蛍の彷徨い

 何進の幕将で中軍の校尉袁紹は、何進の首を抱いて、
「おのれ」と、青鎖門を睨んだ。
 同じ何進の部下、呉匡も、
「おぼえていろ」と、怒髪を逆だて、宮門に火を放つと五百の精兵を駆って、なだれこんだ。
十常侍をみなごろしにしろ」
「宦官どもを焼きつくせ」
 華麗な宮殿は、たちまち土足の暴兵に占領された。炎と、黒煙と、悲鳴と矢うなりの旋風であった。
「汝もかっ」
「おのれもかっ」
 宦官と見た者は、見つかり次第に殺された。宮中深く棲んでいた十常侍の輩なので、兵はどれが誰だかよく分らないが、髯のない男だの、俳優のようににやけて美装している内官は、みんなそれと見なして首を刎ねたり突き殺したりした。
 十常侍趙忠や郭勝などという連中も、西宮翠花門まで逃げ転んできたが、鉄弓に射止められて、虫の息で這っているところを、ずたずたに斬りきざまれ、手足は翠花楼の大屋根にいる鴉へ投げられ、首は西苑の湖中へ跳ねとばされた。
 天日も晦く、地は燃ゆる。
 女人たちの棲む後宮の悲鳴は、雲にこだまし地底まで届くようだった。
 その中を、十常侍一派の張譲、段珪のふたりは、新帝と何太后と、新帝の弟にあたる協皇子――帝が即位してからは、陳留王といわれている――の三人を黒煙のうちから救け出して、北宮翡翠門からいち早く逃げ出す準備をしていた。
 ところへ。
 戈を引っさげ、身を鎧い、悍馬に泡を噛ませてきた一老将がある。宮門に変ありと、火の手を見るとともに馳せつけてきた中郎将盧植であった。
「待てっ毒賊。帝を擁し、太后をとって、何地へゆかんとするかっ」
 大喝して、馬上から降りるまに張譲たちは、新帝と陳留王の車馬に鞭打って逃げてしまった。
 ただ何太后だけは、盧植の手にひき留められた。
 折ふし、宮中各所の火災を、懸命に部下を指揮して消し止めていた校尉曹操に出会ったので、ふたりは、
「新帝のご帰還あるまで、しばし、大権をお執りくだされたい」
 と請い、一方諸方に兵を派して、新帝と陳留王の後を追わせた。
 洛陽の巷にも火が降っていた。兵乱は今にも全市に及ぶであろうと、家財商品を負って避難する民衆で混乱は極まっている。その中を――張譲らの馬と、新帝、皇弟を乗せた輦は、逃げまどう老父を轢き、幼子を蹴とばして、躍るが如く、城門の郊外遠くまで逃げ落ちてきた。
 けれど、輦の車輪はこわれ、張譲らの馬も傷ついたり、ぬかるみへ脚を入れたりして、みな徒歩にならなければならなかった。
「――ああ」
 帝は、時々、よろめいた。
 そして大きく嘆息された。
 かえりみれば、洛陽の空は、夜になってまだ赤かった。
「もう少しのご辛抱です」
 張譲らは、帝を離すまいとした。帝を擁することが自分らの強味だからである。
 草原の果てに、北邙山が見えた。夜は暗い。もう三更に近いであろう。すると一隊の人馬がおって来た。張譲は観念した。追手と直感したからである。
「もうだめだっ」
 無念を叫びながら、張譲は、自ら河に飛込んで自殺してしまった。帝と、帝の弟の陳留王とは、河原の草の裡へ抱き合って、しばし近づく兵馬に耳をすましておられた。

