十常侍
一
「劉氏。もし、劉氏ではありませんか」
誰か呼びかける人があった。
その日、劉玄徳は、朱雋の官邸を訪ねることがあって、王城内の禁門の辺りを歩いていた。
振向いてみると、それは郎中張均であった。張均は今、参内するところらしく、従者に輿をかつがせそれに乗っていたが、玄徳の姿を見かけたので、
「沓を」と従者に命じて、輿から身をおろしていた。
「おう、どなたかと思うたら、張均閣下でいらっしゃいましたか」
玄徳は、敬礼をほどこした。
この人はかつて、盧植をおとしいれた黄門左豊などと共に、監軍の勅使として、征野へ巡察に来たことがある。その折、玄徳とも知って、お互いに世事を談じ、抱懐を話し合ったりしたこともある間なので、
「思いがけない所でお目にかかりましたな、ご健勝のていで、何よりに存じます」
と、久濶を叙べた。
郎中張均は、そういう玄徳の、従者も連れていない、しかも、かつて見た征衣のまま、この寒空を孤影悄然と歩いている様子をいぶかしげに打眺めて、
「貴公は今どこに何をしておられるのですか。少しお痩せになっているようにも見えるが」
と、かえって玄徳の境遇を反問した。
玄徳は、ありのままに、なにぶんにも自分には官職がないし、部下は私兵と見なされているので、凱旋の後も、外城より入るを許されず、また、忠誠の兵たちにも、この冬に向って、一枚の暖かい軍衣、一片の賞禄をもわけ与えることができないので、せめて外城の門衛に立っていても、霜をしのぐに足る暖衣と食糧とを恵まれんことを乞うために、きょう朱雋将軍の官宅まで、願書をたずさえて出向いて来たところです、と話した。
「ほ……」
張均は、驚いた顔して、
「では、足下はまだ、官職にもつかず、また、こんどの恩賞にもあずかっていないんですか」
と、重ねて糺した。
「はい、沙汰を待てとのことに、外城の門に屯しています。けれどもう冬は来るし、部下が不愍なので、お訴えに出てきたわけです」
「それは初めて知りました。皇甫嵩将軍は、功によって、益州の太守に封ぜられ、朱雋は都へ凱旋するとただちに車騎将軍となり河南の尹に封ぜられている。あの孫堅さえ内縁あって、別部司馬に叙せられたほどだ。――いかに功がないといっても、貴君の功は孫堅以下ではない。いや或る意味では、こんどの掃匪征賊の戦で、最も苦戦に当って、忠誠をあらわした軍は、貴下の義軍であったといってもよいのに」
「…………」
玄徳の面にも、鬱々たるものがあった。ただ、彼は、朝廷の命なるがままに、思うまいとしているふうだった。そして部下の不愍を身の不遇以上にあわれと思いしめて噛んでいた唇の態であった。
「いや、よろしい」
やがて張均はつよくいった。
「それも、これも、思い当ることがある。地方の騒賊を掃っても、社稷の鼠巣を掃わなかったら、四海の平安を長く保つことはできぬ。賞罰の区々不公平な点ばかりでなく、嘆くべきことが実に多い。――貴君のことについては、特に帝へ奏聞しておこう。そのうちに明朗な恩浴をこうむることもあろうから、まあ気を腐らせずに待つがよい」
郎中張均は、そう慰めて、玄徳とわかれ、やがて参内して、帝に拝謁した。
二
めずらしく帝のお側には誰もいなかった。
帝は、玉座からいわれた。
「張郎中。きょうは何か、朕に、折入って懇願あるということだから、近臣はみな遠ざけておいたぞ。気がねなく思うことを申すがよい」
張均は、階下に拝跪して、
「帝のご聡明を信じて、臣張均は今日こそ、あえて、お気に入らぬことをも申しあげなければなりません。照々として、公明な御心をもて、暫時、お聴きくださいまし」
「なんじゃ」
「ほかでもありませんが、君側の十常侍らのことについてです」
十常侍ときくと、帝のお眸はすぐ横へ向いた。
御気色がわるい――
張均には分っていたが、ここを冒して真実の言をすすめるのが忠臣の道だと信じた。
