火星と金星
一
曹操は、さらにこう奏上して、帝に誓った。
「生を国土にうけ、生を国恩に報ぜんとは、臣が日頃から抱いていた志です。今日、選ばれて、殿階の下に召され、大命を拝受するとは、本望これに越したことはありません。――不肖、旗下の精兵二十万、みな臣の志を体している忠良でありますから、なにとぞ、聖慮を安んぜられ、期して万代泰平の昭日をお待ちくださいますように」
彼の退出は、万歳万歳の声につつまれ、皇居宮院も、久ぶりに明朗になった。
――けれど一方、大きな違算に行き当って、進退に迷っていたのは、今は明らかに賊軍と呼ばれている李傕、郭汜の陣営だった。
「なに、曹操とて、大したことはあるまい。それに遠路を急ぎに急いで来たので、人馬は疲れているにちがいない」
二人とも、意見はこう一致して、ひどく戦に焦心っていたが、謀将の賈詡がひとり諫めて承知しないのである。
「いや、彼を甘く見てはいけません。なんといっても曹操は当代では異色ある驍将です。ことに以前とちがって、彼の下には近ごろ有数な文官や武将が集まっています。――如かず、逆を捨て、順に従って、ここは盔を脱いで降人に出るしかありますまい。もし彼に当って戦いなどしたら、あまりにも己を知らな過ぎる者と、後世まで笑いをのこしましょう」
正言は苦い。
李傕も、郭汜も、
「降服をすすめるのか。戦の前に、不吉なことば。あまつさえ、己を知らんなどとは、慮外な奴」
斬ってしまえと陣外へ突きだしたが、賈詡の同僚が憐れんで懸命に命乞いをしたので、
「命だけは助けておくが、以後、無礼な口を開くとゆるさんぞ」
と、幕中に投げこんで謹慎を命じた。――が、賈詡はその夜、幕を噛み破って、どこかへ逃亡してそのまま行方をくらましてしまった。
翌朝。――賊軍は両将の意思どおり前進を開始して、曹操の軍勢へひた押しに当って行った。
李傕の甥に、李暹、李別という者がある。剛腕をもって常に誇っている男だ。この二人が駒をならべて、曹操の前衛をまず蹴ちらした。
「許褚、許褚っ」
曹操は中軍にあって、
「行け、見えるか、あの敵だぞ」と、指さした。
「はっ」と、許褚は、飼い主の拳を離れた鷹のように馬煙をたてて翔け向った。そして目ざした敵へ寄るかと見るまに、李暹を一刀のもとに斬り落し、李別が驚いて逃げ奔るのを、
「待てっ」
と、うしろから追いつかみ、その首をふッつとねじ切って静々と駒を返して来るのだった。
その剛胆と沈着な姿に、眼のあたりにいた敵も彼を追わなかった。許褚は、曹操の前に二つの首を並べ
「これでしたか」と、庭前の落柿でも拾って来たような顔をして云った。
曹操は、許褚の背を叩いて、
「これだこれだ。そちはまさに当世の樊噲だ。樊噲の化身を見るようだ」
と、賞めたたえた。
許褚は、元来、田夫から身を起して間もない人物なので、あまりの晴れがましさに、
「そ、そんなでも、ありません」と、顔を赭くしながら諸将の間へかくれこんだ。
その容子がおかしかったか、曹操は、今たけなわの戦もよそに、
「あははは、可愛い奴じゃ。ははは」と、哄笑していた。
そういう光景を見ていると、諸将は皆、自分も生涯に一度は、曹操の手で背中を叩かれてみたいという気持を起した。
二
戦の結果は、当然、曹操軍の大勝に帰した。
李傕、郭汜の徒は、到底、彼の敵ではなかった。乱れに乱れ、討たれに討たれ、網をもれた魚か、家を失った犬のごとく、茫々と追われて西の方へ逃げ去った。
曹操の英名は、同時に、四方へ鳴りひびいた。
彼は、賊軍退治を終ると、討ち取った首を辻々に梟けさせ、令を発して民を安め、軍は規律を厳にして、城外に屯剳した。
「――何のことはない。これじゃあ彼の為にわれわれは踏み台となったようなものではないか」
楊奉は、日に増して曹操の勢いが旺になって来たのを見て、或る折、韓暹に胸の不平をもらした。
韓暹は、今こそ禁門に仕えているが、元来、李楽などと共に、緑林に党を結んでいた賊将の上がりなので、たちまち性根を現して、
「貴公も、そう思うか」と、曹操に対して、同じ嫉視の思いを、口汚く云いだした。
