。爪のない鷹にして、野に放ってしまえばよい。これは漢の文帝周勃に報いた例にある」
 勅命によって、司馬仲達は、官職を剥がれ、その場から故郷へ帰されてしまった。そして、彼ののこした雍涼の軍馬は、曹休が承け継いだ。
 このことは、蜀の細作からすぐ成都へ飛報された。孔明はいったい物事に対して余り感情を現わさない人であるが、これを聞いたときは「仲達西涼にあるあいだは、如何とも意を展べがたしと観念していたが、今はなんの憂いかあらん」と限りなく喜悦したということである。
 彼は丞相府の邸に籠って、幾日かのあいだ、門を閉じ客を謝していた。魏の五路進攻による国難の前にも、やはりここの門を閉じていたことがあるが、こんどはその折のように、毎日、彼の姿を後園の池の畔に見ることもなかった。
 神思幾日、彼は一夜、斎戒沐浴の後、燭をかかげて、後主劉禅に上す文を書いていた。後に有名な前出師の表は実にこのときに成ったものである。
 彼は今や北伐の断行を固く決意したもののようである。一句一章、心血をそそいで書いた。華文彩句を苦吟するのではなく、いわゆる満腔の忠誠と国家百年の経策を述べんとするのであった。
 文中にはまず帝として後主の行うべき王徳を説き、あわせて天下の今日を論じ、蜀の現状を述べ、忠良の臣下を名ざして、敢て信任を加えらるべきを勧め惹いて、先帝玄徳と自分との宿縁、また情誼とを顧みて、筆ここにいたるや、紙墨のうえに、忠涙の痕、滂沱たるものが見られる。
 表は長文であった。

臣亮もうす。
先帝、創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂せり。今天下三分し益州は疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。しかれども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるものは、けだし先帝の殊遇を負うて、これを陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開張し、以て先帝の遺徳をあきらかにし、志士の気を恢弘すべし、宜しくみだりに自ら菲薄し、喩をひき義をうしない、以て忠諫の道を塞ぐべからず――

 冒頭まず忠肝をしぼって幼帝にこう訓えているのであった。

 さらに筆をすすめては、

宮中府中は倶に一体たり、臧否を陟罰し、宜しく異同すべきにあらず。もし姦をなし、科を犯し、及び忠善をなすものあらば、宜しく有司に付して、その刑賞を論じ、以て、陛下の平明の治を明らかにすべく、宜しく偏私して、内外をして法を異にせしむべからず。

 と、国家の大綱を説き、また社稷の人材を列記しては、

侍中侍郎郭攸之・費褘・董允らは、これみな良実にして思慮忠純なり。これを以て、先帝簡抜して、以て陛下に遺せり。愚おもえらく、宮中のこと、事大小となくことごとく以てこれに諮り、しかる後施行せば必ずよく闕漏を裨補して広益するところあらん。将軍尚寵は、性行淑均軍事に暁暢し、昔日に試用せられ、先帝これを能とのたまえり。これを以て衆議、寵をあげて督となせり。愚おもえらく、営中の事は事大小となく、ことごとくこれに諮らば、かならずよく行陣をして和睦し、優劣をして、所を得しめん。
賢臣を親しみ、小人を遠ざけしは、これ先漢の興隆せし所以にして、小人を親しみ、賢人を遠ざけしは、これ後漢の傾頽せる所以なり。先帝いまししときは毎に臣とこの事を論じ、いまだかつて桓霊に歎息痛恨したまわざるはあらざりき。侍中尚書、長史参軍、これことごとく貞亮死節の臣、ねがわくは陛下これに親しみこれを信ぜよ。すなわち漢室の隆んなる、日をかぞえて待つべき也。

 転じて孔明の筆は、自己と先帝玄徳と相知った機縁を追想し、その筆は血か、その筆は涙か、書きつつ彼も熱涙数行を禁じ得ないものがあったのではなかろうか。

――臣はもと布衣、みずから南陽に耕し、いやしくも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めざりしに、先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥におんみずから枉屈して、三たび臣を草廬にかえりみたまい、臣に諮るに当世の事を以てしたもう。これによりて感激し、ついに先帝にゆるすに駆馳を以てす。後、傾覆にあい、任を敗軍の際にうけ、命を危難のあいだに奉ぜしめ、爾来二十有一年矣。
先帝、臣が謹慎なるを知る、故に崩ずるにのぞみて、臣によするに大事を以てしたまいぬ。命をうけて以来、夙夜憂歎し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入れり。いま南方すでに定まり、兵甲すでに足る。まさに三軍を将率し、北中原を定む。庶わくは駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、漢室を復興して、旧都に還しまつるべし。これ臣が先帝に奉じて、而して、陛下に忠なる所以の職分なり。