「臣が多くを申しあげないでも、ご聡明な帝には、疾くお気づきと存じますが、天下も今、ようやく平静に返ろうとして地方の乱賊も終熄したところです。この際、どうか君側の奸を掃い、ご粛正を上よりも示して、人民たちに暗天の憂えなからしめ、業に安んじ、ご徳政を謳歌するように、ご賢慮仰ぎたくぞんじまする」
「張郎中。なんできょうに限って、突然そんなことを云いだすのか」
「いや、十常侍らが政事を紊して帝の御徳を晦うし奉っている事はきょうのことではありません。私のみの憂いではありません。天下万民の怨みとするところです」
「怨み?」
「はい。たとえば、こんどの黄巾の乱でも、その賞罰には、十常侍らの私心が、いろいろ働いていると聞いています。賄賂をうけた者には、功なき者へも官禄を与え、しからざる者は、罪なくても官を貶し、いやもう、ひどい沙汰です」
帝の御気色は、いよいよ曇って見えた。けれど、帝は何もいわれなかった。
十常侍というのは、十人の内官のことだった。民間の者は、彼らを宦官と称した。君側の権をにぎり後宮にも勢力があった。
議郎張譲、議郎趙忠、議郎段珪、議郎夏輝――などという十名が中心となって、枢密に結束をつくっていた。議郎とは、参議という意味の役である。だからどんな枢密の政事にもあずかった。帝はまだお若くあられるし、そういう古池のぬしみたいな老獪と曲者がそろっているので、彼らが遂行しようと思うことは、どんな悪政でもやって通した。
霊帝はまだご若年なので、その悪弊に気づかれていても、いかんともする術をご存じない。また、張均の苦諫に感動されても、何というお答えもでなかった。ただ眼を宮中の苑へそらしておられた。
「――遊ばしませ、ご断行なさいませ。今がその時です。陛下、ひとえに、ご賢慮をお決し下さいませ」
張均は、口を酸くし、われとわが忠誠の情熱に、眦に涙をたたえて諫言した。
遂には、玉座に迫って、帝の御衣にすがって、泣訴した。帝は、当惑そうに、
「では、張郎中、朕に、どうせいというのか」と、問われた。
ここぞと、張均は、
「十常侍らを獄に下して、その首を刎ね、南郊に梟けて、諸人に罪文と共に示し給われば、人心おのずから平安となって、天下は」
云いかけた時である。
「だまれっ。――まず汝の首より先に獄門に梟けん」
と、帳の蔭から怒った声がして、それと共に十常侍十名の者が躍り出した。みな髪を逆立て、眦をあげながら、張均へ迫った。
張均は、あッと驚きのあまり昏倒してしまった。
手当されて、後に、典医から薬湯をもらったが、それを飲むと眠ったまま死んでしまった。
三
張均は、その時、そんな死に方をしなくても、帝へ忠諫したことを十常侍に聴かれていたから、必ずや、後に命を完うすることはできなかったろう。
十常侍も、以来、
「油断しておると、とんでもない忠義ぶった奴が現れるぞ」
と気がついたか、誡め合って、帝の周囲はもとより、内外の政にわたって、大いに警戒しているふうであった。
それもあるし、帝ご自身も、功ある者のうちに、恩賞にももれて不遇をかこち、不平を抑えている者がすくなくないのに気がつかれたか、特に、勲功の再調査と、第二期の恩賞の実施とを沙汰された。
張均のことがあったので、十常侍も反対せず、むしろ自分らの善政ぶりを示すように、ほんの形ばかりな辞令を交付した。
その中に、劉備玄徳の名もあった。
それによって、玄徳は、中山府(河北省・定県)の安喜県の尉という官職についた。
県尉といえば、片田舎の一警察署長といったような官職にすぎなかったが、帝命をもって叙せられたことであるから、それでも玄徳は、ふかく恩を謝して、関羽、張飛を従えて、即座に、任地へ出発した。
もちろん、一官吏となったのであるから、多くの手兵をつれてゆくことは許されないし、必要もないので五百余の手兵は、これを王城の軍府に託して、編入してもらい、ほんの二十人ばかりの者を従者として連れて行ったに過ぎなかった。
