檀渓を跳ぶ
一
蔡瑁と蔡夫人の調略は、その後もやまなかった。一度の失敗は、却ってそれをつのらせた傾きさえある。
「どうしても、玄徳を除かなければ――」と、躍起になって考えた。
けれども肝腎な劉表がそれを許さない。同じ漢室の裔ではあるし、親族にもあたる玄徳を殺したら、天下に外聞が悪いというのである。
まだ、口には出さないが、そのため、継嗣の争いや閨閥の内輪事が、世間へもれることも極力さけようと努めているらしい。総じて、彼の方針は、事勿れ主義をもって第一としていた。
蔡夫人は、良人のそうした態度にじりじりして、兄の蔡瑁に、事を急ぐことしきりだった。閨門と食客とは、いつも不和をかもすにきまったものだが、彼女が玄徳を忌み嫌うことは、実に執拗であった。
「まあ、おまかせあれ」
蔡瑁は、彼女をなだめて、しきりと機を測っていたらしかったが、或る時、劉表にまみえて、謹んで献言した。
「近年は五穀よく熟して、豊作が続いています。ことにことしの秋はよく実り、国中豊楽を唱えておりますれば、この際、各地の地頭官吏をはじめ、田吏にいたるまでを、襄陽にあつめて、慰労の猟を催し大宴を張り、もってご威勢を人民に示し、また諸官吏を賓客として、ご主君みずからねぎらい給えば荊州の富強はいよいよ万々歳と思われますが、ひとつお気晴らしに、お出ましあっては如何なもので」
劉表はすぐ顔を振った。左の髀をなでながら、顔をしかめて、
「案はいいが、わしは行かぬ。劉琦か劉琮でも代理にやろう」といった。近頃、劉表は神経痛に悩んで、夜も睡眠不足であることを、蔡瑁は夫人から聞いてよく知っている筈だった。
「困りましたな。ご嫡子方は、まだご幼年ですから、ご名代としても、賓客に対して礼を欠きましょうし……」
「では、新野におる玄徳は、同宗の裔だし、わしの外弟にもあたる者。彼を請じて、大宴の主人役とし、礼をとり行わせたらどんなものだろう」
「至極結構と存じます」
蔡瑁は、内心仕すましたりと歓んだ。早速「襄陽の会」の招待を各地へ触れるとともに、玄徳へ宛てて劉表の意なりと称し、主人役を命じた。
あれから後、玄徳は新野へ帰っても、怏々として楽しまない容子だったが、この飛状に接すると、ふたたび、
「ああ。また何かなければよいが」と、先頃の不愉快な思い出が胸に疼いてきた。
張飛は、仔細を知ると、「ご無用ご無用、そんな所へ行って、何の面白いことがあろう。断ってしまうに限る」と、無造作に止めた。
孫乾もほぼ同意見で、
「お見合わせがよいでしょう。おそらくは、蔡瑁の詐計かも知れません」と、観破してしまった。
けれど関羽、趙雲のふたりは、
「いま命にそむけば、いよいよ劉表の疑心を買うであろう。如かず、ここは眼をつぶって、軽くお役目だけを勤めてすぐお立ち帰りあるほうが無事でしょう」
と、すすめた。玄徳もまた、
「いや、わしもそう思う」
と、三百余騎の供揃いを立て、趙雲一名を側に連れて、即日、襄陽の会へ出向いて行った。
襄陽は、新野をさること遠かった。約八十里ほどくると、すでに蔡瑁以下、劉琦、劉琮の兄弟だの、また王粲、文聘、鄧義、王威などという荊州の諸大将まで、すべて旺な列伍を敷いて、玄徳を出迎えるため立ち並んでいた。
二
この日、会するもの数万にのぼった。文官軍吏の賓客、みな盛装をこらし、礼館の式場を中心に、宛として秋天の星の如く埋まった。
喨々たる奏楽裡、玄徳は国主の代理として、館中の主座に着席した。
この平和な空気に臨んで、玄徳は心にほっとしていたが、彼のうしろには、爛たる眼をくばり、大剣を佩いて、
「わが主君に、一指でも触るる者あればゆるさんぞ」
と、いわんばかりな顔して侍立している趙雲子龍があり、またその部下三百人があって、かえって、玄徳の守備のほうが、物々しげに見え過ぎていた。
式は開かれた。玄徳は、劉表に代って、国主の「豊饒を共に慶賀するの文」を読みあげた。
それから諸賓をねぎらう大宴に移って、管鼓琴絃沸くばかりな音楽のうちに、料理や酒が洪水の如く人々の華卓に饗された。
蔡瑁は、この間に、そっと席をはずして、
「君。ちょっと、顔を貸してくれぬか」と、大将蒯越に耳打ちした。
ふたりは人なき一閣を閉め切って、首を寄せていた。
