改元
一
魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。
また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。
沿道の官民は、道を掃いて儀仗の列にひれ伏した。わけて郷里の譙県では、道ばたに出て酒を献じ、餅を供え、
「高祖が沛の郷里にお帰りになった例もあるが、それでもこんなに盛んではなかったろう」
と、祝し合った。
が、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭がすむ途端に帰ってしまったので、郷人たちは何か張り合い抜けがした。老夏侯惇が危篤という報を受けたためであったが、曹丕が帰国したときは、すでに大将軍夏侯惇は死んでいた。
曹丕は、東門に孝を掛けて、この父以来の功臣を、礼厚く葬った。
「凶事はつづくというが、正月以来この半歳は、どうも葬祭ばかりしておるようだ」
曹丕もつぶやいたが、臣下も少し気に病んでいたところが、八月以降は、ふしぎな吉事ばかりが続いた。
「石邑県の田舎へ鳳凰が舞い降りたそうです。改元の年に、大吉瑞だと騒いで、県民の代表がお祝いにきました」
侍者が、こう取次いで曹丕をよろこばせたと思うと、幾日か経って、
「臨淄に麒麟があらわれた由で、市民は檻に麒麟を入れて城門へ献上したそうです」
するとまた、秋の末頃、鄴郡の一地方に、黄龍が出現したと、誰からともなく云い伝えられ、ある者は見たといい、ある者は見ないといい、やかましい取り沙汰だった。
おかしいことには、その噂と同時に、魏の譜代の面々が、日々、閣内に集まって、
「いま、上天吉祥を垂る。これは魏が漢に代って、天下を治めよ、という啓示にほかならぬものである。よろしく魏王にすすめ、漢帝に説き奉らせて受禅の大革を行うべきである」
と、勝手な理窟をつけて、しかも帝位を魏に奪う大陰謀を、公然と議していたのである。
侍中の劉廙、辛毘、劉曄、尚書令の桓楷、陳矯、陳群などを主として、宗徒の文武官四十数名は、ついに連署の決議文をたずさえて、重臣の大尉賈詡、相国の華歆、御史大夫王朗の三名を説きまわった。
「いや、諸員の思うところは、かねてわれらも心していたところである。先君武王のご遺言もあること、おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」
三重臣のことばも、符節を合わせたように一致していた。麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。
が、瓢箪から駒が出ようと、閣議室から黄龍が出現しようと、支那においては不思議でない。民衆もまた奇蹟を好む。鳳凰などというものはないという説よりも、それは有るのだという説のほうをもっぱら支持する通有性をもっている。朝廷を仰ぐにも、帝位についての観念も、この大陸の民は黄龍鳳凰を考えるのと同じぐらいなものしか抱いていなかった。それのはっきりしている上層中流の人士でもかつての自国の歴史に徴して、その時代時代に適応した解釈を下し、自分たちの人為をすべて天象や瑞兆のせいにして、いわゆる機運を醸し、工作を運ぶという風であった。
王朗、華歆、中郎将李伏、太史丞許芝などという魏臣はついに許都の内殿へ伺佐して、
「畏れ多いことですが、もう漢朝の運気は尽きています。御位を魏王に禅り給うて、天命におしたがいあらんことを」
と、伏奏した。いや、冠をつらねて、帝の闕下に迫ったというべきであろう。
二
