南蛮行

 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく漂っている魏兵の死骸だけであった。
 実にこのときの魏の損害は、かつて曹操時代にうけた赤壁の大敗にも劣らないものであった。ことに人的損傷はその三分の一以上に及んだであろうといわれ、航行不能になって捨てていった船や兵糧や武具など、呉の鹵獲は莫大な数字にのぼり、わけても大捷の快を叫ばせたものは、
「魏の名将張遼も、討死をとげた一人の中に入っている」
 ということであった。
 かくて呉の国防力にはさらに不落の自信が加えられた。その論功行賞にあたって、戦功第一に推された者は、孫権の甥の孫韶だった。
「果敢、敵地に入って、よく兵機をとらえ、魏の本営をつき、曹丕の左右を混乱に陥れ、敵の名だたる勇将を討つことその数を知らず――」
 という都督徐盛からの上表であったが、孫権は、
「否々。魏軍を驕り誇らせて、淮河の隘口に誘い、周密に、この大捷を成すの遠謀をそなえていた都督の大計には比すべくもない。軍功第一は徐盛でなければなるまい」
 と、称揚し、彼を一に、孫韶を二に、第三以下、丁奉やそのほかの者に順次恩賞が沙汰された。
 翌年、蜀は建興三年の春を平和のうちに迎えていた。蜀の興隆は目に見えるものがあった。孔明はよく幼帝を扶け、内治と国力の充実に心を傾けてきた。両川の民もよくその徳になつき、成都の町は夜も門戸を閉ざさなかった。加うるに、ここ両三年は豊作がつづき、官の工役には皆すすんで働くし、老幼腹を鼓って楽しむというような微笑ましい風景が田園の随処に見られた。
 けれどこういう楽土安民のすがたも四隣の情勢に依っては、またたちまち軍国のあわただしさにかえらざるを得ない。時に、南方から頻々たる早馬が成都に入って、
「南蛮国の王孟獲が、辺境を犯して、建寧、牂※、越雋の諸郡も、みなこれと心を合わせ、ひとり永昌郡の太守王伉だけが、忠義を守って、孤軍奮闘中ですが、いつそれも陥ちるか知れない情勢です」と、急を伝えた。
 このときの孔明は実に果断速決であった。その日に朝へ出て、後主劉禅に謁し、
「南蛮はどうしても一度これを討伐して、帝威をお示しにならなければ、永久に国家の患いとなるものでした。臣久しくその折を量っていましたが、今は猶予しておられません。陛下はまだご年少ですからどうか、成都にあって私のいないあいだ政務においそしみ遊ばしますように」
 と、別れを告げた。
 後主はいとも心細げに、
「南蛮は風土気候もただならぬ猛暑の地と聞く。たれかほかの大将をつかわしてはどうか」
 と、別れともない容子をされたが、孔明は、否と顔を振って、
「私がおらなくても、四境の守りは大丈夫です。ことに、白帝城には、李厳をこめておきましたから、あの者ならば、呉の陸遜の智謀もよく防ぐでしょう。また、魏は昨年、呉へ迫って、いたく兵力大船を損じていますから、にわかに、野望を他へ向ける気力はないものと見てさしつかえありません」
 それからいろいろ慰めて、しばしの暇を仰ぐと、後主もついに頷かれたが、傍らにいた諫議大夫の王連がまた、
「丞相は国家の柱ともたのむ存在であるのに、風土気候の悪い南方の蛮地へ遠征されるとは、われわれにとっても心もとないことだ。蛮境の乱は、たとえば癬疥という腫物のようなもので、気にすればうるさい病だが、ほうっておけばまたいつのまにか癒るものである。――何とかお考え直しはなりませぬか」と、しきりに止めた。

 王連の忠言に対して、孔明はその好意を謝しながらも、なおこう云って初志をかえなかった。
