蛮娘の踊り
一
海を行くような蒼さ暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに、忽然、天空から虹の如き陽がこぼれた。ひろやかな山ふところの谷である。おお、万安渓はここに違いないと、孔明は馬をおりて、隠士の家を探させた。
「あれです。あの山荘でしょう」
導かれてそこに到れば、長松大柏は森々と屋をおおい、南国の茂竹、椰子樹、紅紫の奇花など、籬落として、異香を風にひるがえし、おもわず恍惚と佇み見とれていた。
一疋の犬が吠えたてた。
孔明一行の見つけない装いを見て喧々と吠えかかる。
――と、山荘の内から、ちょうど真っ黒な金属の誕生仏そっくりの裸の童子が飛びだして来て、犬を追い叱りながら、
「小父さんは蜀の丞相だろう。こちらへお入りなさい」
と、先に立っていう。
「童子。どうしてわしを漢の丞相と知っていたか」
導かれながら訊ねると、童子は白い歯を出して笑った。
「あんなに大勢で南蛮を攻めてきているのに、南蛮の者が知らないわけはないじゃないか」
すると一堂の竹扉を内から開いて現われた碧眼黄髪の老人が、
「これこれ、お客様に何を戯れ口をたたいているか」
と、童子を叱り、慇懃、堂中へ迎えて、挨拶をほどこした。
老人は朱絹の衣をまとい、竹冠をかぶり、肥えたる耳に金環を垂れ、さながら達磨禅師のような風貌をしている。
礼おわり、座定まって、孔明の来意を聞くと、隠士は呵々と笑って、
「この老夫は、山野の世捨て人で、何も世の中の人へ尽すことはできないと思うていたところへ、丞相が駕をまげ給わんなど、望外のよろこび、いや畏れ多い次第です。どうぞその四泉の毒に斃れた傷病兵を、すぐこれへお運び下さい。お易いことです。老夫の力でお救いはできないが、天然自然の薬泉が近くにありますから」
孔明は大いに歓んで、すぐ扈従の者に命じ、王平、関索をして、全部の病人や傷害者を続々とこれへ運ばせた。
童子は、隠士と共に、力を協せて、人々を万安渓の一泉へ案内した。この薬泉に沐浴して、薤葉の葉を噛み、芸香の根を啜り、或いは、柏子の茶、松花の菜など喰べると、重き者も血色をよび返し、軽き者は、即座に爽快となって、歓語、谷に満ちた。
隠士はまた孔明に注意した。
「この洞界地方には、毒蛇や悪蝎がたいへんいますからお気をつけなさい。また何よりも、行軍に悩むものは水ですが、およそ桃の葉が落ちて渓水に入り久しく腐るものは必ず激毒をもっていますから馬にも飲ませてはいけません。行く先々、面倒でもただ地を掘って、地下水のみを求めて飲むようにすれば安全でしょう」
孔明は、拝謝して、さて、隠士の姓名をたずねると、隠士はにたりと笑って、
「丞相、驚いてはいけませんよ」と、断って後、
「何を隠しましょう。私は、南蛮王孟獲の兄にあたる者です」と、いった。
「えっ? 孟獲の……」
「そうです。実は、われわれの父母には生んだ子が三人いました。私が長男で、次が孟獲、次が孟優です。父母は早く死に、二人の弟が物慾が旺で、権栄を好み、強悪をよろこび、あえて王化に従わず、ほとんど手もつけられない無道を続けてきました。諫めても諫めても直る様子は見えません。で私は、弟二人に別れ、王城を捨て、二十余年前に、この谷へ隠れ、以来世間に顔も出しません。そういうお恥かしい人間です」
「ああ、そうでしたか」
孔明は感嘆して、
「むかしにも、柳下恵と盗跖のような兄弟があったが、今の世にも、あなたのようなお方がいたか。天子に奏して、ぜひあなたを南蛮王にしましょう」
「いやいやご免です。富貴を望むくらいならこんな谷住いはしません」