「今日まで、帝をご守護して来たおれたちの莫大な忠勤と苦労も、こうして曹操が羽振りをきかしだすと、どうなるか知れたものじゃない。――曹操は必ず、自分たち一族の勲功を第一にして、おれたちの存在などは認めないかも知れぬ」
「いや、認めまいよ」
楊奉は、韓暹に、なにやら耳打ちして、顔色をうかがった。
「ウム……ムム。……やろう!」
韓暹は眼をかがやかした。それから四、五日ほど、何か二人で密々策動していたようだったが、一夜忽然と、宮門の兵をあらかた誘い出して、どこかへ移動してしまった。
宮廷では驚いて、その所在をさがすと、前に逃散した賊兵を追いかけて行くと称しながら、楊奉、韓暹の二人が引率して大梁(河南省)の方面へさして行ったということがやっと分った。
「曹操に諮った上で」
帝は朝官たちの評議に先だって、ひとりの侍臣を勅使として、彼の陣へつかわされた。
勅使は、聖旨を体して、曹操の営所へおもむいた。
曹操は、勅使と聞いて、うやうやしく出迎え、礼を終って、ふとその人を見ると、何ともいえない気に打たれた。
「…………」
人品の床しさ。
人格の気高い光――にである。
「これは?」と、彼はその人間を熟視して、恍惚、われを忘れてしまった。
世相の悪いせいか、近年は実に人間の品が下落している。連年の飢饉、人心の荒廃など、自然人々の顔にも反映して、どの顔を見ても、眼はとがり、耳は薄く、唇は腐色を呈し、皮膚は艶やかでない。
或る者は、豺の如く、或る者は魚の骨に人皮を着せた如く、また或る者は鴉に似ている。それが今の人間の顔だった。
「――しかるに、この人は」と、曹操は見とれたのである。
眉目は清秀で、唇は丹く、皮膚は白皙でありながら萎びた日陰の美しさではない。どこやらに清雅縹渺として、心根のすずやかなものが香うのである。
「これこそ、佳い人品というものであろう。久しぶりに人らしい人を見た」
曹操は、心のうちに呟きながら、いとも小憎く思った。
いや、怖ろしく思った。
彼のすずやかな眼光は、自分の胸の底まで見透している気がしたからである。――こういう人間が、自分の味方以外にいることは、たとえ敵でなくとも、妨げとなるような気がしてならなかった。
「……時に。ご辺は一体、どういうわけで、今日の勅使に選ばれてお越しあったか。ご生国は、何処でおわすか」
やがて席をかえてから、曹操はそれとなく訊ねてみた。
三
「お尋ねにあずかって恥じ入ります」と、勅使董昭は、言葉少なに、曹操へ答えた。
「三十年があいだ、いたずらに恩禄をいただくのみで、なんの功もない人間です」
「今の官職は」
「正議郎を勤めております」
「お故郷は」
「済陰定陶(山東省)の生れで董昭字は公仁と申します」
「ホ、やはり山東の産か」
「以前は、袁紹の従事として仕えていましたが、天子のご還幸を聞いて、洛陽へ馳せのぼり、菲才をもって、朝に出仕いたしております」
「いや、不躾なことを、つい根掘り葉掘り。おゆるしあれ」
曹操は、酒宴をもうけ、その席へ、荀彧を呼んで、ともに時局を談じていた。
ところへ。――昨夜来、朝廷の親衛軍と称する兵が関外から地方へさして、続々と南下して行くという報告が入った。
曹操は聞くと、
「何者が勝手に禁門の兵をほかへ移動させたか。すぐその指揮者を生擒って来い」
と、兵をやろうとした。
董昭は、止めて、
「それは不平組の楊奉と、白波帥の山賊あがりの韓暹と、二人がしめし合わせて、大梁へ落ちて行ったものです。――将軍の威望をそねむ鼠輩の盲動。何ほどのことをしでかしましょうや。お心を労やすまでのことはありますまい」と、いった。
「しかし、李傕や郭汜の徒も、地方に落ちておるが」
曹操が、重ねていうと、董昭はほほ笑んで、
「それも憂えるには足りません。一幹の梢を振い落された片々の枯葉、機をみて掃き寄せ、一炬の火として焚いてしまえばよろしいかと思います。――それよりも、将軍のなすべき急務はほかにありましょう」
「ヤヤ、それこそ、予が訊きたいと希うことだ。乞う、忠言を聞かせ給え」
