岳南の佳人
一
いっさんに馳けた玄徳らは、ひとまず私宅に帰って、私信や文書の反故などみな焼きすて、その夜のうちに、この地を退去すべくあわただしい身支度にかかった。
官を捨てて野に去ろうとなると、これは張飛も大賛成で、わずかの手兵や召使いを集め、
「ご主人には今度、にわかに、思うことがあって、県の尉たる官職を辞め、しばらく野に下って、悠々自適なさることになった。しかし、実はおれが勅使督郵を半殺しの目にあわせたのが因だ。ついては、身の落着きの目あてのある者は、家に帰れ。あてのない者は、病人たりとも、捨てては行かぬ。苦楽を共にする気でご主人に従って参れ」と、いい渡した。
貰う物を貰って、自由にどこかへ去る者もあり、どこまでも、玄徳様に従ってと、残る者もあった。
かくて夜に入るのを待ち、手廻りの家財を驢や車に積み、同勢二十人ばかりで、遂に、官地安喜県を後に、闇にまぎれて落ちて行った。
――一方の督郵は。
あの後、間もなく、下吏の者が寄ってきて、役所の中へ抱え入れ、手当を加えたが、五体の傷は火のように痛むし、大熱を発して、幾刻かは、まるで人事不省であった。
だが、やがて少し落着くと、
「県尉の玄徳はどうしたっ」
と、うわ言みたいに呶鳴った。
その玄徳は、官の印綬を解いて、あなたの首へかけると、捨てぜりふをいって馳け走りましたが、今宵、一族をつれて夜逃げしてしまったという噂です――と側の者が告げると、
「なに。逃げ落ちたと。――ではあの張飛という奴もか」
「そうです」
「おのれ、このまま、おめおめと無事に、逃がしてなろうか。――つ、つかいを、すぐ急使をやれっ」
「都へですか」
「ばかっ。都へなど、使いを立てていたひには間にあうものか。ここの定州(河北省・保定・正定の間)の太守へだ」
「はっ。――何としてやりますか」
「玄徳、常に民を虐し、こんど勅使の巡察に、その罪状の発覚を恐るるや、かえって勅使に暴行を加え、良民を煽動して乱をたくめど、その事、いちはやく官の知るところとなり、一族をつれて夜にまぎれ、無断官地を捨てて逃げ去る――と」
「はっ。わかりました」
「待て。それだけではいかん。すぐさま、迅兵をさし向けて、玄徳らを召捕え、都へご檻送くださるべしと、促すのだ」
「心得ました」
早馬は、定州の府へ飛んだ。
定州の太守は、
「すわ、大事」と、勅使の名におそれ、また、督郵の詭弁にも、うまく乗せられて、八方へ物見を走らせ、玄徳たちの落ちていった先を探させた。
数日の後。
「何者とも知れず、安喜県のほうから代州(山西省・代県)のほうへ向って、驢車に家財を積み、十数名の従者をつれ、そのうち三名は、驢に乗った浪人風の人物で、北へ北へとさして行ったということでありますが」
との報告があった。
「それこそ、玄徳であろう。からめ捕って、都へ差立てろ」
定州の太守の命をうけて、即座に鉄甲の迅兵約二百、ふた手にわかれて、玄徳らの一行を追いかけた。
二
北へ、北へ、車馬と落ち行く人々の影はいそいだ。
幾度か、他州の兵に襲われ、幾度か追手の詭計に墜ちかかり、百難をこえ、ようやくにして代州の五台山下までたどりついた。
「張飛。御身の指図で、ここまではやって来たが何か落着く先の目的はあるのか。――ここはもう、五台山の麓だが」
関羽もいうし、玄徳も、実は案じていたらしく、
「いったい、これからどこへ落着こうという考えか」と、共々に訊ねた。
「ご安心なさるがよい」
張飛は大のみこみで云った。そして岳麓の平和そうな村へ行き着くと、
「しばらく、ご一同は、その辺に車馬を休めて待っていて下さい」
と、一人でどこへか立ち去ったが、ほどなく立ち帰ってきて、
「劉大人が承知してくれました。もう大船に乗った気でおいでなさい」
と告げた。
「劉大人とは、どこの何をしておる人物かね」
「この土地の大地主です。まあ大きな郷士といったような家柄と思えばまちがいありません。常に百人や五十人の食客は平気で邸においているんですから、われわれ二十人やそこらの者が厄介になっても、先は平気です。またこの地方の人望家でもありますから、しばらく身をかくまっておいてもらうには、なによりな場所でしょうが」
「それは願ってもないことだが、御身との間がらは、どういう仲なのだ」