「蒯越。足下も玄徳の毒にあてられるな。あれが真の君子なら世の中に悪党はない。彼は腹ぐろい梟雄だ」
「……左様かなあ?」
「まず嫡男の劉琦君をそそのかして、後日、荊州を横奪せんと企んでおるのを知らんか。彼を生かしておくのは、われわれの国の災いだと思う」
「では貴君は、今日、彼を殺さんというお心なのか」
「襄陽の会は、実にそれを謀るために催したといってもよろしい。彼を除くことのほうが、一年の豊饒を歓ぶよりも、百年の安泰を祝すべきことだと信じる」
「でも、玄徳という人物には、不思議にも隠れた人望がある。この荊州にきてからまだ日も浅いが、しきりと彼の名声は巷間に伝えられておる。――それを罪もなく殺したら、諸人の輿望を失いはすまいか」
「討ち取ってしまいさえすれば、罪は何とでも後から称えられる。すべては、この蔡瑁がご主君より任せられているのだから、ぜひ足下にも一臂の力を貸してもらわねばならん」
「主命とあれば黙止がたい。ご念までもなく、助太刀いたすが、して、貴君にはどんな用意があるのか」
「実はすでに――東の方は峴山の道を、蔡和の手勢五千余騎で塞がせ、南の外門路一帯には、蔡仲に三千騎をさずけて伏兵とさせてある。なお、北門には、蔡勲の数千騎が固めて蟻の這いでる隙もないようにしているが……ただ西の門は、一路檀渓の流れに行きあたり、舟でもなければ渡ることはできないから、ここはまず安心して、ざっと、以上の通り手配はすべてととのっておる」
「なるほど、必殺のご用意、この中に置かれては、いかな鬼神でも、遁れる術はござるまい。――けれど、貴君は主命をおうけかも知らぬが、此方には直接おいいつけないことゆえ、後日に悔いのないよう、なるべく彼を生け擒りにして、荊州へひかれたほうがよろしくはあるまいか」
「それはいずれでもよいが」
「それと、注意すべき人間は、玄徳のそばに始終立っている趙雲という大剛な武将。あれが眼を光らしているうちは、うかつに手は下せませぬぞ」
「彼奴がいては、恐らく手にあまるかも知れぬ。その儀は、自分も思案中だが」
「趙雲を離す策を先にすべきでしょう。味方の大将、文聘、王威などに、彼を歓待させて、別席の宴楽へ誘い、その間に、玄徳もまた、州衙主催の園遊会へのぞむ予定がありますから、そのほうへ連れだして討ち取れば、難なく処分ができましょう」
蒯越の同意を得、また良策を聞いて、蔡瑁は、事成就と歓んで、すぐ手筈にかかった。
三
州の主催にかかる官衙の園遊会は、要するに、知事以下の官吏や州の有力者が、この日の答礼と歓迎の意を表したものである。
玄徳は迎えられて、そこへ臨んだ。
馬を後園につながせて、定められた堂中の席につくと、知事、州吏、民間の代表者など、こもごも、拝礼を行って満堂に列坐し、さまざまに酒をすすめて玄徳をもてなした。
酒三巡の頃にいたると、かねて肚に一物のある王威と文聘は、玄徳のうしろに屹と侍立している趙雲の側へ寄って、
「いかがです、一献」と、杯をすすめ、「そう厳然と立ち通しでは大変です。今日は上下一体、和楽歓游の日で、はや公式の席はあちらで相済んだことでもありますから、足下もひとつくつろいで下さい。ひとつ別席へ参って、われわれ武骨者は武骨者同士で大いに飲りましょう」と促した。
「いや、ご辞退申す」
趙雲はにべもない。
「――折角だが断る」とのみで、どう誘っても、そこから動こうとはしない。
けれど文聘や王威が怒りもせず、あくまで根よく慫慂している様子を、玄徳は見るに見かねて、
「これこれ、趙雲」と、振向いて――
「そちはよかろうが、そちの侍立しているうちは、部下の者どもも動くことができまい。それに折角のおもてなしに対してあまり固辞するも礼を欠く。――諸君のおことばに甘え、しばし退がって休息いたすがよい」と、いった。
趙雲は、甚だぶっきら棒に、
「主命とあれば……」
是非がない! といわんばかりな顔して、文聘や王威らと共に、別館へ退がった。
部下三百の者も、同時に、自由を与えられて、おのおの遠く散らかった。
蔡瑁は、心のうちで、
「わが事成れり」と、早くも座中の空気を見廻していた。すると、大勢の中にあった伊籍が、玄徳にそっと目くばせして、
「まだご正服のままではありませんか。衣をお着かえなされては如何」と、囁いた。
