七軍魚鼈となる
一
父の矢創も日ましに癒えてゆく様子なので、一時はしおれていた関平も、
「もう心配はない。この上は一転して、攻勢に出で、魏の慢心を挫ぎ、わが実力の程を見せてくれねばならん」と、帷幕の人々と額をあつめて作戦をねっていた。
ところが魏軍はにわかに陣容を変えて、樊城の北方十里へ移ったという報告に、
「さては早くも蜀の攻勢を怖れて、布陣を変えたとみえる」
と、軽忽を戒め合って、すぐその由を関羽に告げた。
「どう陣立てを変えたか? ――」を見るべく、関羽は高地へ登って、遥かに手をかざした。
まず、樊城の城内をうかがえば、すでにそこの敵は外部と断たれてから、士気もふるわず旗色も萎靡して、未だに魏の援軍とは連絡のとれていないことが分る。
また一方、城外十里の北方を見ると、その附近の山陰や谷間や河川のほとりには、なんとかして城中の味方と連絡をとろうとしている魏の七手組の大将が七軍にわかれて、各所に陣を伏せている様子が明らかに遠望された。
「関平。土地の案内者をここへ呼べ」
「――連れて参りました。この者が詳しゅうございます」
しきりと、地勢をながめていた関羽は、案内者へ向ってたずねた。
「敵の七軍が旗を移したあの辺りは、何という所か」
「罾口川と申しまする」
「なお、附近の河は」
「白河の流れ、襄江の激水、いずれも雨がふると、谷々から落ちてくる水を加えて、もっと水嵩を増してまいります」
「谷は狭く、うしろは嶮岨だが、ほかに平地は少ないのか」
「されば、あの山向うは、樊城の搦手で、無双な要害といわれておりますから、人馬も容易には越えられません」
「そうか、よし」と案内者を退けてから、関羽は何事かもう勝戦の成算が立ったもののように、
「敵将于禁を擒にすることは、すでにわが掌にあるぞ」と、いった。
諸将は、彼の意をはかりかねて、その仔細をたずねたが、関羽は一言、
「罾口に入るもの生きて能く出でず――という語が何かの兵書にあったが、于禁はまさにその死地へみずから入ったものだ。見よ、やがてかの七陣が死相を呈してくるに違いないから」と、云ったのみで、その日以後は、もっぱら兵を督して、附近の材木を伐り、船筏を無数に作らせていた。
「陸戦をするのに、何だってこんなに船や筏ばかり作らせているのだろう」と、将卒はみなこの命令を怪しんでいたが、やがて秋八月の候になると、明けても暮れても、連綿と長雨が降りつづいた。
襄江の水は、一夜ごとに、驚くばかり漲りだしてくる。白河の濁流もあふれて諸川みな一つとなり、やがては満々と四方の陸を沈めて、見るかぎり果てなき泥海となって来た。
関羽は、高きに登って、敵の七陣を毎日見ていた。岸に近いところの陣も、谷間の陣も次第に増してくる水におわれて、毎日毎日少しずつ高いところへ移ってゆく。……しかし背後の山は嶮峻である。もうそれ以上は高く移せない所へまで、敵の旗は山ぎわに押し詰められていた。
「関平関平」
「はい」
「もうよかろう。かねて申しつけておいた上流の一川。そこの堰を切って押し流せ」
「心得ました」
関平は、一隊をひきつれて、雨中をどこかへ駈けて行った。襄江の水上七里の地に、さらに岐れている一川があった。関羽は一ヵ月も前からそこに数百の部下と数千の土民を派して、ここの水を築堤で高く堰き止め、先頃からの雨水を襄野一面に蓄えていたのであった。
二
その日、于禁の本陣へ、督軍の将、成何が訪れていた。成何は先ほどから口を酸くして、
「いつ晴れるか知れないこの長雨です。万一、襄江の水がこれ以上増したら諸陣は水底に没してしまいましょう。一刻も早く、この罾口川を去ってほかへ陣所をお移しあるように」