献帝はまだ御齢三十九歳であった。九歳の時董卓に擁立されて、万乗の御位について以来、戦火乱箭の中に幾たびか遷都し、荊棘の道に飢えをすら味わい、やがて許昌に都して、ようやく後漢の朝廟に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼、朝臣の逼塞、朝はあってなきが如きものだった。
およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は数奇にして薄幸そのものであったというほかはない。
しかも今また、魏の臣下から、臣下としてとうてい口にもすべきでないことを強いられたのである。お胸のうちこそどんなであったろうか。
帝ももとより、そのようなことを、即座に承諾になるわけはない。
「朕の不徳は、ただ自らをうらむほかはないが、儂不才なりといえ、いずくんぞ祖宗の大業を棄つるに忍びん。ただ公計に議せよ」
と、一言仰せられたまま、内殿へ起たれてしまった。
華歆、李伏の徒は、その後ものべつ参内して麒麟、鳳凰の奇瑞を説いたり、また、
「臣ら、夜天文を観るに、炎漢の気すでに衰え、帝星光をひそめ、魏王の乾象、それに反して、天を極め、地を限る。まさに魏が漢に代るべき兆です。司天台の暦官たちもみなさように申しておりまする」と、暦数から迫ってみたり、ある時はなお、
「むかし三皇、五帝も、徳をもって御位を譲り、徳なきは徳あるに譲るを常とし、たとえ天理に伏さずとも、必ず自ら滅ぶか、或いは次代の帝たる勢力に追われておりましょう。漢朝すでに四百年、決して、陛下の御不徳にも非ず、自然にその時期に際会されておられるのです。ふかく聖慮をそこに用いられて、あえて迷いをとったり、求めて、禍いを招いたり遊ばさぬようご注意申しあげる」
などと言語道断な得手勝手と、そして半ば、脅迫に似た言をすらもてあそんだ。
しかし、帝はなお頑として
「祥瑞、天象のことなどは、みな取るにも足らぬ浮説である。虚説である」と、明確に喝破し、
「高祖三尺の剣をさげて、秦楚を亡ぼし、朕に及ぶこと四百年。なんぞ軽々しく不朽の基を捨て去らんや」と、あくまで彼らの佞弁を退け、依然として屈服遊ばす色を示さなかった。
だがこの間に、魏王の威力と、その黄金力や栄誉の誘惑はしんしんとして、朝廟の内官を腐蝕するに努めていた。さなきだにもう心から漢朝を思う忠臣は、多くは亡き数に入り、或いは老いさらばい、または野に退けられて、骨のある人物というものは全くいなかった。
滔々として、魏の権勢に媚び、震い怖れ、朝臣でありながら、魏の鼻息のみうかがっているような者のみが残っていた。
それかあらぬか、近ごろ帝が朝へ出御しても、朝廷の臣は、文武官なども、姿も見せない者が日にまし殖えてきた。或いは病気と称し、或いは先祖の祭り日と称し、或いは届けもなしに席を欠く者が実におびただしい。いや遂には、帝おひとりになってしまわれた。
「ああ。いかにせばよいか」
帝はひとり御涙を垂れていた。すると、帝のうしろから后の曹皇后がそっと歩み寄られて、
「陛下。兄の曹丕からわたくしに、すぐ参れという使いがみえました。玉体をお損ね遊ばさぬように」
意味ありげにそう云いのこして、楚々と立ち去りかけた。
帝は、皇后がふたたび帰らないことを、すぐ察したので、
「お身までが、朕をすてて、曹家へ帰るのか」
と、衣の袖を抑えた。
皇后は、そのまま、前殿の車寄せまで、足をとめずに歩んだ。帝はなお追ってこられた。すると、そこにたたずんでいた華歆が、
「陛下。なぜ臣の諫めを用いて、禍いをおのがれ遊ばさぬか。御后のことのみか、こうしていれば、刻々、禍いは御身にかかって参りますぞ」
と、今は拝跪の礼もとらずに傲然という有様であった。
