胡弓夫人

 張飛関羽のふたりは、殿軍となって、二千余騎を県城の外にまとめ、
「この地を去る思い出に」
 とばかり、呂布の兵を踏みやぶり、その部将の魏続、宋憲などに手痛い打撃を与えて、
「これで幾らか胸がすいた」と、先へ落ちて行った劉玄徳のあとを追い慕った。
 時は、建安元年の冬だった。
 国なくなく、痩せた馬と、うらぶれた家の子郎党をひき連れた劉玄徳は、やがて許昌の都へたどり着いた。
 曹操は、しかし決してそれに無情ではなかった。
「玄徳は、わが弟分である」
 といって、迎うるに賓客の礼をとり、語るに上座を譲ってなぐさめた。
 なお、酒宴をもうけて、張飛関羽をもねぎらった。
 玄徳は、恩を謝して、日の暮れがた相府を辞し、駅館へひきあげた。
 すると、その後ろ姿を見送りながら、曹操の腹心、荀彧は、
「玄徳はさすがに噂にたがわぬ人物ですな」と、意味ありげに、独り言をもらした。
「むむ」とうなずいたのみで曹操が黙然としていると、荀彧はその耳へ顔を寄せて、
「彼こそ将来怖るべき英雄です。今のうちに除いておかなければ、ゆく末、あなたにとっても、由々しい邪魔者となりはしませんか」と、暗に殺意を唆った。
 曹操は、何か、びくとしたように、眼をあげた。その眸は、赤い熒光を放ったように見えた。
 ところへ、郭嘉が来て、曹操からその相談をうけると、
「とんでもない事です――」といわんばかりな顔して、すぐ首を横に振った。
「彼がまだ無名のうちならとにかく、すでに今日では、義気仁愛のある人物として、劉玄徳の名は相当に知られています。もしあなたが、彼を殺したら、天下の賢才は、あなたに対する尊敬を失い、あなたの唱えてきた大義も仁政も、嘘としか聞かなくなるでしょう。――一人の劉備を怖れて、将来の患いを除くために、四海の信望を失うなどは、下の下策というもので、私は絶対に賛成できません」
「よく申した」
 曹操の頭脳は明澄である。彼の血は熱しやすく、時に、また濁りもするが、人の善言をよくうけ入れる本質を持っている。
「予もそう思う。むしろ今逆境にある彼には、恩を恵むべきである」といって、やがて朝廷に上がった日、玄徳のため、予州河南省)の牧を奏請して、直ちに任命を彼に伝えた。
 さらに。
 玄徳が、任地へおもむく時には、兵三千と糧米一万斛を贈り、
「君の前途を祝す予の寸志である」と、その行を盛んにした。
 玄徳は、かさねがさねの好意に、深く礼をのべて立ったが、別れる間際に、曹操は、
「時来れば、君の仇を、君と協力して討ちに行こう」と、ささやいた。
 勿論、曹操の胸にも、いつか誅伐の時をと誓っているのは、呂布という怪雄の存在であった。
「…………」
 玄徳は、唯々として、何事にも微笑をもってうなずきながら任地へ立った。
 ところが、曹操の計画だった呂布征伐の実現しないうちに、意外な方面から、許都の危機が伝えられだした。
 許都は今、天子の府であり、曹操は朝野の上にあって、宰相の重きをなしている。
「この花園をうかがう賊は何者なりや!」と、彼は憤然と、剣を杖として立ち、刻々、相府へ馳けこんでくる諜報員の報告を、厳しい眼で聞きとった。

 この許昌へ遷都となる以前、長安に威を振っていたもとの董相国の一門で張済という敗亡の将がある。
 先頃から董一族の残党をかりあつめて、
 王城復古
 打倒曹閥
 の旗幟をひるがえし、許都へ攻めのぼろうと企てていた一軍は、その張済の甥にあたる張繍という人物を中心としていた。
 張繍は諸州の敗残兵を一手に寄せて、追々と勢威を加え、また、謀士賈詡を参謀とし、荊州の太守劉表と軍事同盟をむすんで、宛城を根拠としていた。
