武祖
一
曹操の死は天下の春を一時寂闇にした。ひとり魏一国だけでなく、蜀、呉の人々の胸へも云わず語らず、人間は遂に誰であろうとまぬがれ難い天命の下にあることを、今さらのように深く内省させた。
「故人となって見れば彼の偉大さがなお分る」
「彼の如き人物はやはり百年に一度も出まい、千年に一人もどうだか」
「短所も多かったが、長所も多い。もし曹操が現れなかったら、歴史はこうなって来なかったろう。何しても有史以来の風雲児だった。華やかなる奸雄だった。彼逝いて寂寥なき能わずじゃ」
ここしばらくの間というもの、洛陽の市人は、寄るとさわると、操の死を悼み、操の逸話を語り、操の人物を評し、何かにつけて、その生前を偲び合っていた。
われは漢の相国曹参の末裔たり。――とは、曹操みずからの称えていたことだが、事実はだいぶ違うようである。
彼の養祖父の曹騰は、漢朝の中常侍であるから、いわゆる宦官であり、宦官なるが故に、当然、子はなかった。――で、彼の父の嵩は他家から養子にきた者だし、いずれにしても余り良い家柄ではなかったらしい。
袁紹と戦ったとき、袁紹のために檄文を作った陳琳が、その文中に操をさして、
=姦奄の遺醜。
と、彼の痛いところを突いているのでも分る。
少年から笈を負うて、洛陽に遊学し、大学を出てからも、放蕩任侠、後にやっと、宮門の警吏になって、久しく薄給で、虱のわいているような一張羅の官服で、大言ばかり吐いていたのだから、誰も相手にする者がなかったのは無理もない。その時代に、彼を一見した子将が、
「君は、治世の能臣、乱世の奸雄だよ」
と、一言で喝破したのは、たしかに操の性格と生涯を云いあてた名言であった。当時、操もまた、子将のその評に対して、
「それは本懐です」と、答えて去ったというから、薄給弱冠の一小吏の胸には、すでにその頃から天下の乱雲を仰いで、独りかたく期していたものがあったことは疑いもない。
彼の風采や趣向について、古書の記述を綜合してみると、玄徳の如く肥満してもいないし、孫権の如く胴長で脚の短い躯つきでもなかった。痩せ型で背が高く、これを「曹瞞伝」の描くところに従っていえば、
――佻易ニシテ威ナク、音楽ヲ好ミ、倡優、側に在リ、被服軽絹、常ニ手巾細物ヲ入レタル小嚢ヲ懸ケ、人ト語ルニハ戯弄多ク、歓ンデ大笑スルトキハ、頭ヲ几ニ没スルマデニ至リ、膳ノ肴ヲ吹キ飛バスガ如キ態ヲナス。
およそ彼の日常はこれで想像できるし、また彼が痩せッぽちであった証拠には、「英雄伝」の所載に、呂布が捕われて操の前へひかれて来たとき呂布が、
「公。何ぞ痩せたる」
と、揶揄したのに対して、操が言下に、
「靖乱反正。わが痩は、すなわち国事の為なり」
と、むしろ痩を誇っているような答えをなしているのでも分る。
夜は経書を読み、朝には詩を詠んだ。わけて群書を博覧し、郷党のために学業の精舎を建て、府内には大文庫を設け、また古今の兵書を蒐蔵し、自分でも著すなど、彼は、決して、武のみの人ではなかった。
ただ彼のために惜しむものは、彼の奸雄的性格が、晩年にいたって、忠良の臣の善言に耳もかさず、ついに魏王を僭称し、さらに、漢朝の帝位をもうかがうまでに増長したことにある。彼が若年から戦うごとに世の群雄へ臨む秘訣としていた「尊朝救民」の大旆は、為にまったく自己が覇権を握るための嘘言に過ぎなかったことを、その肝腎な晩節の時へきてみずから暴露していることだった。――英雄も老ゆればまた愚にかえるか、と長嘆直言した良臣も、いまは多く九泉の下へ去っている。
かくて魏は、次の若い曹丕の世代に入った。曹丕は父の死の時、鄴都の城にいた。そしてやがて洛陽を出た喪の大列をここに迎えるの日、彼は哀号をあげて、それを城外の門に拝した。
二
曹丕は、曹家の長男である。