とすすめていた。就中、成何が探ったところでは、蜀軍のほうでは営を高地に移して、しかも船や筏をおびただしく造らせている。これは何か敵方に考えがあってのことにちがいないから、わが魏軍も、こうしているべきでないという点を力説した。
「よろしい、よろしい。もう分っておる。足下はちと多弁でしつこすぎる」
于禁は苦りきって、無用な説を拒むような顔を示した。
「いくら降ったところで、襄江の流れが、この山を浸したような歴史はあるまい。つまらぬ危惧に理窟をつけて、督軍の将たる者が不用意な言を発しては困る」
成何は恥じ怖れて本陣を辞去した。けれど彼の憂いと不満は去らなかった。彼はその足で龐徳の陣所をたずねた。そして自分の考えと于禁のことばをそのまま友に訴えた。
龐徳はたいへん驚いた。眼をそばだて膝を叩いて、
「貴公もそこに気がついていたか、貴説、まさに当れりである。しかし于禁は総大将という自負心が強いから、とうてい、我らの意見を用いるはずはない。この上は軍令に反いても、我々は思い思いにほかへ陣を移してしまおう」
瀟々と外は間断なき雨の音だった。こんな時は鬱気を退治して大いに快笑するに限ると、龐徳は友を引きとめて酒など出した。そして二人とも陶然と雨も憂いも忘れかけていると、にわかにただならぬ雨風が吹き荒び、浪の音とも鼓の音ともわからぬ声が、一瞬天地をつつむかと思われた。
愕然、龐徳は杯をおいて、
「やっ、何事だ?」
帳を払って面を向けて見ると、驚くべし、山のような濁流の浪が、浪また浪を重ねて、すぐ陣前へ搏ち煙っている。
「や、や。洪水だ」
成何もそこを飛び出した。そして馬へ乗って帰ろうとすると、彼方の兵営や陣小屋が、どうと一つの大浪にぶつけられた。見るまに、建物も人馬も紛々と波上へ漂い出し、さらに、次の浪、また次の浪が、それを大空へ揺りあげながら、当る物を打ち砕いて、濁浪の口に呑まんとしてくる。
しかし、その奔濤の中にも、溺れず沈まず、この凄じい洪水の形相をむしろ楽しんでいるかのような影もあった。それは関羽の乗っている兵船や、蜀兵が弓槍を立て並べているたくさんな筏だった。
「筏にすがり、船へ漂いついてくる敵は、降人と見て、助けてつかわせ。激流に溺れてゆく者は、いずれ助からぬ命、無駄矢を射るな」
関羽は兵船の上から悠々下知していた。
この日関平が上流の一川の堰を切ったため、白河と襄江のふたつが一時に岸へ搏ってきたのだった。罾口川の魏軍は、ほとんど水に侵され、兵馬の大半は押し流され、陣々の営舎は一夜のうち跡形もなくなってしまった。
関羽は夜どおし洪水の中を漕ぎ廻り、多くの敵を水中から助けて降人の群れに加えていたが、やがて朝の光に一方の山鼻を見ると、そこにまだ魏の旗がひるがえって、約五百余の敵が一陣になっている。
「おう、あれにおるは、魏の龐徳、董起、成何などの諸将と見ゆるぞ。好い敵が一つ所におる。取り囲んでことごとく射殺してしまえ」
蜀の軍卒は、その兵船や筏をつらねて、旗の群れ立つ岬を囲んだ。
矢は疾風となってそこへ集まった。五百の兵は見るまに三百二百と減って行った。董起や成何は、所詮逃げる途はないと諦めて、
「この上は、白旗をかかげて、関羽に降を乞うしかあるまい」
と云ったが、ひとり龐徳は、弓を離さず、
「降る者は降れ、おれは魏王以外の他人に膝を屈めることは知らん」
と云って、矢数のある限り、射返し射返し、奮戦していた。
三
「わずかな敵を、持てあまして、いつまで手間取ってるか」
と、関羽の一船もそこへきて短兵急に矢石を岬の敵へ浴びせかけた。
魏の将士は、ばたばた仆れては水中へ落ちてゆく。しかもなお龐徳は、不死身のように、関羽の船を目がけて弦鳴りするどく、矢を射ては、生き残りの部下を励まし、また傍らの成何へも叫んだ。
「勇将ハ死ヲ怯レテ苟モ免レズ――という。今日こそは龐徳の死ぬ日と覚えた。ご辺も末代まで汚名をのこされるなよ」
