破瓶
一
最後の一計もむなしく半途に終って、それ以来、呂布は城にあって、日夜悶々と、酒ばかりのんでいたが、――その呂布を攻め、城を取囲んでいる曹操のほうにも、すでに安からぬ思いが濃かった。
「この城を囲んでからも六十余日になる。しかもなお、頑として、城は陥ちない。こうしている間に、もし後方に敵が起ったらわが全軍はこの大寒の曠野に自滅するほかはない」
曹操は憂いていた。
戦はすでに冬期に入って、兵馬の凍死するのも数知れなかった。糧草は尽きんとしているし、雪は山野を埋め、今さら、軍を退いて遠く帰ることすら困難であった。
「どうしたものか?」
焦躁の気を眉にあつめて、不落の敵城を見つめたまま、独り沈思していると、吹雪を衝いて、陣へたどり着いた早打ちがあった。
「河内の張楊は、呂布と交誼があるので後詰して、呂布を助けんと称し、兵をうごかしました。ところが手下の楊醜が、たちまち心変りして張楊を殺し、その軍を奪ったところから大混乱となり、軍の眭固と申す者が、またまた、張楊の讎といって、楊醜を討ち殺し、人数をひきいて、犬山方面まで動いて参りました」との注進であった。
曹操は、折も折と、
「捨ておけまい。史渙、そちの一部隊を、犬山にあてて、眭固を打ち取れ」
と、すぐかたわらの大将史渙にいって、万一に備えさせた。
史渙の隊は、雪を冒して、犬山へ向った。――曹操の心は、いよいよ晏如たり得ない。冬は長い。実に冬は長いのである。明けても暮れても大陸の空は灰色に閉じて白いものを霏々と舞わせている。
「こう城攻めも長びいては、必ず心腹の患いが起きるだろう。曹操の武力を侮り、後方に小乱の蜂起するは目に見えている。しかも都の北には、西涼の憂いがあるし、東には劉表、西には張繍、おのおの、虎視眈々と、この曹操が脚を失って征途につかれるのをうかがっているところだ……」
思いあまってか、諸大将をあつめた上で、曹操もとうとう弱音を吐いてしまった。
「師を帰そう! 残念だがぜひもない。……また、機を計って、遠征に来るとしよう!」
すると、荀攸が、
「丞相にも似あわぬおことばを聞くものである」と、声を励まして諫めた。
「いかさま、この長期にわたって、お味方の艱苦たるや、言語に絶したものに相違ございませんが、城中の者の不安と苦しみもまた、これ以上のものに違いありません。今は、籠城の者と寄手の根くらべです。城中の兵は、退くに退けない立場にあるだけ、覚悟においては、寄手以上の強味をもっている。――ゆえに、寄手の将たる者は、夢々帰る都があるなどと自身も思ってはならないし、兵にも思わせてはならないのです。――しかるに、丞相おん自らそのように気を落して、いかで諸軍の心が振いましょうか」
荀攸は、心外なりとばかり、口を極めて、退くことの不利を説いた。
さらにまた、郭嘉が、
「この下邳の陥ちないのは、泗水、沂水の地の利あるゆえですが、その二水の流れを、味方に利用せば、敵はたちまち破れ去ること疑いもありません」と、一策を提出した。
それは泗水河と沂水河に堰を作って、両水をひとつに向け、下邳の孤城を水びたしにしてしまうことだった。
この計画は成功した。
人夫二万に兵を督して、目的どおり二つの河をひとつにあつめた。折ふしまた、暖日の雨がつづいたので、孤城はたちまち濁流にひたされ、敵はみな高い所へ這いのぼって、刻々と水嵩を盛り上げてくる城壁の水勢に施す術もなく騒いでいる様子が、寄手の陣地からも眺められた。
二
二尺、四尺、七尺――と夜の明けるたび水嵩は増していた。城中いたるところ浸々と濁流が渦巻いて、膨れあがった馬の屍や兵の死骸が芥と共に浮いては流されて行く。
「どうしたものだろう?」
城中の兵は、生きた空もなく、次第に居どころを狭められた。しかし呂布は、うろたえ騒ぐ大将たちに、わざと傲語していった。
「驚くことはない。呂布には名馬赤兎がある。水を渡ることも平地の如しだ。ただ汝らは、みだりに立ち騒いで、溺れぬように要心すればよい。……なアに、そのうちには大雪風がやってきて、一夜のうちに曹操の陣を百尺の下に埋めてしまうだろう」
彼はなお、恃みなきものを恃んで、日夜、暴酒に耽っていた。彼の心の一部にある極めて弱い性格が、酔って現実を忘れることを好むのであった。
ところが、或る時。
ふと、宿酔からさめて、呂布は鏡を手に取った。そして愕然と、鏡の中に見た自分のすがたに嘆声をもらした。
「ああ……いつのまに俺はこんなに老けてしまったのだろう。髪の色まで灰色になった。眼のまわりも青黒い」
彼は、身を戦かして、鏡をなげうち、また、独りでこう呻いた。
「こいつはいかん。まだおれはこう老いぼれる年齢ではない。酒の毒だ。暴酒が肉体をむしばむのだ。断然、酒はやめよう!」
ひどく感じたとみえて、たちまち禁酒してしまった。それはよいが同時に城中の将士に対しても、飲酒を厳禁し、