その冬は、任地でこえた。
わずか四ヵ月ばかりしか経たないうちに、彼が役についてから、県中の政治は大いに革まった。
強盗悪逆の徒は、影をひそめ、良民は徳政に服して、平和な毎日を楽しんだ。
「張飛も関羽も、自己の器量に比べては、今の小吏のするような仕事は不服だろうが、しばらくは、現在に忠実であって貰いたい。時節はあせっても求め難い」
玄徳は、時おり二人をそういって慰めた。それは彼自身を慰める言葉でもあった。
その代り、県尉の任についてからも、玄徳は、彼らを下役のようには使わなかった。共に貧しきにおり、夜も床を同じゅうして寝た。
するとやがて、河北の野に芽ぐみだした春とともに、
「天子の使いこの地に来る」
と、伝えられた。
勅使の使命は、
「このたび、黄巾の賊を平定したるに、軍功ありといつわりて、政廟の内縁などたのみ、みだりに官爵をうけ或いは、功ありと自称して、州都に私威を振舞う者多く聞え、よくよく、正邪を糺さるべし」
という詔を奉じて下向してきた者であった。
そういう沙汰が、役所へ達しられてから間もなく、この安喜県へも、督郵が下って来た。
玄徳らは、さっそく関羽、張飛などを従えて、督郵の行列を道に出迎えた。
何しろ、使いは、地方巡察の勅を奉じてきた大官であるから、玄徳たちは、地に坐して、最高の礼をとった。
すると、馬上の督郵は、
「ここか安喜県とは。ひどい田舎だな。何、県城はないのか。役所はどこだ。県尉を呼べ。今夜の旅館はどこか、案内させて、ひとまずそこで休息しよう」
と、いいながら、傲然と、そこらを見廻した。
四
勅使督郵の人もなげな傲慢さを眺めて、
「いやに役目を鼻にかけるやつだ」と、関羽、張飛は、かたはらいたく思ったが、虫を抑えて、一行の車騎に従い、県の役館へはいった。
やがて、玄徳は、衣服を正して、彼の前に、挨拶に出た。
督郵は、左右に、随員の吏を侍立させ、さながら自身が帝王のような顔して、高座に構えこんでいた。
「おまえは何だ」
知れきっているくせに、督郵は上から玄徳らを見下ろした。
「県尉玄徳です。はるばるのご下向、ご苦労にございました」
拝をほどこすと、
「ああおまえが当地の県の尉か。途々、われわれ勅使の一行が参ると、うすぎたない住民どもが、車騎に近づいたり、指さしたりなど、はなはだ猥雑な態で見物しておったが、かりそめにも、勅使を迎えるに、なんということだ。思うに平常の取締りも手ぬるいとみえる。もちっと王威を知らしめなければいかんよ」
「はい」
「旅館のほうの準備は整うておるかな」
「地方のこととて、諸事おもてなしはできませんが」
「われわれは、きれい好きで、飲食は贅沢である。田舎のことだから仕方がないが卿らが、勅使を遇するに、どういう心をもって歓待するか、その心もちを見ようと思う」
意味ありげなことをいったが、玄徳には、よく解し得なかった。けれど、帝王の命をもって下ってきた勅使であるから、真心をもって、応接した。
そして、ひとまず退がろうとすると、督郵はまた訊いた。
「尉玄徳。いったい卿は、当所の出身の者か、他県から赴任してきたのか」
「されば、自分の郷家は涿県で、家系は、中山靖王の後胤であります。久しく土民の中にひそんでいましたが、この度ようやく、黄巾の乱に小功あって、当県の尉に叙せられた者であります」
と、いうと、
「こらっ、黙れ」
督郵は、突然、高座から叱るようにどなった。
「中山靖王の後胤であるとかいったな。怪しからんことである。そもそも、このたび、帝がわれわれ臣下に命じて、各地を巡察せしめられたのは、そういう大法螺をふいたり、軍功のある者だなどといつわって、自称豪傑や、自任官職の輩が横行する由を、お聞きになられたからである。汝の如き賤しき者が、天子の宗族などといつわって、愚民に臨んでおるのは、怪しからぬ不敬である。――ただちに帝へ奏聞し奉って、追っての沙汰をいたすであろうぞ。退がれっ」