いま鄴都の魏王宮に、父の柩を迎えた彼は、そもそもどんな当惑と悲嘆を抱いたろう。余りに偉大な父をもち、余りに巨きな遺業を残された子は、骨肉の悲しみと共に、一時は為す術も知らなかったであろう。
――魏宮ノ上、雲ハ憂イニ閉ジ、殿裡ノ香煙、朝ヲ告ゲズ、日モ夜モ祭ヲナシテ、哭ク声タダ大イニ震ウ
とある古書の記述もあながち誇張ではなかったに違いない。
時に、侍側の司馬孚は、
「太子には、いたずらに悲しみ沈んでおられる時ではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君を励まして、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮め給わぬか」
と、さも腑甲斐なき人々よと云わんばかりにたしなめた。
重臣たちはそれに答えた。
「さようなことは、ご注意がなくても分っておるが、何よりも、魏王の御位へ太子を冊き立て奉ることが先でなければならぬ。けれど如何せん、未だにそれを許すとの勅命が朝廷からくだっていない」
すると兵部尚書陳矯がまたすすみ出て、やにわに声を荒らげ、
「やあ、いつもながら重臣方の優柔不断、聞くも歯がゆい仰せではある。国に一日の主なきもゆるさず。いま魏王薨ぜられ、太子御柩のかたわらに在り、たとえ勅命おそくとも、直ちに太子を上せて王位へ即け奉るに、誰かこれに従わぬ者があろうや。――もしまた、それを不可とし、阻め奉らん意志を抱く者があるなら、すすんでわが前にその名を名乗り給え」
と、剣を払って、睨めまわした。
重臣たちは、みな愕きの眼をすえて、二言と説を吐く者もなかった。
ところへ、故曹操の股肱の一人たる華歆が、許昌から早馬をとばしてきた。華歆来れりという取次ぎに、諸人はみな色を変じて、
「何事が勃発したのか」と、さらに固唾をのみ合っていた。
華歆はこれへ来ると、まず先君の霊壇に額ずき、太子曹丕に、百拝を終ってから、満堂の諸臣を見まわして、
「魏王の薨去が伝わって、全土の民は、天日を失ったごとく、震動哀哭、職も手につかない心地である。御身ら、多年高禄を喰みながら、今日この時、無為茫然、いったい何をまごまごしておられるのか。なぜ一日も早く太子を立てて新しき政綱を掲げ、天下に魏の不壊を示さないのか」
と、罵った。
諸人はまた口を揃えて、すでにその事は議しているが、まだ漢朝から何らのご沙汰がくだらないので、さしひかえているところであると陳弁した。
すると華歆はあざ笑って、
「漢の朝廷には今、そんな才覚のある朝臣もいないし、第一政事をなす機能すらすでに許都にはなくなっているのに、手をつかねて、勅命のくだるのを待っていたとて、いつのことになるか知れたものではない。故に、自分は直接、漢朝へ迫って、天子に奏し、ここに勅命をいただいて来た」
と、華歆は懐中から詔書を取り出して、一同に示したうえ、
「謹んで聴かれよ」
と、声高らかに読みあげた。
詔書の文は魏王曹操の大功を頒し、嗣子曹丕に対して、父の王位を即ぐことを命ぜられたもので――建安二十五年春二月詔すと明らかにむすんである。
重臣始め、諸人はみな眉をひらいて歓んだ。もとよりこれは漢帝のご本意でなかったこと勿論であろうが、その空気を察して、この際大いに魏へ私威を植えておこうとする華歆が、許都の朝廷へ迫ってむりに強請してきたものなのである。
が、名分はできた。形式はととのった。
曹丕はここに、魏王の位に即き、百官の拝賀をうけ、同時に、天下へその由を宣示した。
時に、一騎の早馬は、
(鄢陵侯曹彰の君。みずから十万の軍勢をしたがえ長安よりこれへ来給う)
という報をもたらした。曹丕は、大いに疑って、
「なに。弟が?」
