髪を捧ぐ

 街亭の大捷は、魏の強大をいよいよ誇らしめた。魏の国内では、その頃戦捷気分に拍車をかけて、
「この際、蜀へ攻め入って、禍根を断て」
 という輿論さえ興ったほどである。司馬仲達は、帝がそれにうごかされんことをおそれて、
「蜀に孔明あり、剣閣の難所あり、決してさような妄論にお耳をかし給わぬように」
 と、常に軽挙を押えていた。
 しかし、彼はただ安愉を求めているのではない。さきに孔明は街亭へ出て失敗しているから、次にはかならず陳倉道へ出てくるであろうと予想した。で、帝にすすめて、不落の一城をその道に築き、雑覇将軍郝昭に守備を命じた。
 郝昭は太原の人、忠心凛々たる武人の典型である。その士卒もみな強く、赴くに先だって、鎮西将軍の印綬を拝し、
「不肖、陳倉を守りおる以上は、長安洛陽も高きに在って洪水をご覧ぜられる如く、お心のどかにおわしませ」と、闕下に誓って出発した。
 蜀境の国防方針がひとまず定まったと思うと、呉に面している揚州司馬大都督曹休から上表があって、
(呉の鄱陽の太守周魴は、かねてから魏の臣に列したい望みをもらしていたが、今、密使をもって、七ヵ条の利害を挙げ、呉をやぶる計を自分の手許まで送ってきた。右、ご一閲を仰ぐ)
 と、奏達してきた。
 これは朝議に付せられて、
「果たして、周魴の言が、真実かどうか」が、入念に検討された。司馬懿は、意見を求められると、
「周魴は呉でも智ある良将だから詐りの内通ではないかとも思われる。しかしまたこれが真実だったら、この時節もまた捨て難い。――故に、大軍をもって三道にわかち、たとえ彼に詐りがあるとも決して敗れぬ態勢をもって臨むならば、兵を派してもさしつかえはないし、事実に当った上で、さらに、如何ような策も取れましょう」といった。
 皖城、東関、江陵の三道へ向って、洛陽の軍隊が続々と南下して行ったのは、それから約一ヵ月後だった。
 この動きは、すぐ呉に漏れていた。呉ではむしろ期して待っていたような観すらある。
 すなわち呉の建業もまた活溌なる軍事的のうごきを示し、輔国大将軍平北都元帥に封ぜられた陸遜は、呉郡の朱桓、銭塘の全琮を左右の都督となし、江南八十一州の精兵を擁して、三道三手にわかれて北上した。
 途中、朱桓が、思うところを、陸遜にのべた。
「曹休は魏朝廷の一門で、いわば金枝玉葉のひとりであるため揚州に鎮守していましたが、門地と天質とは別もので、必ずしも彼は智勇兼備ではありません。――聞く所によればすでに彼はわが周魴の反間に計られて、もうその進退を制せられている形勢とか。……さすれば彼が逃げ道はおよそ二条しかありません。一は、夾道、二は桂車の路です。しかもその二路とも嶮隘で奇計を伏せて打つには絶好なところですから、もしお許しを得るならばそれがしと全琮とで協力して、曹休を擒人にしてお目にかけます。――それさえ成就すれば、寿春城を取ることも、手に唾して一気に遂げることができましょう」
 陸遜はよく聞いていた。
 けれど、答えたことばは、
「まあ待て、ほかに思案がないことでもないからな」
 であった。
 そして彼は、諸葛瑾の一軍をもって、べつに江陵地方へ向わせ、その方向へ下って来た司馬仲達の兵を防がせた。
 序戦――焦眉の危急はまず呉の周魴にあざむかれている、魏の都督曹休の位置にあるものと観られた。

 曹休とてそう迂濶に敵の謀略にかかるわけはない。周魴は長い間にわたって、根気よく彼を信じさせたのであった。
 で、周魴の反謀に応じて、魏の大軍が南下することも中央で決定を見たので、彼もまた大軍をひきい、皖城へ来て、周魴と会見した。
 そのとき彼は、なおわずかな疑いも一掃しておきたい気持から、周魴にこう念を押した。
「貴公から呈出した七ヵ条の計は、中央でも容れることになって、わが魏の大軍が三路から南下することになったが、よもや君の献言に間違いはあるまいな」
「もしお疑いならば、人質でもなんでもお求め下さい」
「いや、疑うわけじゃないが、なににせよ問題は大きいからな。これがうまく図にあたって、呉を打破ることができたら君の功労は一躍、魏で重きをなすだろう。同時に、かくいう曹休も名誉にあずかるわけだから」
「都督には、なおまだいささかのお疑いを抱かれておられるとみえる」
「それは察し給え。もし君の言に少しの嘘でもあったら、吾輩の立場はどうなると思う?」
「ごもっともです」
 いったかと思うと、周魴はやにわに、小剣を抜いて、自分の髻をぶつりと切り落し、曹休の前にさし置いたまま、嗚咽を嚥んでうつ向いた。
 曹休は仰天して、
「あっ、飛んでもないことをしたではないか。なんだ? 髪などを……」
「いや、てまえの気持では、みずから首を刎ね離し、一死をもって示したい程であります。この忠胆、この誠心、天も照覧あれ。……髪を捧げてお誓い奉りまする」
 周魴は、肩をふるわせて哭いた。曹休もつい眼を熱くしてしまった。
「申し訳ない。つい、つまらん戯言をなして、なんとも済まん。……どうか心を取り直してくれ」
 彼はすっかり疑いをはらして、ともに酒宴にのぞみ、東関へ進出の打ち合わせなどして、自陣へもどった。
 すると、友軍の建威将軍賈逵が訪ねてきて云った。
「どうもおかしい。髪を断って異心なきを示すなんていうのは、ちと眉唾な心地がする。都督、うかつに出ないことですな」
「出るなとは?」
「彼が、先導となって、東関へ進もうというご予定でしょう」
「もちろんである」
「この辺にとどまって、もうすこし情勢をながめておいでになっては如何ですか」
 曹休は皮肉な皺を小鼻の片一方によせて、嘲う如く、揶揄する如く、こういった。
「ふム。……その間に足下が東関へ出て功を挙げるか。それもよかろう」
 次の日、曹休は、断乎、
「東関へ進むのだ」
 と、諸将へ令して、続々、軍馬を押し出した。賈逵は、譴責をうけて、あとに残されてしまった。
 周魴も、家中の兵をひきいて途上に出迎え、先に立って攻め口の案内を勤めた。
 馬上で、曹休が訊ねた。
「彼方に見えだしてきた嶮しそうな山はどこかね?」
石亭であります」
「東関は」
「あれを越えると、測茫の果てに、かすかに指さすことができます。お味方の大軍をあれに分配すれば、東関は手に唾して取ることができましょう」
 曹休は満足な態を見せた。そして石亭の山上から要所に兵を配したが、二日の後、斥候の兵が、
「西南の麓あたりに、多少は分りませんが、呉の兵がいる様子です」
 と、報らせてきた。
 曹休は怪しんだ。周魴のことばによれば、この辺には呉勢は一騎もいないと聞いていたからである。ところが、また一報があった。
「昨夜、夜のうちに、周魴以下数十人が皆、行方知れずになりました」