「……はっ」
「退がれ」
「…………」
玄徳は、唇をうごかしかけて、何かいわんとするふうだったが、益なしと考えたか、黙然と礼をして去った。
「いぶかしい人だ」
彼は、督郵の随員に、そっと一室で面会を求めた。
そして、何で勅使が、ご不興なのであろうかと、原因をきいてみた。
随員の下吏は、
「それや、あんた知れきっているじゃありませんか、なぜ今日、督郵閣下の前に出る時、賄賂の金帛を、自分の姿ほども積んでお見せしなかったんです。そしてわれわれ随員にも、それ相当のことを、いちはやく袖の下からすることが肝腎ですよ。何よりの歓迎というもんですな。ですからいったでしょう督郵様も、いかに遇するか心を見ておるぞよってね」
玄徳は、唖然として、私館へ帰って行った。
五
私館へ帰っても、彼は、怏々と楽しまぬ顔いろであった。
「県の土民は、みな貧しい者ばかりだ。しかも一定の税は徴収して、中央へ送らなければならぬ。その上、なんで巡察の勅使や、大勢の随員に、彼らの満足するような賄賂を贈る余裕があろう。賄賂も土民の汗あぶらから出さねばならぬに、よくほかの県吏には、そんなことができるものだ」
玄徳は、嘆息した。
次の日になっても、玄徳のほうからなんの贈り物もこないので、督郵は、
「県吏をよべ」と、他の吏人を呼びつけ、
「尉玄徳は、不埓な漢である。天子の宗族などと僭称しておるのみか、ここの百姓どもから、いろいろと怨嗟の声を耳にする。すぐ帝へ奏聞して、ご処罰を仰ぐから、汝は、県吏を代表して、訴状をしたためろ」といった。
玄徳の徳に服してこそはいるが、玄徳に何の落度も考えられない県の吏は、恐れわななくのみで、答えも知らなかった。
すると、督郵も重ねて、
「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」と、脅した。
やむなく、県の吏は、ありもしない罪状を、督郵のいうままに並べて、訴状に書いた。督郵は、それを都へ急送し、帝の沙汰を待って、玄徳を厳罰に処せんと称した。
この四、五日。
「どうも面白くねえ」
張飛は、酒ばかりのんでいた。
そう飲んでばかりいるのを、玄徳や関羽に知れると、意見されるし、また、この数日、玄徳の顔いろも、関羽の顔いろも、はなはだ憂鬱なので、彼はひとり、
「……どうも面白くねえ」をくり返して、どこで飲むのか、姿を見せず飲んでいた。
その張飛が、熟柿のような顔をして、驢に乗って歩いていた。町中の者は、県の吏人なので、驢と行きちがうと、丁寧に礼をしたが、張飛は、驢の上から落ちそうな恰好して、居眠っていた。
「やい。どこまで行く気だ」
眼をさますと、張飛は、乗っている驢にたずねた。驢は、てこてこと、軽い蹄をただ運んでいた。
「おや、なんだ?」
役所の門前をながめると、七、八十名の百姓や町の者が、土下座して、なにか喚いたり、頭を地へすりつけたりしていた。
張飛は、驢をおりて、
「みんな、どうしたんだ。おまえら、なにを役所へ泣訴しておるんだ」と、どなった。
張飛のすがたを見ると、百姓たちは、声をそろえていった。
「旦那はまだなにもご存じないんですか。勅使さまは、県の吏人に、訴状を書かせて、都へさし送ったと申しますに」
「なんの訴状をだ」
「日頃、わしらが、お慕い申している、尉の玄徳さまが、百姓いじめなさるとか、苛税をしぼり取って、私腹を肥やしなすっているとか、何でも、二十ヵ条も罪をかき並べて、都へその訴状が差廻され、お沙汰が来次第に罰せられるとうわさに聞きましたで。……わしら、百姓どもは、玄徳さまを、親のように思っているので、皆の衆と打揃うて、勅使さまへおすがりにきたところ、下吏たちに叩き出され、この通り、役所の門まで閉められてしもうたので、ぜひなくこうしているとこでござりまする」
聞くと、張飛は、毛虫のような眉をあげて、閉めきってある役館の門をはったと睨みつけた。