「仰せはごもっともですが、南蛮の地は、不毛瘴疫、文明に遠く、わけて土民は王化に浴せず、これを統治するには、ただ武力だけでも難く、また利徳に狎れしめてもいけません。剛に柔に、武と仁と、時に応じて万全を計るには、やはり私自身が征かねばなりますまい。決して、孔明が小功を誇らんために望む次第ではありませぬ」
 王連もなお再三諫めたが、孔明は敢えてしたがわず、即日、数十名の大将を選んで、各部に分け、総軍五十余万、益州南部へ発向した。
 その途中で、関羽三男で、関興の弟にあたる――関索がただ一騎で参加した。
「今までどこにおられしか」
 と、孔明は怪しみもし、また涙をたたえて云った。なぜならば、荊州陥落のとき、父関羽の手についていたので、今日まで、戦死と確認されていた者だからである。
荊州の敗れた折、私は身に深傷を負い、鮑氏の家に匿まわれておりました。今日丞相が南蛮へご進発あるという噂を聞いて、昼夜わかちなくこれまで馳せつけて来たわけです」
「では、先鋒に加わって、お父上の名に恥じぬ功を立てられい。ここへ来られたのも、関羽どのの導きであろう。何にしても、すでに死んだと思っていた其許がふたたび蜀旗の下に立たるるとは幸先がよい」
 と孔明のよろこびもひとかたでないし、再生の関索も勇躍して先陣の軍についた。
 すでにして、益州の南部に入った。山川は嶮しく気候は暑く、軍旅の困難は、到底、中原の戦とは較べものにならない。
 建寧雲南省・昆明)の太守は雍闓という者であったが、彼はすでに反蜀聯合の一頭目をもって自負し、背後には南蛮国の孟獲とかたく結び、左右には越雋郡の高定、牂※郡の朱褒と一環の戦線を形成して、
孔明が自ら来るとは望むところだ」
 と、まず六万の軍を、その通路へ押し出してもみ潰さんと待ちかまえていた。
 この六万の大将は鄂煥といって、面は藍墨で塗った如く、牙に似た歯を常に唇の外に露わし、怒るときは悪鬼の如く、手に方天戟を使えば、万夫不当、雲南随一という聞えのある猛将だった。
 序戦第一日に、これに当ったのは、蜀の魏延であった。魏延は孔明から策を授けられていたので、いたずらに勇を用いず、もっぱら智略を以て彼を疲らせ、その第七日目の戦いに、盟軍の張翼、王平の二手と合して、猛将鄂煥をうまうまと重囲の檻に追い陥とし、これを擒人にしてしまった。
 が、孔明は縄を解いて、彼を放し、その帰る間際に、こう諭した。
「君の主人は、越雋の高定であろう。高定は元来、忠義な人だ、野心家の雍闓にだまされて、謀反に与したものにちがいない。立ち帰ったらよく君からも高定に忠諫してあげるがいい」
 命びろいをした鄂煥は、自軍の陣地へ帰るとすぐ、主人高定に会って蜀軍の強さや、孔明の徳を話していた。すると折悪しくそこへ雍闓が訪ねてきた。雍闓は眼をまるくして鄂煥を見た。
「汝はきょうの戦いに、敵の俘虜になったと聞いたが、どうしてこれへ戻ってきたのか」
 高定がそれに答えて、
孔明は実に仁者らしい、情理あわせて鄂煥に諭し、一命をゆるして帰してくれた」
 すると雍闓は、吹き出して嗤った。
「それが彼奴の詐術というもんじゃよ。蜀人の仁なんていうものからしてそもそも俺たちの敵性じゃないか」
 云っているところへ、夜襲があったので、話もそのまま雍闓は自分の城へ逃げ帰ってしまった。
 翌日になると雍闓は城を出て、味方の高定と固く聯携し、しきりに、蛮鼓貝鉦を打ち鳴らして、戦いを挑んできたが、孔明は笑って見ているのみで、
「しばらく傍観しておれ」
 と三日戦わず、四日も出撃せず、およそ七日ほどは、柵の内に鎮まり返っていた。

