老将の功
一
郭淮の進言に面目をとどめた張郃は、この一戦にすべての汚名を払拭せんものと、意気も新たに、五千余騎を従えて、葭萌関に馬を進めた。
この関を守るは、蜀の孟達、霍峻の両大将であった。
張郃軍あらためて攻めきたるの報を得て、軍議を開いた。
霍峻の説は、
「天然の要害にある葭萌関を、わざわざ出でて戦うは愚である。関をたのんでよく守るが良策と思う」であった。
孟達はこれに反し、敵の来攻を待つは戦略の下である、すべからく関を出でて、即決進撃をはばむべしと称して退かなかった。
いく度かの議は凝らされた結果、ついに孟達の議をとり、蜀兵は葭萌関を出陣して、張郃の軍と戦闘を交えた。孟達もみずから張郃にいどんだが、これはさんざんに敗れてしまった。
孟達が逃げ戻ってきたのを見て、霍峻は驚き、成都に向って救いの早馬を送った。
玄徳はこれを聞き、孔明を呼んで、策を議した。
孔明は全軍の大将を集めて、
「只今、葭萌関から急使があった。一刻も早く誰か閬中に馳せ、張飛にこの旨を告げ知らせ、張飛の軍を葭萌関に回らせては如何」と口を切った。
これに対し、法正が立って、
「お説ではありますが、私の思いますに、張飛はいま瓦口関に兵をとどめ、閬中をすべて守っています。閬中はもちろん大切なところです。もし張飛を召しかえされると、必ず何か変事が起るに違いありません。閬中は只今のまま厳しく守らせ、誰かほかの大将をして葭萌関の危機を救援せしめ、張郃を防がるるが良かろうと思います」
と、説をのべた。孔明はこれを聞いて笑いを浮べ、
「張郃は張飛のため敗れたりといえ魏の名将です。尋常の男ではない。私の思うには、張飛でなくては彼と太刀打ちできるものはありますまい」
この言葉の終るか終らぬうち、激しく気色ばんだ老将の一人が立ち、声も荒々しく、
「軍師、貴殿は何ゆえあって人を芥の如く軽んじられるのか、我ら、不才とは申せ、命あらば断じて征きて戦い、張郃の首を斬って参る覚悟があります。お言葉、非常に残念です」
と、一気にいった。
一座の瞳は、思わず彼に集まった。老将は即ち、黄忠であった。
孔明は、ゆっくりとうなずき、
「あなたのお言葉、まことに勇壮です。しかしながら、あなたは年すでに老い、とても張郃の相手にはなりますまい」と、いってのけた。
黄忠は怒りに燃え、白髪さかしまに立てて、
「それがし、年老いたりとは申せ、臂力いまだ衰えは見せぬ。三本の弓一度に引き得べく、身は千斤の力をもっています。どうして老いたりと称してお用いにならぬのですか」
「いや、貴殿はすでに七十に近いのです。誰が老いていないと申せようか」
頑とした孔明の返事に、黄忠は業をにやし、つかつかと堂を下って、長刀を手にとり、これを水車の如く右に左に、上に下に、いと鮮やかに振り廻し、つづいて壁に掛けてあった強弓二張をはずし、一息にこれを折って見せた。
黄忠のこの意気を眺め、覇気をみとめて孔明は、
「よろしい、では貴殿を救援に差し向けましょう。しかし、必ず副将をつれてゆくことを命じます」
黄忠はいたく喜び、
「かたじけなし。厳顔はそれがしと共に、年老いています。共に参って、必ず敵を破り、万一あやまちあれば、老将二名、いのちに未練はありません。白髪の首を奉りましょう」
と、覚悟のほどを申しのべた。
終始、孔明と黄忠の論をうかがっていた玄徳は、老将の言葉にいたく満足して、黄忠の進発を許した。
二