と、孟節は手を振った。彼の名は孟節というのであった。
二
帰路、孔明は嗟嘆して止まなかった。未開の蛮地にも、隠れた者のうちには、孟節のような人物もあるかと、今さらのように、「人有ル所ニ人ナク、人ナキ所ニ人有リ」の感を深うした。
かくて三軍は百難を克服して、ようやく目ざす洞界に近づいたが、なおしばしば困難したのは、飲料水を得ることだった。時には二十余丈の岩盤を掘り下げたり、或いは一水を得るために、千仭の谿谷へ水汲みの決死隊を募って汲ませたこともある。
途中、千箇の水桶を造らせて、雨が降ればこれに蓄え、牛馬の背にのせて大切に持って進んだ。そのほかの衣食もようやく遠征の窮乏を加え、困難言語に絶するものがあった。
しかし孜々営々、この大遠征軍は、やがて遂に、禿龍洞の地へ入った。そして洞界の一方に陣し、しばし兵馬に良き水を飲ませ、野営の幕舎をつらねて動かなかった。
――と見せつつ実は、関索、王平、魏延などの幾隊かはすでに正面の敵地を措いて、その隣接地方へ迂回進撃していた。これがどういう目標を持つ作戦であるかは孔明のほか知ることはできなかったが、すでにその方面の功を上げて、幾組もの酋長や部族がここへ生捕られてきた。
一方。
禿龍洞の首部では、孔明の大軍がすでに洞界まで来たと知って、大動揺を起していた。
初めのうちは、朶思大王も孟獲兄弟も、
「そんな筈はない」
と、信じられない顔つきだったが、ひんぴんたる部下の知らせに、山へ登って遥か彼方を眺めると、蜀軍の屯営する幕舎が数十里にわたって、翩翻と旌旗をつらねている有様に、
「これは一体、どこを通ってきた軍勢か。尋常のことではない」
と、朶思大王のごときは、髪わななき、顔色を変えて、昏絶せんばかりだった。
だが、その朶思大王も、
「もうこうなっては、わが洞界も蜀軍にふみにじられ、一族妻子も助かるまい。部族と洞兵のすべてを挙げて、奴らをみなごろしにするか、俺たちがみなごろしになるか、命かぎり戦うしかない」
と、覚悟の臍をきめて、孟獲兄弟と同生同死の血をすすりあい、蛮軍数万の土兵にまでこれを宣したので、孟獲も大いに励まされ、
「たとえ此処までたどり着いても奴らは疲れている兵だ。何で負けるものか。大王さえその気になってくれれば、必ず勝てる。こんどこそ蜀勢数万は一匹も生かして帰さない」
と、豪語した。そしていよいよ闘志を磨き、また牛を屠り馬を殺して軍中大酒を振舞い、
「蜀軍は贅沢な装備と莫大な軍需を持っている。あの良い槍、良い剣、良い戟、良い甲、良い戦袍、良い馬、そしておびただしい車馬に積んできた食糧や宝は、すべて皆、汝たちに与えられる物だ。蜀軍をみなごろしにすれば、恩賞として頒けてやる。奮えや奮え」
と、士卒の蛮性を鼓舞激励していた。ところへ、快報が入った。
「隣洞の酋長、楊鋒一族が、三万余人をつれて、味方しに来た」
と、いうのである。
朶思大王は、額を叩いて、歓び躍った。
「ここが敗れれば当然、隣の銀冶洞も危ないというので加勢にやって来たか、これは俺たちの勝つ前兆だ」
早速、陣中に迎え入れると、楊鋒は五人の男の子と一家眷族を皆つれて、華々しくこれへ乗りこんで、
「やあ大王。貴洞の難は、わが洞界の難も同じこと。及ばずながらご加勢に来た。大言のようだが、おれには五人の男の子があって、それぞれ武勇を鍛えさせている。もう心配するには及ばんぜ」と、大いに気勢を添えた。
そして自慢そうに五人の息子をひきあわせたが、見ればいずれも蛮勇無双な骨柄で、豹額虎躰、猛気凛々たる者ばかりなので、
「ありがたい。軍は勝ちだ」