 孔明はこの条で国家のゆくてを明示している。そして、その完遂をもって自己の臣業となし、蜀の大理想であるともいっている。すなわちそれは漢室の復興と、旧地への還都、その二つの実現である。そのためには臣らの粉骨はもちろんながら、陛下おんみずからも艱難に打ち克ち、いよいよ帝徳をあらわし給うお覚悟なくてはいけません――と、あたかも父のごとき大愛と臣情を傾けて訓えているのであった。

斟酌損益し、進んで忠言を尽すにいたりては、すなわち、攸之・褘・允の任なり。ねがわくは陛下臣に託するに、討賊、興復の効を以てせられよ。効あらざれば、すなわち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げさせたまえ。もし興徳の言なきときは、すなわち攸之・褘・允らの智を責め、以てその慢を顕させたまえ。陛下また宜しくみずから謀り以て善道を諮諏し、雅言を察納し、ふかく先帝の遺詔を追わせたまえ。臣、恩をうくるの感激にたえざるに、今まさに遠く離れまつるべし。表に臨みて、涕泣おち、云うところを知らず。

 表の全文はここで終っている。おそらく彼は筆を擱くとともに文字どおり故玄徳の遺託にたいして瞑目やや久しゅうしたであろう。そしてさらにその誓いを新たにしたであろう。ときに彼は四十七歳、蜀の建興五年にあたっていた。

 孔明は門を出た。久しぶりに籠居を離れて、朝へ上ると、彼は直ちに、闕下に伏して、出師の表を奉った。
 後主劉禅は、表を見て、
「相父――相父が南方を平定して還られてから、その間、まだわずか一年余しか経っていない。さるを今また、前にも勝る軍事に赴くのは、いかに何でも、体に無理ではないか。すでに相父も五十になろうとする年齢、国のために、少しは閑を楽しみ、身を養ってくれよ」
 と、心から云った。孔明は感泣した。
「ありがたいおことばですが、臣が先帝より孤をたのむぞとの遺詔を拝しましてからは、臣の微衷は、それを果さぬうちは、眠るとも安まらず、閑を得ても、心から閑を楽しむ気持にもなりません。――身はいまだ無病、年も五十路の前、今にして、その任におこたえしなければ、やがて老いては、如何に思うとも、これを微忠にあらわすことはできなくなりましょう。――かならずご宸念をお煩わし遊ばしますな」と、ただただ慰めて、ひとまず退がった。
 ところが、ひとり後主劉禅の憂いに止まらず、出師の表によって掲げられた孔明の「北伐の断行」は、俄然、蜀の廟堂に大きな不安を抱かしめた。
 なぜならば、この蜀漢の地は、先帝玄徳が領治して以来、余りにもまだ国家としての歴史が若く、かつは連年の軍役に、まだとうてい魏や呉の強大と対立するだけの実力は内に蓄えられていない。
 一昨年、南方平定のため、その遠征に費やした資材、人員だけでも、実のところ、内政財務の吏も一時はひそかに、
(これはたまらない。どうなることか)
 と、国庫の疲弊とにらみ合わせて、はらはらしていた程なのである。幸いにも、それは遠征軍の大捷によって償われ、いわゆる耕牛、戦馬、金銀、犀角などのおびただしい南方物資の貢ぎの移入によっても、大いに国力を賑わし得ることは得たが、それもまだ以来一年半にしかなっていない。
「この際、この上にまた、魏を討たんなどという大野望は、ほとんど無謀の挙ともいうべきである」
 と、なす議論は、相当、蜀廷の内にもうごいていた。
 丞相孔明の決意に出るものなので、あきらかに出師の表に対して、反対を唱える者はなかったが、
「とうてい、勝ち目がない軍だ」と、する者やまた、
「やむを得ず彼の侵略を防ぐためならばともかく、魏もいまは曹丕が歿して、幼い曹叡が立ち、国外と事を構えるのを好んでもいない際に、こちらから出師するというのはその意を得ぬ」
 と、するような消極論は、後主劉禅をめぐって、かなり顕著であった。
 それらの人々の第一に懸念するところは、兵員の不足であり、また戦争遂行に要する財源の捻出だった。蜀中の戸籍簿によって、蜀、魏、呉の戸数を比較して見ると、蜀は魏の三分の一、呉の半数しかないのである。
 さらに、人口の密度から見れば、魏の五分の一強、呉の三分の一ぐらいな人間しか住んでいない。以て、蜀の開発とその地勢とが、いかに守るにはよいが、文化には遅れがちであるか分るし、しかも常備の帯甲将士の数に至っては、魏や呉などの中原を擁する二国家とは較ぶべくもない貧弱さである。
 加うるに、後主劉禅は、登位以来すでに四年、二十一歳にもなっているが、必ずしも名君とはいわれないものがあった。父帝玄徳のような大才はなかったし、何よりも艱難を知らずに育てられてきている。
「これらの条件をつまびらかにせぬ丞相でもあるまいに――いかなる思し召でかくの如き大軍事をいま決行せられようとするのであろうか」
 人々はみな孔明に服してはいたが、なお孔明の真意をふかく知りたく思うのであった。