 やがて河を越えて驟雨のように馳け去って行ったのは、河南中部掾史、閔貢の兵馬であったが、なにも気づかず、またたくまに闇に消え去ってしまった。
「…………」
 しゅく、しゅく……と新帝は草むらの中で泣き声をもらした。
 皇弟陳留王は、わりあいにしっかりした声で、
「ああ飢餓をお覚えになりましたね。ごもっともです。私も、今朝から水一滴のんでいませんし、馴れない道を、夢中で歩いてきたので、身を起そうとしてもただ身がふるえるばかりです」と、慰めて――「けれど、この河原の草の中で、このまま夜を明かすこともできません。ことに、ひどい夜露、お体にもさわります。――歩けるだけ歩いてみましょう。どこか民家でもあるかもしれません」
「…………」
 帝は微かにうなずいた。
 二人は、衣の袂と袂とを結び合わせ、「迷わないように」と、闇を歩いた。
 茨か、野棗か、とげばかりが脚を刺した。帝も陳留王も生れて初めて、こうした世のあることを知ったので、生きた気もちもなかった。
「ああ、蛍が……」
 陳留王はさけんだ。
 大きな蛍の群れが、風のまにまに一かたまりになって、眼のまえをふわふわ飛んでゆく、蛍の光でも非常に心づよくなった。
 夜が明けかけた――
 もう歩けない。
 新帝はよろめいたまま起き上がらなかった。陳留王も、
「ああ」と、腰をついてしまった。
 昏々と、しばらくは何もしらなかった。誰かそのうちに起す者がある。
「どこから来た?」と、訊ねるのである。
 見まわすと、古びた荘院の土塀が近くにある。そこの主かもしれない。
「いったい、そなた達は、何人のお子か」
 と、重ねて問う。
 陳留王は、まだしっかりした声を持っていた。帝を指さして、
「先頃、ご即位されたばかりの新帝陛下です。十常侍の乱で、宮門から遁れてきたが、侍臣たちはみなちりぢりになり、ようやく、私がお供をしてこれまで来たのです」と、いった。
 主は、仰天して、
「そして、あなたは」と、眼をまろくした。
「わしは、帝の弟、陳留王という者である」
「げっ、では真の? ……」
 主は、驚きあわてた様で、帝を扶けて、荘院のうちへ迎え入れた。古びた田舎邸である。
「申しおくれました。自分儀は、先朝にお仕え申していた司徒崔烈の弟で、崔毅という者であります。十常侍の徒輩が、あまりにも賢を追い邪を容れて、目をおおうばかりな暴状に、官吏がいやになって、野に隠れていた者でございます」
 主は改めて礼をほどこした。
 その夜明け頃――
 河へ投身して死んだ張譲を見捨てて、段珪はひとり野道を逃げ惑うてきたが、途中、閔貢の隊に見つかって、天子の行方を訊かれたが、知らないと答えると、
「不忠者め」
 と、閔貢は、馬上から一颯に斬ってしまった。そしてその首を、鞍に結びつけ兵へ向って、
「なにせい、この地方に来られたに違いない」と、捜査の手分けを命じ、自身もただ一騎馳け、彼方此方と、血眼で尋ねあるいていた。

 崔毅の家をかこむ木立の空に、炊煙があがっていた。
 帝と陳留王のふたりを匿しておいた茅屋の板戸を開いて、崔毅は、
「田舎です、なにもありませんが、飢えをおしのぎ遊ばすだけと思し召して、この粥など一時召上がっていてください」と、事を捧げた。
 帝も、皇弟も、浅ましきばかりがつがつと粥をすすられた。
 崔毅は涙を催して、
「安心して、お眠りください。外はてまえが見張っておりますから」と、告げて退がった。
 荒れた傾いだ荘院の門に立ったまま、崔毅は半日も立っていた。
 すると、戛々と、馬蹄の音が木立の下を踏んでくる。
「誰か?」
 どきっとしながらも、何くわぬ顔して、箒の手をうごかしていた。
「おいおい、家の主、なにか喰う物はないか。湯なと一杯恵んでくれい」
 声に振向くと、それは馬上の閔貢であった。
 崔毅は、彼の馬の鞍に結いつけてある生々しい首級を見て、
「おやすいことです。――ですが豪傑、その首は一体、誰の首です」
 閔貢は問われると、
「知らずや、これは十常侍張譲などと共に、久しく廟堂に巣くって、天下の害をなした段珪という男だ」
「えっ、ではあなたはどなたですか」
河南の掾史閔貢という者だが、昨夜来、帝のお行方が知れないので、ほうぼうお捜し申しておるのだ」
「ああ、では!」
 崔毅は、手をあげて、奥のほうへ転んで行った。
 閔貢は怪しんで、馬をつなぎ、後から駈けて行った。
「お味方の豪傑が、お迎えにやって来ましたよ」
 崔毅の声に、藁の上で眠っていた帝と陳留王は、夢かとばかり狂喜した。そしてなお、閔貢の拝座するすがたを見ると、うれし泣きに抱き合って号泣された。