「将軍の大功は天子もみそなわし、庶民もよく知るところですが、朝廟の旧殻には、依然、伝統や閥や官僚の小心なる者が、おのおの異った眼、異った心で将軍を注視しています。それに、洛陽の地も、政をあらためるに適しません。よろしく天子の府を許昌(河南省・許州)へお遷しあって、すべての部門に溌剌たる革新を断行なさるべきではないかと考えられます」
耳を傾けていた曹操は、
「近頃含蓄のある教えを承った。この後も、何かと指示を与えられよ。曹操も業を遂げたあかつきには必ず厚くお酬いするであろう」と、その日は別れた。
その夜また、客があって、曹操にこういう言をなす者があると告げた。
「このほど、侍中太史令の王立という者が、天文を観るに、昨年から太白星が天の河をつらぬき、熒星の運行もそれへ向って、両星が出合おうとしている。かくの如きは千年に一度か二度の現象で、金火の両星が交会すれば、きっと新しい天子が出現するといわれている。――思うに大漢の帝系もまさに終らんとする気運ではあるまいか。そして新しい天子が晋魏の地方に興る兆しではあるまいか。――と王立は、そんな予言をしておりました」
曹操は黙って、客のことばを聞いていたが、客が帰ると、荀彧をつれて、楼へ上って行った。
「荀彧。こう天を眺めていても、わしに天文は分らんが、さっきの客のはなしは、どういうものだろう」
「天の声かも知れません。漢室は元来、火性の家です。あなたは土命です。許昌の方位は、まさに土性の地ですから、許昌を都としたら、曹家は隆々と栄えるにちがいありません」
「む、そうか。……荀彧。王立という者へ早速使いをやって、天文の説は、人にいうなと、口止めしておけ。よろしいか」
四
迷信とは思わない。
哲学であり、また、人生科学の追求なのである。すくなくも、その時代の知識層から庶民に至るまでが、天文の暦数や易経の五行説に対しては、そう信じていたものである。
――崇高な運命学の定説として彼らの運命観のなかには、星の運行があり、月蝕があり、天変地異があり、易経の暗示があり、またそれを普遍する予言者の声にも自ら多大な関心をはらう習性があった。
この渺々とした黄土の大陸にあっては、漢室の天子といい、曹操といい、袁紹といい、董卓といい、呂布といい、劉玄徳といい、また孫堅その他の英傑といい、一面みな弱いはかない「我れ」なることを知っていた。――広茫無限な大自然の偉力に対して、さしもの英傑豪雄の徒も人間の小ささを、父祖代々生れながらに、知りぬいていた。
例えば。
黄河や大江の氾濫にも。
いなごの飢饉にも。
蒙古からふく黄色い風にも。
大雨、大雪、暴風、そのほかあらゆる自然の力に対しては、どうする術も知らない文化の中の英雄たり豪傑だった。
だから、その恐れを除いては、彼らは黄土の大陸の上に、人智人力の及ぶかぎりな建設もしたり、またたちまち破壊し去ったり情痴と飽慾をし尽したり、自解して腐敗を曝したり、戦ったり、和したり、歓楽に驕ったり、惨たる憂き目にただよったり――一律の秩序あるごとくまた、まったく無秩序な自由の野民の如く――実に古い歴史のながれの中に治乱興亡の人間生態図を描いてきているのであるが、そういう長い経験の下に、自然、根づよく恐れ信じられてきたものは、ただ――人間は運命の下にある。
ということだった。
運命は、人智では分らないが、天は知っている。自然は予言する。
天文や易理は、それが為に、最高な学問だった。いやすべての学問――たとえば政治、兵法、倫理までが、陰陽の二元と、天文地象の学理を基本としていた。
曹操は、謹んで、天子へ奏した。
「――臣、ふかく思いますに、洛陽の地は、かくの如く廃墟と化し、その復興とて容易ではありません。それに将来、文化の興隆という上から観ても、交通運輸に不便で、地象悪く、民心もまた、この土を去って再びこの土を想い慕っておりません」
曹操はなお、ことばを続け、