「蜀軍は弱いぞ」とあまく見たらしい。八日目の頃南蛮軍は大挙して迫ってきた。
 地上に図を画いたように、的確な謀をもって、孔明はそれを待っていた。そして大量な俘虜を獲た。
 俘虜は二分して、二ヵ所の収容所に入れた。一方には雍闓の兵ばかり入れ、一方には高定の兵のみ押しこめた。
 そしてわざと、孔明はそこらに風説を撒かせた。
「高定はもともと、蜀に忠義な者だから、高定の手下は放されるらしいが、雍闓の部下はことごとく殺されるだろう」
 一つの収容所は歓喜した。一つの収容所では泣き悲しんだ。
 日をおいて、孔明は、まず雍闓の手下から先に曳きだして、一群れずつ訊問した。
「汝らは、誰の部下だ」
「高定の兵です」
「相違ないか」
「高定の兵に相違ありません」
 ひとりとして、雍闓の部下だと答えるものはない。
「よし、高定の兵なら、特に免じてやる。高定の忠義は誰よりもこの孔明が知っておる」
 みな縄を解いて放した。
 次の日。こんどはほんとの高定の部下を引き出して、これも縄を解いてやった揚句、酒まで振る舞ってやった。そして孔明は彼らの中に立ちまじって、
「汝らの主人高定は、実に愛すべき正直者だ。あんな律義な人間が蜀に謀叛するわけはない、まったく雍闓や朱褒に欺されているのだ。その証拠には、きょう雍闓から密使が来て、蜀帝にねがって、所領の安全と、恩賞を約束してくれるなら、いつでも高定と朱褒の首を持ってくると告げて帰った。――わしは高定の律義と忠節を信じておるから追い返したが、そのひとつでも汝らの主人が雍闓のお先棒に使われているということがわかるではないか」
 と、雑談のように話して聞かせた。
 単純な南蛮兵は、放されて自分たちの陣地へ帰ると、みな孔明の寛大を賞めちぎり、主人の高定に向っても、
「雍闓に油断なすってはいけませんぞ」
 と忠告した。
 高定も疑って、ひそかに雍闓の陣中へ、人をやってうかがわせてみた。するとそこでも、雍闓の部下が、寄るとさわると、孔明を賞めているので、いったい孔明は敵か味方か分らなくなりましたよ――というその者の復命だった。
「……するとやはり雍闓と孔明とは内通しておるのかしら?」
 彼はなお念のために、腹心の者をやって、孔明の陣中を探らせた。
 ところがその男は、途中、蜀の伏兵に発見されてしまい、
「怪しい奴だ」
 と、孔明の前に曳かれてきた。――それを孔明は一目見ると、
「いや、そちはいつぞや、雍闓の使いに来た男ではないか。その後、待ちに待っておるに、沙汰のないのは、如何いたしたものだ。疾く帰って、主人雍闓に、吉左右を相待ちおると、申し伝えい」
 そして一通の書簡をしたため、それを託して部下に危険のない地点まで送らせた。男は生命びろいしたと、雀躍りして、高定の陣へ帰ってきた。待ちかねていた高定が、「首尾は如何に?」
 と訊ねると、男は腹をかかえて笑いながら、
「途中、捕まったので、しまったと思いましたところ、孔明のやつは、手前を雍闓の使いと思いちがえたらしく、こんな手紙をしたためて雍闓へ渡してくれと託しました。まずご覧ください」
 と、主人の前に差し出した。
 高定は見て愕いた。――高定、朱褒の首を取って降伏を誓うならば、蜀の天子に奏して重き恩賞を贈らん――という意味に加えて、それを一刻も早くにと督励している催促状である。高定は大きく呻いて、考えこんでいたが、やがて部将の鄂煥を呼んで、その手紙を示し、
「その方はこれをどう思う? また雍闓の本心を何と観るか」
 と、息あらく相談した。

 鄂煥ときては彼よりももっと神経の粗いほうである。たちまち牙をむいて憤慨した。