成何も今は死を決し、おうっとそれへ答えるや否や、槍を揮って、崖下へ駈け出した。敵の一つの筏がそこから岸へ上がろうとしていたからである。
だが、近づくが早いか、成何は大勢の敵に、滅多斬りにされてしまった。蜀の兵は喊声をあげながら龐徳の足下まで上がってきた。龐徳はそれと見るや、弓を捨て、岩石を抱え、
「汝ら、何を望むか」
と、頭上へ落した。血と肉と岩石は、粉になって飛んだ。
彼は手近な岩石をあらかた投げ尽した。いかに巨きな岩も彼の手にかからない物はなかった。死力というか、鬼神の勇というか言語に絶した働きだった。
人も筏もその下にはみな影を没し去っていた。龐徳はまた弓を握った。しかし彼の周囲には累々たる部下の死骸があるだけで、もう生きている味方はなかった。
なお、ばしゃばしゃと四辺へ矢石が降り注がれてくる。さしもの龐徳も力尽きたか矢にあたったか、ばたっと仆れた。――近づきかねていた蜀勢のうちから、すばやく一艘の河船が漕ぎよせてきた。そしてそこの岬を占領したかと思うと、死を装うていた龐徳が、やにわにはね起きて、蜀兵を蹴ちらし、その得物を奪い、ひらりと敵の船中へ飛び乗った。
またたくまに船中の兵七、八名を斬殺すると、彼は悠々岬を離れて、濁流の中へ棹さして遁れた。船は血に染っている。余りの迅さと不敵さに、蜀軍の船や筏は、ただただ胆を奪われていた。
すると、まるで征矢の如く漕ぎ流して行った一船が、いきなり龐徳の河船の横腹へ、故意に舳をつよくぶっつけた。そして熊手や鉤槍をそろえて、いきなり彼の舷へ引っ掛け、瞬時にその河船を覆してしまった。
「やったな、見事」
「誰だ、あの大将は」
蜀軍はそれを見て、みな声をあげ、手を振って賞めた。不死身の龐徳も船もろとも水煙の底へ葬られたからだ。
ところが、彼を葬った蜀の一将は、それをもって満足せず、直ちに、自分も濁流の中へ身を躍らした。そして渦巻く波を切って泳ぎ、当の相手龐徳と水中に格闘して、遂にその大物を生捕ってしまったのである。
戦いすでに終ったので、関羽は船を岸に返し、その勇士が龐徳をひいてくるのを待っていた。勇士の名は、蜀軍随一の水練の達者周倉であったことがもう全軍へ知れ渡っていた。
関羽の前には、魏の総司令于禁も捕虜になって引っ立てられて来た。于禁は哀号して、助命をすがった。関羽は愍笑して、
「犬ころを斬っても仕方がない。荊州の獄へ送ってやるから沙汰を待て」と、云った。
次に龐徳が来た。
龐徳は傲然と突立ったまま、地へ膝をつけなかった。関羽はこの男の勇を惜しんで、
「汝の兄の龐柔も漢中王に仕えている。わしが取りなしてつかわすから、汝も蜀へ仕えて長く生きたらどうだ」
と諭すと、龐徳は、不敵な口をあいて、呵々と大笑しながら、
「誰がそんなことを頼んだ。要らざるおせっかいはせぬがいい。おれは魏王のほかに主というものを知らん。久しからずして玄徳もおれのような姿になって魏王の前に据えられるだろう。そのとき汝は、玄徳に向って、魏の粟を喰ろうて生きよと、主にもすすめる気か」
関羽は激怒して、
「よろしい。汝の望み通り、汝の用意した柩を役立たせてやる。坐れッ」
と大喝した。
龐徳は黙って、地に坐った。その首を前へのばすや否や、戛然、剣は彼の頸を断った。
四
雨はやんでも、洪水は容易に減水を示さなかった。龐徳が奮戦した岬には、その後、一基の墳墓が建てられた。彼の忠死をあわれんで関羽が造らせたものだという。
一方、その地方の大洪水は、当然、樊川にもつづいて、樊城の石垣は没し、壁は水びたしの有様となった。さなきだに籠城久しきにわたって、疲れぬいていた城中の士気はいやが上にうろたえて、
「天なんぞこの城にかくも酷きか」
と、ただ自然を恨み、明日を儚み、まるで戦意を喪失してしまった。