「捨ておけまい」
 曹操は、進んで討とうと肚をきめた。
 けれど彼の気がかりは、徐州呂布であった。
「もし自分が張繍を攻めて、戦が長びけば、呂布は必ず、その隙に乗じて、玄徳を襲うであろう。玄徳を亡ぼした勢いを駆って、さらに許都の留守を襲撃されたらたまらない――」
 その憂いがあるので、曹操がなお出陣をためらっていると、荀彧は、
「その儀なれば、何も思案には及びますまい」と、至極、簡単にいった。
「そうかなあ。余人は恐るるに足らんが、呂布だけは目の離せない曲者と予は思うが」
「ですから、与し易しということもできましょう」
「利を喰わすか」
「そうです。慾望には目のくらむ漢ですから、この際、彼の官位を昇せ、恩賞を贈って、玄徳と和睦せよと仰っしゃってごらんなさい」
「そうか」
 曹操は、膝を打った。
 すぐ奉車都尉の王則を正式の使者として、徐州へ下し、その由を伝えると、呂布は思わぬ恩賞の沙汰に感激して、一も二もなく曹操の旨に従ってしまった。
 そこで曹操は、
「今は、後顧の憂いもない」と、大軍を催して、夏侯惇を先鋒として、宛城へ進発した。
 ※水(河南省・南陽附近)のあたり一帯に、十五万の大兵は、霞のように陣を布いた。――時、すでに春更けて建安二年の五月、柳塘の緑は嫋々と垂れ、※水の流れは温やかに、桃の花びらがいっぱい浮いていた。
 張繍は、音に聞く曹操が自らこの大軍をひきいて来たので、色を失って、参謀の賈詡に相談した。
「どうだろう、勝ち目はあるか」
「だめです。曹操が全力をあげて、攻勢に出てきては」
「では、どうしたらいいか」
「降服あるのみです」
 さすがに賈詡は目先がきいている。張繍にすすめて、一戦にも及ばぬうち降旗を立てて自身、使いとなって、曹操の陣へおもむいた。
 降服に来た使者だが、賈詡の態度ははなはだ立派であった。のみならず弁舌すずやかに、張繍のために、歩のよいように談判に努めたので、曹操は、賈詡の人品にひとかたならず惚れこんでしまった。
「どうだな、君は、張繍の所を去って、予に仕える気はないか」
「身にあまる面目ですが、張繍もよく私の言を用いてくれますから、棄てるにしのびません」
「以前は、誰に仕えていたのかね」
李傕に随身していました。しかしこれは私一代の過ちで、そのため、共に汚名を着たり、天下の憎まれ者になりましたから、なおさら、自重しております」
 宛城の内外は、戦火をまぬかれて、平和のための外交がすすめられていた。
 曹操は、宛城に入って、城中の一郭に起居していたが、或る夜のこと、張繍らと共に、酒宴に更けて、自分の寝殿に帰って来たが、ふと左右をかえりみて、「はてな? この城中に美妓がいるな。胡弓の音がするぞ」と、耳をすました。

 彼の身のまわりの役は、遠征の陣中なので、甥の曹安民が勤めていた。
「安民。おまえにも聞えるだろう。――あの胡弓の音が」
「はい、ゆうべも、夜もすがら、哀しげに弾いていたようでした」
「誰だ? いったい、あの胡弓を弾いている主は」
「妓女ではありません」
「おまえは、知っているのか」
「ひそかに、垣間見ました」
「怪しからんやつだ」
 曹操は、戯れながら、苦笑してなお訊ねた。
「美人か、醜女か」
「絶世の美人です」
 安民は、大真面目である。
「そうか、……そんな美人か……」と、曹操は、酒の香をほッと吐いて、春の夜らしい溜息をついた。
「おい。連れて来い」
「え。……誰をですか」
「知れたことを訊くな。あの胡弓を奏でている女をだ」