と、朶思大王も孟獲も、有頂天によろこんで、いよいよ大量に酒瓶を開き、肉を盤に盛り、血を杯にそそいで夜に入るまで歓呼していた。
三
蛮歌や蛮楽、酒はめぐり、興は燃え上がる。軍は勝ちだと、みなきめていた。
楊鋒も大いに飲み、大いに酔って、孟獲や孟優と杯を交わしていたが、ふと朶思大王を見て、
「わしの連れてきた眷族の中には、年頃の娘も大勢いる。ひとつ余興として彼女たちに踊らせ、その後で酌をさせようではないか」と、諮った。
大王は手を打って、
「どうだ、兄弟」
と孟獲、孟優を振り向いた。
「それゃあいい」
二人とも異議はない。いや、ないどころか、孟優が起ち上がって、これを座中の蛮将たちへ、道化まじりに披露した。
「ただ今から美人連の踊りをご覧に入れるが、垂涎のあまり気絶しないように」
万雷のような拍手、また拍手だ。楊鋒は口笛を吹いて、彼方をさしまねいた。前もって、余興の効果を考えておいたものだろう。声に応じて一列の美人が身振り揃えて酒宴の中へ歩いてきた。
蛮娘の皮膚、みな鳶色して黒檀のように光っている。髪をさばき、花を挿し、腰には鳥の羽根や動物の牙を飾っていた。そして短い蛮刀を吊り、ずらりと輪になったり、輪を崩したり、尻を振って跳ね踊るのだった。
やんや、やんや、満座も共に浮かれ出しそうな騒ぎである。そのうちに、蛮娘連は手をつないで、踊りの輪の中へ、孟獲、孟優を囲み入れ、蛮歌を唄い出したと思うと、突然、躍り上がった楊鋒が杯を宙へ投げて、
「すわ、手を下せ」
と大喝した。
とたんに蛮娘はみな短剣を抜いて、白刃の輪をちぢめた。孟獲も孟優もわっと叫び、蛮娘連をその剣もろとも蹴とばして、輪の外へ躍り出たが、刹那に、楊鋒の五人息子やその一族が、どっと蔽いかぶさって、縄をかけてしまった。
朶思大王も、逃げんとするところを、楊鋒に足をすくわれて、これも難なく、彼の手下に絡め捕られた。
仰天したのは、へべれけに酔って、美人の踊りに気をとられていた蛮将たちだが、これも敵対するまでには行かず、楊鋒の手下にぐるりと囲まれて、手も足も出せなかった。
合図の狼煙はその前にここから揚がっていたものとみえ、喨々たる螺声、金鼓の音は、すでに孔明の三軍が近づきつつあることを告げ、それを知るや禿龍洞の大兵も、先を争って、山野の闇へ逃げ散ってしまった。
孟獲は、楊鋒に向って、物凄い血相と大声を向けていた。
「やいっ楊鋒。てめえも蛮国の洞主じゃあねえか。仲間を罠に陥して孔明に渡す気かっ」
楊鋒は笑っていった。
「実はおれも捕われて、孔明の前に曳かれたのだが、孔明の恩に感じたので、それに報いるため、この一役を買って出たんだ。貴様も降参してしまえよ」
「畜生っ。さては」
暴れ狂っている間に、はや孔明は幕僚を従えて、これへ着いた。驚くべし、楊鋒の五人の息子といっていたのもみな蜀軍の武士たちで、蛮装を解くや否、それぞれ甲鎧をあらためて、孔明を迎える列の端に加わっている。
孔明は孟獲の前に歩を止めた。
「これで五度目ぞ、孟獲。こんどは心服するほかあるまい」
いうと、彼は、捨鉢ぎみになって、
「心服だと。笑わすな。おれはいつ汝に縛られたか。おれの縄目はおれの仲間の裏切者がかけたのだ」
「ひとりの匹夫を屈するため、総帥たる者が手をくだすわけはない。わしの指にでも触れたければ汝も王化の人になれ」
「王化王化というが、おれも南蛮国王だぞ。おれの都は先祖以来銀坑山(雲南省)にあって三江の要害と重関をめぐらしている。そこでおれを破ったらなるほどてめえも相当偉いといってよかろう。だが何だ、これしきの勝ちを取ったからといって、総帥面も片腹痛い」
孟獲の悪口と反抗心は相変らず熾烈だった。