帝も帝におわさず
王また王に非ず
千乗万騎走るなる
北邙の草野、夏茫々

 ――思いあわせればこの夏の初め頃から、洛陽の童女のなかにこんな歌が流行っていた。天に口なく、無心の童歌をして、今日のことを予言していたものだろうか。
「天下一日も帝なかるべからずです。さあ、一刻も早く、都へご還幸なされませ」
 閔貢のことばに、崔毅は、自分の厩から、一匹の痩馬を曳いてきて、帝に献上した。
 閔貢は、自分の馬に、陳留王を乗せて、二騎の口輪をつかみ、門を出て、諸所へ散らかっている兵をよび集めた。
 二、三里ほど来ると、
「おお、帝はご無事でおわしたか」
 校尉袁紹が馳せ出会う。
 また、司徒王允、太尉楊彪、左軍校尉淳于瓊、右軍の趙萌、同じく後軍校尉鮑信などがめいめい数百騎をひきいて来合せ、帝にまみえて、みな哭いた。
「還御を盛んにし、洛陽の市民にも安心させん」
 と、段珪の首を、早馬で先へ送り、洛陽の市街に曝し首として、同時に、帝のご無事と還幸を布告した。
 かくて帝の御駕は、郊外の近くまでさしかかって来た。するとたちまち彼方の丘の陰から旺なる兵気馬塵が立ち昇り、一隊の旌旗、天をおおって見えたので、
「や、や?」とばかり、随身の将卒百官、みな色を失って立ちすくんだ。

「敵か?」
「そも、何人の軍ぞ」
 帝をはじめ、茫然、疑い怖れているばかりだったが、時に袁紹あって、鹵簿の前へ馬をすすめ、
「それへ来るは、何者の軍隊か。帝いま、皇城に還り給う。道をふさぐは不敬ではないか」
 と、大喝した。
 すると、
「おうっ。吾なり」
 と吠えるが如き答が、正面へきた軍の真ん中に轟き聞えた。
 千翻の旗、錦繍の幡旗、さっと隊を開いたかと見れば駿馬は龍爪を掻いて、堂々たる鞍上の一偉夫を、袁紹の前へと馳け寄せてきた。
 これなん先頃から洛陽郊外の澠池に兵馬を駐めたまま、何進が再三召し呼んでも動かなかった惑星の人――西涼の刺史董卓であった。
 董卓、字は仲穎、隴西臨洮甘粛省岷県)の生れである。身長八尺、腰の太さ十囲という。肉脂豊重、眼細く、豺智の光り針がごとく人を刺す。
 袁紹が、
「何者だっ」
 と、咎めたが、部将などは眼中にないといった態度で、
「天子はいずこに在すか」
 と、鹵簿の間近まで寄ってくる様子なのだ。帝は、戦慄されて、お答えもなし得ないし、百官も皆、怖れわななき、さすがの袁紹さえも、その容態の立派さに、呆っ気にとられて阻めもできなかった。
 すると、帝の御駕のすぐうしろから、
「ひかえろッ」
 涼やかに叱った者がある。
 凜たる音声に、董卓も思わず駒をすこし退いて、
「何。控えろと。――そういう者は誰だっ」と眼をみはった。
「おまえこそ、名をいえ」
 こういって馬を前へ出してきたのは、皇弟の陳留王であった。帝よりも年下の紅顔の少年なのである。
「……あっ。皇弟の陳留王でいらっしゃいますな」
 董卓も、気がついてあわてて、馬上で礼儀をした。
 陳留王は、あくまで頭を高く、
「そうだ。そちは誰だ」
西涼の刺史董卓です」
「その董卓が、何しに来たか。――聖駕をお迎えに参ったのか、それとも奪い取ろうという気で来たか」
「はっ……」
「いずれだ!」
「お迎えに参ったのでござる」
「お迎えに参りながら、天子のこれにましますに、下馬せぬ無礼者があるかっ、なぜ、馬をおりん!」
 身なりは小さいが、王の声は実に峻烈であった。威厳に打たれたか、董卓は二言もなく、あわてて馬からとびおりて、道のかたわらに退き、謹んで帝の車駕を拝した。
 陳留王は、それを見ると、帝に代って、
「大儀であった」
 と、董卓へ言葉を下した。
 鹵簿は難なく、洛陽へさして進んだ。心ひそかに舌を巻いたのは董卓であった。天性備わる陳留王の威風にふかく胆を奪われて、
「これは、今の帝を廃して、陳留王を御位に立てたほうが……?」
 と、いう大野望が、早くもこの時、彼の胸には芽を兆していた。

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