 知る人ぞ知る。
 これが孔明の心であったろう。
 だが、一夜親しく彼を訪ねて、蜀臣全体の不安を代表するかのように、それとなく、彼を諫めにきた太史譙周にたいして、彼の諭言は懇切をきわめた。
「いまです。今をおいて、北魏を討つときはないのです。魏はもともと、天富の地にめぐまれ、肥沃にして人馬強く、曹操以来、ここに三代、ようやく大国家の態をととのえて来ました。早くこれを討たなければ、とうてい彼を覆すことは不可能であるばかりでなく、わが蜀は自滅するほかありません」
 と、まず天の時を説き、ひいて自国の備えに及んでは、
「なるほど、わが蜀はまだ弱小です。天下十三州のうちに、完全に蜀の領有している地は、益州一州しかないのですから、面積の上では魏とも呉とも比較にならない。従って兵員も不足、軍需資材も彼の比でないことはぜひもないことだ。けれど、乞う安んぜよ。多少の成算はある」
 彼は、簿を取り寄せて、まだ誰にも打ち明けなかった、秘密の予備軍があることを初めて明らかにした。それは荊州以来、禄を送って、領外の随所に養っておいた浪人部隊と、南方そのほかの異境から集めて、趙雲馬忠などに、ここ一年調練させていた外人部隊とであった。そしてそれらの兵員を五部に編制し、連弩隊、爆雷隊、飛槍隊、天馬隊、土木隊などの機動作戦に当てしむべく充分に訓練をほどこしてある。故に、これは敵側にとっては、予想外なものとなって、その作戦を狂わすに到るであろうと説明した。
 また財力については、
「北伐の大望は、決して今日の思いつきでなく、不肖が先帝のご遺託をうけたときからの計画である。で自分は、その根本の力は、何よりも農にあるとなして、大司農、督農の官制をおき、農産振興に尽してきた結果、連年の軍役にもかかわらず、蜀中の農にはまだ充分な余力がある。かつ、田賦、戸税のほかに、数年前から『塩』と『鉄』とを国営にした。わが蜀の天産塩と鉄とは、実に天恵の物といってよい。これによる国家の経済によって、蜀は中原に進む日の資源をえている」
 と、その間の苦心をしみじみと述懐した。なおいかに彼が日頃において、国家の経済に細心な備えをしていたかという一例としては、成都や農村の婦女子に、蜀の錦を手織らせ、近年はことに、これを奨励増産して、南方の蛮夷へも西涼胡夷へも輸出し、蜀錦に限っては、敵たる魏や呉へ売り出すことにも、多大な便宜を与えて、それに代るべき重要な物資をどしどし蜀内へ求めていたという事実に見ても、彼の苦心経営のほどがよくうかがわれるのであった。
 こういう苦心と用意と、つぶさなる説明を聞いては、諫めにきた譙周も二言なく帰るのほかはなかった。ために、蜀朝廷の不安も反対も声なきに至ったのみか、かえって、
「丞相にそれ程までの備えがあるならきっと勝てよう。いやきっと勝てる」と、早くも、中原の旧都に還って、かつての漢朝のごとく、天下統一の盛時がやすやす実現するものと、楽観に傾き過ぎる空気さえ漂ってきた。
 何ぞ知らん――人々が楽観して軽躁に勝利を夢みるとき、孔明の心中には、惨たる覚悟が誓われていたのである。彼は決して、成功を期していない、誰よりも魏の強大を知っている。――それだけに、我亡き後は誰が蜀朝を保たん、我なくして蜀なし、と信じていた。余命あるうちに、先帝玄徳からうけた遺託を果たさねばならないと、唯そのことを思うのみだった。
 人にこそ漏らさないが、現帝劉禅の質が父帝に似たることの少ない点も、彼にはどれほどな寂寥であったか知れない。
 また魏は曹操以来、今日もなお人材に富んでいる。経営の大才、陣営の巨雄、少なくないのである。これに反して蜀は今、関羽張飛の武将もなく、帝は若く、朝臣は多く平凡であった。これらの点も孔明の惨心を一しお深刻ならしめているものであった。
 しかも彼は、蜀の大理想を不可能とはしない。玄徳の遺詔をむりだとはしなかった。出師の表一千余字、かりそめにも恨みがましい辞句などはない。ことばの裏にすらうかがわれないのである。

