建艦総力
一
魏ではこのところ、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬曹仁と謀士賈詡の病死である。いずれも大きな国家的損失であった。
「呉が蜀と同盟を結びました」
折も折、侍中辛毘からこう聞かされたとき、皇帝曹丕は、
「まちがいであろう」と、ほんとにしなかった。
しかし次々の報告はうごかすべからざる事実を彼の耳に乱打した。曹丕は怒った。
「よしっ、そう明瞭になればかえって始末がいい。峡口の進攻にぐずぐずしていたのもこのために依るか。この報復は断じて思い知らせずにはおかん」
一令、直ちに南下して、大軍一斉に呉を踏みつぶすかの形勢を生んだ。
辛毘は、諫止した。
「蜀境へ当った五路の作戦も不成功に終った今日、ふたたび征呉の軍を起さるるは、国内的におもしろくありますまい」
「腐れ儒者、兵事に口をさしはさむな。蜀呉の結ぶは何のためぞ。すなわちわが魏都を攻めるためではないか。安閑とそれを待てというのか」
逆鱗すさまじいものがある。ときに司馬仲達は、
「呉の守りは、長江を生命としています。水軍を主となして、強力な艦船を持たなければ、必勝は期し得ますまい」と、献言した。
この用意は、大いに曹丕の考えと一致するものだった。魏の水軍力はそれまでにも約二千の船と百余の艦艇があったが、さらに、数十ヵ所の造船所で、夜を日に継いで、艦船を造らせた。
特にまたこんどの建艦計画では、従来にない劃期的な大艦を造った。龍骨の長さ二十余丈、兵二千余人をのせることができる。これを龍艦と呼び、十数隻の進水を終ると、魏の黄初五年秋八月、他の艦艇三千余艘を加えて、さながら「浮かべる長城」のごとく呉へ下った。
水路は長江によらず、蔡・潁から湖北の淮水へ出て、寿春、広陵にいたり、ここに揚子江をさしはさんで呉の水軍と大江上戦を決し、直ちに対岸南徐へ、敵前上陸して、建業へ迫るという作戦の進路を選んだのであった。
一族の曹真は、このときも先鋒に当り、張遼、張郃、文聘、徐晃などの老巧な諸大将がそれを輔佐し、許褚、呂虔などは中軍護衛として、皇帝親征の傘蓋旌旗をまん中に大軍をよせていた。
呉のうけた衝動は大きい。
「かくも急に彼が襲せて来ようとは――」
と、孫権も狼狽し、群臣も色を失った。ときに顧雍は、
「この軍は、蜀呉同盟が生んだものであるから、当然、蜀は国を挙げて、呉を扶ける義務がある。孔明に告げて、すぐ蜀軍をして長安方面を衝かせ、一方、呉は南徐の要害を固めなければなりません」と、説いたが、事態はとうてい、そんな小策では、如何とも防ぎ難く思われた。
「陸遜を呼ぼう、陸遜を。――彼ならでは、良策も立つまい」
孫権は、急遽、荊州から彼を呼びもどそうとしたが、その日の議席にいた徐盛が、
「大王、大王の臣下はみな御手足と思っておるのに、何とて大王御自らの手足をさように軽んじ遊ばされますか」と、敢えて恨めしげに称えた。
徐盛は字を文嚮といい、瑯琊莒県の人、夙に武略の聞えがあった。孫権は彼のほうをながめて、
「おおそこに徐盛こそいたか。もし汝が江南の守りに身をもって当るというなら、何をか憂えんやである。建業南徐の軍馬をあずけ、汝を都督に任ずるがどうか」
と、その信念の度を窺うようにじっと正視した。
徐盛は、明答した。
「不肖徐盛にその大任を仰せつけ給わるならば、一死かならず、魏の大軍を粉砕してお目にかけます。もし成らざるときは、九族を誅して、罪を糺し給うとも、決してお恨みとは存じませぬ」
二