玄徳の英断を、意外に思ったのは並いる諸将であった。わけても趙雲たちは面白からず思って、
「いま張郃は兵を集め、葭萌関を攻めようとしている。まことに危急の時、何を好んでこんな老人を用いられ、子供の火遊び如きをなされますか、葭萌関にもしものことがあれば、蜀中に災いを起し、またもし幸いに張郃を破った場合は、彼らは図にのって、きっと漢中を攻めとるに違いありません。危険なことです。軍師、どうか熟考なさっていただきたい」
と、縷々と述べた。孔明の考えは決まっていた。
「御身たちはみな、この二人の老人を見て軽んじているが、よろしくない。張郃を破って、漢中を取るのをこの二人の思うに任せたらよろしかろう」
孔明の言を聞いて、いうこともなく、冷笑して退散してしまった。
黄忠、厳顔の二将は、兵を率いて葭萌関に到着した。これを見た孟達、霍峻は年老いた将の救援軍を大いに笑い、
「孔明は人を見る明がない。こんな老人は、戦争に出なくとも間もなく死んでしまうものを」
と、嘲って関守の印を渡した。
黄忠、厳顔は、二人の旗を山上に立て、敵にその名を知らしめた。そして黄忠がひそかに厳顔にいうには、
「諸所での噂を聞きましたかな、いずこでも、われら二人の老年を嘲笑しておりますぞ。ひとつ力を合せて、大なる功をあげ、奴らを驚かせてくれよう」
と、誓いも堅く、兵を揃えて出馬した。
この状を見て張郃も馬を出し、黄忠の陣に向って叫んだ。
「汝、その年まで生をむさぼり、なお恥をも知らず、陣前に出て戦わんとするか、笑止、笑止!」
黄忠大いに怒り、
「汝、わが年の老いたるを笑うといえども、手の中の刃は、いまだ年をとらぬ。わが利刃を試みてから広言を吐け」と罵り返し、馬をすすめて張郃にあたった。張郃も鎗をひねって、戦うこと約二十余合、すると突如、張郃勢の背後から、厳顔の兵が小路を迂回して現れ、挟撃したため張郃勢は一度に崩れ、喊の声に追われながら、遂に八、九十里退却してしまった。
曹洪は、この度もまた張郃が敗れたと知って、いそぎ罪を糾さんと怒ったが、郭淮が、
「只今罪を問われるならば、張郃はきっと蜀の軍門に下ってしまうでしょう。かくては取り返しのつかぬこととなります。別に大将を派遣され、張郃を助け、ともに敵をふせぐことが上策と考えます」と諫めて、曹洪をして、夏侯惇の甥にあたる夏侯尚に、韓玄の弟の韓浩を副え、五千余騎を与えて、張郃援助の軍として差向けさせた。
張郃は、新手の勢を見て大いに喜び、諸将を集めて軍議を開き、
「黄忠、年老いたりといえども、思慮深く、勇気もあり、その上厳顔も必死に協力しているので、軽々しくは戦えません」
といえば、韓浩が口を開き、
「われ長沙にある折、よく黄忠が人となりに接していた。彼は、魏延と心を合せ、わが兄を殺した憎い奴、今日、ここに会うたは天の御心、必ず仇を報ぜずにはおられません」
覚悟のほどを眉間にあふれさせた。
韓浩は、夏侯尚とともに新手の兵を率い、陣を構えて敵を待った。
黄忠は毎日、あたりの地理を調査しつつあった。きょうも、地勢を調べに歩いていると、厳顔が思い出したように、
「この近くに天蕩山と申す山があります。そこは曹操が兵粮を貯えて、遠大な計をめぐらした所です。もしこの山を攻め取ったならば、魏軍は粮食補給の路を断たれ、すべて漢中にとどまることができなくなる筈です」
と申し出で、天蕩山攻略についての計を、つぶさに黄忠に語った。
三