「劉大人も、今こそ、こんな田舎にかくれて、岳南の隠士などと気どっていますが、以前は、拙者の旧主鴻家とは血縁もあって、軍糧兵馬の相談役もなされ、何かと、旧主鴻家とは、往来しておったのであります。――その頃、自分も鴻家の一家臣として、ご懇意をねがっていたので、鴻家が滅亡の後も、実は、拙者の飲み代だの、遺臣の始末などにも、ずいぶんご厄介になったもので」
「そうか。その上にまた、同勢二十人も、食客をつれこんでは、劉大人も、眉をひそめておいでだろう」
「そんな事はありません。非常に浪人を愛する人ですし、玄徳様のご素姓と、われわれ義軍が、官地を捨てて去ったことなど、つぶさにおはなししたところ、苦労人ですから、非常によく分ってくれて、二年でも三年でもいるがいいというわけなんで」
張飛のことばに、
「そういう人物の邸なら身を寄せてもよかろう」
と、玄徳も安心して、彼の案内について行った。
すると、岳麓の疎林のほとりに、一廓の宏壮な土塀が見えた。玄徳らを誘いながら、張飛が、
「あの邸です。どうです、まるで豪族の家のようでしょう」と、自分の住居ででもあるように誇って云った。
玄徳がふと驢を止めて見ていると、その邸の並びの杏の並木道を今、鄙には稀な麗人が、白馬に乗って通ってゆくのが見えた。美人の驢の後からは、ひとりの童子が、琴を担って、眠そうに供をして行った。
三
「はて、どこかで見たような」
玄徳はふとそんな気がした。
遠目ではあったが、妙に印象づけられた。もっとも、殺伐な戦場生活だの、僻地から曠野を流浪してきた身なので、よけいに、彼方の女性が美しく見えたのかもしれない。
麗人は、すぐ広い土塀に囲まれた、豪家の門のうちへ入ってしまった。
「そこが劉大人の邸だ」
と、たった今、張飛に教えられたばかりなので、さては劉家の息女かなどと、玄徳はひとり想像していた。
ほどなく、玄徳らの一行も、そこの門前に着いた。一同は車を停め、驢から降りて、埃まみれな旅の姿をかえりみた。
ここの主は浪人を愛し、常に多くの食客を養っているという。どんな人物であろうか、玄徳や関羽は、会わないうちはいろいろに想像された。
けれど、張飛に案内されて、南苑の客館に通ってみると、まったく世の風雲も知らぬげな長閑けさで、浪人を愛するよりは、むしろ風流を愛すことのはなはだしい気持の逸人ではないかと思われた。
やがてのこと、
「はい、てまえが、当家の主の劉恢です。ようお越しなされました。お身の上は最前、張飛どのから聞きましたが、どうぞお気がねなく、一年でも二年でも遊んでいてください。その代りこんな田舎ですから、何もおかまいはできませんよ、豊かにあるのは、酒ぐらいなもので」
こう主の劉恢が出てきてのあいさつに、張飛は、
「ありがたい。酒さえあれば何年だっていられますよ」
と、もう贅沢をいう。
玄徳はいんぎんに、
「何分」
と、しばらくの逗留を頼み、関羽も姓名や郷地を名乗って、将来の高誼を仰いだ。
劉大人は、いかにも大人らしい寡言な人で、やがて召使いをよび、三名の部屋として、この南苑の客館を提供し、何かの事などいいつけ、ほどなく奥へかくれてしまった。
「どうです、落着くでしょう」
張飛は手がら顔にいう。
「落着きすぎるくらいだ」と、関羽は笑って、
「ぼろを出さぬようにしてくれよ」
と、暗に張飛の酒ぐせをたしなめた。
年を越えた。春になった。
五台山下の部落は、まことに平和なものだった。ここには、劉恢が土豪として、村長の役目をも兼ねているせいか、悪吏も棲まず、匪賊の害もなかった。
しかし、張飛や関羽は、その余りにも無事なのにむしろ苦しんだ。酒にも平和にも倦んだ。
それとは違って、玄徳は近ごろひどく無口であった。常に物思わしいふうが見える。
「長兄も、この頃はようやく、ふたたび戦野が恋しくなってきているのではないかな。風雲児、とみに元気がないが」
ある時、関羽がいうと、
「いやいや、戦野が恋しいのじゃないさ」
と張飛は首を振った。
「では、郷里の母御のことでも案じておられるのかな?」
「それもあろうが、原因はもっとべつなほうにある。おれはそう覚っているが、わざと会わせないんだ」
「ふウむ。原因があるのか」
「ある」
苦々しげに張飛はいった。その顔つきで思い出した。近頃、南苑に梨花が咲いて、夜は春月がそれに霞んでまたなく麗しい。時折その梨苑をさまよう月よりも美しい佳人が見かけられる。そうするといつのまにか、この客館から玄徳のすがたが見えなくなるのだった。
四
張飛のはなしを聞いて関羽にも思い当るふしがあった。関羽はそれから特に玄徳の容子に注目していた。