魏が全力をあげて来た征呉大艦隊は、すでに蔡・潁(河南省・安徽省)から淮水へ下って、その先鋒は早くも寿春(河南省・南陽)へ近づきつつあると伝えられた。そしてこの飛報の至るごとに、いまや呉の全将士は国防の一線に生死を賭けて、
「ここに勝たずんばこの国なし。この国なくして我あるなし」と、総力を結集していた。
ところが新任の国防総司令徐盛の下知に対して、事ごとに反抗的に出る困り者がひとり現われた。孫権の甥にあたる若い将軍で、孫韶字を公礼という青年だった。
この孫韶は、持論として、
「一刻もはやく、軍馬をそろえて、江北へ渡り、魏の水軍を淮南(河南・淮水の南岸)で撃破すべきだ。国防国防と騒いで、空しく敵を待っていては、いまに魏の大軍がこれへ上陸した場合、国中の人民が震動して、収拾つかない結果になろう」ということを常に主張していた。
徐盛は大反対で、
「大江を渡って戦うということが、すでに味方の大不利である。魏の先手はことごとく老巧な名将を揃えておる。何で軽々しい奇襲などに破れるものではない。――彼が勢いに乗って、江を渡り、これへ集まってきたときこそ、魏を殲滅する時だ」
と、唱えて、万端の備えを、その方針のもとにすすめていた。
すでにして魏の艨艟は淮水に押し寄せ、附近の要地はその陸兵の蹂躙に委されていると聞えた。孫韶は切歯して、
「これが坐視しておられるか」と、再三再四、徐盛に迫った。そして彼の消極戦術の非を鳴らし、もし自分に一軍をかすならば江北へ押し渡って、魏帝曹丕の首級をあげて見せる。この決死行を許してもらいたい、もし許さなければ同志を作って暗夜に脱走しても征く――などと駄々をこねた。
徐盛もしまいには堪忍袋の緒を切って、
「軍律を紊す不届き者」と、叱りつけ、武士に命じて、
「孫韶の首を斬れっ。かくの如き我儘者をさしおいては、諸将に対して、わが命令を行うことはできん!」と、断乎たる処置に出た。
武士たちは、孫韶を引いて、轅門の外へ押し出した。そして刑を行おうとしたが、何せい呉王孫権が可愛がっている甥なので、
「お前が斬れ」
「いや貴様が斬れ」
と、執刀を譲り合って、がやがやと時を過していた。
その間に誰か、呉宮へこのことを告げた者があったとみえて、愕きの余り呉王自身、馬をとばして助けにきた。
孫韶は叔父の手に救われると、この時とばかりさらに訴えた。
「私は前に広陵にいたことがありますから、あの辺の地理は手にとる如く暗誦じています。で、徐盛に私の考えをすすめ、一軍をかしてくれと頼みましたが、彼は自分の尊厳を損われたように思って、かえって私を斬罪に処そうとしました」
孫権はこの甥が好きだったので、その健気な志を大いに買って、
「うむ、うむ……。では何か、汝は敵の曹丕が大艦を連ねて長江を渡ってこないうちに、こちらから駈け向って彼を伐たんという意見を主張したのか」
「そうです。安閑と魏の大軍を待っていれば、呉は亡ぶと思いますから」
「よし、よし。徐盛はどういう考えでいるか、共に陣中へ行って問うてやる。予に従ってこい」
と、刑吏や武士も供に加えて歩み出した。
徐盛は、王を迎えて、その来訪に驚きもしたが、また色を正して、王を責めた。
「臣を封じて、大都督とし給うたのは、あなたではございませんか。今、それがしが軍紀の振粛を断行するに当って、その大王ご自身が、軍法をおやぶりになるとは何事ですか」
呉王も正しい理の前には、一言もなく、ただ孫韶の若年と、血気の勇を理由にして、
「ゆるせ。まあ、まあ、このたびだけは、ゆるしてやってくれ」
と、くり返すのみだった。