厳顔は黄忠と攻略手段を打合せ、一軍を率いていずこかに進発して行った。
居残った黄忠は、夏侯尚の軍が寄せてきたと聞いて、陣容を整えてこれを待つと、魏の軍中より、韓浩先頭に立ち現れ、
「逆賊黄忠いずこにありや、見参!」と鎗をかまえて打ってかかった。
黄忠が刀をまわし、立ち出でれば、夏侯尚は彼が背後へ、背後へとまわらんとする。
情勢不利と見て、黄忠は折を測っては逃げ、立ち直っては戦い、また逃げして二十里あまり退がった。
彼の誘導作戦である。
夏侯尚は追いまくって、黄忠の陣を奪取した。
次の日も、同じような戦が行われて、またも二十里ほど進み、夏侯尚の意気は当るべからざるものがある。韓浩も気勢をあげ、これにつづき、先に奪いとった黄忠の陣に着くと、すぐ張郃を呼び、跡の陣屋を守るよう頼んで、なおも進もうとした。
張郃は、この二将がいい気になって前進するのが危なく思われるので、
「黄忠ほどの剛の者が、やすやすと二日にわたって負けているのは解せない。必ず彼に何かの計があるに違いない。軽々と深追いせぬ方がよろしいと思うが」
と注意したが、夏侯尚はかえって怒り、
「汝がごとき、臆病者は、敵をおそれるばかりゆえ、宕渠山の陣を破られ、数多の人馬を失い、見苦しき恥をさらすのだ。黙って、我らが武功を見物していればよろしいわい」
と、張郃の恥入って顔赧らめるを、小気味よげに見送りながら前進してしまった。
次の日も、敵は二十里退去した。
こうして、次々と敗走した形で、とうとう葭萌関に逃げ込んだまま、今度はどうしても出てこなくなった。
夏侯尚は、関前に陣を構えた。
この様子を見た孟達は、大事出来とばかり、玄徳のもとに早馬を飛ばし、黄忠が一戦ごとに負け、五ヵ所もの陣を敵に奪われたと告げた。玄徳も驚いて孔明にこの由を告げると、
「お驚きになることはありますまい。これは黄忠が驕兵の計に違いありません」
と、平然たる答えである。
しかし、趙雲らも、孔明の言を信じられず、玄徳の不安もあって、ひそかに劉封に一軍をつけて黄忠救援におもむかしめた。
劉封の兵が葭萌関に着くと聞いて、黄忠はいぶかり、
「なにゆえに、兵を伴ってここに来たか」と、問うた。
劉封は答えて、
「わが父、将軍の苦戦を知り、わたくしに援軍の命が下ったのです」
黄忠は笑って、
「これは、わしが驕兵の計じゃ。今宵の一戦に、見事敵を叩きのめすであろう。五ヵ所の陣を捨てたは、暫時敵にこれを貸し与え、つとめて兵粮などを貯えさせ、数日間の敗を一日にして取り戻さんためだ。よく見物してゆくがよい」といい、全軍に戦闘準備を命じていそがした。
その夜半。
黄忠はみずから五千余騎を従え、直ちに門を開いて攻撃の火蓋を切った。
この時、魏の軍勢は、ここ数日敵は静まりかえっていることとて、すっかり心をゆるめ、ことごとく眠っていたので、思いもかけぬ喊の声とともに、五千余騎の攻撃をくらい、武器のありかも分らず奪い合い、馬を乗り違えるなど、大混乱を起し、みじめにも黄忠の軍に踏みにじられてしまった。
夏侯尚も、韓浩も、ともに乗馬さえ見当らず、辛うじて徒歩で逃げて、一夜のうちに、せっかく取った陣のうち、三ヵ所まで奪取され、死傷の数もおびただしく生じた。
四
黄忠は、敵の遺棄していった、兵粮、兵器等を孟達に運搬を命じ、息もつかずなお猛攻を続けた。劉封は、
「配下の兵は、大変に疲れた模様に見受けられます。しばらく、ここで休息を与えられたらいかがです」と進言したが、黄忠は首を振り、