三
なんたる非道、無礼。つねにお怺え深い献帝も、身をふるわせて震怒せられた。
「汝ら臣子の分として、何をいうか。朕、位に即いてより三十余年、兢々業々、そのあいだかりそめにも、かつて一度の悪政を命じた覚えもない。もし天下に今日の政を怨嗟するものがあれば、それは魏という幕府の専横にほかならぬことを、天人共によく知っておろう。たれか朕をうらみ、漢朝の変を希おうや」
すると、華歆もまた、声をあららげて、御衣のたもとをつかみ、
「陛下。お考え違いを遊ばすな。臣らとて決して不忠の言をなすものではありません。忠なればこそ、万一の禍いを憂いておすすめ申しあげるのです。今は、ただ御一言をもって足りましょう。ここでご決意のほどを臣らへお洩らし下さい。許すとも、許さぬとも」
「…………」
帝はわななく唇をかみしめてただ無言を守っておられた。
すると華歆が、王朗へきっと眼くばせしたので、帝は御衣の袖を払って、急に奥の便殿へ馳け込んでしまわれた。
たちまち、宮廷のそこかしこに、常ならぬ跫音が乱れはじめた。ふと見れば、魏の親族たる曹休、曹洪のふたりが、剣を佩いたまま殿階へ躍り上がって、
「符宝郎はどこにいるかっ。符宝郎、符宝郎っ」と、大声で探し求めていた。
符宝郎とは、帝室の玉璽や宝器を守護する役名である。ひとりの人品の良い老朝臣が、怖るる色もなく二人の前へ近づいた。
「符宝郎祖弼はわたくしですが……?」
「うム。汝が符宝郎の職にある者か。玉璽を取りだしてわれわれに渡せ」
「あなた方は正気でそんなことを仰せあるのか」
「拒む気か?」
曹洪は剣を抜いて、祖弼の顔へつき出した。――が祖弼はひるむ色もなく、
「三歳の童子も知る。玉璽はすなわち天子の御宝です。何で臣下の手に触れしめてよいものぞ。道も礼も知らぬ下司ども、沓をぬいで、階下へ退れっ」と、叱咤した。
洪、休のふたりは、憤怒して、やにわに祖弼を庭上に引きずり出し、首を斬って泉水へほうり捨てた。
すでに禁門を犯してなだれこんだ魏兵は、甲を着、戈を持って、南殿北廂の苑に満ちみちていた。帝は、いそぎ朝臣をあつめて、御眦に血涙をにじませ、悲壮な玉音をふるわせて一同へ宣うた。
「祖宗以来歴代の業を、朕の世にいたって廃せんとは、そも、何の不徳であろうか。九泉の下にも、諸祖帝にたいし奉り、まみゆべき面目もないがいかにせん、事ついにここへ来てしもうた。この上は、魏王に世を禅り、朕は身をかくして唯ひたすら万民の安穏をのみ祈ろうと思う……」
玉涙、潸として、頬をながれ、嗚咽する朝臣の声とともに、しばしそこは雨しげき暮秋の池のようであった。
すると、ずかずかここへ立ち入ってきた魏臣賈詡が、
「おう、よくぞ御心をお定め遊ばした。陛下! 一刻もはやく詔書を降して、闕下に血をみるの難を未然におふせぎあれ」と、促した。
綸言ひとたび発して、国禅りの大事をご承認なされたものの、帝はなお御涙にくるるのみであったが、賈詡はたちまち桓楷、陳群などを呼んで、ほとんど、強制的に禅国の詔書を作らせ、即座に、華歆を使いとして、これに玉璽を捧げしめ、
「勅使、魏王宮に赴く」と、称えて禁門から出たのであった。もちろん朝廷の百官をその随員とし、あくまで帝の御意を奉じて儀仗美々しく出向いたので、沿道の諸民や一般には、宮中における魏の悪逆な行為は容易に洩れなかった。
「来たか」
曹丕は定めしほくそ笑んだであろう。詔書を拝すや、直ちに禅りをお受けせん、と答えそうな容子に、司馬懿仲達があわてて、
「いけません。そう軽々しくおうけしては」と、たしなめた。
四