「……ところが、あいにくと、あの美女は、未亡人だそうです。張繍の叔父、張済が死んだので、この城へ引きとって張繍が世話をしているのだとか聞きました」
「未亡人でも構わん。おまえは口をきいたことがあるのだろう。これへ誘ってこい」
「奥郭の深園にいるお方、どうして、私などが近づけましょう。言葉を交わしたことなどありません」
「では――」と、曹操はいよいよ語気に熱をおびて、いいつけた。
「混盔の兵、五十人を率いて、曹操の命なりと告げて、中門を通り、張済の後家に、糺すことあれば、すぐ参れと、伴ってこい」
「はいっ」
 曹安民は、叔父の眼光に、嫌ともいえず、あわてて出て行ったが、しばらくすると、兵に囲ませて、一人の美人をつれて来た。
 帳外の燭は、ほのかに閣の廊に揺れていた。
 曹操は、佩剣を立てて、柄頭のうえに、両手をかさねたままじっと立っていた。
「召しつれました」
「大儀だった。おまえ達はみな退がってよろしい」
 曹安民以下、兵たちの跫音は、彼方の衛舎へ遠ざかって行く。――そして後には、悄然たるひとりの麗人の影だけがそこに取り残されていた。
「夫人、もっと前へおすすみなさい。予が曹操だ」
「…………」
 彼女は、ちらと眸をあげた。
 なんたる愁艶であろう。蘭花に似た瞼は、ふかい睫毛をふせておののきながら曹操の心を疑っている。
「怖れることはない。すこしお訊ねしたいことがある」
 曹操は、恍惚と、見まもりながら云った。
 傾国の美とは、こういう風情をいうのではあるまいか。――夫人は、うつ向いたまま歩を運んだ。
「お名まえは。姓は?」
 重ねて問うと、初めて、
「亡き張済の妻で……鄒氏といいまする」
 かすかに、彼女は答えた。
「予を、ご存じか」
「丞相のお名まえは、かねてから伺っておりますが、お目にかかるのは……」
「胡弓をお弾きになっておられたようだな。胡弓がおすきか」
「いいえ、べつに」
「では何で」
「あまりのさびしさに」
「おさびしいか。おお、秘園の孤禽は、さびしさびしと啼くか。――時に夫人、予の遠征軍が、この城をも焼かず、張繍の降参をも聞き届けたのは、いかなる心か知っておられるか」
「…………」
 曹操は、五歩ばかりずかずかと歩いて、いきなり夫人の肩に手をかけた。
「……お分りか。夫人」
 夫人は、肩をすくめて貌容を紅の光に染めた。
 曹操は、その熱い耳へ、唇をよせて、
「あなたへ恩を売るわけではないが、予の胸一つで張繍一族を亡ぼすも生かすも自由だということは、お分りだろう。……さすれば、予がなんのために、そんな寛大な処置をとったか。……夫人」
 幅広い胸のなかに、がくりと、人形のような細い頸を折って仰向いた夫人は、曹操の火のような眸に会って、麻酔にかかったようにひきつけられた。
「予の熱情を、御身はなんと思う。……淫らと思うか」
「い……いいえ」
「うれしいと思うか」
 たたみかけられて、夫人の鄒氏はわなわなふるえた。蝋涙のようなものが頬を白く流れる。――曹操は、唇をかみ、つよい眸をその面に屹とすえて、
「はっきりいえっ!」
 難攻の城を攻めるにも急激な彼は、恋愛にも持ち前の短気をあらわして武人らしく云い放った。
 すこし面倒くさくなったのである。
「おいっ、返辞をせんかっ」
 ゆすぶられた花は、露をふりこぼしてうつ向いた。そして唇のうちで、何かかすかに答えた。
 嫌とも、はいとも、曹操の耳には聞えていない。しかし曹操はその実、彼女の返辞などを気にしているのではない。
「何を泣く、涙を拭け」
 云いながら、彼は室内を大股に濶歩した。

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