「古より、虎穴に入らずんば虎児を得ずといわれている。身を捨ててこそ、手柄も高名もあがる。息ついてはならぬ。者ども進めッ」と、みずから真ッ先に立って鼓舞した。
五千の精兵、真に飛ぶが如く、追撃に追撃である。勢いにのった鋭さは乱れ立った魏の勢のよく及ぶところではない。
一ヵ所といえど、よく支える地点もなく、ひたすらな敗走は、自軍の兵の動きにもおびえる始末で、遂に漢水の辺りまで退却のやむなきに至った。
漢水に入って、我に還った張郃は、ふと気づいて、夏侯尚、韓浩に、
「天蕩山は、味方の兵粮を貯蔵しあるところ、米倉山に続き、みなこれ漢中の軍が生命とたのむところである。万一、かの山に敵手が廻っては一大事である。漢中はたちまちにして破れるは必定だが、さて心配なことだ」と尋ねた。
夏侯尚は答えて、
「米倉山には、わが叔父の夏侯淵が大軍を率いて陣取り、定軍山に続いておりますから、少しもご心配はいらぬと思います。また、天蕩山には、わが兄の、夏侯徳が大分前からおる筈です。われわれも参って一緒になり、あすこを守ったがよかろうと思います」
と、張郃、韓浩とともに天蕩山に至り、夏侯徳に会見し、
「……黄忠、驕兵の計を用い、われを関の前におびき寄せ、勢いにのって逆襲し来り、終夜追われたため、兵粮、武具を捨ててこれまで逃げて参った」
と敗戦のさまを語れば、夏侯徳はうなずき、
「よろしい。全山に十万の兵あれば、汝これを分けて、再び押し寄せ、その陣屋を奪取したがよかろう」
といえば、張郃は案じ、
「いや、攻めてはならぬ、ただあくまでも、此処を守って、敵の行動を看視するがよろしいと思う」
その言葉の終るか終らぬうち、突如として、鼓の音響き、喊の声が遠く近く聞えだして、陣中は騒然となった。
「黄忠の軍が攻めてきたぞ」
口々に叫び合う声もする。
夏侯徳は、悠然と笑って、
「黄忠、ここに攻め寄せてくるとは兵法を知らざるも甚だしい。勢いにのった蛮勇のみ……」
張郃は誡めて、
「いや、さに非ず、必ず侮り給うな、黄忠は、智勇ともに備わった武将ですぞ」
「なんの、蜀軍は遠路を戦いつづけ、終夜軍を進めて疲労甚だしい筈である。それを、軽々しくなお進めて、この重地に攻め入るなどは、兵法を知らざるも甚だしいと思う」
張郃はなおも、
「早計に、そう決められるは如何かと思われる。必ず敵に大なる計ありと見て、この陣を固め、必ず守勢を持して、出撃せぬが良策と存ずる」と強硬な態度を示した。
韓浩には、折角のこの言葉も無駄であった。
「われに、三千余騎を与え給え、これより突きすすみ、老将が首をひっさげて帰りましょう」
と、いえば、夏侯徳は健気なりと喜んで、兵を与えた。
韓浩は武者振いして三千余騎を従え、山を下って行った。
一方、黄忠は、ひたむきに馬を進めて、止るところを知らず、日もすでに西山に没し、天蕩山の嶮は、いよいよはげしく前をはばむばかりである。劉封はこの情勢を見て、黄忠に向い、
「日もすでに暮れ落ち、軍勢の疲労もますますつのるばかりです。長追いは無用かと思いますれば、このあたりにて、一応軍を留めては如何ですか」といった。
五
劉封のいさめを、黄忠はあざ笑って云った。
「昔、哲人は時に順って動き、智者は機を見て発す。今、天われを助け、不思議の功を与え給う、受けざるは、これ天に逆らうものぞ」