たとえ欲しくてたまらないものでもすぐ手を出してはいけない。何事にも、いわゆる再三謙辞して、而うして受く、というのが礼節とされている。まして天下の誹りを瞞ますには、より厳かに、その退謙と辞礼を誇大に示すのが、策を得たものではないでしょうか。――司馬仲達は眼をもってそう主君の曹丕へ云ったのである。
曹丕は、すぐ覚って、
「儂はとうてい、その生れにあらず、万乗を統ぐはただ万乗の君あるのみ」
と、肚とはまったく反対なことばを勅使に答えて、うやうやしくも王朝に表を書かせ、一たん玉璽を返し奉った。
勅使の返事を聞かれて、帝はひどくお迷いになった。侍従の人々を顧みられて、
「曹丕は受けぬという。どうしたものであろう?」
と、いささかそれに依って御眉を開かれたようにすら見えた。
華歆は、お側を離れない。彼はすぐこう奏上した。
「むかし堯の御世に、娥皇、女英という二人の御娘がありました。堯が舜に世を禅ろうというとき、舜はこばんで受けません。そこで堯帝はふたりの御娘を舜王に娶わせて、後に帝位を禅られたという例がございます。……陛下。ご賢察を垂れたまえ」
献帝はまたしても無念の御涙をどうすることもできない面持ちを示された。ぜひなく、次の日ふたたび高廟使張音を勅使とし、最愛の皇女おふた方を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮へいたらしめた。
曹丕はたいへん歓んだ。けれど今度もまた謀臣賈詡が側にいて、
「いけません。まだいけません」というような顔をして首を振った。
空しく勅使を返したあとで、曹丕は少しふくれ顔して彼を詰問った。
「堯舜の例もあるのに、なぜこんども断れといったのか」
「もうそんなにお急ぎになる必要はないではございませんか。賈詡の慮りは、唯々世人の誹りを防がんためで、曹家の子、ついに帝位を奪えりと、世の智者どもが、口をそろえて誹りだしては、怖ろしいことでございますからな」
「では、三度勅使を待つのか」
「いやいや、こんどはそっと、華歆へ内意を通じておきましょう。すなわち、華歆をして、一つの高台を造営させ、これを受禅台と名づけて、某月吉日をえらび、天子御みずから玉璽を捧げて、魏王にこれを禅るという、大典を挙げ行うことをお薦め申すべきです」
実に、魏の僭位は、これほど念に念を入れた上に行われたものであった。
受禅台は、繁陽の地を卜して、その年十月に、竣工を見た。三重の高台と式典の四門はまばゆきばかり装飾され、朝廷王府の官員数千人、御林の軍八千、虎賁の軍隊三十余万が、旌旗や旆旛を林立して、台下に立ちならび、このほか匈奴の黒童や化外の人々も、およそ位階あり王府に仕えるものは挙って、この祭典を仰ぐの光栄に浴した。
十月庚午の日。寅の刻。
この日、心なしか、薄雲がみなぎって、日輪は寒々とただ紅かった。
献帝は台に立たれた。
そして、帝位を魏王に禅るという冊文を読まれたのである。玉音はかすれがちに時折はふるえておられた。
曹丕は、八盤の大礼という儀式の後、台にのぼって玉璽をうけ、帝は大小の旧朝臣を従えて、御涙をかくしながら階下に降られた。
天地の諸声をあざむく奏楽が同時に耳を聾すばかり沸きあがった。万歳の声は雲をふるわした。その夕方、大きな雹が石のごとく降った。
曹丕、すなわち魏帝は、
「以後国名を大魏と号す」
と宣し、また年号も、黄初元年とあらためた。
故曹操にはまた「太祖武徳皇帝」と諡された。
ここにお気のどくなのは献帝である。魏帝の使いは仮借なく居を訪れて、
「今上の仁慈、汝をころすに忍び給わず、封じて山陽公となす。即日、山陽に赴き、ふたたび都へ入るなかれ」
という刻薄な沙汰をつたえた。公はわずかな旧臣を伴って、一頭の驢馬に召され、悄然として、冬空の田舎へ落ちて行かれた。