けれどただ一つの僥倖は、この洪水のために、関羽側の包囲陣もいきおい遠く退いて、それぞれ高地に陣変えしなければならなくなったことで、ために実際の攻防戦は休止のすがたに立ち到った。
その間に、城将の多くは、首将の曹仁をかこんで、評議の末、
「今はもう餓死か落城かの二途しかありません。むしろこの隙に夜中ひそかに舟を降ろし、城をすてて何処へなりとも一時御身を隠さるるが賢明かと思います」
と勧め、曹仁もその気になって、脱出の用意をしかけていた。
「腑がいないことを!」と、それを知って憤慨したのは満寵である。
「この洪水は、長雨の山水が嵩んだものゆえ、急にはひかぬにせよ、半月も待てば必ずもとにかえる、情報によれば、許昌地方もこの水害に侵され、飢民は暴徒と化し、百姓は騒ぎ乱れ、事情は刻々険悪な状態にあると承る。――しかも関羽の軍が、その鎮定におもむかず、乱にまかせているのは、もし軍を割いて、それへ向えば、たちまちこの樊城から後を追撃されるであろうと、大事をとって動かずにいるのです」
そう説明して、彼はまた曹仁のために、この際、処すべき道をあきらかにした。
「いやしくも将軍は魏王の御舎弟。そのあなたという者のうごきは魏全体に大きな影響をもちましょう。よろしくここは孤城を守り通すべきです。もしこの城を捨て給わば、関羽にとっては思うつぼで、たちまち、黄河以南の地は、荊州の軍馬で平定されてしまうにちがいない。しかる時は、なんの顔あって、魏王にまみえ、故国の人々にお会いなされますか」
満寵のことばは、曹仁の蒙をひらくに充分であった。彼は正直に自己の考えちがいを謝し、
「もし足下の教えがなければ、おそらく自分は大事を誤ったろう」
と、それまでの敗戦主義を城中から一掃するため、諸将をあつめて訓示した。
「正直にいう。自分は一時のまちがった考えにいま恥じておる。国家の厚恩をうけ、一城の守りを任ぜられ、かかる一期の時となって、城を捨てて遁れんなどという気持をふとでも起したのは慚愧にたえない。ご辺たちもまた同様である。もし今日以後も、城を出て一命を助からんなどと思う者があれば、かくの如く処罰するからさよう心得るがいい」
曹仁は剣を抜いて、日頃自分の乗用していた白馬を両断にして、水中へ斬り捨てた。諸将はみな顔色を失って、
「かならず、城と運命を共にし、生命のあらんかぎり防ぎ戦ってごらんに入れる」
と、異口同音に誓った。
果たしてその日頃から、徐々に水はひいてきた。城兵は生気をとりもどし、壁を繕い、石垣を修築し、さらに新しい防塁を加えて、弩弓石砲をならべ、
「いざ、来れ」
と、大いに士気を昂げた。
二十日足らずののちに、洪水はまったく乾いた。関羽は、于禁を生捕り、龐徳を誅し、魏の急援七軍の大半以上を、ことごとく魚鼈の餌として、勢い八荒に震い、彼の名は、泣く子も黙るという諺のとおり天下にひびいた。
時に、次男の関興が、荊州からきたので、関羽は、諸将のてがらと戦況をつぶさに書いて、
「これを漢中王におとどけせよ」
と、使いを命じて、成都へやった。
底本:「三国志(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年5月11日第1刷発行
2008(平成20)年2月1日第47刷発行
「三国志(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年5月11日第1刷発行
2008(平成20)年12月1日第52刷発行
※副題は底本では、「図南の巻」となっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
2014年7月26日修正
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