まっしぐらに上り、鼓を打たせ、喊をつくって勢いをあげた。
韓浩はこれをむかえ、坂路の途中に防ぎ、みずから馬を出して黄忠に挑みかかったが、かえって黄忠の水車の如く廻す刀にかかり、一刀にして斬り伏せられた。
夏侯尚は、韓浩斬らるの報を聞いて急に兵を率いて、黄忠の軍に迫れば、山上より俄の喊の声、天地を砕くが如く聞え、陣所陣所とおぼしきところより、火の手があがった。
そのうちより一団の軍勢が討って出た。陣中にあった夏侯徳、大いに驚き、手兵に下知して消火につとめていた。これを見た厳顔は、刀をまわして討ってかかり、夏侯徳を馬より下に斬って落した。
かくするうち、諸所より上がった火焔は、みるみるうち、峰を焦し、谷に満ち、凄絶限りがなかった。
計の順調に運びたるを見て、黄忠、厳顔は心を合せ、前後より攻め立てた。張郃、夏侯尚は防ぐことができず、ことに夏侯徳、韓浩が討たれたのを見て力を失い、天蕩山を捨ててわれ先にと逃げ、定軍山に落ちて集まり、夏侯淵と一手になった。
黄忠、厳顔はこの大勝を喜び合い、成都に早速この勝報を伝えた。玄徳は早馬をうけて限りなく喜び、諸大将を招して祝勝の宴を張った。
この席上、法正は進み出て、
「昔、曹操が一鼓の進撃に張魯を破り、漢中を平定した折に、その勢いにのり、蜀を攻めることをせず、夏侯淵、張郃二人をその地にとどめて漢中を守らしめ、みずからは都に帰ったことがございます。これは、その志及ばざるに非ず、力の足らざるを知って、よくせざるのみです」
声は堂中にひびき、居並ぶ将星も彼の言葉に聴き入っている。
「……今、曹操は、都のうちにあり、内変のためみずから外征に赴くことができず、いわんや、夏侯淵、張郃の才略にては、まことに一国の将帥としては器量不足を免れませぬ。もし蜀の大軍を起し、君みずから攻め給わば、漢中を攻め取らんこと、掌を反すよりも易いかと存じます」
一座は、かすかながらこの言に動いた。
「漢中攻略の後は、兵粮を貯え、士卒の整備訓練に重点を置き、なお王室を尊んで、固く険阻を守り、曹操打倒の永遠の計をなすべきだと存じます。今日、全く天のわれらに与え給うた好機、必ず失うべからずです」と、熱した頬を振ってのべた。
玄徳は、この法正の言の真なるを感じた。
即刻、十万の兵に動員は下り、よき日を選んで出撃すべく、手配はぬかりなく指令された。
時に建安二十三年秋七月。
玄徳十万の軍は、趙雲を先手とし、葭萌関に出でて、陣を据え、使者を立てて、黄忠、厳顔を天蕩山より呼びよせ、重き恩賞を賜い、
「諸人、汝ら両名を老武者とあなどりたるも、孔明はよくその能を知り、敵軍に向わしめた。果たして世にまれなる勲功を立てたるはわが最も喜ぶところなり。漢中の定軍山はすなわち南鄭の要害、敵の兵站基地である。もしこの山を奪わば陽平の一道は、心にかかるところなし、汝らゆきて、これを攻略すべきか、如何」と問われた。
黄忠は欣然として命をうけ、早速に兵を率いて出発せんとすれば、孔明これをとどめていうに、
「ご辺はまことに勇ありといえど、所詮、夏侯淵が相手ではありますまい。彼は深く韜略に通じ、兵を用うるに卓絶し、機を見ること敏なり。曹操この故にこそ、彼を西涼の鎮守となし、今、漢中に出でしめ陣をとらしめてあるも、曹操が彼の大将の才を知れるからにほかならない。ご辺はすでに張郃に勝ちたれど夏侯淵には及ぶまい。早く荊州に帰り給え。関羽を招いて、夏侯淵と戦わすであろう」