意を悟って、玄徳は、厠へ立つふりをして後園に出て見ると、果たして、伊籍が先に廻って木陰に待っていた。
「今やあなたの一命は風前の燈火にも似ている。すぐお逃げなさい! 一瞬を争いますぞ」
伊籍のことばに、さてはと、玄徳も直観して、すぐ駒をといて引き寄せた。
伊籍はかさねて、
「東門、南門、北門、三方すべて殺地。ただ西の門だけには、兵をまわしてないようです」
と、教えた。
「かたじけない、後日、生命あればまた」
云いのこしたまま、玄徳は後ろも見ずに走りだした。西門の番兵が、あッとなにか呶鳴ったようだが、飛馬の蹄は、一塵のもとに彼の姿を遠くしてしまった。
鞭も折れよと、馳け跳ぶこと二里余り、道はそこで断たれていた。ただ見る檀渓(湖北省・襄陽の西、漢水の一支流)の偉観が前に横たわっている。断層をなした激流の見渡すかぎりは、白波天にみなぎり奔濤は渓潭を噛み、岸に立つや否、馬いななき衣は颯々の霧に濡れた。
玄徳は馬の平首を叩いて、
「的盧的盧。汝、今日われに祟りをなすか、またわれを救うや。――性あらば助けよ!」
と叫び、また心に天を念じながら、いきなり奔流へ馬を突っこんだ。激浪は人馬をつつみ、的盧は首をあげ首を振って濤と闘う。そしてからくも中流を突き進むや、約三丈ばかり跳んで、対岸の一石へ水けむりと共に跳び上がった。
四
玄徳も、またその乗馬も、共に身ぶるいして、満身の水を切った。
「ああ! 我生きたり」
無事、大地に立って檀渓の奔流を振返ったとき、玄徳は叫ばずにはいられなかった。そして、
「どうして越え得たろう?」と、後からの戦慄に襲われて、茫然、なおも身を疑っていた。
すると渓をへだてて、おうーいっと、誰やら呼ぶ声がする。誰かと見れば、蔡瑁であった。
蔡瑁は、玄徳が逃げたあとで、番兵から急を聞くと、すぐ悍馬を励まして追いかけてきたが、すでに玄徳の姿は対岸にあって、眼前の檀渓にただ身を寒うするばかりだった。
「劉使君。劉使君。何を怖れて、そのように逃げ走るか」
蔡瑁の呼ばわるに、玄徳も此方から高声で答えた。
「われと汝と、なんの怨恨かある。しかるに、汝はわれを害せんとする。逃ぐるは君子の訓えに従うのみ」
「やあ、何ぞこの蔡瑁が御身に害意を抱こうや。疑いを去りたまえ」
と、云いながら、ひそかに弓をとって、馬上に矢をつがえている容子らしいので、玄徳はそのまま南漳(湖北省・南漳)のほうをさして逃げ落ちて行った。
「ちえっ……みすみす彼奴を」
蔡瑁は歯ぎしりをかむだけだった。切って放った一矢も、檀渓の上を行くと、一すじの藁みたいに奔濤の霧風にもてあそばれて舞い落ちてしまうに過ぎない。
「残念。何とも無念な……」
幾度か悔やんだが、またひそかに思うには、この檀渓の嶮を、やすやすと無事に渡るなど、到底、凡人のよくなしあたう業ではない。玄徳には、おそらく神明の加護があるからだろう。神力には抗しがたし、――如かずここは引っ返して他日を待とう。そう彼は自分をなだめて、空しく道をもどった。
と――彼方から馬煙あげてこれへくる一陣の兵馬があった。見ると真っ先に趙雲子龍、あとには三百の部下が彼と共に眼のいろ変えて喘ぎ喘ぎ馳け続いてくる。
「やっ、趙雲ではないか。どこへ参られる?」
蔡瑁は、先手を打ってとぼけた。
「――何処へといって、わが主君のお姿が見えぬ。そのためこうして、八方おさがし申しておる。足下はご存じないか」
「実は自分も、それを案じて、ここまで見に参ったが、いっこう見当らん。いったい、何処へ行かれたのやら?」
「不審だ!」
「まったく不思議だ」
「いや、汝の態度をいったのだ」
「此方に何の不審があるか」
「今日、襄陽の会に、何を目的に、あんなおびただしい軍兵を、諸門に備えたか」
「此方は、荊州九軍の大将軍、また明日は、大宴に続いて、国中の武士を寄せ、狩猟を催すことになっておる。大兵はその勢子だ。何の不審があるか」
「ええ、こんな問答はしておられぬ!」
趙雲は、渓に沿って、馳け去った。部下を上流下流に分け、声も嗄れよと呼んでみたが、答えるものは奔潭の波だけだった。
いつか日は暮れた。
趙雲はかさねて襄陽の城内へ戻ってみたが、そこにも玄徳の姿は見えない。――で、彼は悄然と、夜を傷みつつ、新野の道へ帰って行った。