「こういう証拠のある以上、何も迷っていることはない。なお万一を顧慮されるなら、陣中に一宴を設けて、雍闓を試しに招いてごらんなさい。彼が公明正大ならやって来ようし、邪心があれば二の足を踏んで来ないだろう」
 なお、第二条として、こうも勧めた。
「もし来なかったら、彼奴の二心は明白ですから、ご自身、こよいの夜半に、不意討ちをおかけなさい。てまえは別軍を引いて、陣の後ろを襲いますから」
 高定はついに意を決してその通り運んだ。案のじょう雍闓は軍議を口実にしてやって来ない。
 高定は夜襲を決行した。これは雍闓にとってまったく寝耳に水である。おまけに雍闓の部下は、先頃から何となく怠戦気分であった上、中には高定の兵と一緒になって、その潰乱を内部から助けた者も出たため、雍闓は一戦の支えも立たず、ただ一騎で遁走を企てた。
 裏門へかかった鄂煥は、たちまち得意の戟を舞わして、一撃の下に彼の首を挙げてしまった。
 夜明けと共に、高定は首を携えて、孔明の陣へ降った。孔明は首を実検すると、急に左右の武士を振り向いて、
「この曲者を斬り捨てろ」
 高定は仰天した。かつ哀号し、かつ恨んで云った。
「丞相はこの合戦中、折あるごとに、不肖高定を惜しんで下さるとのことに、深く恩に感じ、いま降参を誓って参ったのに、即座に殺せとはいかなる仔細ですか。あなたは仁者の仮面をかぶった魔人か」
「いや、何と申そうと、汝の降参はいつわりにちがいない。われ兵を用いることすでに久しい、何で汝ごとき者の計に乗ぜられようか」
 匣の中から一封の書簡を取り出して、これを見よ! と高定の前へ投げやった。まぎれもない朱褒の手蹟であった。彼はもう逆上していて、それを読む手もふるえてばかりいた。
「よく見たがよい、朱褒の書中にも、高定と雍闓とは刎頸の友ゆえ、油断あるなと、忠言してあろうが。――それを以てもこの首の偽首なること、また汝の降伏が、彼としめし合わせた謀計ということも推察がつく。――かくいえば何で朱褒の片言のみ信じるかと汝はさらに抗弁するかも知れんが、朱褒が降伏を乞うことは、すでに再三ではない。ただまだ彼は自分を証拠だてる功がないためにあせっておるだけに過ぎぬ」
 聞くと、高定は歯を咬み、躍り上がってさけんだ。
「丞相丞相! 数日の命を高定にかして下さい。憎んでもあきたらぬ奴は朱褒です。初め、雍闓の謀反へ此方を引き入れたのも、彼奴なのに、今となって、この高定を売って、自己の反間の野心をなし遂げんとは、肉を啖い、骨を踏みつけても、飽きたらない犬畜生です。彼奴の反間にかかって、このままここで斬られては、高定、死んでも死にきれません」
「数日の命をかしたらどうするというのか」
「もちろんです。朱褒の首を引っさげて身のあかしを立て、しかる後に、正当なご処分をうけるものなら死んでも本望です」
「よし。行き給え」
 孔明は励ました。
 三日ほどすると、高定は、前にも勝る手勢をつれて、ここの軍門へ帰ってきた。
 そして孔明の前に朱褒の首を置いて、
「これは偽首ではございませんぞ。よく眼をあいて見て下さい」
 と、云った。
 孔明、一目見るとすぐ、
「然り、然り」
 と、膝をたたいてまた、
「前の首も、あれは雍闓に相違ないよ。わしはただ君のために、大功を立てさせたいために、あんな一時の放言をなしたのだ。悪く思わないでくれ」
 と、一笑して、労をねぎらった。
 この高定はほどなく益州三郡の太守に封ぜられた。

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