 三軍の整備は成った。
 この間、蜀宮中の内部にこそ、多少複雑な経過はあったが、国外に対しては、ほとんど、何の情報もまだ漏れずにあった程、それは迅速にひそかに行われた。
 春三月、丙寅の日、いよいよ発向と令せられた。
「征ってまいります」
 最後のお別れとして孔明が朝に上った日、後主劉禅は眼に涙をためて、
「相父。自愛に努めてよ」
 と、ねんごろに云った。
 劉禅の姿を仰いでいる時も、孔明の脳裡には、先帝玄徳の面影が常に描かれていた。劉禅のうしろにはいつもその人在りと意思していた。
「お案じ遊ばしますな。たとえ孔明が五年や十年留守にしておりましょうとも、陛下のお側には、かかる忠誠の人々が、豊かな才量をみな持って、内外の事をお扶けしておりますれば……」
 孔明は奏しながら、玉座の左右へ眸を移した。実に、彼のただ一つの心配は、自身の向う征途にはなくて、後にのこす劉禅の輔佐と内治だけが心懸りだったのである。
 ために、彼は、ここ旬日の間に、大英断をもって、人事の異動を行った。
 郭攸之・董允・費褘の三重臣を侍中として、これに宮中のすべての治を附与した。また御林軍の司には、尚寵を近衛大将として留守のまもりをくれぐれも託した。さらに自分に代るべき丞相府の仕事は、一切を長裔に行わしめ、彼を長史に任じ、杜瓊は諫議大夫に、杜微、楊洪は尚書に、孟光、来敏を祭酒に、尹黙、李譔を博士に、譙周を太史に、そのほか彼の目がねで用いるに足り、頼むに足るほどな者は、文武両面の機構に配置して、留守の万全は充分に期してある。
 いま彼が、帝の周囲の者を見まわしたのは、その静かな眸をもって輔佐の人々へ、
(くれぐれも頼み参らすぞ)
 と心からいって別辞に代えたものだった。
 そしていよいよ成都を立つ日となると、後主劉禅は宮門を出て、街門の外まで彼を見送った。
 春風は三軍の旗を吹いた。すなわち丞相府の前に勢揃いして、鉄甲燦々と流れゆく兵馬の編制を見ると、次のような順列であった。

前督部鎮北将軍領丞相司馬 魏延
前軍都督領扶風太守 張翼
牙門将裨将軍 王平
後軍領兵使 呂義
兼管運粮左軍領兵使 馬岱
副将飛衛将軍 廖化
右軍領兵使奮威将軍 馬忠
撫戎将軍関内侯 張嶷
行中軍師車騎大将軍 劉琰
中将軍揚武将軍 鄧芝
中参軍安遠将軍 馬謖
前将軍都亭侯 袁綝
左将軍高陽侯 呉懿
右将軍玄都侯 高翔
後将軍安楽侯 呉班
領長史綏軍将軍 楊儀
前将軍征南将軍 劉巴
前護軍偏将軍 許允
左護軍篤信中郎将 丁咸
右護軍偏将軍 劉敏
後護軍興軍中郎将 官雝
行参軍昭武中郎将 胡済
行参軍諫議将軍 閻晏
行参軍裨将軍 杜義
武略中郎将 杜祺
綏戎都尉 盛勃
従事武略中郎将 樊岐
典軍書記 樊建
丞相令史 董厥
帳前左護衛使龍驤将軍 関興
右護衛使虎翼将軍 張苞