すると、それから数日後の宵であった。その夜は朧月が麗しかった。五台山の半身をぼかした夜霞が野にかけ銀を刷いたような朧をひいていた。
「おや、いつのまにか」
気がついて関羽はつぶやいた。三名して食卓を囲んでいたのである。張飛は例によっていつまでも酒をのんでいるし、自分も、杯をもって相手になっていたが、玄徳は室を去ったとみえて、彼の空席の卓には、皿や酒盞しか残っていない。
「そうだ」
こよいこそ彼の行動をつきとめてみよう。関羽はそう考えたので張飛にも黙って急に部屋から出て行った。
そして南苑の白い梨花の径を忍びながら歩いては見まわした。
もう奥の内苑に近い。主の劉恢のいる棟やその家族らの住む棟の燈火は林泉をとおして彼方に見えるのであった。
「はて。これから先へゆく筈もないし」
関羽がたたずんでいると、ほど近い木の間を、誰か、楚々と通る人があった。見ると、劉恢の姪とかいうこの家の妙齢な麗人であった。
「……ははあ?」
関羽は自分の予感があたってかえって肌寒いここちがした。物事の裏とか、人の秘密とかには、むしろ面を横にして、無関心でいたい彼であったが、つい後から忍んで行った。
劉恢の姪という佳人は、やがて鮮やかに月の下に立った。辺りには木蔭もなく物の蔭もなく、ただ広い芝生に夜露が宝石をまいたように光っていた。
すると梨の花の径からまたひとりの人影が忽然と立ち上がった。それは花の中に隠れていた若い男性であった。
「オ。玄徳さま」
「芙蓉どの」
ふたりは顔を見あわせてニコと笑み交わした。芙蓉の歯が実に美しかった。
相寄って、
「よく出られましたね」
玄徳がいう。
「ええ」
芙蓉はさしうつ向く。
そして梨畑のほうへ、ふたりは背を擁し合いながら歩み出して、
「劉恢は、あれでとても、厳格な人ですからね。……食客や豪傑たちには、やさしい温情を示す人ですけれど、家庭の者には、おそろしくやかましい人なんです。……ですから、……、こうして苑へ出てくるにも、ずいぶん苦心して来るんですの」
「そうでしょう。何しろ、われわれのような食客が常に何十人もいるそうですからね。私も、関羽だの張飛だのという腹心の者が、同じ室にいて、眼を光らしているので、彼らにかくれて出てくるのもなかなか容易ではありません」
「なぜでしょうね」
「何がですか」
「そんなにお互いに苦労しながらでも、夜になると、どうしてもここへ出てきたいのは」
「私もそうです。自分の気もちがふしぎでなりません」
「美しい月ですこと」
「夏や秋の冴えた頃よりも、今頃がいいですね。夢みているようで」
梨の花から梨の花の径をさまよって、二人は飽くことを知らぬげであった。夢みようと意識しながら、あえて、夢を追っているふうであった。
五
この家の深窓の佳人と玄徳とが、いつのまにか、春宵の秘語を楽しむ仲になっているのを目撃して、関羽は、非常なおどろきと狼狽をおぼえた。
「ああ、平和は雄志を蝕む」
彼は、慨嘆した。
見まじきものを見たように関羽はあわてて後苑の梨畑から馳け戻ってきた。そして客館の食卓の部屋をのぞくと、張飛はただ一人でまだそこに酒を飲んでいた。
「おい」
「やあ、何処へ行っていたのだ」
「まだ飲んでいるのか」
「飲むよりほかに為すことはないじゃないか。いかに脾肉を嘆じたところで、時利あらず、風雲招かず、蛟龍も淵に潜んでいるしかない。どうだ、貴公も酒の淵に潜まんか」
「一杯もらおう、実は今、いっぺんに酒が醒めてしまったところだ」
「どうしたのか」
「……張飛」
「ウム」
「おれは、貴様のように、いたずらに現在の世態や時節の来ぬことを、そう悲観はしないつもりだが、今夜はがっかりしてしまった。――野に隠れ淵に潜むとも、いつか蛟龍は風雲を捉えずにいないと信じていたが」
「ひどく失望の態だな」
「もう一杯くれ」
「めずらしく飲むじゃないか」
「飲んでから話すよ」
「なんだ」
「実は今、おれは、人の秘密を見てしまった」
「秘密を」
「されば。先頃から貴様が謎めいたことをいうので、こよい玄徳様が出て行った後からそっと尾けて行ってみたのだ。するとどうだろう……ああ、おれは語るに忍びん。あんな柔弱な人物だとは思わなかった」
「なにを見たのだ一体」
「あろうことかあるまいことか。当家の深窓に養われている芙蓉娘とかいう麗人と、逢引きをしているではないか。ふたりはいつのまにか恋愛におちておるのだ。われわれ義軍の盟主ともある者が、一女性に心をとらわれなどして何ができよう」