「なに、周魴が見えないと?」
 曹休は大いに後悔して叫んだ。
「稀代な曲者め。この曹休を偽くため、己の髪まで切って謀略の具に用いたか……ウウム何の、たとい計るとて何ほどのことやあるべき。張普、麓に見える呉兵どもを蹴ちらして来い」
 すでに危地を覚りながら、彼はまだ事態の重大を正視していなかった。張普もまた、命をうけるや否、
「多寡の知れたもの」という意気込みで、直ちに、一軍をひきいて駈け下った。
 ところが、偵察の見てきたその呉軍というのは、予想以上、有力なものだった。しかも精鋭をもって鳴る呉の徐盛軍だったのである。
「いけません。所詮小勢では歯も立ちません」
 張普は間もなく散々に打ち負けて引揚げてきた。
 曹休の面色もその時からまるで日頃のものでなくなった。けれど彼はなお自軍の大兵力を恃んで、「われ奇兵を以て勝つべし」といい、「明日の辰の刻を期し、自身二千余騎でこの山を下って、わざと逃げ走るから、汝らは薛喬の部隊そのほかと三万余人で、石亭の南北にわかれ、山添いに埋伏しておれ。――徐盛を捕えんこと掌であろう」と、その準備をしていた。
 ところが、明日ともいわず、その晩のうちに、呉軍のほうから積極的作戦に出てきたので、曹休の計は、それを行う前に、根本から齟齬を来してしまった。
 要するに、曹休軍をここへ引き入れたのは、呉の周魴が初めから陸遜と諜し合せていたことなので、呉はこの好餌を完全に捕捉殲滅し去るべく、疾くから圧倒的な兵力をもって包囲環を作りつつあったのである。
 すなわち、陸遜は、
「魏軍の盲動近し」と覚るや、その前夜、兵を分配して、石亭のうしろへ廻し、南北の麓にも堅陣をつらね、自身采配を振って、その正面から攻め上る態をなしたのである。
 それより少し前に、呉の朱桓は、石亭の裏山に攀じて、潜行していたが、折ふし魏の張普が附近の味方の伏兵を巡視して来るものと遭遇していた。
 張普は初め、味方の兵と思っていたらしく、夜中でもあり真暗な山腹なので、
「どこの隊だ。大将は何者だ」
 などと誰何していた。
「されば、この隊は、呉の精鋭、大将はかくいう朱桓だ」
 と、暗闇まぎれに近寄って答えるやいな、朱桓は一剣のもとに、張普を斬ってしまった。
 暗夜の奇襲戦は、この手から突然開始されたのであり、明日を待って行動を期していた魏本軍の混乱も同時に起った。
 ために、曹休も防ぐ術なく、雪崩るる味方と共に、夾道方面へ逃げ降った。
 しかし呉の備えは、この方面にも充分だったので、いわゆるお誂え向きな戦態をもってこの好餌をおおい包み、敵の首打つこと無数、投降者約一万を獲た。
 たまたま、重囲をのがれ得た魏兵も、馬、物の具を振り捨てて素裸同様なすがたとなり、辛くも主将曹休につづいていた。そして後に、
「ふしぎにも命が助かった」と、慄然としたが、実にこの危地から彼を救った者は、さきに彼の忌諱にふれて、陣後に残された賈逵であった。曹休の前途を案ずる余り、賈逵が一軍をひきいて後より駈けつけ、石亭北山に来合せたため、あやうくも曹休を救出して帰ることができたのだ。
 この一角に魏が大敗を招いたので、他の二方面にあった司馬懿軍も万寵軍も、甚だしく不利な戦態に入り、ついに三方とも引き退くのやむなきに至った。
 陸遜は、多大な鹵獲品と、数万にのぼる降人をひきつれて、建業へ還った。孫権は自身宮門まで出て、
「このたびの功や大なり。呉の柱ともいうべきである」
 と傘蓋を傾けてこれを迎え入れたという。
 わが髪を切って謀計の功をあげた周魴も、
「汝の功は、長く竹帛に記さん」
 と賞されて、のち一躍、関内侯に封ぜられた。

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