 このなかに一名、なくてはならない大将が洩れていた。それは玄徳以来の功臣、常山趙雲子龍であった。

 この日、趙雲の英姿が出征軍の中に見えなかったのは、こういう理由にもとづく。
 長坂橋以来の英傑も、ようやく今は老いて、鬢髪も白くなっていた。孔明は、南征の際にも、彼がその老骨をひっさげて、終始よく戦ってきたことなども思い合わせ、わざと今度は、編制から除いて留守に残そうとしたのであった。
 ところが、趙雲は、その情けをかえってよろこばないのみか、編制の発表を見るや否や、
「どうしてそれがしの名がこの中にないのか。怪しからん」
 と丞相府へやってきて、孔明に膝詰めで談じつけたのである。
「自らいうのは口はばったいが、先帝のときより、陣に臨んで退いたことなく、敵におうては先に馳けずということなき趙子龍である。老いたりといえ、近頃の若者などには負けぬつもりだ。大丈夫と生れて、戦場に死ぬはこの上もない身の倖せ。――丞相はかくいう趙雲の晩節をあえて枯木の如く朽ちさせんおつもりであるか」
 これには孔明も辟易した。強いて止めるならば、只今この所において、自ら首を刎ねて亡ぶべし、ともいうのである。
「それ程までにお望みなれば、お止めいたすまい。しかし、私の選ぶ一人の副将をお連れなさい」
「もとより副将を伴うには異存はない。――して、それは誰ですか」
「中鑒軍の鄧芝です」
「鄧芝ならば」と、趙雲もよろこんだ。――で孔明は、編制の一部をかえて、趙雲と鄧芝に精兵五千をさずけ、べつに戦将十人を付与して、前部大先鋒軍となし、大軍の立つ一日さきに、成都を出発させていたものであった。
 何しても、このような大規模の軍隊が国外へ立つことは成都初めてのことなので、この日、市民は業を休んで歓送し、街門までの予定で見送りに出られた後主劉禅も、名残りを惜しんで、百官とともに、ついに北門の外十里まで見送った。
 すでにして三軍は、成都の市街を離れて、郊外へさしかかったが、郊外へ出ればここにも田園の百姓老幼が、箪壺漿して、王師の行をねぎらった。
 村々の道ばた、野や田の畔にも、彼らは土に坐って、孔明の四輪車へ拝をなした。村娘は兵のために黍の甘水を汲み、媼は蓬の餅を作って将に献じた。
 孔明はしみじみ眺めた。
「ここには何の後顧の憂いもない」――と。
      ×     ×     ×
 魏は大きな衝動を不意にうけた。蜀の出師は国を傾けてくるの概ありと知ったからである。加うるに孔明の名は、いまや魏にとっても、聞くだに戦慄の生じるものであった。
「たれかよく彼を防ぐや」
 魏帝曹叡は、群臣に問うた。満堂の魏臣しばし声もない。
 ときに一名、ねがわくは臣これに当らん、と進んで起った者がある。諸人の眼はそれへそそがれて、
「おお、夏侯淵の子なるか」
 と、眼をあらたにした。
 安西鎮東将軍兼尚書駙馬都尉、夏侯楙、字は子休。
 彼の父は、武祖曹操の功臣で、漢中の戦に死んでいる。いま蜀軍のさして来るところも漢中である。怨みあるその戦場において、父の魂魄をなぐさめ、国に報ずるは、子の勤めなりと、彼は今いうのであった。父亡き後、幼少、彼は叔父の夏侯惇に育てられてきた。後、曹操がそれを愍れんで自身の一女を娶合せたので、諸人の尊重をうけてきたが、ようやくその為人が現われてくるにつれて天性やや軽躁、そして慳吝な質も見えてきたので、魏軍のうちでもあまり声望はなかった。
 しかしその位置、その重職には、不足ない大将軍たる資格はあるので、衆議異論なく、叡帝またその志を壮なりとして、関西の軍馬二十万馬を与え、以て、孔明を粉砕すべしと、印綬をゆるした。

底本:「三国志(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年5月11日第1刷発行
   2008(平成20)年12月1日第52刷発行
※副題には底本では、「出師の巻」とルビがついています
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
2015年4月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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