「そのことか」
「貴様は前から知っていたのか」
「うすうすは」
「なぜわしに告げないのだ」
「でも、できてしまっているものは仕方がないからな」
張飛も腐った顔つきしてつぶやいた。その顔を頬杖にのせて、片手で独り酒を酌いであおりながら、
「英傑児も、あまり平和な温床に長く置くと黴が生えだして、ああいうことになるんだな」
「志を得ぬ鬱勃をそういうほうへ誤魔化しはじめると、人間ももうおしまいだな。……また、あの女も女ではないか。あれは劉恢の娘でもないし、いったい何だ」
「訊かれると面目ない」
「なぜ? なぜ貴様が面目ないのか」
「……実はその、あの芙蓉娘は拙者の旧主鴻家のご息女なので、劉恢どのも鴻家とは浅からぬ関係があった人だから、主家鴻家の没落後、おれが芙蓉娘をこの家へ連れてきて、匿っておいてくれるように頼んだお方なのだ」
「え。では貴様の旧主のご息女なのか」
「まだ義盟を結ばない数年前のはなしだが、その芙蓉娘と玄徳様とは、黄匪に追われて、お互いに危うい災難に見舞われていた頃、偶然、或る地方の古塔の下で、出会ったことがあるので、とっくに双方とも知り合っていた仲なのだ」
「え。そんなに古いのか」
関羽が呆れ顔した時、室の外に誰かの沓音が聞えた。
六
主の劉恢であった。
劉恢は、室内の様子を見て、
「おさしつかえないですか」と、二人の許しをうけてから入ってきた。そしていうには、
「困ったことができました。数日の内に、洛陽の巡察使と定州の太守が、この地方へ巡遊に来る。そしてわしの邸がその宿舎に当てられることになった。当然、あなた方の潜伏していることが発覚する。一時どこかへ隠れ場所をお移しなさらぬと危ないが」
という相談であった。
折も折である。
関羽、張飛も、一時は途方にくれたここちがしたが、むしろこれは、天が自分らの懶惰を誡むるものであると思って、
「いや、ご当家にも、だいぶ長い間の逗留となりました。そういうことがなくても、このへんで一転機する必要がありましょう。いずれわれわれども三名で相談の上、ご返辞申しあげます」
「なんともお気の毒じゃが。……なお、落着く先にお心当りもなければ、わしの信じる人物で安心のなる所へご紹介もして上げますから」
劉恢は、そういって、戻って行った。
後で、二人は顔見あわせて、
「玄徳様と芙蓉娘の仲を、主もさとってきて、これはいかんと、急にあんな口実をいってきたのではあるまいか」
「さあ。どうとも知れぬ」
「しかし、いい機だ」
「そうだ。玄徳様のためには至極いいことだ」
翌朝。二人はさっそく、「云々のわけですが」と、玄徳に主の旨を伝えて、善後策をはかった。
すると玄徳は、一時は、はっとした顔色だったが、直ぐうつ向いた眼ざしをきっとあげて、
「立退こう。恩人の劉大人にご迷惑をかけてもならぬし、自分もいつまで安閑とここにいる気もなかったところだから」と、いった。
そういう玄徳の面には、深く現在の自身を反省しているらしい容子が見えた。
そこで関羽は、思いきって、こういってみた。
「――ですが、お名残り惜しくはありませんか、この家の深窓の佳人に」
玄徳は微笑のうちにも、幾分か羞恥の色をたたえながら、
「否とよ、恋は路傍の花」
と、答えた。
その一言に、
「さすがは」
と関羽も、自分の取越し苦労を打消し、すっかり眉をひらいた。
「そういうお気持なら安心ですが、実は、われわれの盟主たりまた、大望を抱いている英傑児が、一女性のために、壮志を蝕まれてしまうなどとは、残念至極だと、張飛と共に、ひそかに案じていたところなのです。――ではあなたは飽くまで、芙蓉娘と本気で恋などにおちているわけではありますまいな」
「いや」
玄徳は、正直にいった。
「恋をささやいている間は、恥かしいが、わしは本気で恋をささやいているよ。女を欺けない、また、自分も欺けない。ただ、恋あるのみだ」
「え……?」
「だが両君。乞う、安んじてくれ給え。玄徳はそれだけが全部にはなりきれない。恋のささやきも一ときの間だ。すぐわれに返る。中山靖王の後裔劉備玄徳というわれに返る。寒村の田夫から身を起し、義旗をひるがえしてからすでに両三年、戦野の屍となりつるか、洛陽の府にさまよえるか、と故郷には今なお、わが子の我を待ち給う老母もいる。なんで大志を失おうや。……両君も、それは安心して可なりである。玄徳を信じてくれい」