――酒犯の者は首を刎ねん
という法令を出した。
するとここに城中の大将の一人侯成の馬が十五匹、一夜に紛失した事件が起った。調べてみると馬飼の士卒が結託して馬を盗みだし、城外に出て、敵へそれを献じ、敵の恩賞にあずかろうと小慾な企てをしていたということが分った。
侯成は聞きつけて馬飼の者どもを追いかけ、不埓者をみなごろしにして、馬もすべて取返してきた。
「よかった、よかった」と、ほかの大将たちも、賀しあって、侯成に、
「奢るべし、祝うべし」と、囃した。
折ふし城中の山から、猪を十数匹猟ってきた者があるので、酒倉を開き、猪を料理させて、
「きょうは大いに飲もう」と、なった。
そこで侯成は酒五瓶と、猪の肥えたのを一匹、部下にかつがせて、主君の前にやって来た。そして告げるに、降人の成敗と、愛馬を取返した事実をもってし、
「これも将軍の虎威によるところと、諸大将相賀して、折ふし猪を猟して、いささか祝宴をひらいております。どうかご主君にも、ご一笑下さいまし」
と、品々をそこにならべて拝伏した。
すると呂布は、勃然と、怒を発して、
「なんだっ、これは」と、酒瓶を蹴仆した。
一つの酒瓶が他の酒瓶に当ったので、瓶は腹を破って、一斛の酒がそこに噴き出した。侯成は全身に酒を浴び、強烈な香気は、呂布の怒りをなお甚だしくさせた。
「おれ自身、酒を断ち、城中にも禁酒の法を出してあるのに、汝ら大将たる者が、歓びに事よせて、酒宴をひらくとは何事だ」
呂布は左右の武士に向って、侯成を斬れと罵った。
仰天した侍臣の一名が、ほかの大将たちを呼んできた。諸人は哀訴百拝して、
「助けたまえ」
と、侯成のために命乞いをしたが、呂布は容易に顔色をおさめなかった。
三
「この際、侯成のごとき得難い大将を馘るのは、敵に歓びを与え、味方の士気を損じるのみで、実に悲しいことです」
と諸大将はなお、口を極めて、命乞いをした。
呂布もとうとう我を折って、
「それ程まで、汝らが申すなら、命だけは助けてくれる」といったが、「禁酒令を破った罪は不問に附すわけにはゆかん。百杖を打って、見せしめてくれん」と、直ちに、二人の武士へ、鞭を与えた。
二名の武士は、拝跪したまま動かぬ侯成の背に向って、かわるがわるに、
「一つ……」
「二つ……」
「三つ!」
「四つ!」
と、掛声をかけながら鞭を下し始めた。
たちまち、侯成の衣は破れ、肌が露われた。その肌もみるみるうちに血を噴いて、背なか一面、斑魚の鱗のようにそそけ立った。
「三十!」
「三十一!」
諸大将は、面をそむけた。
侯成は歯ぎしり噛んで、じっとこらえていたが、りゅうりゅうと鳴る杖、掛声が、
「七十五っ」
「七十六っ」
と、数えられてきた頃、ウームと一声うめいて、悶絶してしまった。
呂布はそれを見ると、ぷいと閣の奥へかくれ去った。
諸大将は、武士に眼くばせを与えて、杖の数をとばして読ませた。
やがて、侯成が気がついて、己の身を見まわすと、一室のうちに寝かされて、幕僚の者に看護されていた。――彼は、潸然となみだを流し、苦しげに顔をしかめた。
「痛いか。苦しいだろう」と、友の魏続が慰めると、
「おれも武人だ。苦痛で哭くのではない」といった。
「――では、なんで哭くのか」
魏続が聞くと、侯成は、枕頭を見まわして、
「今、ここにいるのは、君と宋憲だけか」
「そうだ……。この三名は日頃から何事もへだてのない仲だ。なんでも安心して話し給え」
「……ではいうが呂将軍に恨みとするのは、われわれ武人は芥のごとく軽んじ、妻妾の媚言には他愛なく動かされることだ。このような状態では、遂に、われわれは犬死するほかあるまい――おれはそれを悲しむのだ」
「侯成! ……」と宋憲は寄り添って、彼の耳もとへ熱い息でささやいた。
「まったくだ。実に、それがし達もそれを悲しむ。いっそのこと、城を出て、曹操の陣門に降ろうではないか」
「……でも、城壁の四方は滔々たる濁流だろう」
「いやまだ東の関門だけは、山の裾にかかっているので、道も水に浸されていない」
「そうか……」
侯成は、血の中から眼を開いて、ぽかっと天井を見ていたが、不意に、むっくりと起き上がって、
「やろう! 決行しよう。……呂布が頼みにしているのは赤兎馬だ。彼はわれわれ大将よりも赤兎馬を重んじ、婦女子を愛している。――だから、おれは彼の厩へ忍んで、赤兎馬を盗みだし、そのまま、城外へ脱出するから、君たちは後に残って、呂布を生虜りたまえ」
「心得た! ……しかしその重態な体で、君は大丈夫か」
「なんの、これしきの傷手」
と侯成は唇をかんで、ひそかに身支度を替え、夜の更けるのを待っていた。
四更の頃、彼は闇にまぎれて、閣裡の厩舎へ這い忍んで行った。遠くからうかがうと、折もよし、番の士卒はうずくまって居眠っている様子である。