と、会わないうちからひどく惧れた。曹彰は操の次男で、兄弟中では武剛第一の男である。察するに、王位を争わんためではないかと、曹丕は邪推して兢々と対策を考え始めた。
三
曹家には四人の実子があった。
生前曹操が最も可愛がっていたのは、三男の曹植であったが、植は華奢でまた余りに文化人的な繊細さを持ち過ぎているので、愛しはしても、
(わがあとを継ぐ質ではない)
と、夙に観ていた。
四男の曹熊は多病だし、次男の曹彰は勇猛だが経世の才に乏しい。で、彼が後事を託するに足るとしていたのは、やはり長男の曹丕でしかなかった。曹丕は親の目から見ても、篤厚にして恭謙、多少、俗にいう総領の甚六的なところもあるが、まず輔弼の任に良臣さえ得れば、曹家の将来は隆々たるものがあろうと、重臣たちにもその旨は遺言されてあった。
けれど王位継承のことは、兄弟同士の仲でもかねて無言のうちに自分を擬していた空気があるし、ことに遺子おのおのに付いている傅役の側臣中には歴然たる暗闘もあったことなので、今、兄弟中でも最も気の荒い曹彰が十万の兵をひいて長安から来たと聞いては、曹丕も安からぬ気がしたに違いなかった。
「お案じ遊ばすな。あの方のご気質はてまえがよく呑みこんでいます。まず私が参って、ご本心を糺してみましょう」
そういって、彼をなぐさめた諫議大夫の賈逵は、急いで魏城の門外へ出て行った。そして、曹彰を出迎えると、曹彰は彼を見るとすぐ云った。
「先君の印璽や綬はどこへやったかね?」
賈逵は色を正して答えた。
「家に長子あり、国に儲君あり、亡君の印綬はおのずから在るべき所に在りましょう。あえて、あなたがご詮議になる理由はいったいどういうお心なのですか」
曹彰は黙ってしまった。
進んで、宮門へかかると、賈逵はそこでまた釘をさした。
「今日、あなたがこれへ参られたのは、父君の喪に服さんためですか、それとも王位を争わんためですか。さらに、忠孝の人たらんと思し召すか、大逆の子にならんとお思い遊ばすか」
曹彰は勃然と云った。
「なんでおれに異心などあるものか。これへ来たのは父の喪を発せんためだ」
「それなら十万人の兵隊をつれてお入りになることはありますまい。すべて、この所から退けて下さい」
かくて曹彰はただ一人になって宮門に入り、兄の曹丕に対面すると、共に手をとって、父の死を愁みかなしんだ。
曹丕が魏王の位をついだ日から改元して、建安二十五年は、同年の春から延康元年とよぶことになった。
華歆は功によって相国となり、賈詡は大尉に封ぜられ、王朗は御史大夫に昇進した。
そのほか大小の官僚武人すべてに褒賞の沙汰があり、故曹操の大葬終るの日、高陵の墳墓には特使が立って、
――以後、諡して、武祖と号し奉る。
という報告祭を営んだ。
さて。葬祭の万端も終ってから、相国の華歆は、一日、曹丕の前へ出て云った。
「ご舎弟の彰君には、さきに連れてきた十万の軍馬をことごとく魏城に附与して、すでに長安へお立ち帰りなされましたから、かの君にはまず疑いはありませんが、三男曹植の君と、四男の曹熊君には、父君の喪にも会し給わず、いまだに即位のご祝辞もありません。故に、令旨を下して、その罪をお責めになる必要がありましょう。不問に附しておくべきではありません」
曹丕はその言葉に従って、すぐ令旨を発し、二人の弟へ、おのおの使いを派して、その罪を鳴らした。
曹熊の所へ赴いた使者は、帰ってくると、涙をながして告げた。
「常々、ご病身でもあったせいでしょうが、問罪の状をお渡しすると、その夜、自らお頸を縊って、あわれ自害してお果て遊ばしました」
曹丕はひどく後悔したが、事及ばず、篤く葬らせた。そのうちに、三男の曹植のもとへ赴いた使者も帰ってきたが、この使いの報告は、前のとは反対に、いたく曹丕を憤らせた。