「それに較べると、河南の許昌は、地味豊饒です。物資は豊富です。民情も荒んでいません。もっといいことには、かの地には城郭も宮殿も備わっています。――ゆえに、都をかの地へお遷しあるように望みます。――すでに、遷都の儀仗、御車も万端、準備はととのっておりますから」
「…………」
帝はうなずかれたのみである。
群臣は、唖然としたが、誰も異議は云いたてない。曹操が恐いのである。また、曹操の奏請も、手際がいい。
ふたたび遷都が決行された。
警固、儀伎の大列が、天子を護って、洛陽を発し、数十里ほど先の丘にかかった時であった。
漠々の人馬一陣、
「待てッ。曹操っ」
「天子を盗んで何処へ行く……」
と、呼ばわり、呼ばわり、猛襲して来た。
楊奉、韓暹の兵だった。中にも楊奉の臣、徐晃は、
「木ッぱ武者に、用はない。曹操に見参……」
と、大斧をひっさげて、馬に泡をかませて向って来た。
「やあ、許褚許褚。――あの餌は汝にくれる。討ち取って来い」
曹操が、身をかわして命じると許褚は、その側から鷲のごとく立って、徐晃の馬へ自分の馬をぶつけて行った。
五
徐晃も絶倫の勇。
許褚もまた「当代の樊噲」とゆるされた万夫不当である。
「好敵手。いで!」と、槍を舞わして、許褚が挑めば徐晃も、大斧をふるって、
「願うところの敵、中途にて背後を見せるな」と、豪語を放った。
両雄は、人まぜもせず、五十余合まで戦った。馬は馬体を濡れ紙のように汗でしとどにしても、ふたりは戦い疲れた風もなかった。
「――いずれが勝つか?」
しばしが程は、両軍ともにひそまり返って見てしまった。すばらしい生命力と生命力の相搏つ相は魔王と獣王の咆哮し合うにも似ていた。またそれはこの世のどんな生物の美しさも語るに足りない壮絶なる「美」でもあった。
はるかに、見まもっていた曹操は、なに思ったか突然、
「鼓手っ、銅鑼を打て」と、命じた。
口せわしくまた、「退き銅鑼だぞ」と、追い足した。
「はっ」と、鼓手は揃って、退け――! の銅鑼を打ち鳴らした。
何事が降って湧いたかと、全軍は陣を返し、もちろん、許褚も敵を捨てて帰って来た。
曹操は、許褚を始め、幕僚を集めて云った。
「諸君は不審に思ったろうが、にわかに銅鑼を鳴らしたのは、実は、徐晃という人間を殺すにしのびなくなったからだ。――われ今日、徐晃を見るに、真に稀世の勇士だ、大方の大将としても立派なものだ。敵とはいえ、可惜、ああいう英材をこんな無用の合戦に死なせるのは悲しむべきことだ。――わが願うところは、彼を招いて、味方にしたいのだが、誰か徐晃を説いて、降参させる者はないか」
すると、一名、
「私に仰せつけ下さい」
と、進んでその任に当ろうという者が現れた。山陽の人、満寵字を伯寧という者だ。
「満寵か。――よかろう。そちに命じる」
曹操はゆるした。
満寵はその夜、ひとり敵地へまぎれ入り、徐晃の陣をそっとうかがった。
木の間洩る月光の下に、徐晃は甲もとかず、帳を展べて坐っていた。
「……誰だっ。それへ来て、うかがっている者は」
「はっ……。お久しぶりでした。徐晃どの、おつつがもなく」
「オオ。満寵ではないか。――どうしてこれへ来たか」
「旧交を思い出して、そぞろお懐かしさの余りに」
「この陣中、敵味方と分れた以上は、旧友とて」
「あいや。それ故にこそ、特に私が選ばれて、大将曹操から密々にお旨をうけて忍んで来たわけです」
「えっ、曹操から?」
「きょうの合戦に、曹操第一の許褚を向うに廻して、あなたの目ざましい働きぶりを見られ、曹将軍には、心からあなたを惜しんで、にわかに、退け銅鑼を打たせたものです」
「ああ……そうだったか」
「なぜ、御身ほどな勇士が楊奉の如き、暗愚な人物を、主と仰いでおられるのか、人生は百年に足らず、汚名は千載を待つも取返しはつきませんぞ。良禽は木を選んで棲むというのに」
「いやいや、自分とても、楊奉の無能は知っているが、主従の宿縁今さらどうしようもない」
「ないことはありません」
満寵はすり寄って、彼の耳に何かささやいた。徐晃は、嘆息して、
「――曹将軍の英邁はかねて知っているが、さりとて、一日でも主とたのんだ人を首として、降服して出る気にはなれん」
と、顔を横に振った。